2020年8月2日日曜日

竹中平蔵研究(33)

竹中平蔵研究(33)・・・パソナ取締役会長の竹中平蔵は、竹中平蔵自身の「持続化給付金スキャンダル」を報じた東京新聞を、自分に対する「誹謗中傷」だと、Twitterで激しく抗議した。何故だか、私はこの「誹謗中傷」という言葉に 、違和感をもった。東京新聞の記事は 、極めて穏当なものだった。 どう読んでも「誹謗中傷」とは言い難い。いったい 、「誹謗中傷」とは何だろう、と。ところが、その前後 、「誹謗中傷」という言葉を乱用する人が、もう一人いた。原英史(はら・えいじ)である。原英史は、明らかに竹中平蔵の年下のお友達である。何なんだ、この「誹謗中傷」繋がりのお友達は。その界隈では、「批判」や「批評」は、すべて「誹謗中傷」ということになっているのだろうか 。しかも、原英史にいたっては、「誹謗中傷」を理由にして、「毎日新聞」や「森ゆうこ」議員、「篠原孝」議員、匿名のTwitter投稿者・・・等を相手に、裁判まで、起こしている と言う。「誹謗中傷」という言葉は、便利な言葉だ。そうだ。その頃 、木村花という女子プロレスラーが、SNSの「誹謗中傷」を理由に自殺したというニュースが、日本全国を駆け巡った。私は、この「木村花自殺事件」の時の「誹謗中傷」という言葉にも違和感をもった。「誹謗中傷」を苦に自殺するような脆弱な人間は、テレビなんかに出演するべきではない、というのが、私の主張である。同じことが、作家や批評家、言論人、ジャーナリスト、学者、政治家、経営者・・・その他にも言える。「誹謗中傷」に耐えられないで、自殺したり、裁判を仕掛けたり、するような脆弱な人間は、社会の表舞台から去り、社会の片隅で、静かに生きていくべきではないか。「誹謗中傷」という言葉には、「批評」や「批判」を 抑圧し、排除していこうという邪悪な精神が潜んでいる。SNSの誹謗中傷に対する規制の動きがある。そこにも、SNSの言論を抑圧し、排除、統制していこうとする権力擁護の思想が潜んでいる、と私は思う。「誹謗中傷」という言葉には、「批評」や「批判」の意味が残っている。いや、「批評」や「批判」の究極的形態が「誹謗中傷」である。「誹謗中傷」なくして、「批評」も「批判」もありえない。私が、小林秀雄や江藤淳や吉本隆明を、あるいはドストエフスキーやニーチェを読むのは、そこに「批評的思考力」とでも呼ぶべき、「誹謗中傷」と見間違うばかりの過激な思考力があるからだ。「批判」や「批評」を抑圧し、あるいは「誹謗中傷」を、排除、統制していこうとする社会や国家は、ろくな社会や国家でしかない。それこそ、自由な言論なき、恐怖の全体主義国家である。そういう批判的思考力を禁じられた国家は、いずれ衰退し、自滅していく。現在の日本が、そうでないことを 、場末の言論人の「はしくれ」として、祈らずにはいられない。魯迅なら、「もっと下品な誹謗中傷を」、「もっと過激な誹謗中傷を」と 、言うところだろう。「誹謗中傷」こそ文化である。 <br />

■山崎行太郎公式ブログは以下に移転しました。 <br />
https://yamazakikoutaro3.blogspot.com/