「新自由主義」の哲学的原点ーケインズ経済学と反ケインズ経済学の「大論争」について。フリードマンとルーカス。(3)
「新自由主義」という経済思想の登場は、ケインズとケインズ経済学への批判、超克に、重要なポイントがある。その道具として採用されたのが現代数学である。数学への過剰な信頼と思い込みが、現代数学理論を駆使すれば、なんでも理解出来るかのような「数学幻想論」が「新自由主義」の大きな学問的特質である。その代表がロバート・ルーカスである。
Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
■「新自由主義」の哲学的原点ーケインズ経済学と反ケインズ経済学の「大論争」について。フリードマンとルーカス。(2)
不況や恐慌を前にすると、自由放任主義的な経済学は無力になる。「国家の介入」による景気回復の経済政策と経済学が要求される。逆に好景気や成長が続くと、「国家の介入」による規制や政策が批判され、自由主義的な経済学が盛り返す。これに国際政治的な要因(たとえばマルクス主義や共産主義の台頭)が加わると、この傾向は、さらに複雑になる。つまり、共産主義革命の脅威がある限り、資本主義=自由主義=民主主義陣営では、共産主義陣営と対抗するために、貧困対策や福祉政策や失業対策・・・などが必要だったが、ソ連崩壊や冷戦終結とともに、過剰な自由主義が主張されることになる。それが、いわゆる「新自由主義」である。それを数学を駆使して、理論的に定式化し、社会思想運動として主導したのがミルトン・フリードマンやロバート・ルーカスら、いわゆる「シカゴ学派」の面々である。彼等の当面の敵はケインズとケインズ経済学であった。ケインズ経済学は、マルクス主義経済学とは内容は異なるが、社会民主主義的な貧困対策、福祉対策があった。いわゆる「国家の介入」による景気回復政策である。シカゴ学派は、国家の介入による規制や政策を、あるいは過保護的な貧困対策や福祉政策を激しく攻撃し、「市場の自由」を主張した。現在、日本に蔓延っているのも、小泉純一郎や竹中平蔵や橋下徹等に象徴される「構造改革一派」も、この「新自由主義」の流れに追随するものである。「福祉政策批判(カット)」「弱者切り捨て」・・・は、竹中平蔵や橋下徹の考えた自前の思想ではない。シカゴ学派(「新自由主義」)の受け売り、モノマネにすぎない。竹中平蔵が、「私は《新自由主義者》ではない」「私は《弱者切り捨て論者》ではない」とシラが切れるのは、自分の頭で考えた思想ではないからだ。エピゴーネン(竹中平蔵、橋下徹、吉村洋文、ネットウヨ・・・)ほど危険なものはない。
■「新自由主義」の哲学的原点ーケインズ経済学と反ケインズ経済学の「大論争」について。フリードマンとルーカス。
竹中平蔵や竹中一派4人組(竹中平蔵、高橋洋一、岸博幸、原知史)、あるいは、今、話題の橋下徹や吉村洋文ら「維新」グループの経済政策の原点は、冷戦終結後、アメリカに登場した「ケインズ経済学批判」にある。その批判運動を先導したのはフリードマンとルーカスという経済学者である。彼等の経済学説の主要ポイントは、国家の介入を極力排除し、市場原理にまかせるという経済理論だ。つまり、経済学的な自由主義とは、国家による管理や統制を排除し、市場経済の自由な活動にまかせよ、というアダ・ムスイス的な、古典経済学的自由主義のことである。こういう「新自由主義」が台頭してきた背景には、ソ連崩壊とマルクス主義の終焉という思想的背景がある。つまり、フリードマンやルーカス、及びフリードマンを頭目とするシカゴ学派の経済学者たちは、「マルクス主義経済学」と「ケインズ経済学」の特徴である「国家の介入」「国家の管理・統制」、つまり「格差対策」や「貧民対策」「福祉政策」を含むケインズ経済学、目の仇にしており、それらを批判、超克することから始まる経済学なのだ。もう少し分かりやすく歴史的背景を説明すると、イギリス古典派経済学であり、「市場の自由にまかせろ」という自由放任主義であるアダム・スミスの時代、アダム・スミスの自由放任主義経済学がもたらした窮乏、貧民、格差に対して、それを救ううべくマルクスが登場する。マルクス主義経済学による「共産主義革命」という過激な革命思想が、時代背景もあって、革命前夜の様相を呈し、一世を風靡するこよになる。これに危機感を持った資本主義陣営の中から、ケインズが、「共産主義革命」を横取りするかのように、「ケインズ革命」を引っさげて登場するというわけだ。ケインズ革命の本質は、「国家の介入」による「需要の喚起」を重視するという反自由主義的な経済学だった。これまた資本主義陣営で、一世を風靡することになる。
■大阪駅前雑居ビル火災と心療内科と大阪維新の会。
大阪で、24名以上の死者を出した雑居ビル火災の報道を見ていて、即座に、私は、「大阪維新の会」を連想した。しかも、「大阪市長」の松井一郎は、行方不明(?》の状態らしく、いまだに、マスコミの前には登場して来ないらしい。大阪駅前雑居ビルの大火災である。大阪市長や大阪府知事らが、無関係であるはずがない。「消防法」上は問題なかったらしいが、それですむ問題ではなかろう。大阪市や大阪府を政治的に支配・管理する「維新の会」は、橋下徹大阪府知事以来、公務員批判を繰り返し、各種の公的組織を解体したり、縮小したりしてきたが、消防関係の組織縮小や人員削減はなかったのか、気にかかる。それにしても、「文通費100万円」などでは、朝から晩まで、マスコミに出まくっていた「維新の会」関係者だが、肝心な時に、特に大阪市長が、「行方不明」(?)とは、これ、いかに・・・。
ところで、「心療内科」とは何か。火災現場となった雑居ビル4fに入っていたのは、心療内科の「ビル診」だったらしいが、私には、心療内科と聞いて、「ピーン」と来るものがあった。「小泉・竹中改革」の頃から、心療内科と精神科の垣根が低くなり、実質的に同一化されている。60過ぎの初老の男に放火された、このクリニックも、例によって、繁盛していたらしいが、さらにマスコミの情報によると、院長の医師の評判もいいらしいが、私は、そこに疑問を感じるのだ。つまり、心療内科と精神科の垣根を取り払うことによって、心療内科という口当たりのいい、ソフトな病気の患者として、病気でない健康な人達まで、病院(ビル診)に殺到することになった。それが「小泉・竹中改革」以後の風景である。その結果、ホンモノの精神病患者が大量に発生し、正確に言えば、精神病患者が、「心療内科医」によって粗製濫造され、大量の「薬」が消費されることになった。つまり、病弱だが、実は健康な人間を「クスリ漬け」にすることによって、ホンモノの精神病患者が偽造されたのである。おそらく、この「ビル診」スタイルの小綺麗なクリニックにも、健康な擬似病人とホンモノの精神病者が混在していたはずである。そもそも精神科や精神病院が、大阪駅前の雑居ビルにあるということがおかしいだろう。
「吉村洋文」って、札付きの「偽善者」だな。大阪市民や大阪府民なんて、「吉本興業」の漫才ばかり見ているうちに目が腐って来たんじゃないのか。
吉村洋文は、2014年12月、大阪市議時代にも、大阪を辞職した時、二日でボーナス満額受給。一日や二日で満額受給の常習犯だったらしい。とんでもない偽善者だ。
吉村洋文に、以下のような「驚くべき事実」が判明。「文春オンライン」より。
ーーーー以下引用ーーーー
(文春オンライン)
2015年10月に衆院議員を辞職した際、在職1日で10月分の文書通信交通滞在費(文通費)100万円を満額受給していたことが判明した吉村洋文・大阪府知事が、2014年12月に大阪市議会議員を辞職した際にも、在職2日でボーナスに相当する期末手当と12月分の月給にあたる歳費を満額受給していたことが「週刊文春」の取材でわかった。
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小誌が大阪市議会事務局に確認すると、吉村氏が11月末までに辞職すれば、期末手当の支給額は満額の238万6千円ではなく、その8割の190万8千円だったが、12月1日以降に辞職したために満額支給されていた。また、歳費も12月分の満額である77万6千円が支給されていた。
つまり、吉村氏は12月に2日間だけ市議に在職したことで、ボーナスと月給の合計約316万円を満額受給していたのだ。
11月中に辞職していれば、期末手当の差額と歳費の約125万円分、税金の負担が減ったことになる。
ーーーー引用終りーーーー
■昨夜は蕨駅前の某居酒屋で呑み会だった。
京浜東北線に、蕨(わらび)という小さな駅と古い街がある。私は、その隣の街に住んでいるが、時々、気分転換も兼ねて、古い街並がひろがる蕨駅前あたりに出かける。そこに、焼き鳥のお美味しい店があり、かなり以前から「お気に入り」だ。焼き鳥と言っても、普通の「焼き鳥」ではない。「味噌だれ」とかいう独自のタレに漬けた焼き鳥を炭火で焼くというだけのことだが、.これが、ちょっと、変わっている。他では食べたことがない。独特の濃厚な味がする。先代の「オヤジ」の時代に、偶然、立ち寄った店で、その「味噌だれ焼き鳥」に出会った。江戸時代の名残りを残したような「コ」の字型のカウンターがあり、その中で、オヤジが「苦虫を噛み潰したような・・・」無愛想な顔をして、パタパタと炭火をあおいでいる。煤で薄汚れた裸電球。ケムリがもうもうと立ちこめる店内の壁には、油で染めたような薄汚れた紙が貼ってあり、「レバ刺し〇〇円」とか「煮込み〇〇円」とか、料理の名前や値段などが書かれていた。無口だが、「政治漫談」好きの変わったオヤジだった。社会経験のとぼしい私は、怖くて、ほとんど口を聞いたこともなかった。黙って、オヤジのかなり鋭い政治漫談を聴きながら、黙々とビールを呑み、黙々と焼き鳥を食べ、終わると、勘定を払い、静かに年季の入ったガラス戸を開け、静かに店を後にするだけだった。私は、食通でも美食家でもグルメでもない。自分で食べて、美味しいと思ったものを、腹一杯食べるだけだ。さて、何年か通っているうちに、ある日、その店に立ち寄ると、店が閉まっていた。オヤジが体調を崩したらしい。それから一年もたたないうちに、店は、本格的な閉店になった。オヤジが、胃癌かなんかで亡くなったらしい。
ここまで書いているうちに、私の記憶違い、勘違いに気ずいた。私は、何故、オヤジが体調を崩したとか、亡くなったとかいう情報を、友人もいないのに、知っているのだろう。それで思い出した。店は、オヤジの娘と娘婿が、途中から引き継ぐことになったようだった。娘婿は、勤めていた会社を辞め、焼き鳥屋の二代目になっていた。私は、この若い二代目から、オヤジが体調を崩したことや、一年後に亡くなったことを聞いたのだった。「本格的な閉店」というのは、私の記憶違いだった。店は、コロナ禍で、一時はテイクアウトのみだったようだが、今でも変わりなく営業している。
実は、昨夜は、蕨駅の近くに住んでいる『維新と興亜』編集長(坪内さん)、副編集長(小野さん)の三人で、その焼き鳥屋で呑み会をやろうと思って、店の前までいったのだが、閉まっていた。張り紙があったので見てみると、最近は、コロナの影響もあり、月水金だけの営業のようだった。きのうは午後五時から、『維新と興亜』の「維新をぶっ潰せ」「橋下徹よ、お前こそ詐欺師だ」とかいう特集企画で、インタビュー取材を受けたのだった。それが一段落したので、さー、呑みに行こうというわけで、焼き鳥屋を目指したというわけだったのだが、目印の「大きな赤提灯」が消えていた。仕方なく、もう一軒の居酒屋へ。ここもよく行く居酒屋だが、最近、経営者が代わり、だいぶ若者向けの店になったようで、少し落ち着かない。しかし 、遅れて来た小野さんも合流し、楽しい呑み会が出来た。「くたばれ維新!!!」「くたばれ橋下徹!!!」「橋下徹よ、お前こそ詐欺師だ!!!」・・・で盛り上がったことは言うまでもない。
■小林秀雄の『様々なる意匠』について。
小林秀雄の言う「意匠」とは思想、理論、イデオロギー・・・のことです。いわゆる思想体系です。主に「マルクス主義」という思想体系のことです。
小林秀雄は 、これを 、「自分で考えたものではない」と批判します。
一方で、マルクスやマルクス的思考を肯定します。マルクスは 自分で考えた人だからです。
小林秀雄は、マルクス主義やマルクス主義、マルクス主義者を批判します。
自分で考えたのではなく、他の誰かが考えた思想(たとえばマルクス主義 、保守主義、合理主義、新自由主義・・・)などを、学習し、模倣しているだけだ・・・と。
マルクスとマルクス主義者とは違うということです。
つまり、マルクスと、マルクスの考えだした「マルクス主義」という思想を、学習し、暗記した人たちと区別し、批判します。
自分で何かを考える人は、ゼロの地点(虚無)から考えます。マルクスもデカルトも・・・。藤田東湖も福沢諭吉も・・・。だから、歴史に残っているというわけです。
■会沢正志斎の『新論』を読みながら、私が考えたこと。
後期水戸学派を代表する思想家の一人が会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)であり、彼の主著が『新論』である。『新論』は、幕末の尊皇攘夷派の志士たちのバイブルであったらしい。つまり、幕末の志士たちは、会沢正志斎の『新論』を読んで、尊皇攘夷思想で理論武装していたらしい。なるほど、そうだろうなあ、と思う。ここには、水戸学派の思想の精髄が詰め込まれているといっていい。たとえば 、『新論』には「国体論」とか「神国」とかいう目新しい言葉も登場する。言葉(言語)は重要である。名は体を表す、からだ。命懸けで革命運動に参加するには、頑強な肉体だけではなく、新しい思想も必要だ。「そのために生き、そのために命をかけてもいいというイデー」(キルケゴール)としての新しい革命思想が。幕末の尊皇攘夷派の志士たちにとって、その「新しい革命思想」の役割を果たしたのが、水戸学派の尊皇攘夷思想であり、とりわけ、会沢正志斉の『新論』であったのだろう。その意味で、会沢正志斉の『新論』は、水戸学派の原典の一つに当たるものだと言っていいだろう。思想活動や言論活動には「原典」を読むことは必須だ。入門書や解説書、啓蒙書・・・などの、その思想や哲学の周辺の第二次資料や第三次資料を読みあさることによって、表層的理解は得られるだろうが、その思想や哲学の精髄は理解できない。原典には原典にしかない「何か」がある。それは、入門書や解説書、啓蒙書・・・などには決定的に欠如している「何か」だ。それを、西田幾多郎は「ガイスト」と読んだ。水戸学派には、はかの近代的な歴史学や歴史研究にはない、いわゆる歴史学を超えた「ガイスト」がある、と。私は、激しく西田幾多郎に同意する。
さて、会沢正志斎について、私が理解できないことが、一つ、ある。それは、会沢正志斎が、藤田東湖らとともに、産み育てたはずの水戸学派の改革派の政治行動と、「戊午の密勅」をめぐって、袂を分かったことである。
■会沢正志斎の『新論』を読みながら、私が考えたこと。(2)
会沢正志斎は、藤田東湖と並んで、後期水戸学派を代表する思想家である。しかし、藤田東湖亡き後の会沢正志斎の思想行動には、われわれ
凡人には理解できないような謎めいたももがある。水戸学派の改革派、ないしは急進派とは、異なる行動をとるからである。晩年の会沢正志斎は、水戸藩存続を第一義として、幕府側の顔色を伺いながら 、水戸学派の精髄であった「尊皇攘夷」思想の抑制・隠蔽へ向かうように見える。「尊皇攘夷」の思想的オピニオン・リーダーたる会沢正志斎の真意はどこにあったのだろうか。私は、まだ、この問題に関する関連資料類を、じゅうぶんに持ち合わせていない。だから、軽々に判断することは差し控えるが、それにしても 疑問が残る。会沢正志斎は、立て続けに繰り返される幕府側の強権発動を前に、萎縮し、転向したのか。一方には、会沢正志斎を「師」と仰ぐ高橋多一郎や金子孫一郎ら、水戸学派急進派がいた。高橋多一郎や金子孫一郎らは、幕府側と妥協し、穏健派となっていた会沢正志斎と、「戊午の密勅」返還騒動で対立し、やがて分裂して、「桜田門外の変」という直接行動へ突き進む。高橋多一郎や金子孫一郎らの直接行動「桜田門外の変」をどう評価するかは、なかなか難しい問題であろう。少なくとも、水戸学派の重鎮・会沢正志斎が、「桜田門外の変」を支持していなかったことは、事実だろう。重要な事実である。しかも、「老耄」と批判されながも、その一方では、「尊皇攘夷」を否定するかのように「開国論」を主張し、幕府にそれを提出する始末であった。天才のすることは、分からない。しかし、そこに、「ガイスト」はあるのだ。
■会沢正志斎の『新論』を読みながら、私が考えたこと。(3)
「尊王攘夷論」の書『新論』の著者である会沢正志斎は、晩年に、「尊王論」も「攘夷論」も捨て、転向したかのように見える。私も、長いこと、そう思っていた。しかし、もうひとつの考え方がありうる 、と私は考えるようになった。思想的な「転向」とは、イデオロギー中心に、ものを考える時に起こる現象である。存在論的に考える人によって、「転向」はありえない。会沢正志斎の『新論』を、「尊王攘夷論」の書として読み、深く影響を受けていた人たちにとっては、会沢正志斎の「戊午の密勅」返還騒動での思想的言動や、あるいは「桜田門外の変」の首謀者=高橋多一郎等との激しい論争や対立・抗争は、「転向」にしか見えなかったとしても、会沢正志斎自身にとっては「転向」でもなんでもなかったのかもしれない。自らの存在論的思考を実践しただけであったのかもしれない。会沢正志斎の思想的言動には、迷いがなく、断固たる決意のようなものが感じられるからだ。独創的な一流の思想家の思考は、常に動いている。躍動している。一箇所にとどまってはいない。一箇所にとどまるとき、思想は「イデオロギー化」し、「概念化」する。思想の「論理的一貫性」なるものも 、考え方によっては、思考停止でしかない場合もある。人間存在は、「論理的一貫性」のために生きているわけでもない。場合によっては、「論理的一貫性」など 、机上の空論に過ぎない時だってあるだろう。
■会沢正志斎の『新論』を読みながら、私が考えたこと。(4)
会沢正志斎は、晩年に「開国論」を主張している。「攘夷論」から「開国論」へ。会沢正志斎に何が起きたのだろうか。小林秀雄は、芸術家は「直接経験」の世界に生きていると言っている。「論理的一貫性」などそれほど重要ではない、ということだろう。「君子豹変す」という言葉がある。普通は、あまりいい意味ではつかわれない。これは、中国の古典『易経』にある言葉で、原義は違う。原義は、むしろいい意味で使われている。つまり、「君子は豹変しなければならない」と。これは 、状況の変化、時代の流れ・・・などの変化や変動に、特定のイデオロギーや思想に凝り固まることなく、柔軟に対応せよ、ぐらいの意味だろうか。小林秀雄の言う「直接経験」の世界は、変化や変動の避けがたい世界である。会沢正志斎の場合 、どういう状況だったかは、明確には分からない。単なる変節や裏切りだったのか、それとも、大きな時代の変化や変動を読み込んだ上の「実存的決断」だったのか。確かに言えることは、会沢正志斎の決断と決意が、かまり強固なものであり、断固たるものだったことだことだ。会沢正志斎は、この時 、「直接経験」の世界にいたのである。それが、正解だったか、間違いだったかは問題でない。それが、「実存的決断」だったことは間違いない。言うまでもなく、会沢正志斎は、激しい批判や対立を覚悟の上で、「戊午の密勅」の朝廷への返還を主張し、「桜田門外の変」の決起には反対したのだった。つまり、「論理的一貫性」という合理主義的判断より「直接経験」の命じる判断にしたがったのである。
■メールマガジン『哲学者=山崎行太郎の『毒蛇通信』(2021/11/30)を配信しました。
今月のテーマは、「●維新の自爆と立憲の新代表に泉健太が決定」
「●新代表=泉健太よ、自民党=マスコミ=連合からの野党共闘への分断工作を無視しろ!!!」
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哲学者=山崎行太郎のメルマガ『毒蛇通信 』
https://www.mag2.com/m/0001151310.html
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■テレビ芸者=橋下徹の正体。「#橋下徹をテレビに出すな!!!
今朝(11/22)も、橋下徹がテレビ画面で吠えていた。いつものように、一夜漬けの、覚えたばかりの幼稚な雑学を武器に、勇ましく吠えているだけだろう。先日来、山本太郎や大石あきこを相手に吠えて、逆に噛みつかれて、ボロクソに論破され、痛い目にあったばかりなのに・・・。こんな、正体がバレバレのバカを、いまだに、使っているテレビって、何処のテレビ局かとおもって、調べたら、フジテレビだった。フジテレビと橋下徹。どういう関係にあるのだろうか。橋下徹は、「維新の会」の生みの親であり、いまだに「維新の会」の関係者であり、且つ「維新の会」の宣伝係である。何故、こういう特定の政治的党派の宣伝係であるような人物が、選挙特番や討論番組 、バラエティ番組などに 、客観的装いのもとに、頻繁に出られるのか。背後から、誰が、プッシュしているのか。おおいに疑問である。誰かが、橋下徹をプッシュしていることは 、明らかである。では、何処の、誰れが、橋下徹をプッシュしているのか?
■維新の吉村よ。
お前は、6年前の2015年10月、文通費を、一日在職で、
=「100万円」=
貰っていたそうじゃないか。チャンチャラおかしいね。
今頃、寄附だと・・・(笑)。
https://youtucbe/eSBpXlWrq_s
https://youtu.be/eSBpXlWrq_s
■橋下徹の恥の上塗り。(笑)
橋下徹よ、お前の《経済理論》は、根本から間違っている。100年古い。議員への交通費=100万円の無駄使い、だって・・・。コストカット、節約、無駄使い、そして構造改革だって・・・。それって、《小泉=竹中改革》のモノマネ、二番煎じだろう。
橋下よ、お前は、竹中平蔵の二代目だろ。
お前の後ろにいる黒幕は、何処の、誰れだよ。
100万円の交通費にブーブー言って、その見返りに ⭕⭕億円が、お前らの懐に・・・。
https://lm.facebook.com/l.php?u=https%3A%2F%2Fyoutu.be%2FEhDxfozNKsQ%3Ffbclid%3DIwAR0jEaQJx_2yc9wjVzcK42e0pd7GOT0oaO9f7ratm4ZSCHM_ZWg5wl04j4A&h=AT2JRuK1Gk9DYjzzfzq8Wqbuh_94y-x55viOVz6IhnNyeWHBBCpAV82GnrTzxWSa3hCKIiBgbv2MTibYQbyc2riQhs5o2WZUxwutHH9qZ3m_A2nCevYdrjY1iraM_7kym95_3DoTFPfYruc5PcE7zEMcPssmann_4Wfb2O7e
とその時代』
■江藤淳とその時代。(9)
江藤淳は、サルトルの『ボードレール』論を読むことによって、母の死を嘆き、哀しむという不幸な少年、つまり「母不在コンプレックス」から解放される。私は、ここで、江藤淳は、「母権性」的思考から「父権性」的思考へ転換するのだと思う。もちろん、明確に転換するわけではない。おそらくその転換の狭間で精神的に右往左往し、激しくゆれ動いていたと思われる。結核の再発や自殺未遂事件、義弟殴打事件なども、その転換の狭間で起きたことであろう。いずれにしろ、江藤淳の処女作『夏目漱石』が書かれるのは、この「母親コンプレックス」から解放されて以後である。それから、しばらくして、江藤淳は、頻繁に「母の死」や「母の喪失」に言及するようになるが、おそらくその頃は、「母の死」という深刻な幼児体験を、実存主義的な精神分析の手法を借りて、冷静に、客観的に自己分析できるようになっていたとういうことだろう。
江藤淳が、「母の死」を、繰り返し繰り返し、とっておきの秘話として語るようになるのは、江藤淳自身が中心になって創刊した同人雑誌(?)『季刊芸術』(昭和42年)を創刊した頃からであって、最初からそうだったたわけではない。江藤淳は『夏目漱石』論を執筆する頃はともかくとして、デビュー当時から長いこと、「母の死」について書くことも話すこともなかった。『季刊芸術』は、マスコミや文芸ジャーナリズムからの制約や言論弾圧(言論統制)を受けることなく、「書きたいものを自由に書く」ために創刊した雑誌であった。その創刊号に掲載される記念すべき最初の文章が『一族再会』であり、「母」と題され、「言葉と私」と題されていたことが象徴するように、「母の死」という主題は、単に江藤淳の個人的な体験にとどまるものではなく、それは、江藤淳の思想的な中心命題を語るための舞台装置でもあったのである。
だから、江藤淳の「母の死」という個人的な存在論的原体験を、素朴に受け取ってはならない。江藤淳の母親の思い出話には、思想的仕掛けがある。むしろ、「母と子」の密着と癒着を批判・告発するために強調されるエピソードなのである。たとえば、江藤淳の代表作の一つである『成熟と喪失』では、「母の喪失」こそが「成熟」であるという論理が主張されるが、そこには、母との密着・癒着関係から、なかなか自由になれなず、孤立と孤独と自立を恐れる日本人、つまり近代の日本人、閉ざされた言語空間で安眠をむさぼっている戦後の日本人への江藤淳的批判が仕掛けられている。『夏目漱石』論には、「母の死」とか「母の喪失」という具体的なテーマは出てこないが、しかし、『夏目漱石』論ーの背後に、そのテーマが隠されていたことは言うまでもない。夏目漱石
こそは、母にも父にも捨てられ、塩原家に養子に出され、早くから自立を強いられた「孤独な子供」だったからである。
江藤淳が次のように書くのは、「母の死」を嘆き悲しんでいるのではない。むしろ、「母の死」に立ち向かっているのである。それまで、分析不可能であった「母の死」という深刻な幼児体験が、サルトルの『ボードレール』論に出会って、冷静に自己分析できるようになったということであろう。
《母の死をきっかけにして、私は自分の周囲から次々に世界を構成する要素が剥落して行ったように感じている。敗戦や戦後の社会変動がそれに拍車をかけたことは否定できない。しかし、そういう外側からの原因だけで私のまわりから現実が崩れ落ちて行ったとは考えられない。少なくとも一人の人間が世界を喪失しつつあるとき、その原因を彼の外側にある時代や社会のなかだけに求めようとするのは公正を欠いている。こういう人間にとっては、すでに「時代」とか「社会」とかいう概念そのものが崩壊して行く現実の一部と感じられているからだ。 》(『一族再会』)
江藤淳は、「母の死」をそれ自体として、素朴に書いているわけではない。「母の死」は、世界の剥離、そして戦後日本の問題や国家論にまで広がっていくテーマとして書いている。そして何よりも「言葉」の問題として書いている。
《大久保の家に連れかえられたとき、母はまだ南を枕にして横臥していた。そうすることによって父は
「生きている」母に私を対面させようとしたのかも知れない。父は私に
「ここへ来てお別れをなさい」
といった。私は進み出て大人の真似をして正座し、両手をついて母にお辞儀をした。母はそこにいるが、同時に無限の彼方にいて、私はどうしても手をのばして母の頬に触れることができない。そのとき、いわば私は自分と世界との間の距離を識った。それは言葉によって埋めるほかないものである。その言葉に、私は学校ではなく母の死後その遺品が納められた納戸のなかで、感覚というよりは意識のとらえた沈黙にひたっているうちに出逢ったのである。 》(同上)
さらに、次のようにも書いている。
《私たちのなかにこの暗い淵がうがたれるのは、母の胸に抱かれた幼児の薄明の安息が喪われた瞬間からである。そのときいわば私たちの存在の核をみたす沈黙が変質する。意識は光である日常言語の世界に出逢うのに、沈黙は存在の闇のなかにしりぞいて行く。この暗い沈黙から安息が喪われているのは、それが個体の自覚をともなっているからにほかならない。それは不安であり、孤独であって、たえず触手をのばして安息を回復しようとするが、意識がとらえた日常言語はそのためになにごともなし得ない。もしのばされた触手が「言葉」に転位されないかぎりは、それは存在の核をみたす暗く重いもの、ある動物的なものを、「言葉」という軽ろやかな不在に変身させることである。そうでなければさしのばされた存在の触手は叫び声になるか混沌とした情念になって奔出するかうるだけだ。》(同上)
「母の死」や「母の喪失」を体験することによって、子供は、言葉が不要な沈黙の世界から追放され、言葉でしか他人と接触出来ない世界へと移動させられる。つまろ、母を喪失することによって「成熟」する。それは、言い換えれば、父親の役割に着目する江藤淳の父権制的国家論へと繋がっる。
江藤淳は、「治者」という思想を主張している。「治者」とは何か。治者とは、「弱者」の発想ではなく、どちらかといえば、「強者」の発想である。四歳半で「母の死」を体験し、嘆き苦しんだ幼年、少年時代を経て、江藤淳は、何故、強者の思想、つまり「治者」の思想へたどりついたのだろうか。「強者」という言葉から、私は、唐突かもしれないが、江藤淳とニーチェの思考の類縁性を考える。江藤淳の「治者」は、私を考えでは、ニーチェの「超人」と似ている。いや、似ているだけではなく、ほぼそのまま、江藤淳とニーチェの思考は、同種であり、直結している。ニーチェは、負け犬の遠吠えならぬ負け犬の妬み、僻み、嫉妬でしなない「弱者のルサンチマン」を、激しく憎み、批判し 、否定し、そしてそのアンチテーゼとして主張したのが、「超人の哲学」だった。江藤淳の「治者」の思想は 、「超人の哲学」そのものだと言っていい。江藤淳もまた「弱者の妬み、僻み、嫉妬」を、「弱者の思考」として、厳しく論難し、「治者の思考」を対置したからである。ニーチェの「超人の哲学」が、「ナチズム」との類縁性を指摘されたように、江藤淳の「 治者の思想」も、危険な思想を孕んでいる。では、ニーチェ的「超人の哲学」とは何か。その説明として、私は、ニーチェではなく、ドストエフスキーの『罪と罰』のなかの言葉を引用する。
《『あれだけの事を断行しようと思っているのに、こんなくだらない事でびくつくなんてー』奇妙な微笑を浮かべながら、彼はこう考えた。『ふむ・・・そうだ・・・いっさいの事は人間の掌中にあるんだが、ただただ臆病のために万事鼻っ先を素通りさせてしまうんだ。・・・これはもう確かに原理だ・・・ところで、いったい人間は何を最も恐れてるだろう?新しい一歩、新しい自分自身のことば、これを何よりも恐れているんだ。》(『罪と罰』)
私は、このドストエフスキーの『罪と罰』の一節が好きだ。「新しい一歩、新しい自分のことば・・・」。実は 、
この一節に、ニーチェの「超人の哲学」も江藤淳の「 治者の思想」も、微妙な違いはあれ、明確に表現されている。人間は、自立した人間は少ない。われわれは、しばしば、「自分の頭で考えよ」と言うが、そういうお説教じみた言説さえ、既に、他人の口真似であり、模倣である。それほど、われわれは、「新しい一歩、新しい自分のことば・・・」を、踏み出し、つむぎ出すことが出来ない。江藤淳が「治者」という時、それは、「新しい一歩、新しい自分のことば・・・」を創造出来る人間、つまり「超人」のことである。
■江藤淳は、サルトルの『ボードレール』論を読んで、どう変わったか。
江藤淳にとって、サルトルの『ボードレール』論ほど重要な書物はないように、私には思われる。この書物を読むことによって、文学的に開眼したことも重要だが、それよりももっと重要なことがあった。江藤淳は、幼年時代から「家庭的トラブル」をかかえていた。4歳で、母親を喪い、翌年、父親が再婚し 、新しい母親を迎える。そして義弟や義妹が誕生する。それに江藤淳はうまく順応できなかった。4歳から小中高校時代を経て、大学入学の時点まで、精神状態は 、常に不安定だった。登校拒否や引きこもり、家庭内暴力、自殺未遂事件など。とても江藤淳のイメージからは想像できないような波乱万丈の少年・青年時代を過ごしている。江藤淳が、鎌倉の義祖父の家にあずけらられたのも、「家庭的トラブル」から逃れるためだった。高校時代には、義母と添い寝していた義弟を殴りつけるという事件もおこしている。また大学入学後には、自殺未遂事件までおこしている。その頃まで 、江藤淳は 「母の死」という精神的トラウマを抱え、そのトラウマの中で、荒れ狂い、右往左往していたと言っていい。そこで出会ったのがサルトルの『ボードレール 』論だった。この書物を読むことによって、ボードレールを反面教師として、「母の死」というトラウマから解放されれることになるからである。つまり、サルトルの『ボードレール 』論を読むことで、江藤淳は、江藤淳自身の生涯のテーマである「母の死」という問題を冷静、かつ客観的に自己分析する方法を身につけ、ある意味で「母の死」というトラウマから開放される。それ以後、比較的に安定した精神状態を維持していく。つまり 、サルトルの『ボードレール』論は、父の死と、その直後の母の再婚・・・。そして母から捨てられるように寄宿舎へ入れられるという幼児体験によって、ボードレールの人生は、反抗的 、かつ破滅的なものになる、そして、そこから立ち直ることはなかったと分析する。江藤淳は、そのサルトルの「実存主義的な精神分析」と出会うことによって、ボードレールの生き方に、自分自身を重ねると同時に、自分自身の家庭的トラウマを、冷静に、かつ客観的に分析できるようになる。言い換えれば、この頃から、ボードレールのような「反抗的」「破滅的」な生き方ではなく、それとは逆の生き方を、積極的に模索していく。
■『維新と興亜』第9号、10月28日発売。以下は本文の一部の抜粋です。
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★【座談会】『Hanada』『WiLL』『正論』 ネトウヨ保守雑誌の読者に問う!(山崎行太郎×金子宗德×本誌編集部)
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★対談(稲村公望=深田萌絵)「米中台のグローバリストに挟撃される日本」
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★何故 、水戸学は 「水戸学」と呼ばれるのか。ー 実践と実行をともなった学問(山崎行太郎)
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★【座談会】『Hanada』『WiLL』『正論』 ネトウヨ保守雑誌の読者に問う!(山崎行太郎×金子宗德×本誌編集部)
『Hanada』、『WiLL』、『正論』などの「保守雑誌」は、中国や韓国、左派や野党に対しては、非常に鋭いパンチを繰り出している。読者はそれを喝采し、溜飲を下げているのかもしれない。しかし、これらの保守雑誌には重大な欠陥が潜んでいるのだ。彼らは、ひたすら自民党や政権を礼賛し、国家の主権や独立よりもアメリカへの追従、迎合を重視し、売国的な経済政策を主導し、日本社会を破壊してきた竹中平蔵氏らの新自由主義者を恥じらいもなく重用しているからだ。こうした言論が「保守論壇」の主流を占めている限り、わが国は本来の姿を取り戻せない。
では、保守雑誌のあるべき姿とは何か。『保守論壇亡国論』などで保守思想家を撫で斬ってきた山崎行太郎さんと、「国体」を基軸とする独自の編集方針を貫く『国体文化』(日本国体学会機関誌)の編集長を務める金子宗德さんと本誌編集部メンバーが保守雑誌の問題点について徹底的に議論した。
「結論」を横取りし自説のごとく振り回す「パクリ野郎」
── 『WiLL』などの保守雑誌は野党を激しく叩いていますが、政権には阿るばかりです。まるで自民党の御用雑誌のような様相を呈しています。
金子 これらの雑誌は、九月に行われた自民党総裁選では「高市待望論」を展開し、その前は菅政権擁護、そしてその前は安倍政権擁護の主張を載せてきました。
特に第二次安倍政権以降は、政権を礼賛するためのプロパガンダ雑誌のようになっています。安倍氏が政権を退いた直後に刊行された昨年十一月号では、『Hanada』が「総力大特集 永久保存版 ありがとう安倍晋三総理」、『WiLL』が「総力特集 身命を賭した安倍政権の光輝」、『正論』が「未完の安倍政治」という特集を組むなど、安倍氏への忠誠心を競い合っているようでした。
政権を礼賛し、現状を肯定することが「保守」であり、政権を批判する者は「反日」だという誤った考え方が広がっているように思います。編集者も執筆者も、何を保守するのか分かっていないのです。
そもそも、日本には「保守」という言葉が十分に定着していないのかもしれません。「保守」の用例の早いものとしては、明治十二(一八七九)年に福澤諭吉が著した『民情一新』が挙げられます。福澤は「在来の物を保ち旧き事を守り以て当世の無事平穏を謀る、之を保守の主義と云ふ」と書いています。ここでの「保守」は、事なかれ主義に近いニュアンスで用いられているに過ぎません。その二年後の明治十四年には、金子堅太郎が『政治論略』で「保守主義」の政治思想を説いています。自由民権運動が活発な時期であり、明治政府の打倒にも繋がりかねない急進的な思想に歯止めをかける思想として、金子は「保守主義」を提唱します。注目すべきは、金子の「保守主義」がエドマンド・バークの思想に基づいたものだったということです。
山崎 金子さんの説明の通りだと思います。ただし、私は、そもそも「保守」という言葉が好きではありません。「保守」は「ことなかれ主義」の匂いがしますね。だから私は、学生時代、全共闘世代で、左翼全盛の頃ですが、皮肉を込めて「保守反動」を自称していました。私の考える保守は、小林秀雄や江藤淳等に学んだものですが、「革命的保守」というか「保守過激派」とでも呼ぶべき保守です。したがってフランス革命に怯えたバークにもまったく興味ありません。ところで、政治思想として、メディアなどで「保守」という言葉が頻繁に使われるようになったのは、比較的最近だと思います。小林秀雄、江藤淳、三島由紀夫たちは、敢えて「保守」という言葉は使いませんでした。むしろ彼らが亡くなった後に、「保守」という言葉が氾濫するようになりました。本来、「保守」は理論化、イデオロギー化できないもののはずです。それを理論化したのが、西部邁だと思います。小林秀雄、江藤淳、三島由紀夫、福田恒存らの「保守思想」は、生活感覚のような保守であり、「直接経験」や西田幾多朗の「純粋経験」を重視するものでした。「保守」は理論化とは馴染みのないものだったからこそ、保守であることは決してやさしいことではなかったのです。
ところが西部以後、保守は誰でも簡単になれるものに変貌してしまいました。「従属慰安婦はいなかった」「南京事件はなかった」などと言いさえすれば、誰でも保守の仲間入りができるようになったというわけです。こうして「保守の通俗化」、「保守の大衆化」が始まりました。
江藤淳は、自分で「問題」を見出し、自分の頭で考え、自分で調査し、自分で分析して、結論を導きました。例えば、「占領憲法」に「問題点」を見出し、自らアメリカの国立文書資料館に通い、関係資料を発掘し、調査・分析し、「押し付け憲法」の実態を暴露していきました。これに対して、昨今の保守思想家は、「問題」の結論だけを横取り、模倣し、自説のごとく振り回す「パクリ野郎」たちばかりです。
私は、保守派を名乗っている「ネトウヨ雑誌」を読みません。立ち読みぐらいはした事がありますが。書いている人は、目次を見れば明らかですが、ほぼ素人か、素人に毛の生えた人たちです。学問的業績も思想的業績もゼロ。オヤジたちの居酒屋漫談とオバサンたちの井戸端会議レベル。それを大真面目に読んで、アッサリと洗脳され、熱狂的信者になって、騒いでいるのがネトウヨとかネット右翼とか呼ばれている連中です。まともな読書とは無縁な老若男女の皆さんたち。普段は漫画か週刊誌ぐらいしか読まないので、簡単に活字に洗脳されてしまうのです。
外来の保守思想にかぶれる言論人たち
山崎 西部は、遅れて来た「転向保守」らしく、保守思想家の先輩格である小林秀雄や江藤淳を、バーク理論を使って批判し、保守論壇を「左翼論壇化」しました。それが「保守思想の理論化」です。
金子 確かに、バークの保守思想を持ち出した西部の議論は、エポック・メイキングになりました。しかし、保守論壇の「バークかぶれ」を助長したのは八木秀次氏らだと思います。例えば、『諸君!』(平成十二年八月号)には、八木氏と中川八洋氏、渡部昇一による「エドマンド・バークに学ぶ 保守主義の大道」鼎談が掲載されています。
── 今や中島岳志氏から小川栄太郎氏に至るまで、論壇は「バークかぶれ」だらけです。
金子 「理性の絶対視はだめだ」「設計主義はいけない」といったバーク流の保守主義には、大きな落とし穴があると思います。フランス革命を批判したバークの保守主義は、人間の「理性」の能力に懐疑的で、それに基づく急進的な社会改革・革命を批判する立場です。
しかし、人間はどうしても理想を求める生き物です。理想を掲げ、現実社会を変えようとすれば、どうしても設計主義的側面が出てきます。逆に、設計主義はいけないとして理想を懐くことまでも否定してしまったら、結局のところ現状を無批判に肯定し、流されてしまうのではないでしょうか。
── 日本の保守派がイギリスの保守思想家の思想を有難がっていることが大きな矛盾です。陸羯南や柳田国男もバークを読んでいましたが、彼らはそれをあからさまに出さない恥じらいを持っていました。そもそもバークが基盤とするキリスト教的価値観は、日本の伝統思想とは異なるものです。しかも、我々は君民一体の國體の回復こそ、保守派が目指すべき最重要課題だと考えていますが、バークは親政論者でもなく、資本主義に対して好意的な考えを持っていました。バークの思想には、國體を重視する我々の考え方とは相容れない部分が少なくありません。
我々は、日本の本来あるべき姿を描き、そこに回帰するための不断の運動を展開するのが保守だと考えています。バーク流の保守主義に頼っていてはだめです。つまり、現在の保守雑誌には、明治維新や昭和維新の原動力となった國體思想が決定的に欠落しているのです。(以下略)
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★『藤田東湖と西郷南洲()』(山崎行太郎)
何故、水戸学は「水戸学」と呼ばれるのか。ー実践と実行をともなった学問
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『藤田東湖と西郷南洲』というテーマで、『維新と興亜』の貴重な誌面を拝借して、長々と書き続けてきたが、今後も、飽きもせずに書き続けるつもりだ。もうすぐ、後期高齢者の仲間入りをする小生の生命も、自然の摂理として終わりに近づきつつあるわけだが、私が書きたいテーマに終わりはない。私は、藤田東湖や西郷南洲の事績やその歴史を書きたいわけではない。藤田東湖や西郷南洲の思想と行動の軌跡を追いながら、「思想とは何か」「学問とは何か」を追求しようと思って、書き続けている。何故、水戸学は「水戸学」になったのか。
私が、「水戸学」とか「水戸学派」というものに興味をもったのも、この「思想とは何か」「学問とは何か」という問題と深くかかわっている。水戸学にとって、思想とは、いわゆるただの「思想」でも、机上の空論としての「学問」でもない。最近、巷で流行の「居酒屋政治漫談」的な与太話としての「思想」でも「学問」でもない。何回も繰り返すが、水戸学は、実践や実行をともなった学問である。実践や実行をともなっているということは、その実践や実行には、必然的に「死」がともなっているということだ。「実践」や「実行」や「死」がともなっていない水戸学は水戸学ではない。私は、そこに深い思想的刺激を受け、興味をもった。私は、水戸藩の武士たちが中心になって実行した「桜田門外の変」や「天狗党の乱」は、水戸学派の正当な思想や学問を受け継ぐ純正水戸学であり、水戸学の深化・延長上の出来事だったと思っている。水戸学の誤解や混迷や暴走がもたらした偶発的事件だという解釈もあるらしいが、私はそうは思わない。薩摩藩の子弟教育の教材だったと言われる「日新公いろは唄」の中に、
いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし
というものがあるが、それは水戸学派に通じる「実践論」の哲学そのものである。西郷南洲が藤田東湖に初めて面会した時、西郷南洲は、それを直感し、それを骨身に沁みるように感得したはずだ。藤田東湖の水戸学には、「死の匂い」がしていたはずだ。換言すれば、「やるか、やらないか」「死ぬ覚悟はあるか、ないか」の実存的決断を迫っていたはずだ。
藤田東湖に面会・談話した直後の西郷南洲の手紙を改めて引用する。
《他人に申すのは、口幅ったいが、東湖先生は私を心の中で非常に可愛がって居られるようです。偉丈夫、偉丈夫と私を呼ばれ、私が何かいうと、さうだ、さうだ、まさにその通りだと賛成されます。天下のために薩摩が大いに活躍する時が来た。君たちのような人達が斉彬公を押立てて活動すれば、夷狄を打攘い皇国を振起することは難事ではない。有難い、頼もしいことだと言われ、身に余るうれしさよろこびです。若し水戸老侯が鞭をあげて異船打攘いに魁けられることでもありますれば逸散に駆けつけて、戦場の埋草になりとも役立ちたいと、心から東湖先生に心酔いたしております。》
これは、西郷南洲の側からみた藤田東湖の言動と振る舞いを記述したものだが、もうこの時点で二人の対話には、単なる学問や思想を超えた、思想的同志の対話があったとみていい。要するに、師弟関係を超えた「革命家」と「革命家」の対話である。藤田東湖は、西郷南洲を一目見て、「この男は、口説の男ではない、やる男だ」と直感している。西郷南洲は西郷南洲で、藤田東湖を、単なる「大学者」、単なる「大思想家」とは見ていない。それ以上の「何か」を見ている。その「何か」とは何か。私は、それは、哲学者・西田幾多郎が言った水戸学派の内包する「ガイスト(精神)」ではないか、と思う。水戸藩の学問が「水戸学」とか「水戸学派」と呼ばれることになったのは、この「ガイスト」に根拠があるのではないか。(以下略)
■あなたは「ダッピ」を知ってますか。
ダッピ(DAPPI)こそ「ネットウヨ」の親玉だったのか。なるほど、なるほど。「幽霊の正体見たり、枯れ尾花・・・」というわけか。
自民党や安倍晋三をひたすら絶賛・擁護し、立憲や野党を罵倒し、誹謗中傷し続けるネットウヨ系ネット工作員がいたらしい。立憲の「小西ひろゆき議員」や「杉尾秀哉議員」に関して、デマ情報(フェイクニュース)を流し続けたとして、両氏が反撃に出て、その発信元の「ダッピ(DAPPI)」の正体を突き止めたらしい。たまには立憲民主党もやるじゃないか。ダッピの正体を探って行くと、その先に、自民党や自民党本部の幹部の名前まで出てきたらしい。ダッピって、自民党お傭いのネット工作員というかネット工作会社だったらしい。まー、そんなことだろうと予想はしてましたけどね・・・(笑)(笑)(笑)。え
■江藤淳はサルトルの『ボードレール』から何を学んだか。
江藤淳は、サルトルの影響を受けているが、サルトルについて多くを語っていない。そこから、江藤淳はサルトルを読んでいないのではないかとか、サルトルを理解していないのではないか、とかいう解釈が大手を振ってまかり通ることになる。私は、別に、ここで、江藤淳はサルトルを熟読し、サルトルの文学や哲学を正確に理解していたなどと言うつもりはない 。学者や研究者か、あるいは野次馬的な文学愛好者や哲学愛好者なら、そいうことが問題になるだろう。しかし、江藤淳は、仏文学者でも、サルトル研究者でもない。ましてや文学愛好者でも哲学愛好者でもない。江藤淳は批評家であるり文学者、つあり創作者である。問題は、それらを、どれだけ「血肉化」したか、あるいは「内在化」したか、さらに言えば、どれだけ「作品化」に成功したかだけが問題になる。江藤淳は、サルトルの『嘔吐』を読んで「ヒント」を得たと言っている。『ボードレール』を読んで、影響を受けたと言っている。さらに、サルトルがあまり好きではなかった、とも言っている。江藤淳は、慶應仏文科で仏文学を専攻するつもりで、慶應文学部に進学したにもかかわらず、若い英語教師・藤井昇の勧めで、あっさりと慶應英文科へと転向している。ここらあたりで、何か大きな変化=回心があったのかもしれない。それは、「死ぬこと」からか「生きる」ことへの転向=回心だったのかもしれない。江藤淳は、この頃、まだ病臥に臥しており、大学も休学が続き、挙句に「自殺未遂事件」まで起こしている。そういう悲惨な、絶望的な状況にあった時、江藤淳宅を、見舞いに訪れたのが「藤井昇先生」だった。
《 今から振り返ってみると、昭和二十九年八月半ばから九月にかけての1ヶ月余りのあいだに、 私のなかで
確実になにかが一回転したように思われる。そのときから私は、それまでとは違った方向へ歩きはじめた。(中略)藤井昇先生が、私を見舞いに来て下さったのは、ちょうどそのころのことである。》
■藤田東湖と西郷南洲。ー実存と思想ー⑵
藤田東湖は、華々しい、劇的な「死」を死んだわけではない。江戸の街を襲った「安政の大地震」で、落ちてきた梁の下敷きになって、あっけなく死んでしまった。藤田東湖にふさわしくないような死に方であった、と私も思う。「桜田門外の変」や「天狗党の乱」で、劇的な死に方をした藤田東湖の後継者や弟子たちの死にくらべて、あるいは「西南戦争」で薩摩の城山の露と消えた西郷南洲の死に方にくらべて、実に平凡、凡庸な死に方であった。しかし、それは表面的なことにすぎない。藤田東湖もまた、劇的な死を、「思想家」、「学者」、「革命家」として死んだのである。後に続く革命家たちの「蜂起」や「斬死」「斬首」・・・を見殺しにしたわけでもなく、そこから逃げだしたわけでもない。そもそも、水戸学は 「革命思想」であり、革命を目指す「実践的革命哲学」であった。体制擁護の御用学問でしかない現代の右翼思想や保守思想とは対極にある思想だった。その「革命哲学としての水戸学」の中心人物が 、藤田幽谷=藤田東湖父子だった。私は、この連載の第一回目で、「三決死か而不死(三たび死を決して而も死せず)」という『回天詩史』の冒頭の文章(漢詩)を紹介したが、実は、そこでも中心テーマになっているのは「死」であった。「三たび死を決して而も死せず」。
■昨日は『維新と興亜』の座談会ということで 、久しぶりに、都心部に出かけた。指定された場所は、日比谷高校の隣にある「星稜会館」の近辺ということで安心していたが 、当日になり、「星稜会館」なら何回も行ったことがあるが、しかし新しい建物らしいので、ちょっと不安になったので、早めに出かけることにした。地下鉄の永田町駅を降りたが、方向感覚がまったくわからない。しばらくスマホのグーグルマップをいじっていると、警備中の警官が近ずいてきた。この周辺は、国家の中枢機関が集中しているところなので、警備が厳しいのだ。国会議事堂、首相官邸、衆参議長公邸、議員会館など・・・。いたるところに警官が立っている。その警備中の警官が・・・。「???」。「何か、お探しですか?」といううわけだろう。いつもなら、「うるせー」とつぶやきつつ、即座に立ち去るところだが、今回は、さすがに、警官のやさしい雰囲気に引き込まれて、「日比谷高校と星稜会館は、どの道を・・・」と聞いてしまった。ああ、やはり、私は、70過ぎの「立派な老人」(笑)なのだ、と自覚した瞬間であった。警官は、「こちらに地図が・・・」と言いつつ、私を案内して、地図の書いた看板まで連れていってくれた。警官は、詳しく、何回も何回も道筋を教えてくれた。もういいよ、というぐらいに。というわけで、私は、以前、何回も立ち寄ったことのあるカフェが見つかったので、そのカフェで時間をつぶし、また早めに、目的の場所へ向かった。少し時間があったので、江藤淳先生の母校、日比谷高校を見学することにした。警官の言った通りに、細い路地を歩いていると、学校らしき建物が見えてきた。同時に、子供たちの声も聞こえてきた。日比谷高校は、坂道をくだったところの、小さな丘の上にあった。この門が、正門なのか裏門なのかわからないが、一応、日比谷高校のプレートがあったので、記念写真をパチリ。「江藤淳と日比谷高校」。平山周吉の『江藤淳は甦る』を読んで以来 、「江藤淳と日比谷高校」というテーマが頭から離れなくなっている。言うまでもなく 、私は、日本一の受験進学校としての日比谷高校に興味があるわけではない。あくまでも、江藤淳の通った日比谷高校に興味があるのだ。肺病病みの高校生・江頭敦夫( 江藤淳の本名 )が、多感な高校時代を過ごした日比谷高校に・・・。(後で、ネットで調べてみたら、こちらの門は、正門ではなく通用門、つまり裏門でした。)
■ノーベル賞騒動を嗤う。
毎年、毎年、そんなに「天才科学者」が出るわけないだろう。米国籍の日本人が 、ノーベル物理学賞かなんかを受賞したということで、大騒ぎしているが、実にクダラナイ。最近の日本人は好奇心を失っているとか、「御説教」しているらしいが、何が「好奇心」だよ。Mとかいうノーベル賞受賞者の顔を見ればわかる。小林秀雄は「顔だよ、顔!」といったらしいが、まさに至言である。いつもそうだが、今回のノーベル賞受賞者も 、一般庶民的な俗物そのものの顔をしているじゃないか。下司な俗物根性が顔に出ているのだ。ノーベル賞を受賞したぐらいで、すぐ、調子に乗って、田舎のクソオヤジ・・・レベルの「御説教」をするような「俗物」は、さっさと消えろ、と言いたい。
9月から10月へ。早いものです。今年も10月ですか。まあ、ノンビリやりましょう。今朝は、雨模様だったので、愛車のミニサイクルで出かけることは無理。仕方なく、第二の愛車、軽自動車で出かける。早朝のドライブも面白い。車道には、車はほとんどいない。コンビニで、100円のコーフィーを買って、車内で飲むことにする。私は、コーフィーの味など、どうでもいいので、もっぱら100円のホット・コーフィーで満足。今日は車なので、早朝の散歩とはいえ、ちょっと遠出ででもしようかな、と思い、外環道の下を走る荒川を横断する普通道に。ちょっとした高速道の気分だ。ああ、そういえば、免許の更新が迫っている。先日、警察で認知症の検査があり、無事、そちらの方は合格したが、次は実地検査や視力検査などが待っている。前回の視力検査では、ギリギリ合格だったが、今回は、もう無理かもしれないと、ちょっと不安になる。眼鏡を新調しても、視力は上がりそうもない。白内障かもしれない。これから、ますます、車が必要になるのに・・・。「ヒロシです」のボッチ・キャンプに対抗して、スズキ・ジムニーで「老人ソロ・キャンプ」(笑)を・・・。車中泊も・・・。頑張ろう(笑)。
■サルトルは、『ボードレール』を、どう描いているか。
サルトルは、『ボードレール』について、
《父親が死んだ時、ボードレールは六歳だった》
と書くことから始めている。そして、さらに、こう書いている、
《一九二八年十一月、これほど愛していた母が、ある軍人と再婚した。ボードレールは寄宿舎に入れられた。この時期から、彼の有名な『ひび』が始まる。》
まさに、サルトルの描くボードレールの生涯は、ここから始まると言っていいだろう。そして、おそらく、江藤淳が、敏感に反応したのもこの部分であろう。ここから始まるサルトルの『ボードレール』の「実存的精神分析」は、江藤淳にとって、理論や知識として、あるいは教養や学問的方法論としての「実存的精神分析」ではなく、文字通り、自分自身の存在の精神分析だった。江藤淳自身が、幼くして(4歳)、母親と死別し、その後、父親は再婚している。ボードレールとは、母親と父親の違いはあるが、複雑な人間関係の中に放り出され、そてが文学へ向かう転機になったことは共通している。ちなみに、サルトルも、6歳で父親と死別し、母親が直ぐに再婚している。おそらく、その意味で、サルトルの『ボードレール』論は、「サルトル論」そのものだと言っていいかもしれない。したがって、サルトルの『ボードレール』を読んだ江藤淳が、深く思うところがあったのは、単に実存的精神分析という新理論に導かれたというより 、もっと切実なものだったのである。サルトルやサルトル哲学、あるいは実存主義や実存主義的精神分析というものを、単に知識や教養として学んだものと、自分自身の存在の問題として、つまり、内的体験として学んだものとの間には、大きな違いがある。当時は、そしていまでも、サルトルや実存主義について多くの文章が書かれ、多くの書籍が刊行されているが、ほとんど、見る影もなく消え去っている。それたは、後世に残すに足りないからだ。そこへいくと、江藤淳の『夏目漱石』論は、サルトルや実存主義、あるいは実存的精神分析などとい言葉への言及はないが、今でも充分に読む価値がある。その違いは何か。知識や教養として学んだもの(サルトル体験)と、内的体験を通じて学んだもの(サルトル体験)との違いである。
(写真は、ロシア、サンクト・ペテルブルク。エカテリーナ宮殿、前庭で。)
■サルトルの『ボードレール』を読みながら、早朝の某駅前のカフェで、ホット・コーフィーを飲む。
最近の私の日課は、早朝4時から始まる『暴れん坊将軍』を見て、終わると愛車(ミニサイクル)で散歩に出ることだが 、駅前のカフェに立ちより、100円のホットコーフィーを飲むのもまた 、楽しみだ。今朝は、必要があって、サルトルの『ボードレール』を持参。むかし、学生時代に読んだ時は、あまり面白くなかったが、『江藤淳とその時代』を書くにあたって、是非、読まねばと思って、書棚の奥から探し出してきて読みはじめたら、これが実に面白い。江藤淳が、影響を受けるはずだ 、
と思う。私は、平凡な家庭に育ったので、サルトルやボードレールや江藤淳のような、幼くして父親や母親と死別し 、しかも伴侶を失った母親や父親が再婚する・・・という上記の少年たちが味わった「苦悩」や「悲しみ」や「絶望」が、わからなかったのだと思う。日比谷高校時代に、抜群に英語ができたらしい江藤淳らしく、まだ翻訳が出ていない段階で、英訳で読んだらしいが、その後、大学生時代、「三田文学」に『夏目漱石論』を書く時、あるいは晩年に『漱石とその時代』を書く時、このサルトルの『ボードレール』から多くのヒントを得ていたことは間違いないだろう。
(注=以下は、「天下の副将軍」ならぬ、「天下の野次馬」、老人性痴呆症気味の「天下の野次馬」のタワゴトです。無視してください。)
安倍晋三さん、墓穴を掘ったんじゃねーの・・・。安倍晋三さんは、「高市早苗応援団長」として、恐喝まがいの糸電話作戦を展開し、全国の自民党員や自民党議員たちを大混乱におとしいれているようですが 、その恐喝的な糸電話作戦が、あまりにも効果をあらわしすぎて、「高市早苗大ブーム」を巻き起こしてしまったらしく、しかも北朝鮮からは、援護射撃のミサイルが線香花火(祝砲)のように続々と打ち上げられ、 今や、安倍晋三陣営では、逆に「撃ち方、止め」と、「火消し」に躍起になっているらしい。というのは、二階グループが、意図的に、一回目の投票で、「高市早苗候補」に集団投票し、高市早苗を、河野太郎につぐ二位に押し上げ、決戦投票では、逆に河野太郎に集団投票し、しかも三位に転落した岸田一派の票は、「ヘビメタ右翼」を嫌って、ほとんどが河野太郎候補に流れ、結果的に二位=三位連合を分断し、岸田も高市もつぶすというステルス作戦が発覚し、それにおびえた安倍晋三=ネットウヨ一派は、高市早苗候補をあくまでも三位にとどめ、二位=三位連合で河野太郎総裁誕生をつぶすということで、「撃ち方、止め」という作戦変更となったらしい、というわけである。安倍晋三さん、日頃の言動が功を奏し、やることなすこと大成功。というわけで、あまりの大成功に、自分でも自分がわからなくなってしまうというジレンマ(メビウスの輪)に陥っているらしい。しかし、安倍晋三の最大の悲劇は、「敵」を作りすぎ、どんどん敵が大群化し、さらに、安倍晋三=ネットウヨの大活躍で異常繁殖し、自民党内部に「巨大な敵軍」が発生してしまったことではないでしょうか。いわゆる「墓穴」を掘ったというわけですが、安倍晋三さん、ネットウヨ雑誌(正論、WILL、HANADA)、ネットウヨ文化人の皆さん、大丈夫なんでしょうか。「天下の野次馬」としては、投票日が待ち遠しいです。
■産経新聞とネットウヨ雑誌(正論、WILL、HANADA)による異常な「河野太郎バッシング」は、何を意味するのか。
思想家や言論人、学者の正体を暴き出しているのではないか。つまり「反知性主義=カルト集団=ネットウヨ」とその同伴者たちの終焉を象徴しているのではないのか。私は、今回の自民党総裁選は、思想的な重要問題を提起していると思う。その第一は、「ネットウヨ問題」である。これまで、この「ネットウヨ問題」は、多くの人が、おぼろげに認識していたにもかかわらず、さほど重視されてこなかった。安倍晋三前首相自身が「ネットウヨ政治家」だったにもかかわらず・・・。それが、今回の自民党総裁選で、露骨に顕在化してきた。今回の自民党総裁選の主役は、立候補者ではなく「ネットウヨ」そのものだった。言い換えると、ネットウヨ政治家、「ネットウヨ政治家=安倍晋三問題」であった。今回の自民党総裁選で、安倍晋三は「高市早苗」の応援団のリーダーとして中心的な役割を演じ、いままさに 、総裁選の動向の鍵を、握っているらしい。安倍晋三の周辺に、安倍晋三の恩顧(笑)を受けた多数の人士が集結し、集団的に、一斉に、「河野太郎バッシング」にいそしんでいるようだ。河野太郎一家が中国系企業を経営し、中国共産党と通じているというのだが、何故、それを、今までに話題にもしなかったのか。自民党総裁候補の筆頭と噂され始めた途端に、何故、この話題が、突然、ネットウヨ業界を中心に、注目されるにいたったこか。この話題を、ネットウヨ連中に提供したのは、何処の、誰か。公安=警察ではないのか。あらかじめ、秘密警察(笑)が、秘密裏に情報収集しておいた「個人の秘密情報」を、ここぞばかりに、暴露・公開したのではないか。情報源は・・・だったというわけだ。はい、お後がよろしいようで・・・。
■産経新聞「正論」チャンネル
https://youtu.be/3EG_n1MH8CY
■産経新聞=阿比留瑠比記者
https://youtu.be/b70yez2Jkxc
■ネットウヨ=加藤清隆センセーの迷言。
https://youtu.be/9mji-A1oS2k
■ネットウヨの女帝=桜井よしことその仲間たちの迷言。
https://youtu.be/tvLM69rmPDY
■「エセ文化人放送局」の「河野太郎バッシング」
https://youtu.be/jTCSboZXcSw
「ネットウヨ」という反知性主義カルト集団が暴走する日本の現在が危ない。
私は、自民党総裁選で誰が勝とうと誰が負けようと、別に興味はない。ただ、自民党総裁選の勝者が自動的に日本の「首相」という国家の指導者、国家の最高権力者になるということで、関心をもたらざるをえないという程度の話だ。総裁選の後には、総選挙がひかえている。政権交代もありうるかもしれないという天下分け目の政治闘争である。立憲民主党では、小沢一郎が、選挙対策本部に参加するらしいという情報もある。立憲民主党も、いよいよ小沢一郎に頼らざるをえないということだろう。小沢一郎が陣頭指揮をとれば・・・。どちらかというと、私は、こちらの方に政治的関心をもつ。昨日、テレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」とかいう番組に、日本共産党や立憲民主党、国民民主党 、維新の党など、野党の党首やリーダーが出演して、野党共闘や政権交代などについて議論していたが、こちらの議論は面白かった。自民党総裁選の幼児的な政治漫談にくらべて、はるかに「国家の指導者」「国家の最高権力者」にふさわしい政治家たちが顔を揃えて、高度な政治的対話を繰り広げていた。特に日本共産党の委員長「志位和夫」や立憲民主党の副代表「江田憲司」に、私は興味をもった。こちらの方が、日本という国家の指導者、国家の最高権力者にふさわしいのではないかと思った。こちらの方が「首相」なら、プーチンや習近平、マクロン・・・等と対等に渡り合えるのではないか、と。話は変わるが、昨日、おかしなハガキがポストに入っていた。ある弁護士からの手紙だったが、その内容には笑った。「高市早苗を推薦します。河野太郎は危険です。」とか書いてあった。余計なお世話。「高市早苗を推薦する」のは自分の脳内妄想に留めておけ。手紙など印刷する暇があったら、ネットウヨ雑誌(正論、HANADA、WILL)などばかりを読んでないで、たまには、思考停止に陥って、硬直している脳の活性化のために、「論語」か「聖書」でも読んでろ、と思う。もう遅いだろうが・・・。高市早苗が、「ネットウヨの暴走」ぶりに危機感を持ち、「やめてくれ」と警告を発しているらしいが、ネットウヨの暴走は止まる気配ないらしい。今さら無理だろうね。私は、高校生の頃、開高健(作家)の『パニック』という小説を読んだことがあった。私が心服していた生物担当の教師(実は柳田國男の弟子で、民俗学者でもあったが・・・)に勧められて読んだのであった。それは、異常繁殖したネズミの大群が次々と海に飛び込み、集団自殺するという話だった。集団自殺、自爆テロ。今、私は、不謹慎かもしれないが、ネズミの大群「ネットウヨ」の異常繁殖と集団自殺、自爆テロを連想する次第である。
■藤井聡よ、お前も、ただのネットウヨのアフォだったのか。予想通りだな。
藤井聡とは、京都大学教授(工学部)で、「クライテリオン」の編集長である。「クライテリオン」は、元東大教授だった西部某が創刊した保守系思想雑誌「発言者」とその後継誌で、文芸評論家の富岡某が編集長を勤めた「表現者」の廃刊をうけて、新たな編集体制で創刊された後継誌である。最近は、ネットウヨやネット右翼に押されて目立たないが、保守論壇界隈で、それなりの評価を受けてきた保守系雑誌だと言っていいい。西部某の「自殺」以後、西部の弟子筋の藤井聡が、その後継誌の編集長にに指名され、現在に至る、というわけである。さて、その藤井聡だが、日頃は、「反米自立」や「積極財政」を主張し、緊縮財政を批判し、竹中平蔵や安倍政権、菅政権を厳しく批判したり、「MMT」(現代貨幣理論)を主張し続けて 、それなりに人気のあった「YouTuber」(笑)でもあった。しかし、私は、当初から、何か「いかがわしいもの」を感じて、信用できない奴だな、と思っていた。話しぶりが、ペラペラという感じで、要するに口が軽いのである。藤井聡のトークはセールストークであり、詐欺師的トークにすぎない。思想もヘチマもあったものじゃないなーと。単純な理論は、単純な理論にすぐだまされるという、いい見本である。この藤井聡が、突然、「高市早苗」とYouTube動画で対談したので、「アレッ」と思った。藤井聡は、その時点で、高市早苗が総裁選に立候補することを知っていたのだろうか。藤井聡と高市早苗の間に、どういう接点があったのだろうか。安倍晋三内閣で「内閣参与」だったはずだから、それなりの接点があったのだろう。しかし、それにしても「ヘン」である。総裁選が進むにしたがって、ネットウヨも顔負けの熱狂的な高市早苗応援団と化し、最近は、「河野太郎叩き」( 公安提供の中国ネタ )に夢中になっているようだが、何を、とち狂ったのだろうか。藤井聡よ、頭は大丈夫か、とでも言いたくなるのだが。藤井聡も、学者や思想家というより、政権の周辺にうろつく「政治ゴロ」、「利権屋」(笑)に過ぎなかったのか。私は、自民党総裁選に期待していない。誰が自民党総裁になろうと、興味も関心もない。「積極財政論」や「MMT理論」を忠実に実践・実行してくれるのが、「高市早苗」だというのだろうか。単に、ネットウヨ政治家たちの謀略と陰謀の手先になって、適当に利用されているだけではないのか。それとも、「自民党の総理総裁は俺が決める(笑)」と、政界の「フィクサー」でも気取っているのか。藤井聡もクライテリオンも終わったね。
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https://youtu.be/pM8GEP7FETk
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https://youtu.be/UZ3SUQhU7V
■泥仕合を、もっと泥仕合を・・・。
夫が「元ヤクザ」とか、弟が「中国系企業の社長」だとか、「中国共産党の指令で〇〇を〜」だとか、まさに「泥仕合」の様相を呈してきたのが、今回の自民党総裁選だが、小生は、「泥仕合」そのものを批判するつもりはない。「もっと泥仕合を!」と思う。政治とは残酷な泥仕合こそが本質であり、それは古今東西、変わることのない永遠の真理である。いや 、実は「政治」だけではない。文学も思想も学問も科学も同じだ、と私は考えている。私が、若い頃、「文学」や「哲学」に興味を持ち、それを職業にしたいと思ったのは、
「文学」や「哲学」が、綺麗事ではなく、泥仕合だということがわかったからだ。『悲劇の哲学』で有名なロシアの哲学者シェストフは、「醜悪な現実を直視せよ」と言っている。「醜悪な現実」とは、私の考えでは「泥仕合」のことである。
■産経新聞は、何故、「ネットウヨ新聞」になってしまったのか(?)
産経新聞と言うと、小生にとっても、因縁深い新聞である。一時は、産経新聞のコラム「斜断機」の執筆メンバーであった。この産経新聞のコラム「斜断機」は、それなりに名の知れた名物コラム欄だった。小生は、ここのコラムを通じて、大西巨人等と、かなり激しい論争を繰り返したこともあった。もちろん、当時の産経新聞も、保守系の新聞だった。江藤淳が「一月に一度」とかいうコラムを連載していた。小生は、昔から、「保守反動」(?)を気取っていたが、小生が言う保守反動は、現在の頑迷なネット右翼(ネットウヨ)とは異なり、一流の文学者や思想家、学者たちが主導する思想集団であった。小林秀雄、福田恆存、三島由紀夫、石原慎太郎、田中美知太郎・・・。一人一人が、日本の文化を主導する超一流の人物たちだった。気の毒なことに 、安倍晋三前首相は、これらの人達を知らないだろう。安倍晋三が頼りにしているのは「桜井よしこ」であり、「百田尚樹」であり、ネットウヨ新聞に堕落した現在の産経新聞の政治記者たちである。現代日本の思想状況や政治状況のレベルを象徴しているのだろう。世も末である。日本沈没は近い。
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(以下は、ネットウヨ番組「桜井よしこチャンネル」(YouTube)に登場して 、「河野太郎批判=罵倒」と「高市早苗擁護論」を捲し立てる、意気軒昂な産経新聞記者たち。右端の帽子男・花田某は除く。)
https://youtu.be/IQmMQ9ww91w
■「イスラム研究者」を自称する飯山陽に問う。米軍は正義の軍隊なのか。タリバンやイスラム国(isis=k? )だけが残虐なテロ集団なのか。米軍は一般市民を虐殺なぞしたことはないのか。ヒロシマやナガサキに原爆投下したことはないのか。米軍のアフガン撤退前後、自爆テロで米軍兵士やアフガン市民が、多数、殺されたが、それに対する復讐として、大統領の指示のもとに米軍がアフガン市民一家を空爆し、そのアフガン市民一家は子供も含めて皆殺しにされたが、これが誤爆だったらしい。バイデン大統領や米政府は、米軍の復讐=空爆は誤爆だった、と認めたらしいが、「誤爆ですみませんでした」で済むのか。
「安倍晋三包囲網」とは何か。「ネット右翼」包囲である。安倍晋三その人が「ネット右翼」だった。「ネット右翼」は、これからが本番だ。生きるか死ぬかの瀬戸際である。それでも「ネット右翼」を続けられるか。左翼にでも転向するか。あるいはホンモノの「右翼民族主義」「尊皇攘夷論」へ転向するか。見物である。
■何故、『ネット右翼(ネットウヨ )』は、高市早苗を、熱狂的に支持するのか 。
私は自民党総裁選に、それほど興味がないが、今度の一連の総裁選報道で、明らかになってきたことには、大いに興味がある。「ネットウヨ=ネット右翼」の動向である。私には、総裁選の動向より、こちらの方が面白い。それは、具体的に言えば、「Youtube動画」界隈を中心に蔓延っている「ネットウヨ」(「ネット右翼」 )の動向である。不思議ななことに、このネットウヨ連中が、ことごとく熱狂的に、しかも大真面目に、「高市早苗支持」を歌い上げているこでである。自民党支持なら、同じ自民党の仲間である「岸田文雄支持」でも、「河野太郎支持」でも、「石破茂支持」でも、よさそうなものなのだが、それがまったくいない。逆に、揃いも揃って、横並びに「岸田文雄攻撃(罵倒)」「河野太郎攻撃(罵倒)」「石破茂攻撃(罵倒)」を始める始末。昨日までは、野党攻撃、立憲民主党攻撃、共産党攻撃、朝日新聞攻撃、中国攻撃・・・に忙しかったはずだが・・・。これは、どういうことなのか。と言っても、私はかなり昔から知っているが、とぼけているのである。しかし、ここでは、とぼけたママ、話を進めよう。「高市早苗支持」のほとんどは、「安倍晋三支持者」である。安倍晋三支持者が、そのまま 、「高市早苗支持者」になるのか。それを解く鍵は、誰でも知っているように、安倍晋三首相時代の「官房機密費」である。何十億という金が、どこかに流れていたのである。安倍晋三時代の官房長官は菅義偉だったが、領収書無用の金が、つまり膨大な「官房機密費」が、何処かにながされていたかである。無論、テレビや新聞、特に「産経新聞」やネットウヨ雑誌「正論」「WILL」「HANADA」とその執筆者や関係者に、流されていたことは間違いない。いわゆる『ネット右翼』( ネットウヨ )に、膨大な官房機密費が、流れていたのである。無論、多数のネット右翼やネットウヨは 、官房機密費などとは無縁だろう。自分の思想信条にしたがって、「安倍晋三支持」や「高市支持」を打ち出しているのだろう。しかし、そういう連中も、直接、間接は問わず、何らかの形で、官房機密費の恩恵に浴していたのである。疑われても不思議はないだろう。例によって、私の独断と偏見と妄想に基づいて、言うのだが・・・(笑)、個人をあげると、「百田某」「桜井某嬢」「有本某嬢」「門田某」「kasuya某」「高橋某」「スシロー某」・・・。新聞や雑誌関連で言うと、「産経新聞」「正論」「WILL」「HANADA」・・・などはかなり怪しい。産経新聞の政治記者たちは、現役、OBを問わず、特に酷い。阿比留某、石橋某、有元某・・・。自分の頭で考えた結果なら別だが・・・。組織的に動いているように見える。産経新聞の政治記者は 何故、こんなに「高市早苗支持」で、元気がいいのか。裏がありそうだ(笑)。
話はかわるが、以上のような問題を、対談(鼎談)形式で論じ、ホンモノの右翼民族派思想雑誌『維新と興亜』の次号で取り上げます。出席者は、坪内隆彦さん(『維新と興亜』編集長、思想史研究者)と、金子宗徳さん(里見日本文化学研究所所長、亜細亜大学講師)と、小生(薩摩半島「毒蛇山荘」暴走老人)。
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■阿比留某。
https://youtu.be/Mk4ZLbaK-gc
■有元某。
https://youtu.be/hSVq_fmoqWg
■門田某
https://youtu.be/SWdmxgH4xPg
■桜井某、石橋某。
https://youtu.be/4O-nps6fasw
■Will。
https://youtu.be/Dziyu_lvZxo
■上念某。
https://youtu.be/fx90SG-0oRk
■ムジャヒディン、タリバン、CIA.。
「イスラム教も知らないくせに〜」と、飯山陽( いいやまあかり)センセーに批判・罵倒された無知蒙昧の「独居暴走老人」(笑)ですが 、その無知蒙昧の小生から見ても、飯山陽という馬鹿女の無知蒙昧ブリも、相当にひどい。無知蒙昧の小生が言うのだから間違いない。よくも、こういう馬鹿女( ネットウヨ)に、いつまでも、「東大博士」を名乗らさせているいるものだ。東大イスラム学の「底の浅さ」( ? )が知れるというものだ。飯山陽女史は、「東大博士( バカセ )」が自慢らしいから、ここで、飯山陽だけではなく、飯山陽が自慢する「師匠」のエセ東大教授=池内恵を含めて、「東大博士」がいかに馬鹿かを、論じてみよう。と、ここまで書いて、私の勘違いに気づいた。池内恵は、飯山陽の「師匠」ではなかった。しかも池内恵は、「東大先端科学技術センター」の教授らしい。イスラム学科(イスラム学専攻 )の教授かと思っていたが、どうもそうではないらしい。いづれにしろ、私の勘違い。飯山陽がTwitterのアイコンに若い時の写真を使っているので、もっと若い女性かと、勘違いした。別にアイコンにどういう写真を使おうと、勝手だが、読者を騙すのもいい加減にしろ、と言いたい。実際は、かなりの「ババー」(笑)らしい。
どーでもいい話だが、そもそも東大の「イスラム学」の伝統は、どの程度、あるのか。飯山陽に「東大博士」を与えるぐらいだから、いい加減な「伝統(電灯)(笑)」にほかなるまい。まさに、昼なお暗い「ひるあんどん( 昼行燈 )」にほかなるまい。
さて、私が、イスラムやアラブ、イスラエル、中東・・・などに興味を持ち始めたのは、「ロッド空港銃乱射事件」との遭遇からである。日本人青年三人が、イスラエルのロッド空港で銃を乱射、二人はその場で自殺、一人が自殺しそこなって、イスラエル官憲に逮捕された事件である。私は、この銃乱射事件に 、深い思想的衝撃を受けた。テロ事件からの衝撃ではなく、あくまでも思想的衝撃である。奥平、安田、岡本。私は、政治思想的には必ずしも彼等に共感したわけではないが、彼等の「生き方」には深く共感し、感動した。「命懸けの飛躍」としてのテロリズム。私は、「全共闘」以後 、あるいは「三島由紀夫事件」以後の「テロリズムの時代」が、なぜだか、奇妙に好きだった。したがって、私は、アラブ・ゲリラとかジハードとかテロリズムとかいう言葉や思想に異常に強い関心を持つようになった。現在のタリバンやISIS( アイシス )、アルカイダまで続くアラブ・テロリズムの歴史に、私は、批判的ではない。むしろ、私は、「国際社会」という名の「欧米中心主義」「米帝国主義」「米軍」・・・に「反感」を持つ。私は、欧米中心主義の手先となることによって、ノーベル賞を受賞した「マララ・ユスフザイ」が好きになれない。というより、大嫌いである。彼女は、その後、英国に渡り、オックスフォード大学を卒業したそうだが、その正体はバレバレだろう。
ところで、私は、人がどういう思想の持ち主だろうと気にしない。その信じる思想が、保守であろうと右翼であろうと、民族主義だろうと、あるいは逆に、左翼だろうと共産主義だろうと、共和主義だろうと、気にしない。私が気にするのは、その思想がホンモノかどうかだけである。小生の見るところ、明らかに、飯山は、ニセモノである。飯山の「ウリ」は、アラビア語の通訳の経歴、要するに語学力である。そして言うことが、「イスラム教もろくに知らないくせに・・・」「アラビア語も話せないくせに・・・」「ポスト・モダンのくせに・・・」というような小学生レベルの幼稚な思想的論理である。たとえば、ギリシャ哲学を論じようとすると、「ギリシャ語も知らないくせに・・・」「ラテン語も知らないくせに・・・」と言い出す無能な学者先生が、何処の大学にもいるものだが、飯山も、そのたぐいである。飯山は、欧米中心主義の視点から、タリバンを徹底的に批判し、悪しざまに誹謗中傷するが、それが、飯山の「思想」である。つまり、日本の言論空間にはびこる「ネットウヨ」である。実に単純素朴な、幼稚な「思想」である。飯山は若くない。結構、いい歳であるらしい。つい最近、Twitter界隈で話題になり、「ネットウヨのイスラム研究者」ということで、小生も知ったわけだが 、それまで、何をしていたのだろうか。アラビア語の通訳でもやっていたのだろうか。鳴かず飛ばず人生を過ごしてきたのだろう。そして、「ネットウヨ」(笑)に変身することによって、世間の注目を浴びることになった、というわけである。
話は変わるが、「ムジャヒディン」という言葉を聞いたことがあるだろうか。ムジャヒディンとは、タリバンの源流というか元祖とも言うべき組織である。意味は「ジハードを行う者たち」ということらしい。実は、ムジャヒディンという組織を作るのに貢献したのが米国のCIAである。そして、ムジャヒディンの後継組織がタリバンというわけである。タリバンとは、「イスラム教神学校の学生たち」という意味らしい。ムジャヒディンをさらに思想的に先鋭化し、過激化したのがタリバンである。言い換えると、タリバンと米軍は、元々は仲間なのである。
ムジャヒディン=タリバンという組織は、CIAが、アフガンに侵攻してきたソ連軍に対する抵抗運動、ソ連軍排斥運動のために作った軍事組織だったのである。そのムジャヒディン=タリバンが、ソ連軍に続いて侵攻してきた米軍に牙を向けたのである。歴史の皮肉である。
■ネットウヨ動画に出演の飯山陽。
https:p//youtu.be/qNFkBh-6s6c
■飯山陽女史は米軍と米帝国主義の手先だったのか?
飯山陽女史は、「妊娠中の女性の〜、夫と子供の前で〜、頭をかち割って脳みそを引き摺り出して~」などと言うが、米軍はアフガンだけでなく、中東各国を侵略して、「十字軍」気取りで 、イスラ教徒を「虐殺」「爆殺」「人権蹂躙」「強姦」・・・の限りをつくしてきただろう。米軍は、「正義の軍隊」だから、なんでも許されるというのか。この馬鹿女(飯山陽)こそ 、米英の侵略者の植民地支配の手先か。終戦直後の戦後日本にも、この種の女が、米兵相手に、夜の街に溢れていたんだろう。ベトナムやイラク、アフガン・・・で 、米軍兵士たちが何をやってきたか。帰国した米軍兵士たちが 、次々と自殺したり、精神疾患になったり 、犯罪者になりムショ生活を余儀なくされているという現実からも明らかだろう。そもそもアルカイダやタリバンが、イスラム教徒の世界で 、何故、登場=台頭して来たのか。学歴ロンダリングで「東大博士」となり、米英のキリスト教徒に迎合、土下座するしか能のない馬鹿女(飯山陽)に、何を言っても無駄だろう。馬鹿女につける薬はない。馬鹿女の師匠だという池内恵についても同じだろう。この「東大博士」を名乗る馬鹿共は、イスラム教徒に改心したのか。イスラム教を理解できるわけないだろう。彼、彼女らが理解しているイスラム教は、キリスト教的に解釈・改変されたエセ・イスラム教だろう。マララ・ユフザイの亜種。
実は、この問題も、右翼民族主義思想雑誌『維新と興亜』でも、若手の民族派の思想家たちとの対談で、取り上げる予定だ。過激な思想雑誌『維新と興亜』の次号に御期待ください。エセ保守やエセ・イスラム研究者を叩き潰せ。
「飯山陽(いいやま・あかり )」という美人のイスラム研究者(笑)、がいる。Twitter界隈で、そのネットウヨ的言動が人気になり、その方面では、すっかり有名人となっている「人物」らしい。何を勘違いしたのか、イスラム研究者の代表的存在であるかのような言動が、目障りなので、ちょっと「皮肉」をこめて、チョッカイをしてみたところ、威勢のいい反応が帰ってきた。面白いので、小生も、反論することにする。飯山陽女史は、「東大博士」らしく、「ドクター・飯山陽」と称している。この「ご印籠が見えないのか」ということだろう。ますます面白くなってきた。
実は、『維新と興亜』というマイナーな右翼民族派の思想雑誌で、最近のネットウヨ雑誌( HANADA、WILL、正論・・・)を、批判する企画が進行しているらしい。小生にも、声がかかったので、暇を持て余している「独居暴走老人」は、喜び勇んで参加することにした。
この飯山陽( いいやまあかり)女史の師匠は、池内恵らしい。池内恵なら、まったく知らないわけではない。東大教授の、あの池内恵だろう。飯山陽( いいやまあかり)は、池内恵の「教え子」だということが自慢らしい。「立派なエリート一家だなー」と小生は思はない。「クダラネーナ」と思うだけだ。「東大教授」や「東大博士」には、ろくなものはいない。小林秀雄や柄谷行人、廣松渉も、夏目漱石も東大出身だが、「東大博士」ではない。「東大博士」を馬鹿にしていたはずだ。池内恵や飯山陽は、その種の馬鹿だろう。
■『江藤淳とその時代 』(2)〜サルトル哲学とその影〜
江藤淳も、日比谷高校時代は、「仏文学」に憧れる、一介の「文学青年」だった。しかし、江藤淳は、「文学青年ごっこ」をいつまでも演じ続けられるほど、呑気な立場にはいなかった。一家の家計は逼迫し、江藤淳自身も結核で高校を一年休学し、留年しているほどである。「死」や「病気」や「貧困」に憧れるのは「文学青年」や「文学少女」の特権であるが、しかし、「死」や「病気」や「貧困」に現実的に直面している人間に、そんな余裕はない。慶應大学入学後も、結核を発病し病床に伏していた。日比谷高校時代は、まだ、文学好きの同級生たちと「文学青年ごっこ」にうつつを抜かしていられた。その頃は、堀辰雄の「軽井沢文学」に憧れ、同級生たちと軽井沢の別荘で合宿するというような文学青年でもあった。しかし、次第にそういう状況に違和感を感じはじめていた。やがて江藤淳の中に大きな転機が訪れる。その転機、つまり思想的転向について、江藤淳は「文学と私」で、こういいふうに、回想している。
《そのうちに私にある転換がおこった。ひと言でいえば 、私はある瞬間から死ぬことが汚いことだと突然感じるようになったのである。》(「文学と私」)
「死ぬことが汚いこと」だと感じはじめたとは、どういうことだろうか。これは、言い換えれば、それまで「死ぬことが美しいこと」だと、江藤淳が、あるいは江藤淳の仲間の文学青年たちが、思っていたということではないだろうか。ここで、江藤淳の中で、文学青年たちとの訣別、いわゆる「歌のわかれ」(中野重治)がおこなわれたということではないか。つまり、この時、江藤淳は「死ぬこと」より「生きる」ことに転向する。言い換えれば、「文学」と訣別すると同時に「批評家」になるのである。さらに続けて、江藤淳は書いている。
《さりとて人生に意味があるとは依然として思えなかったので、私に逃げ場がなくなり、自分を一個の虚体と化すこと、つまり書くことよりほかなくなった。だがそのとき、死んだ山川方夫が、私が口から出まかせにいった「夏目漱石論」のプランを積極的に支持してくれなかったら、臆病で傲慢な私はまだ批評を書かずにいたかも知れない。》
「 さりとて人生に意味があるとは依然として思えなかったので ・・・ 」とは、どういうとか。それは、おそらく、文学という虚業と訣別し
経済学や法学、あるいは医学や理工学というような「実学」へ転じることを意味しているだろう。しかし、江藤淳は、その方向にも 、つまり「実学」にも意味を見いだせなかった、ということだろう。日比谷高校の友人や同級生たちの中には、文学青年たちはいたが、ほとんどのひとが、「実学」へ転向し、官僚や実業家、学者への道を進んでいいる。文学部へ進学しした者も、ほとんどが文学研究者(学者)となっている。小説家や詩人、批評家という「文学」の道を進んだものは皆無だ。安藤元雄のように、東大仏文科へ進学し、「詩人」になった者もいたが、あくまでも「仏文学者」の兼業、あるいは副業としての詩人にすぎない。一見、「文学」を貫き通したように見えるが、私は、違うと思う。文学研究者は、文学者ではない。大学教授という健全な小市民である。
江藤淳が進んだ道は、そういう安全な道ではない。「筆一本」で生計を立てながら、文学を批判しながら、文学を専業として生きていくという「作家」や「批評家」「詩人」の道であった。
江藤淳は、日比谷高校時代の文学的ロマン主義の時代から、文学を批判し、否定する反文学的リアリズムの時代へと変身転向していく。その具体例が、「堀辰雄」から「夏目漱石」への転換であった。江藤淳は、慶應入学後も、東大仏文科に進学した日比谷高校時代の友人=安藤元雄との交流を続けながら 、安藤元雄の主催する同人雑誌に、エッセイや小説の習作などを発表していた。それが、慶應仏文科の学生ながら、「三田文学」編集長だった山川方夫の目にとまり、原稿を依頼され、その結果、江藤淳のデビュー作となる『夏目漱石論』を執筆することになる。
■新聞記者上がりのネットウヨ系の政治ジャーナリト「石橋文登」を見よ。その「スガ首相続投論」に抱腹絶倒す。さすがネットウヨ新聞「産経新聞」出身だな。
新聞記者や新聞記者上がりの政治ジャーナリトよ、消えろ。お前たちには、政局や政治の本質や現状分析を論じる資格も能力もない。裏方に
引っ込んでいろ。表にしゃしゃり出てきて、偉そうなことを言うな。
スガ首相が総裁選出馬を断念したそうだが、後は何処の誰れになるのか、などという野次馬的な政治評論に関心はない。私が関心があるのは、現代日本政治を堕落さぜた張本人たち 、政治記者や政治ジャーナリト、政治学者たちの醜悪な生態である。
たよえば、産経新聞関係の政治記者や政治ジャーナリトの怪しい動きが目立っていたが、この連中は 、
あくまでも私の「独断と偏見と妄想」で言うのだが、明らかに「官房機密費」の毒饅頭を喰い過ぎて、頭も口も麻痺しているとでも言うほかはない。「阿比留瑠比」とかいう安倍晋三のヨイショ本で有名なゴマスリ政治記者がいるが、この男のネットウヨ的な「検討はずれ」の幼児的政治評論には、いつもウンザリしていたが、「安倍・麻生時代の終焉」とともに、これでオシマイだろう。
同じく産経新聞出身の政治ジャーナリトに「石橋文登」がいるが、これもまたr、呆れるほどの熱心さで、「スガ首相擁護論」「スガ首相続投論」・・・を主張していたが、こいつも「官房機密費」というワクチン接種で、思考能力が麻痺しているのだろう。スガ首相退陣を前に、なにを考えているのだろう。「やっぱり、俺の予想は的中した」(笑)とでも妄想しているのかも・・・。石橋文登という産経新聞出身の政治ジャーナリトは、つい先日まで、「ネットウヨの女帝(桜井某女史)」が主催する「ネットウヨ番組」で、大口をたたいていたが・・・。一見に値すると思う。こういう新聞記者上がりのエセ・ジャーナリトが、日本を堕落させたのだ。
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●桜井よしこの「ネットウヨ言論テレビ」(笑)ー石橋文登ー
https://youtu.be/O3aPn-IKGhA
●ネットウヨ・政治記者=長谷川幸洋チャンネル⑴ー石橋文登ー
https://youtu.be/YPJCu6azJ9U
●ネットウヨ・政治記者=長谷川幸洋チャンネル⑵ー石橋文登ー
https://youtu.be/YPJCu6azJ9U
■自民党大敗で、立憲=共産連合政権誕生かも・・・。と、「ネットウヨ」雑誌『WILL 』の「Youtube動画」で、産経新聞の政治記者=阿比留瑠比が話している。笑った。産経新聞の政治記者たちは 、自民党政権が自滅すると、日本が滅びるとでも思っているらしい。逆だろう。このまま、腐れ政党=自民党政権が続くと、日本が消滅する危険性がある、というのが、まともな政治感覚だろう。そもそも、何故、産経新聞や「ネットウヨ雑誌」(月刊HANADA、Will、正論・・・)の編集者やその仲間たちが、共産党や共産主義を敵視し、異常に恐れるのか。それは、明らかだ。共産党や共産主義は、思想や主義に命をかけており、日常的な、言い換えれば小市民的な利権やゼニカネを超えているからだ。戦前の日本では、共産党や共産主義のみが、思想に値する思想であり、思想集団だった。保守や保守思想、あるいは自由主義や民主主義・・・も、共産主義が、反面教師的に、生み出したのである。最近の、営業保守や年金保守 、定年保守、井戸端主婦・・・をかき集めた「ネットウヨ」の馬鹿どもは、そんなことも知らない。
■『江藤淳とその時代 ()』・・・サルトルの影・・・
江藤淳は日比谷高校を卒業すると、そのまま現役で、慶応義塾大学文学部に進学した。江藤淳は、最初は、英文学ではなく、仏文学を専攻する予定った。当時の慶応仏文科は、サルトルの『嘔吐 』の翻訳者=白井浩司助教授や、後に慶応義塾の塾長になる佐藤朔教授らを中心に、フランス現代文学の研究や翻訳などの分野で、目覚ましい成果をあげていた。たとえば、サルトルの作品の翻訳は、ほとんどが京都の「人文書院」という出版社から、『サルトル全集』という形で刊行されていたが、そこで翻訳を担当する仏文学者たちの大半は、慶應仏文科関係者だった。サルトルの代表的な哲学書『存在と無』の翻訳者が、早稲田大学教授の松浪信三郎教授だったのが、目立つほどだった。江藤淳は、日比谷高校時代からサルトルを読んでいたし、フランス語の勉強も始めていた。江藤淳の文学仲間の同級生たちも、後にフランス文学者となる安藤元雄や篠沢秀夫をはじめ、フランス文学を目指すものが多かった。しかし、江藤淳は、仏文志望を変更して英文学専攻へ進む。ここには、英語担当講師の藤井昇の影響もあったようだが、やはり江藤淳の内部でも、なにか大きな変化があったようだ。江藤淳は、結核という病気と闘っているうちに、素朴なロマン主義的な「文学」に疑いを持ち、「文学的なもの」と訣別しなければならないと気づいたのだ。江藤淳自身は、その転向は、日比谷高校時代のことだったと回想しているが、私は、慶応大学進学後、仏文志望から英文科への転向の時だと思う。
■菅義偉の「首」を切り落とす者はいないのか。スガ総理こそ日本の「癌」。更迭・追放さるべきは「菅義偉」その人だろう。国民に見放され、断崖絶壁に追い詰めらた菅義偉( 船長)が、自分だけ生きのびるために、船上で、前代未聞の醜悪なジタバタ劇、ドタバタ劇を繰り返しているが、繰り返せば、繰り返すほど、地獄への坂道を転げ落ちるだけ。そんなことは、ネットウヨの馬鹿どもでもわかるだろう。サッサと消えろ。後は、「共産党」にまかせろ(笑)。
■菅義偉の「首」を切り落とす者はいないのか。スガ総理こそ日本の「癌」。更迭・追放さるべきは「菅義偉」その人だろう。国民に見放され、断崖絶壁に追い詰めらた菅義偉( 船長)が、自分だけ生きのびるために、船上で、前代未聞の醜悪なジタバタ劇、ド■菅義偉の「首」を切り落とす者はいないのか。スガ総理こそ日本の「癌」。更迭・追放さるべきは「菅義偉」その人だろう。国民に見放され、断崖絶壁に追い詰めらた菅義偉( 船長)が、自分だけ生きのびるために、船上で、前代未聞の醜悪なジタバタ劇、ドタバタ劇を繰り返しているが、繰り返せば、繰り返すほど、地獄への坂道を転げ落ちるだけ。そんなことは、ネットウヨの馬鹿どもでもわかるだろう。サッサと消えろ。後は、「共産党」にまかせろ(笑)。タバタ劇を繰り返しているが、繰り返せば、繰り返すほど、地獄への坂道を転げ落ちるだけ。そんなことは、ネットウヨの馬鹿どもでもわかるだろう。サッサと消えろ。後は、「共産党」にまかせろ(笑)。
■後見人=二階幹事長を斬り捨てて、スガは、総裁選と衆院選を乗り切れるか。総裁選を乗り切っても、衆院選は、神奈川2区から立候補予定の山本太郎を相手に、大丈夫か 。スガは生き延びても、自民党は大丈夫か?自民党自体の崩壊が始まっているのではないか。いや、その前に、日本が滅びるのではないか。(笑)
■再び「江藤淳の原点=十条仲原」について。
前回に続いて 、再び「江藤淳の原点=十条仲原」について考えてみたい。どうしても解けない謎が残っているからである。江藤淳は、日比谷高校を卒業して、現役で、慶應義塾大学文学部に進学している。東大受験に落第し、合格した慶應義塾大学に進学したと書いている。私が分からないのは、その後、日比谷高校の職員室に恩師を訪ねて、慶應の真新しい制服制帽姿で、慶應進学を報告に行ったと、自筆年譜その他に書いているところだ。その時の「君も案外、伸びなかったね」という恩師の冷たい反応(言葉)に、江藤淳は激怒し、二度と母校=日比谷高校を訪問していない、と書いているところだ。しかし、「東大合格者数日本一」を誇る日比谷高校の職員室だ。恩師とはいえ、「東大合格者数」という数字( 売り上げ )に身命を注ぐ企業戦士である。所詮、サラリーマンなのである。恩師の反応は、充分 、予想されたことだろう。江藤淳は予想していなかったのだろうか。そこが不思議なところだ。そこが謎なのだ。
私は、その頃、江藤淳の最大の関心事が、つまり最大の人生論的目標が、「東大合格」という点にはなかったということではないかと思う。では、最大の関心事は何だったのか。それは、やはり北区十条仲原時代の「貧乏生活」と「屈辱」と「絶望」にあったのではないか。その「貧乏生活」と「屈辱」と「絶望」から抜け出すことこそ、その頃の人生論上の最大の関心事だったのではないか。「東大合格」では、そこから抜け出すことは出来ないと、その頃の江藤淳は考えていたのではないか。言い換えれば、江藤淳の「絶望感」と「屈辱感」は、あまりにも重く、深かったのではないか。受験勉強的価値観や日比谷高校的価値観では乗り越えられないような深い絶望と屈辱の中で、悶え苦しんでいたのだろう。
私の解釈によると 、江藤淳にとって、「慶應進学」とは、何がなんでも、 東大でなければならないと、東大合格を目差して、一浪しても二浪してもと、ガリ勉に励む優等生たちに対する勝利宣言だった。だからこそ、日比谷高校の恩師たちの元に、「慶應進学」の報告に出向いたのではないか。
私は、ここで、江藤淳の数少ない思想的盟友ともも言うべき詩人=文芸評論家の吉本隆明の「もっと深く絶望せよ」という言葉を思い出す。江藤淳は、「絶望」や「屈辱」や「虚無」・・・とは、もっとも無縁な文学者だというのが一般的な印象ではないだろうか。「絶望」や「屈辱」や「虚無」・・・という言葉が好きな文学青年や文学愛好者たちには、江藤淳の「絶望」や「屈辱」や「虚無」・・・の深さや重さは、理解不可能であろう。おそらく、吉本隆明や柄谷行人ぐらいしか理解できないものだった。
■商業文芸誌の書き手の中心は、何故 、文藝評論家から「ライター」にとって代わられたのか。
いつの頃だろうか、多くの有能な文芸評論家たちが、商業主義文芸誌から消えた。文芸誌は、商業主義を追求するあまり、文学の原点を忘れ 、「売り上げ」が文学の基準になり、結果的に文学は、商業主義を追求するあまり、商業的にも衰退し、文学自体も社会的に地盤沈下し、存在意義を失っていった。つまり、文学の重要な存在根拠だった「文芸評論家」が、文芸誌や文壇から排除され 、追放されることによって、文学は衰退していったと言っていい。何故か。ここに、現代日本の文化的貧困化、文化的窮乏化の具体的な見本があると、私は思っている。文芸評論家には、曲がりなりにも「批評」があった。批評とは何か。文学批判や小説批判の能力である。批評的思考力である。しかし、ライターにはそれがない。ライターには、文学や小説を批判したり、批評したり、否定する能力はない。「御用学者」的なゴマすり 、それがライターである。私は、「ライター」という言葉を冷笑的に、侮蔑的に使っている。
たとえば、「武田砂鉄」という「ライター」がいるが、商業文芸誌「文学界」や「すばる」に、コラムを連載している。何故、武田砂鉄のようなライターが、文芸誌に連載を持っているのか、私には不可解だが・・・。その「ライター武田砂鉄」が、「LGBT騒動」について、「水を得た魚」のように積極的に発言している。なるほど、「誰もが否定出来ない」正論である と思う。しかし、こういう小市民的な、人畜無害の「正論すぎる正論」を自信満々に書き続け、掲載することが 、文芸誌の主要な役割で あろうか。私は、「編集者」というサラリーマンが、こういう凡庸な「正論」に傾きがちなことは仕方がないと思う。こういう時のために、「編集者」たちが飼い慣らしておいたのが、自分たちの人畜無害の「エセ正論」を代弁してくれる、いわゆる「御用ライター」なのだろうか。どうもそういう気がする。
竹中平蔵とオリンピックとネット右翼世代。
竹中平蔵が、経済三団体の代表が揃ってオリンピック開会式に欠席するという情報で、本性を露わにして、怒りまくっているようだが、何故、竹中が、オリンピックの開会式不参加ごときに、それほど興奮するのか。不思議だったが、納得がいった。オリンピックに邁進するスガポンコツ首相を影で操っているのが竹中平蔵と竹中一派だったということだろう。オリンピック強行の裏には、政財界の「フィクサー=竹中平蔵」がいたというわけか。なるほど。そうだったのか。そういえば、成田空港の検疫所あたりには 、パソナの「派遣社員」で、しかも「中国人」の派遣社員が溢れているらしいが、オリンピック開催に一番熱心なのが、竹中平蔵だとすれば、納得がいく。
竹中平蔵は 「オリンピック開催反対」を「世論」だと思っているらしい。そして「自分の考えは世論とは逆だ」が、しかし、「世論は間違う」と言いたいらしい。なるほど一理がある。しかし、世論、つまり大衆の世論なるものが「正しい」ということも少なくない。竹中平蔵の意見や主張が、いつも正しいという保証は何処にもない。要するに、一般大衆の激しい「竹中平蔵バッシング」におびえているだけだろう。竹中平蔵は、さんざん「大衆( B層)」を利用しておいて、大衆が「竹中平蔵バッシング」を始めると、今度は大衆を切り捨てる。まったくいい加減な男である。今こそ 、「売国奴=竹中平蔵を叩き潰さなければならない」・・・。
開会式の演出(小林某)や音楽担当者(小山田某)たちが、続々、過去の言動を暴露、告発され、辞任や追放に追い込められているようだが、この連中の多くが「ネット右翼世代」とでも呼ぶべき世代に属しているらしいことは、何を意味しているだろうか。それにしても、三流、四流の場末の芸人崩れたちが、オリンピックという「国際的イベント」を仕切っていたというのだから、笑える。ユダヤ人のホロコーストを揶揄したとか、身体障害者をいじめたとか、そういう過去の言動を、今頃、ドシロートに批判、告発されたぐらいで、オタオタするということが、三流、四流の芸人崩れのすることだ。おそらくこの連中は、安倍政権時代に、選ばれたメンバー、典型的な「ネット右翼世代」なのではないか。しかも、「ホロコースト」を揶揄したというSNSの記事を、ユダヤ人権保護団体「サイモン・ヴィゼンタール・センター」に内通・密告したのが自民党代議士の中山某( 防衛副大臣)だったというから笑わせる。スパイは自民党内部に、つまり自民党という「ネット右翼政党」の内部にいたということだろう。この中山防衛副大臣は、イスラエル空爆問題でも、イスラエル擁護という政府無視の「スパイ活動」の前歴があるらしい。
夏野剛という、怪しいネット右翼系の慶應SFCのインチキ教授がいる。このインチキの出稼ぎ教授が、オリンピック開催反対の日本国民大衆に対して、ネット番組で、「アホ」「クソ」と愚弄し、それをSNSで批判されると、即、反省し謝罪したらしい。慶應の教授を名乗るのは辞めてくれよ。それにしても 慶應SFCって、竹中平蔵あたりから、ネットウヨ大学のアホクソ学部に成り下がったね。慶應経済学部も、東大や京大や官僚の天下り先に成り下がっている。昔、「植民地大学」という言葉があったが、今や、慶應こそ「植民地大学」と言うべきだろう。
■(続)■商業誌としての文芸雑誌は滅びよ。全ての文芸雑誌が滅びた後に、文学は蘇るはずだ。ーー文芸雑誌撲滅論。
「新潮45事件」とも言うべき「LGBT騒動」における新潮社の編集者たちや、新潮社と関係あるらしい作家、評論家たちの「LGBT騒動」に関する言動と思想を見ていると、文学精神の退廃と衰退、没落は、行くところまでいくほかはないだろうと思う。彼らの思想と行動は、社会的には間違ってはいないだろうが、文学的には、その意味も価値もほぼゼロというより、マイナスと呼ぶしかない、と私は思った。新潮社の編集者たちの言動を改めて見なおしていくと、何のために文芸出版社に入社したのかと、疑わざるをないものがほとんどだ。「文学と悪」という問題と言うより、まず、たとえば「文学と人間」という問題についてでも、一度でも、考えたことはないのだろうか。人間は「善」なる行為を行う存在であるべきかもしれない。が、同時に、「犯罪」や「殺人」「強姦」「不倫」も、行う存在だろう。文学を道徳教育の一環と考える人がいてもいいだろう。それも別に悪いことではない。しかし、それに満足しない人間がいてもおかしくない。そんなことは小学生でもわかっているだろう。私は、小学低学年残ろ、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んだ時、正確には「紙芝居」で、『蜘蛛の糸』を見た時、何か奇妙な胸騒ぎを覚えた。これはなんだろうと思った。「善なるもの」への懐疑と不安。後にドストエフスキーの『罪と罰 』を読んだ時、私は、人間という存在は、なんと恐ろしくも、魅力的なのだろうと思った。私は、すっかり「悪」というものの魅力の虜になっていた。
「新潮」編集長の「矢野優」さんが、次のような文章を編集後記に書いていた。私は、一読して 、絶望的な気分になった。ああ、この人は「いい人」だなあ、と。
《 「新潮45」二0一八年十月号特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈 』論文」について、少誌の寄稿者や読者から多数の批判が寄せられました。
同企画に掲載された「政治は『 生きづらさ』という主観を救えない」において筆者の文芸評論家・小川榮太郎氏は「LGBT」と「痴漢症候群の男」を対比し、後者の「困難こそ極めて根深かろう」と述べました。これは言論の自由や意見の多様性に鑑みても、人間にとって変えられない属性に対する蔑視に満ち、認識不足としか言いようのない差別的表現だと小誌は考えます。
このような表現を掲載したのは「新潮45」ですが、問題は小誌にとっても他人事ではありません。だからこそ多くの小誌寄稿者は、部外者ではなく当事者として怒りや危機感の声をあげたのです。
文学者が自身の表現空間である「新潮」や新潮社を批判すること。それは自らにも批判の矢を向けることです。
小誌はそんな寄稿者たちのかたわらで、自らを批判します。そして、差別的表現に傷つかれた方々に、お詫び申し上げます。
*
想像力と差別は根底でつながっており、想像力が生み出す文芸には差別や反差別の芽が常に存在しています。
そして、すぐれた文芸作品は、人間の想像力を鍛え、差別される者の精神、差別してしまう者の精神を理解することにつながります。
「新潮45」は休刊となりました。しかし、文芸と差別の問題について、小誌は考えていきたいと思います。
二0一八年九月二十八日
「新潮」編集長・矢野優
》
まことに、立派な、それ故に人畜無害な、健康的な文章である。私は、そこを批判しているのではない。これが、文芸雑誌「編集後記」に書かれていること違和感を持つというだけである。つまり、健全なる小市民的文章だが、私の眼には、どう見ても、文学的・芸術的な文章には見えないということだ。
矢野編集長は、「文芸と差別の問題について、小誌は考えていきたいと思います」と力強く宣言しているが、私には、この文章は、「文学と差別の問題について、小誌は考えることを放棄・拒絶します。」としか読めない。無責任な政治家の場当たり的、口から出任せの言葉にしか見えない。実際、その後、この「文学と差別」の問題を取り上げた気配はない。
「LGBTには生産性がない」と言った杉田某女史や、それを擁護した文芸評論家・小川榮太郎の方が「逃げた」わけではない 。逆である。杉田某女史や小川榮太郎が議論や論争の継続を呼びかけたが、議論や論争から「逃げた」のは、矢野編集長や作家や評論家たちの方である。
。
■薩摩藩と水戸藩と日下部伊三次( 『 藤田東湖と西郷南洲』 余録)
桜田門外の変で、井伊直弼暗殺に成功しながら、現場近くで彦根藩の武士に切られて負傷し、逃亡を断念、その場で自決した有村次左衛門は、前夜、日下部伊三次の娘=マツ( 松子)と婚姻の儀式を行っていた。日下部伊三次とは何者か。日下部伊三次と有村次左衛門は、どういう関係にあったのか。有村次左衛門は、有村家の三男であり、日下部伊三次の長女と婚約することで、日下部家の家督を相続する予定だったものと思われる。しかし、有村次左衛門が、桜田門外の変で自刃・自決したことで、日下部伊三次の長女と再婚したのが、有村次左衛門の長兄・有村俊斎( 後に「海江田信義」)だった。有村俊斎は、弟の婚約者だったマツ( 松子)と再婚し、日下部家を相続する同時に、日下部の旧姓であった「海江田」を名乗ることになる。それが、明治維新の激動期を生き延び、明治新政府で、貴族院議員や枢密院顧問などの要職を勤めた海江田信義である。
ところで、西郷南洲も、日下部伊三次を人間として高く評価していた。日下部伊三次は「水戸藩士」だったが、島津斉彬の懇願で、「薩摩藩士」となっている。実は、ここには、不思議な歴史的背景があった。日下部家は、元々、薩摩藩の武士であったが、薩摩藩の「ある事件」に巻き込まれたらしく、薩摩藩から逃亡し、水戸の地に住み着いていた。その元薩摩藩士が、日下部伊三次の父、海江田連である。海江田連は、名前を「日下部」に変え、水戸藩の太田で、私塾をひらいて、青少年の教育に励んでいた。教育者としての海江田連は、人格、識見、ともに高い評価を得て、太田学館の幹事にまでなっていた。その息子が日下部伊三次である。日下部伊三次は 、父の後を継いで太田学館の幹事となるが、父と同様に、その人格識見を買われ、水戸藩士に取り立てられている。日下部伊三次を見た徳川斉昭は、その人格を認めると同時に、親交のある薩摩藩主・島津斉彬に推薦し、薩摩藩士として復帰出来るようにと取り計らった。島津斉彬もまた、日下部伊三次の力量に注目し、薩摩藩江戸屋敷詰めの薩摩藩士として、喜んで受けれたのだった。それからは、日下部伊三次は、薩摩藩と水戸藩の連絡役となり、両藩を股にかけて、尊皇攘夷派の武士として重要な役割を演じることになる。「安政の大獄」事件のきっかけともなった水戸藩の「戊午の密勅」事件の主役の一人が日下部伊三次だった。日下部伊三次は、水戸藩の鵜飼吉左衛門らとともに 、密勅を水戸藩江戸屋敷へ運ぶ。この「戊午の密勅」事件で、幕府と水戸藩は、激しく対立し、一触即発の危機的状況になる。その結果が、井伊直弼が発動した「安政の大獄」事件である。この安政の大獄で、多くの尊皇攘夷派の志士たちつおともに日下部伊三次も、尊皇攘夷派の志士として捕縛され、獄死した。
■商業誌としての文芸雑誌は滅びよ。全ての文芸雑誌が滅びた後に、文学は蘇るはずだ。ーー文芸雑誌撲滅論。
珍しく、ある文芸雑誌から20枚程度の原稿を依頼されたので、今、私は、文学や文芸雑誌というものに、昔ほど、関心や興味があるわけではないが、そうかと言って、まったくないわけでもないので、思いつくままに、文学や文芸雑誌に関する「個人的な感想」を書いてみることにする。「ある文芸雑誌」と言っても、いわゆる大手出版社の出している「文学界」や「新潮」などのような有名な文芸雑誌ではない。また「早稲田文学」や「三田文学」のような大学をバックとした伝統ある文芸雑誌でもない。『文芸思潮 』という極めてマイナーな文芸雑誌である。マイナーな文芸雑誌ではあるが、私は、大手出版社の出す文芸雑誌に関心がないのと反比例して、逆にそのマイナーな文芸雑誌『文芸思潮 』に興味を持っている。そこには 、商業誌的な文芸雑誌にはないものがある。文学の原点、文学の素心、文学の神髄・・・とでも言うべきものが、そこには、確実にあるからだ。
かつて 、「同人誌」というものが盛んであった。私が、文学や小説に関心を持つようになった頃 、芥川賞を受賞し、話題になったのは、柴田翔の『 されどわれらが日々』という小説だった。その小説は、元々は、「象」という同人誌に発表されたものだった。また、東京の高校生( 藤沢成光)が学内の同人誌「しまぞう」に発表した『 羞恥に満ちた苦笑』という小説が、朝日新聞の「文芸時評」に取り上げられ、大きな話題になったのもその頃だった。その頃までは、文学や小説は、同人誌中心に機能していた。「文学界」の巻末には、「同人雑誌評」といコーナーがあった。私は、そこを、ひそかに愛読していた。澁澤龍彦や秋山駿、河野多恵子、佐木隆三・・・などの名前を知ったのは、その「同人雑誌評」であった。
ところで、「ある文芸雑誌」は、全国の「同人誌」を特集し、同人誌を紹介している。というより、全国の同人誌を母体にして成り立っている文芸雑誌と言っていいかもしれない。商業誌としての大手出版社発行の文芸誌の力が増し、文学や小説の中心が、商業誌としての文芸雑誌に移ると同時に、あるいは文芸雑誌が主催する「文学新人賞」の役割が拡大するに連れて、文学や小説の世界も、商業化し、「売れあげ」重視の文学や小説へと変貌して行った。「売れない小説は小説ではない」(笑)とでも言うかのように、文学は「商業主義」にのみこまれていった。
文壇や文芸雑誌の界隈で、「売れた、売れた〜」と大騒ぎすることが、文学や小説の中心的話題となるようになったのも、その頃からである。村上春樹の登場は、その流れを決定的にした。村上春樹が「ノーベル賞候補」になったと、大騒ぎするのが、文芸雑誌編集者たちの毎年の恒例になったのも、その一例だろう。極端な場合は、村上春樹の新作は、出版される前に、大ベストセラー騒動がおこり、大ベストセラーへ爆進という珍喜劇までが起こる。噂では、村上春樹批判は、文壇や文芸雑誌の世界ではダブーとなり、村上春樹批判をする文芸評論家たちは、文壇や文芸雑誌から煙たがられ、排除され、追放されていった。私と同世代か、その前後の世代の文芸評論家達の多くは、村上春樹とその小説には批判的だった。そして当然のように 、彼らは、表舞台(文芸雑誌 )から消えていった。彼らに代わって、文芸雑誌に登場してきたのが 、東大教授や准教授を筆頭に、毒にも薬にもならない無能な大学教員やその予備軍であった。彼らは、文芸雑誌の編集者たちの「意向」を忖度して、恥も外聞もなく、「村上春樹絶賛」を繰り返した。彼らは、書くことに命を賭けていない。東大法学部教授の丸山眞男が、大学が本業だとすれば 、雑誌や新聞などのメディアの仕事は「夜店」みたいなものだ言ったことがあるが〜。その結果、文学や小説から「批評」や「論争」が消えた。文学や小説が地盤沈下して、社会的にも存在意義を喪失していくはずである。現在の文学の退廃と堕落は 、敗戦後の日本の惨状と変わらないだろう。
私の文学的出発は、岳真也さんが主宰する同人雑誌『蒼い共和国 』だった。商業誌ではなかった。私は、同人雑誌から出発し、同人雑誌を中心的な舞台として文学的活動を展開してきた。たまに商業誌としての文芸雑誌に登場したこともあるが、私の表現の場所は、あくまでも同人雑誌だった。大手出版社の商業誌としての文芸雑誌から見れば、明らかに「シロウト」であり、「アマチュア」でしかなかっただろう。しかし、私は、ある時点から、大手出版社の商業誌としての文芸雑誌というものに魅力も価値も存在意義も感じなくなった。大手出版社の文芸雑誌からの「原稿依頼」に一喜一憂する同世代の作家や評論家たちの姿を見ていて、それは文学ではない、そこには文学はない、と思うようになった。特に「小説」ではなく 、「批評」を重視していた私のよう文芸評論家志望の者は、文芸雑誌に適当に利用され、適当に使い捨てにされ、適当な時期が来ると切り捨てられるのだ、と思うと、自分が虚しくなった。なんのために「文学者」を目指したのか。私は、江藤淳や吉本隆明のような文芸評論家を目指していたので、やはり江藤淳や吉本隆明が自分のマイナーな雑誌(「季刊芸術」「試行」 )を作り、そこに、地道に、書きたいものを書いていくという「自立メディア」の方向を、自分も目指すべきだと考えるようになっていった。商業文芸雑誌の奴隷になってはいけない、と。そのことを自覚した頃、私は、自分の力で雑誌を作り、そこに 、「書きたいものを書いていく」という吉本隆明的な方法を模索した結果、その頃、登場してきたネット空間とネット言論に活路を見出すことにした。ネット空間とネット言論は「私の同人誌」だった。
先日、岳真也さんから、「夕刊フジ」が届いた。そこに、岳真也さんが、写真入りで大きく取り上げられていた。岳真也さんの最新作『翔 』が、注目すべき小説作品として紹介されていた。来るべきものが来たな、と私は思った。お前らには出来ないだろう、と。岳真也さんの『翔 』という小説は、『三田文学 』や『早稲田文学 』に、分載された「マイナー文学」だ。もちろん 、「売り上げ」重視の文芸誌とは無縁な作品だ。商業誌としての文芸雑誌は、当然のように、 岳真也さんの最新作『 翔』を無視している。書評で取り上げたという話も聞かない。そこで、「夕刊フジ」が、一ページを使って、ドカーンと取り上げたというわけだ。
話は変わるが、二三年前( ? )、「LGBT」が話題になったことがある。参議院議員の杉田某女史が、『新潮45 』に「LGBTには生産性がない」と書き、左翼リベラル派からバッシングを受けた事件である。さらに文芸評論家の小川某がそれを擁護したことで事件は拡大し、『新潮45 』が廃刊に追い込まれた事件である。その騒動の時、新潮社社員( 編集者 )たちが、一斉に、「LGBT差別」反対ののろしをあげた。「 新潮社社員( 編集者 )たち 」は 、出版社勤務とはいえ、所詮は、平凡な「社畜」、つまりサラリーマンであり、「健全なる一般庶民」であるから当然だろう。しかし、私 が疑問に思ったのは、新潮社に関係する作家や評論家たちまでが 、一斉に、「LGBT差別」反対に唱和したことである。最近の作家や評論家は、「健全なる一般庶民」と同じ感覚や思想の持ち主なのか、と思ったものだ。高橋源一郎や平野啓一郎、島田雅彦〜等も、含まれていたので、私は驚いた。というより、彼らが中心になって、それを主導していたので、絶望的な気分になった。商業誌文芸雑誌に飼い殺しにされた挙句、言いたいことも言えず、サラリーマン編集者たちに唱和している文学者たち〜。これこそ、文学者の「自殺行為」だろう。おまけに、高橋源一郎は、「文芸評論家」を名乗る小川榮太郎に向かって、「お前は文芸雑誌(商業誌 )に、一度も原稿を書いたことはないだろう」「文芸評論家を名乗ることは恥ずかしい」・・・とか言うような発言をした。馬鹿か、と思ったものだ。そもそも商業主義的文芸雑誌が、「文学」と「非文学」の差異を決めるのではない。私は、小川榮太郎の政治的発言の多くに反対である。しかし、小川榮太郎の「LGBT」騒動での勇気ある発言には、激しく同意した。小川榮太郎こそ文学者であり 、文芸評論家に相応しい、と。
そもそも文学とは何か。文学者とは何か。