2021年10月8日金曜日

■藤田東湖と西郷南洲。ー実存と思想ー⑵ 藤田東湖は、華々しい、劇的な「死」を死んだわけではない。江戸の街を襲った「安政の大地震」で、落ちてきた梁の下敷きになって、あっけなく死んでしまった。藤田東湖にふさわしくないような死に方であった、と私も思う。「桜田門外の変」や「天狗党の乱」で、劇的な死に方をした藤田東湖の後継者や弟子たちの死にくらべて、あるいは「西南戦争」で薩摩の城山の露と消えた西郷南洲の死に方にくらべて、実に平凡、凡庸な死に方であった。しかし、それは表面的なことにすぎない。藤田東湖もまた、劇的な死を、「思想家」、「学者」、「革命家」として死んだのである。後に続く革命家たちの「蜂起」や「斬死」「斬首」・・・を見殺しにしたわけでもなく、そこから逃げだしたわけでもない。そもそも、水戸学は 「革命思想」であり、革命を目指す「実践的革命哲学」であった。体制擁護の御用学問でしかない現代の右翼思想や保守思想とは対極にある思想だった。その「革命哲学としての水戸学」の中心人物が 、藤田幽谷=藤田東湖父子だった。私は、この連載の第一回目で、「三決死か而不死(三たび死を決して而も死せず)」という『回天詩史』の冒頭の文章(漢詩)を紹介したが、実は、そこでも中心テーマになっているのは「死」であった。「三たび死を決して而も死せず」。

 ■藤田東湖と西郷南洲。ー実存と思想ー⑵


藤田東湖は、華々しい、劇的な「死」を死んだわけではない。江戸の街を襲った「安政の大地震」で、落ちてきた梁の下敷きになって、あっけなく死んでしまった。藤田東湖にふさわしくないような死に方であった、と私も思う。「桜田門外の変」や「天狗党の乱」で、劇的な死に方をした藤田東湖の後継者や弟子たちの死にくらべて、あるいは「西南戦争」で薩摩の城山の露と消えた西郷南洲の死に方にくらべて、実に平凡、凡庸な死に方であった。しかし、それは表面的なことにすぎない。藤田東湖もまた、劇的な死を、「思想家」、「学者」、「革命家」として死んだのである。後に続く革命家たちの「蜂起」や「斬死」「斬首」・・・を見殺しにしたわけでもなく、そこから逃げだしたわけでもない。そもそも、水戸学は 「革命思想」であり、革命を目指す「実践的革命哲学」であった。体制擁護の御用学問でしかない現代の右翼思想や保守思想とは対極にある思想だった。その「革命哲学としての水戸学」の中心人物が 、藤田幽谷=藤田東湖父子だった。私は、この連載の第一回目で、「三決死か而不死(三たび死を決して而も死せず)」という『回天詩史』の冒頭の文章(漢詩)を紹介したが、実は、そこでも中心テーマになっているのは「死」であった。「三たび死を決して而も死せず」。