2021年8月16日月曜日

■純文学の神髄は同人雑誌にあり。 純文学という言葉は、近ごろ、あまり使われないようである。純文学と大衆文学という二分法も、あまり使われなくなっている。何故だろうか。私は、純文学という文学それ自体が消滅しつつあるからではないかとおもう。しかし、私は、純文学という文学にこだわっている。何故、純文学にこだわっているのか。私は、純文学の可能性を信じているからだ。それは、純文学の可能性であって 大衆文学の可能性ではない。純文学は売れなくていい。売れる必要はない。「純文学も売れなければならない」と言い始めた時、純文学は純文学ではなくなったのである。私は、大衆文学が存在することも、大衆文学の可能性や将来性に命をかけている人がいることも否定しない。私が、大衆文学に興味がないだけである。私は、文芸雑誌に問題があるとおもっている。日本には、大手出版社が発行する文芸雑誌というものがあり、それらは、おもに純文学系の文芸雑誌である。ところが、この純文学系の文芸雑誌が商業主義化し、もっぱら売り上げを重視する商業雑誌のようになり、「売れる必要はない」という純文学の精神は失われていったからからである。不思議なことだが、ここで、奇妙な逆説的構造が成立する。純文学作品は、「売れる必要はない」といっていた時は、ある程度売れていたにもかかわらず、売り上げを優先し、商業主義化すると同時に、純文学作品は、ますます売れなくなったからである。純文学は純文学をつらぬいたから売れなくなったのではない。純文学の精神を失ったからこそ純文学作品は売れなくなったのである。読者は、純文学作品に、あくまでも、純文学的精神を求めていたからであろう。純文学が歴史を作る、あるいは時代を先導することがあったが、それは、爆発的に、売れたからではない。「売れる必要はない」という純文学の神髄が、そこにあったからであった。現在の純文学作品が売れなくなったのは、純文学の精神が、つまり純文学の神髄が、失われてしまったからである。 では、純文学とは何か。純文学の神髄とは何か。