2021年11月8日月曜日

江藤淳

とその時代』


■江藤淳とその時代。(9)


江藤淳は、サルトルの『ボードレール』論を読むことによって、母の死を嘆き、哀しむという不幸な少年、つまり「母不在コンプレックス」から解放される。私は、ここで、江藤淳は、「母権性」的思考から「父権性」的思考へ転換するのだと思う。もちろん、明確に転換するわけではない。おそらくその転換の狭間で精神的に右往左往し、激しくゆれ動いていたと思われる。結核の再発や自殺未遂事件、義弟殴打事件なども、その転換の狭間で起きたことであろう。いずれにしろ、江藤淳の処女作『夏目漱石』が書かれるのは、この「母親コンプレックス」から解放されて以後である。それから、しばらくして、江藤淳は、頻繁に「母の死」や「母の喪失」に言及するようになるが、おそらくその頃は、「母の死」という深刻な幼児体験を、実存主義的な精神分析の手法を借りて、冷静に、客観的に自己分析できるようになっていたとういうことだろう。


江藤淳が、「母の死」を、繰り返し繰り返し、とっておきの秘話として語るようになるのは、江藤淳自身が中心になって創刊した同人雑誌(?)『季刊芸術』(昭和42年)を創刊した頃からであって、最初からそうだったたわけではない。江藤淳は『夏目漱石』論を執筆する頃はともかくとして、デビュー当時から長いこと、「母の死」について書くことも話すこともなかった。『季刊芸術』は、マスコミや文芸ジャーナリズムからの制約や言論弾圧(言論統制)を受けることなく、「書きたいものを自由に書く」ために創刊した雑誌であった。その創刊号に掲載される記念すべき最初の文章が『一族再会』であり、「母」と題され、「言葉と私」と題されていたことが象徴するように、「母の死」という主題は、単に江藤淳の個人的な体験にとどまるものではなく、それは、江藤淳の思想的な中心命題を語るための舞台装置でもあったのである。

だから、江藤淳の「母の死」という個人的な存在論的原体験を、素朴に受け取ってはならない。江藤淳の母親の思い出話には、思想的仕掛けがある。むしろ、「母と子」の密着と癒着を批判・告発するために強調されるエピソードなのである。たとえば、江藤淳の代表作の一つである『成熟と喪失』では、「母の喪失」こそが「成熟」であるという論理が主張されるが、そこには、母との密着・癒着関係から、なかなか自由になれなず、孤立と孤独と自立を恐れる日本人、つまり近代の日本人、閉ざされた言語空間で安眠をむさぼっている戦後の日本人への江藤淳的批判が仕掛けられている。『夏目漱石』論には、「母の死」とか「母の喪失」という具体的なテーマは出てこないが、しかし、『夏目漱石』論ーの背後に、そのテーマが隠されていたことは言うまでもない。夏目漱石

こそは、母にも父にも捨てられ、塩原家に養子に出され、早くから自立を強いられた「孤独な子供」だったからである。

江藤淳が次のように書くのは、「母の死」を嘆き悲しんでいるのではない。むしろ、「母の死」に立ち向かっているのである。それまで、分析不可能であった「母の死」という深刻な幼児体験が、サルトルの『ボードレール』論に出会って、冷静に自己分析できるようになったということであろう。


《母の死をきっかけにして、私は自分の周囲から次々に世界を構成する要素が剥落して行ったように感じている。敗戦や戦後の社会変動がそれに拍車をかけたことは否定できない。しかし、そういう外側からの原因だけで私のまわりから現実が崩れ落ちて行ったとは考えられない。少なくとも一人の人間が世界を喪失しつつあるとき、その原因を彼の外側にある時代や社会のなかだけに求めようとするのは公正を欠いている。こういう人間にとっては、すでに「時代」とか「社会」とかいう概念そのものが崩壊して行く現実の一部と感じられているからだ。 》(『一族再会』)




江藤淳は、「母の死」をそれ自体として、素朴に書いているわけではない。「母の死」は、世界の剥離、そして戦後日本の問題や国家論にまで広がっていくテーマとして書いている。そして何よりも「言葉」の問題として書いている。


《大久保の家に連れかえられたとき、母はまだ南を枕にして横臥していた。そうすることによって父は

「生きている」母に私を対面させようとしたのかも知れない。父は私に

 「ここへ来てお別れをなさい」

といった。私は進み出て大人の真似をして正座し、両手をついて母にお辞儀をした。母はそこにいるが、同時に無限の彼方にいて、私はどうしても手をのばして母の頬に触れることができない。そのとき、いわば私は自分と世界との間の距離を識った。それは言葉によって埋めるほかないものである。その言葉に、私は学校ではなく母の死後その遺品が納められた納戸のなかで、感覚というよりは意識のとらえた沈黙にひたっているうちに出逢ったのである。 》(同上)




さらに、次のようにも書いている。


《私たちのなかにこの暗い淵がうがたれるのは、母の胸に抱かれた幼児の薄明の安息が喪われた瞬間からである。そのときいわば私たちの存在の核をみたす沈黙が変質する。意識は光である日常言語の世界に出逢うのに、沈黙は存在の闇のなかにしりぞいて行く。この暗い沈黙から安息が喪われているのは、それが個体の自覚をともなっているからにほかならない。それは不安であり、孤独であって、たえず触手をのばして安息を回復しようとするが、意識がとらえた日常言語はそのためになにごともなし得ない。もしのばされた触手が「言葉」に転位されないかぎりは、それは存在の核をみたす暗く重いもの、ある動物的なものを、「言葉」という軽ろやかな不在に変身させることである。そうでなければさしのばされた存在の触手は叫び声になるか混沌とした情念になって奔出するかうるだけだ。》(同上)


「母の死」や「母の喪失」を体験することによって、子供は、言葉が不要な沈黙の世界から追放され、言葉でしか他人と接触出来ない世界へと移動させられる。つまろ、母を喪失することによって「成熟」する。それは、言い換えれば、父親の役割に着目する江藤淳の父権制的国家論へと繋がっる。




江藤淳は、「治者」という思想を主張している。「治者」とは何か。治者とは、「弱者」の発想ではなく、どちらかといえば、「強者」の発想である。四歳半で「母の死」を体験し、嘆き苦しんだ幼年、少年時代を経て、江藤淳は、何故、強者の思想、つまり「治者」の思想へたどりついたのだろうか。「強者」という言葉から、私は、唐突かもしれないが、江藤淳とニーチェの思考の類縁性を考える。江藤淳の「治者」は、私を考えでは、ニーチェの「超人」と似ている。いや、似ているだけではなく、ほぼそのまま、江藤淳とニーチェの思考は、同種であり、直結している。ニーチェは、負け犬の遠吠えならぬ負け犬の妬み、僻み、嫉妬でしなない「弱者のルサンチマン」を、激しく憎み、批判し 、否定し、そしてそのアンチテーゼとして主張したのが、「超人の哲学」だった。江藤淳の「治者」の思想は 、「超人の哲学」そのものだと言っていい。江藤淳もまた「弱者の妬み、僻み、嫉妬」を、「弱者の思考」として、厳しく論難し、「治者の思考」を対置したからである。ニーチェの「超人の哲学」が、「ナチズム」との類縁性を指摘されたように、江藤淳の「 治者の思想」も、危険な思想を孕んでいる。では、ニーチェ的「超人の哲学」とは何か。その説明として、私は、ニーチェではなく、ドストエフスキーの『罪と罰』のなかの言葉を引用する。


《『あれだけの事を断行しようと思っているのに、こんなくだらない事でびくつくなんてー』奇妙な微笑を浮かべながら、彼はこう考えた。『ふむ・・・そうだ・・・いっさいの事は人間の掌中にあるんだが、ただただ臆病のために万事鼻っ先を素通りさせてしまうんだ。・・・これはもう確かに原理だ・・・ところで、いったい人間は何を最も恐れてるだろう?新しい一歩、新しい自分自身のことば、これを何よりも恐れているんだ。》(『罪と罰』)


私は、このドストエフスキーの『罪と罰』の一節が好きだ。「新しい一歩、新しい自分のことば・・・」。実は 、

この一節に、ニーチェの「超人の哲学」も江藤淳の「 治者の思想」も、微妙な違いはあれ、明確に表現されている。人間は、自立した人間は少ない。われわれは、しばしば、「自分の頭で考えよ」と言うが、そういうお説教じみた言説さえ、既に、他人の口真似であり、模倣である。それほど、われわれは、「新しい一歩、新しい自分のことば・・・」を、踏み出し、つむぎ出すことが出来ない。江藤淳が「治者」という時、それは、「新しい一歩、新しい自分のことば・・・」を創造出来る人間、つまり「超人」のことである。