2021年9月2日木曜日

 ■『江藤淳とその時代 ()』・・・サルトルの影・・・

江藤淳は日比谷高校を卒業すると、そのまま現役で、慶応義塾大学文学部に進学した。江藤淳は、最初は、英文学ではなく、仏文学を専攻する予定った。当時の慶応仏文科は、サルトルの『嘔吐 』の翻訳者=白井浩司助教授や、後に慶応義塾の塾長になる佐藤朔教授らを中心に、フランス現代文学の研究や翻訳などの分野で、目覚ましい成果をあげていた。たとえば、サルトルの作品の翻訳は、ほとんどが京都の「人文書院」という出版社から、『サルトル全集』という形で刊行されていたが、そこで翻訳を担当する仏文学者たちの大半は、慶應仏文科関係者だった。サルトルの代表的な哲学書『存在と無』の翻訳者が、早稲田大学教授の松浪信三郎教授だったのが、目立つほどだった。江藤淳は、日比谷高校時代からサルトルを読んでいたし、フランス語の勉強も始めていた。江藤淳の文学仲間の同級生たちも、後にフランス文学者となる安藤元雄や篠沢秀夫をはじめ、フランス文学を目指すものが多かった。しかし、江藤淳は、仏文志望を変更して英文学専攻へ進む。ここには、英語担当講師の藤井昇の影響もあったようだが、やはり江藤淳の内部でも、なにか大きな変化があったようだ。江藤淳は、結核という病気と闘っているうちに、素朴なロマン主義的な「文学」に疑いを持ち、「文学的なもの」と訣別しなければならないと気づいたのだ。江藤淳自身は、その転向は、日比谷高校時代のことだったと回想しているが、私は、慶応大学進学後、仏文志望から英文科への転向の時だと思う。