2020年12月30日水曜日

藤田東湖と西郷南洲(1)



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以下は、『 維新と興亜』という雑誌に掲載(連載)予定の原稿です。以前に書いたものに加筆修正したものです。かたぐるしい「論文調」ではなく、読みやすい「読み物ふう」に書き直しました。興味のある方は、ご一読ください。『 維新と興亜』は、「崎門学研究会」と「大アジア研究会」の若手研究者達が主宰する雑誌です。


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藤田東湖と西郷南洲(1)


西郷南洲は、1854年、つまり安政元年、28歳で、藩主・島津斉彬に抜擢されて江戸の薩摩藩邸詰めになる。西郷が、江戸に到着したのは、同年、3月6日であった。1ヶ月後の4月初頭には、「庭方役」を拝命した。そして、4月10日、いち早く、樺山三円に誘われて、当時、随一の学者・思想家と見られていた水戸藩の藤田東湖に会いに出掛けている。西郷にとって、藤田東湖とは何であったのか。

福澤諭吉は、西南戦争終結後、『丁丑公論』 で、西郷の行動を擁護しながらも、西郷の欠点は、「学問がなかった」ことだと言っている(「西郷の罪は不学に在りといはざるを得ず」)。私は、福澤諭吉の言う「学問」がどういうものかについて、大いに疑問を持つ。西郷には、目立った「学歴」や「学問的業績」はなかったかもしれない。しかし、西郷に、「学問がなかった」というのは間違っている。西郷には、誰にも負けないような「学問への情熱」と「深い思考力」があった。西郷に学問がなかったから、最後の内乱としての西南戦争を引き起こしたのではない。学問があったからこそ、西南戦争を引き起こしたのである。福澤諭吉は、西郷が、武力を使ったことにも反対だという。そうだろうか。私の解釈は、福澤諭吉とは反対である。武力行使=武装蜂起なくして西南戦争はありえない。命懸けの軍事行動に出たからこそ、西南戦争は、西南戦争なののだ。だからこそ、西南戦争は、いまだに語るに値するのだ。

さて、西郷は、江戸小石川の水戸藩邸に藤田東湖や戸田忠太夫等を訪ね、感激の初対面を行っている。しかも、初対面にもかかわらず、藤田東湖は、西郷を 、歓待しただけではなく、西郷という人物を高く評価し、信頼できる人物だと判断したらしく、西郷を感激させるような対話をおこなっている。その後も、水戸藩邸に、頻繁に出入りして、藤田東湖を師として仰ぎつつ、対話を繰り返し、結果的に思想的にも人間的にも意気投合している。学問と無縁な人間のすることだろうか。西郷は、さっそく、藤田東湖との初対面の模様やその後の様子を、故郷にいる母方の叔父椎原与右衛門、椎原権兵衛兄弟へ 、手紙で書きおくっている。

《 先鞭に東湖先生が書いて下された書を送っておきましたが、無事着ききましたか。東湖先生を訪ねると、まるで清水の中に浴したようで、心中一点の雲霞なく、ただ清浄な心になってしまって帰りを忘れてしまいます。他人に申すのは、口幅ったいいが、東湖先生は私を心の中で可愛がって居られるようです。偉丈夫、偉丈夫と私を呼ばれ、私が何かいうと、さうだ、さうだ、まさにその通りだと賛成されます。天下のために薩摩が大いに活躍する時が来た。君達のような人達が斉彬公を押し立てて活動すれば、夷狄を打攘い皇国を振起することは難事ではない。有難い、頼もしいことだと言われ、身に余るうれしさよろこびです。若し水戸老侯が鞭をあげて、異船打攘いに魁けらられることでもありますれば逸散に駆けつけて、戦場の埋草になりとも役立ちたいと、心から東湖先生に心酔いたしております。 》

西郷は、学者・藤田東湖を、最大の尊敬と愛着の眼差しをもって見ている。おそらく、この時、西郷は、藤田東湖の語る思想やイデオロギーばかりではなく、人間・藤田東湖を見ている。人間・藤田東湖の「語り方」、あるいは「立ち居振る舞い」に心酔している。

藤田東湖は、言うまでもなく、尊皇思想の牙城とも言うべき水戸学派の中心人物であり、水戸藩主・徳川斉昭からも信認の厚い忠臣であり、政治家でもある。島津斉彬の推薦があったにしろ、西郷が、短期間のうちに、藤田東湖の信頼を勝ち得たのは、西郷自身にも、それだけの知性と学問があったからだろう。学問や知性の伴わない田舎出の凡夫でしかなかとすれば、藤田東湖という大学者と意気投合するはずがない。また、西郷が、藤田東湖との出会いや対話に、これだけ純粋に感激し、感動しているということは、西郷の学問への意欲と情熱が、並大抵のものではなかったということを示している。

西郷には、知性も学問も思考力もあった。しかし、ここで特筆すべきは、西郷南洲が、すでに、若いという年齢を越えていたにもかかかわらず、依然として、純粋な「学問への情熱」と「学ぶという姿勢」を持ち続けていたということだろう。


西郷は、交流を重ねるにつれて、ますます藤田東湖という人物の学識とその言動に心服し 、文字通り心酔していったが、それは、藤田東湖の方も同じだった。藤田東湖もまた、西郷同様に、見るからに精神も身体も大きい大思想家であり 、豪傑型の大人物だった。藤田東湖が、西郷の中に、単なる表層的な学問や教養にとどまらず、それを具体的な場面でも、果敢に実践、実行する行動的人格を見出し、次の時代の指導者として期待しただろうことは、西郷の手紙を読むまでもなく、明らかだ。もちろん西郷を、藤田東湖に紹介し、推奨した薩摩藩主・島津斉彬の言葉の影響はおおきかっただろう。島津斉彬は、こう言っている。

《  乃公は(吾輩は)このころ、大変よきものを手に入れた。中小姓の西郷吉之助という軽身であるが、すぐれた人物と確信している。どうぞよろしくお引立て願いたい》。

藤田東湖が、薩摩藩主・島津斉彬のこの言葉を重く受け止めただろうことは間違いない。しかし、それだけではあるまい。藤田東湖が西郷を見込んだのは、西郷という人物を目の前で、直接、見て、しかも対話を繰り返すうちに、「この人物はタダモノではない」と、その鋭い鑑識眼で見抜き、確信したはずである。

ところで、西郷を感激させ 、感動させた「藤田東湖」とは何者だったのか。言うまでもなく、藤田東湖こそ「水戸学派」を代表する「尊皇攘夷」思想の大思想家であり、大学者だった。しかも、とりわけ西郷を感動させたのは、藤田東湖を筆頭とする水戸学派の思想運動が机上の空論ではなく、実践や行動をともなった、一種の革命思想であったことだった。西郷の手紙に、こういう一文がある。

《水戸藩の学問は始終、忠義を旨とし、武士となる仕立てのもので学者風のものとは大いに違います。 》

「水戸藩の学問は、・・・学者風のものとは大いに違います。」という言葉の意味するところは、何だろうか。私には、ここに西郷の本質、あるいは藤田東湖の本質があるようにみえる。これは、「水戸藩の学問」が、革命運動を連想させる実践的、行動的な学問だったということだろう。言い換えれば、藤田東湖と西郷南洲が意気投合し、肝胆相照らす仲になったということは、いつ、命を落とすかも分からない反体制的な革命運動の同志となったということを意味していた。少なくとも、この頃は、水戸学派の主張する「尊皇攘夷」思想とは、一触即発の危険な反対制思想だった。時は、まさに徳川幕藩体制下である。しかも水戸藩は、徳川御三家の一つである。その水戸藩が、尊皇攘夷を主張する水戸学派を形成し、徳川幕藩体制との全面対決の姿勢を強めていくのである。幕府側が、水戸藩を警戒の眼で見ていたことは間違いない。つまり、藤田東湖も西郷南洲も、この頃、ともに決死の覚悟の上で、行動していたはずである。


西郷が藤田東湖のもとに頻繁に出入りし、教えを乞うた時間は、それほど長いものではなかった。藤田東湖は、江戸を襲った大地震(1955)で、来たるべき歴史の大激震を予告するかのように、あっけなく、倒壊した家の下敷きになって圧死してしまうからだ。藤田東湖の死を待っていたかのように、歴史は、大激動の時代を迎える。まず「安政の大獄」事件(1958)や「桜田門外の変」(1960)である。徳川幕藩体制下で、幕政の実権を掌握した大老・井伊直弼が発動した「安政の大獄」騒動で、水戸学派の尊皇攘夷思想に影響を受けていた尊皇攘夷派の全国の志士たちが、次々と逮捕・拘束され、切腹や斬死、謹慎、蟄居に追い込まれていくからだ。

たとえば、梅田雲浜、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎、安島帯刀、鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、日下部伊三治・・・などが殺される。もちろん、藩主・島津斉彬の指導のもとに、尊皇攘夷派の志士の一人として活動していた西郷も例外ではなかった。西郷が、一回目の「島流し」になるのもこの事件の余波である。西郷も、江戸を逃れ、京都を経て、いわゆる尊皇攘夷派の僧・月照らとともに、薩摩へ逃げ延びる。しかし、薩摩藩の権力構造も大きく変動していた。西郷の後ろ楯となっていた藩主・島津斉彬が急死(毒殺?) し、島津斉彬の父で前藩主の島津斉興が、実権を掌握していた。しかも島津斉興は、幕府よりの政治姿勢をとっていた。そこには、もう西郷のいる場所はなかった。西郷は、幕府に追われる「お尋ね者」でしかなかった。追い詰められた西郷は、月照との「心中事件」を引き起こし、その後、一命を取り留めるのだが、藩命で、名前を「菊地源吾」、あるいは「大島三之助」と改めて、奄美大島に流刑され、そこに三年間、逃亡、潜伏することになる。これが、一回目の「島流し」である。


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2020年12月3日木曜日

(緊急速報)東京地検特捜部が、安倍首相に事情聴取要請。 ーーーーーーーーーーーー 安倍晋三前首相の後援会が主催した「桜を見る会」前日の夕食会を巡り、東京地検特捜部が安倍氏本人に任意の事情聴取を要請したことが3日、関係者への取材で分かった。(共同通信) ーーーーーーーーーーーー

 





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(緊急速報)

東京地検特捜部が、安倍首相に事情聴取要請。(共同通)

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安倍晋三前首相の後援会が主催した「桜を見る会」前日の夕食会を巡り、東京地検特捜部が安倍氏本人に任意の事情聴取を要請したことが3日、関係者への取材で分かった。(共同通信)

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2020年11月23日月曜日

『 南洲伝 』後書き(14)・・・Facebookの「投稿を編集」という機能が、使えなくなり、しばらく投稿を止めていたが、別の方法で「投稿の編集」が使えることがわかったので、また投稿を始めることにした。また、私事だが、薩摩半島の山奥(「毒蛇山荘」)に 、しばらく隠遁していたが、先日上京、戦線復帰 。

 





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『 南洲伝 』後書き(14)・・・Facebookの「投稿を編集」という機能が、使えなくなり、しばらく投稿を止めていたが、別の方法で「投稿の編集」が使えることがわかったので、また投稿を始めることにした。また、私事だが、薩摩半島の山奥(「毒蛇山荘」)に 、しばらく隠遁していたが、先日上京、戦線復帰 。2ヶ月前後、テレビのない生活を続けていたので、上京後、テレビを見て驚いた。「一億総白痴」(?)とかいう言葉もあったように思うが、なるほど、そうだったのか、と確信する。私は、山奥で、晴耕雨読を繰り返しながら、気晴らしには、焼酎をのみながら、もっぱら「Youtube動画」を見ていた。「Youtube動画」もくだらないと思っていたが、「Youtube動画」の世界の方が、はるかにレベルが高いことに気付いた。「Youtube動画」で、「オリンピックは中止決定・・・」と論じる本間龍(作家)や、コロナ大不況を論じる女装の東大教授、アメリカ大統領選挙の「不正選挙報道」など、「Youtube動画」の方が、はるかに情報量が豊富で、中身も濃く、面白い。テレビの「アメリカ大統領選挙報道」(明治大学の海野素央、上智大学の前島某)を見たが、「お笑い芸人たちの子どもニュース」にしか見えて来ない。日本のGDPが、現在、どのくらいなのか、あるいは日本が「IT戦争」で負け続けていることなども報道しろよ、と思うが、無理らしい。さて 、冗談はこのぐらいにして、本題に戻ろう。

ところで 、「西郷の唯一の欠点は学問がなかったことだ・・・」とかいう福沢諭吉の言葉に、私は、こだわっている。そもそも学問とは何か、福沢諭吉の言う学問とは何か、あるいは、福沢門下に、そういう学問のある人物がいるのか 、いないのか。私も、慶應義塾大学出身の塾員のはしくれだが、私の見るところ、福沢門下に、大学教授や実業家、文化人は、掃いて捨てるほどいるだろうが、思想的な広さと深さ、そして思想的感化力や思想的伝播力において、西郷南洲に匹敵するような人物が、一人でもいるとは思えない。少なくとも私は知らない。福沢諭吉の西郷論として有名な・・・『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』にしてからが、福沢自身が 、死後まで出版しないように遺言していたらしい。西郷が命を賭けて戦った「西南戦争」を、あるいは明治維新を、擁護する資格は、福沢にはない。福沢は、明治新政府、つまり大久保利通政府の「権力」を恐れているのである。






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2020年11月13日金曜日

『 南洲伝 』後書き(13)・・・西郷は、徳之島で、奄美大島時代について、奄美大島で世話になった役人・木場伝内宛に、手紙で次のように書いている。

 




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『 南洲伝 』後書き(13)・・・西郷は、徳之島で、奄美大島時代について、奄美大島で世話になった役人・木場伝内宛に、手紙で次のように書いている。

《 大島にいましたときは 、今日は今日はと待っておりましたので、癇癪もおこり、一日が苦しいものでしたが、このたびは徳之島より二度と出ることはないとあきらめていますので、何の苦もなく安心なものです。もしや乱になれば、その節はまかり登るべきでしょうが、平常であれば、たとえご赦免をこうむっても、島に留まる願いを出すつもりです。》(木場伝内宛)

奄美大島から帰還後、わずか二ヶ月足らずで、再度、島流しにあった西郷は、奄美大島時代とは異なり、大きな心境の変化があったと思われる。この手紙から察するに、奄美大島の西郷は、現世(政治)への未練が断ち切れなかったのだろう。しかし、二度目の島流しで、心に期するものがあった。現世(政治)への未練を断ち切っている。この後、さらに沖永良部島へと移送されるのだが・・・。沖永良部島へ移送後、今度は、得藤長(とく・とうちょう)へ書き送った手紙には、こうある。

《 昨冬、お手紙いただき、遠方へお心がけ下さり、かたじけなくお礼申し上げます。・・・。私は異議なく消光(日を送る)いたし、この島でも詰役人がしごく丁寧で仕合わせの至りです。囲い入りになっていますので、脇から見ればよほど窮屈に見えるようですが、拙者にはかえってよろしく、俗事にる粉れることもなく、余念なく学問一辺にて、今通りに行けば学者にもあれそうな塩梅です。まずはご安心下さるよう。》(得藤長(とく・とうちょう)1883、3、21)







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『 南洲伝 』後書き(12)・・・西郷は、奄美大島で、橋本左内が江戸の小伝馬町の牢獄で、斬首されたという報せを聞いた。この報せをうけとった西郷が、落胆して、悲痛な悲しみに襲われたことは言うまでもないが、同時に、激しい怒りと復讐心が燃え上がるのを抑えることは出来なかった。

 



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『 南洲伝 』後書き(12)・・・西郷は、奄美大島で、橋本左内が江戸の小伝馬町の牢獄で、斬首されたという報せを聞いた。この報せをうけとった西郷が、落胆して、悲痛な悲しみに襲われたことは言うまでもないが、同時に、激しい怒りと復讐心が燃え上がるのを抑えることは出来なかった。その時のことを、手紙で、こう書いている。《 悲憤千万  耐え難き時世・・・》と。
橋本左内との交流は、わずか二年 前後の短い期間に過ぎなかったが、西郷に、六歳下の若い橋本左内という存在は、鮮烈な印象を残している。最初の出会いから意気投合したわけではない 。むしろ、最悪の出会い方をしている。安政2年12月27日、橋本左内が薩摩藩邸を訪れる。西郷と話をするためであった。しかし、西郷は、橋本左内を、歳下で、インテリ風の風貌から、話をする前から、この人物はたいしたことはないと判断したらしく、甘く見て 、かなり侮蔑的な態度をとった。 しかし、橋本左内の政治や思想の話を聞いているうちに、西郷は、橋本左内への人物評価をガラリと変える。西郷は、わざわざ 、その翌日、橋本左内のいる越前・福井藩邸に、「失礼を詫びる」という形で、謝りに出かけている。後に、西郷は、尊敬する人物として、水戸藩の藤田東湖と並べて、橋本左内の名前をあげている。藤田東湖と橋本左内。二人とも、その後の歴史に名を残している大学者、思想家、政治家である。何故、西郷が、当代随一と言っていいような人物たちと、対等に交流出来たのだろうか。特に、行動派、武断派・・・と思われている西郷が、学者肌の藤田東湖や橋本左内と、意気投合した挙句、肝胆相照らす仲になれたのだろうか。西郷の方にも、学問や思想に関する知性と能力が備わっていたからではないか。奄美大島で、親しく交流した重野安繹(しげの・やすつぐ)との間には、こういう関係は成立していない。西郷も、重野安繹をそれほど評価していなかったし、重野安繹も、西郷の知性や才能、能力が理解出来ていなかった。藤田東湖や橋本左内と、後に東京帝国大学教授ともなる重野安繹との違いは、何処にあるだろうか。





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『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。

 



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『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。悲憤慷慨したり、自分を責め悲観したり、あるいは、誰それを激しく批判、罵倒したり・・・したこともあっただろう。おそらく、後に、重野安繹が証言したことは、ほぼ間違いはないだろう。しかし、それは西郷南洲の一面に過ぎないこともまた明らかである。たとえば、橋本左内とはじめて対面した時の印象を、橋本左内は、かなり辛辣に証言している。天下国家を声高に論じる血気盛んな青年・・・と。橋本左内は、「備忘録」に、こう記している。

《 卯月極月(安政二年十二月)、二十七日、原八(水戸藩士原田八兵衛)宅で始めて会す。燕趙悲歌の士う

なり。》(橋本景岳全集)


「 燕趙悲歌の士」と何か。時勢を憤り嘆く人という意味らしい。橋本左内の第一印象は、あまりいいものではなかったということだろう。橋本左内は、越前福井藩士で、西郷南洲より、六歳年下だったが、既に幼少期から、英才として注目されていたらしく、この頃、すでに藩主松平慶永の懐刀として、重くもちいられていた。橋本左内と西郷南洲は、共に 、藩主等が主導する「一橋慶喜将軍擁立運動」に、その実働部隊として活動し、邁進することになるのだが、少なくとも、この時点では、橋本左内は、西郷南洲をそれほど高く評価していない。しかし、西郷南洲の不思議なところは、そういう鋭い眼力の持ち主である橋本左内の評価さえも、短時間のうちに変えてしまうところだ。四ヶ月後の日記では、ガラリと変わっていく。

《西郷はすこぶる君候(斉彬) に得られる。当藩(越前藩)より(斉彬公に)仰せ遣わされた趣など、これを承っている様子。》


つまり、西郷南洲が、大言壮語の「燕趙悲歌の士」という第一印象とは異なり、薩摩藩主島津斉彬の信頼も勝ち得ている実直・有能な人だ・・・という評価へ変わる。こうして、意気投合し、肝胆相照らす仲になった二人は、藩主等の手足となって、「一橋慶喜将軍擁立運動」へと

突き進んでいく。しかし、二人の前にも、「安政の大獄」事件が立ち塞がる。西郷南洲が、奄美大島に島流しにあうのと、ほぼ同時に、橋本左内は、幕府の手に捕まり、安政6年10月7日(1859年11月1日)、伝馬町牢屋敷で斬首となった。26歳であった。




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2020年11月8日日曜日

『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。



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『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。西郷南洲は、沖永良部島時代に、学問に打ち込みすぎて、「学者になったような気分・・・」と手紙に書いている。奄美大島時代にしろ沖永良部島時代にしろ、政治運動や倒幕運動・・・から切り離され、社会からも情報からも孤絶していた。西郷南洲の関心は内部に向かわざるを得なかった。「内部」とは学問や思想以外にない。西郷南洲の向きあった学問や思想が、未熟なものだったにしろ、凡庸なものだったにしろ、西郷南洲のような境遇に追い込められたものは、そんなに多くはないだろう。西郷南洲が向きあった学問が、経歴や肩書きで塗り固められたような表層的なエセ学問だったはずはない。西郷南洲の向きあった学問こそ、ホンモノの学問だったはずだと、私は確信する。司馬遼太郎のような「大衆通俗読み物作家」なら、西洋留学(遊学)の経験があるかないかで、学問のレベルを測定するだろう。西郷南洲は、西洋留学も西洋見物もしていない。西郷の留学先は、奄美大島と沖永良部島だった。「奄美大島と沖永良部島」が、留学先として不足だったはずはない。奄美大島には、昌平黌で、天下の秀才とうたわれ、後に東京帝国大学教授となる「漢学者・重野安繹」がおり、沖永良部島には、川口雪蓬(かわぐちせっぽう)という「陽明学者」がいた。そして周辺には、圧政や貧窮に苦しむ孤島の一般庶民・一般大衆がいた。学問を極めるのに、これ以上、恵まれた環境はない。
私は、ここまで書いて、唐突かもしれないが、私が、高校時代、読み始めて、強い影響を受けたドストエフスキーの約10年間に及ぶ、政治犯としての「シベリア流刑時代」を思い出した。ドストエフスキーもまた、シベリア流刑時代の「10年間」を経て、いわゆる、『 罪と罰』や『悪霊 』『カラマーゾフの兄弟 』・・・等を書くことになる「文豪ドストエフスキー」へと成長する。それまでのドストエフスキーは、才能はある作家ではあったが、何処にでもいる群小作家の一人に過ぎなかった。ドストエフスキーは、この10年間に、極寒の地・シベリアで、何を学んだのか。何が、ドストエフスキーを、群小作家の一人から世界の文学史に残るような「文豪ドストエフスキー」へと変えていったのか。ドストエフスキーは、シベリア流刑時代、「デカブリストの乱」で、夫たちが流刑の処分を受けた「デカブリストの妻たち」に 、護送途中に手渡された『聖書 』を、熟読した。『聖書 』以外は読むことを禁じられていたからだ。ドストエフスキーの文学は、獄中での聖書熟読によって成り立っている。
私は、西郷南洲にも同じことが言えると思う。西郷南洲もまた、絶海の孤島で、書物を熟読し、学問を極めることによって、「西郷吉之助」から「西郷南洲」へと成長して行く。もちろん、「西郷吉之助」もまた、藩主島津斉彬に、類まれな才能を見出され、江戸詰めの「薩摩藩お庭番」に取り立てらるような有能な青年武士だったかもしれない。しかし、「西郷吉之助」を「西郷南洲」に成長させたのは、5年間の「島流し時代」であり、その間に励んだ「学問」のお陰だった。西郷南洲には、「学問がない」のではなく、薄っぺらな、付け刃の「エセ学問」がないだけである。西郷南洲が、孤島の流刑生活で向きあった学問こそ 、ホンモノの学問だった。そこで身につけた学問こそが、「西郷南洲という思想」(江藤淳『南洲残影 』)であったはずだ。

2020年10月29日木曜日

『 南洲伝 』後書き(9)・・・奄美大島時代の西郷南洲をもっと身近で見た人物は、奄美大島の地元の人間を中心に他にも、たくさんいるだろうが、中でも重野安繹(しげの・やすつぐ)の存在は大きい。「本土」(?)側の人間としては唯一と言っていいからだ。



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『 南洲伝 』後書き(9)・・・奄美大島時代の西郷南洲をもっと身近で見た人物は、奄美大島の地元の人間を中心に他にも、たくさんいるだろうが、中でも重野安繹(しげの・やすつぐ)の存在は大きい。「本土」(?)側の人間としては唯一と言っていいからだ。だから、重野安繹の「証言」が重視されることになる。当然だろうが、重野安繹という人物が、どういう人物だった、どういう人間性の持ち主で、どういう政治的立場にいたか・・・などを考慮するならば、重野安繹の証言を、無条件に、信用するわけにもいかないだろうと思う。要するに、重野安繹は、「大久保利通側」「新政府側」の人間、西郷南洲とは敵対関係にあった人間なのである。重野安繹は、後に、つまり西郷南洲の死後、次のよように証言している。

《 「西郷は兎角相手を取る性質がある。これは西郷の悪いところである。自分にもそれは悪いということをいって居た。そうして、その相手をばひどく憎む塩梅がある。西郷という人は一体大度量がある人物ではない。人は豪傑肌であるけれども、度量が大きいとはいえない。いわば度量が偏狭である。度量が偏狭であるから、西南の役などが起るのである。世間の人は大変度量の広い人のように思って居るが、それは皮相の見で、やはり敵を持つ性質である。トウトウ敵を持って、それがために自分も倒れるに至った」 》(重野安繹『西郷南洲逸話』)

貴重な証言であることは間違いない。しかし、この重野安繹の証言は、何処まで信用できるだろうか。「英雄豪傑」や「伝説上の人物」に関する、この種の心理分析や性格分析の証言は、証言者自身の心理状態や性格(パーソナリティ)を、反映していることが少なくない。私は、逆に、重野安繹という人物の「度量」と「偏狭」をあらわしているのではないか、と思う。私は、過剰な褒め言葉も信用しないが、こういう辛辣な批判や蔑視論も信用しない。しかし、多くの作家や歴史家、あるいは歴史愛好家たちは、この重野証言を引用する。しかも、時代考証や史料分析がない。ただ 、無批判に引用するだけである。おそらく、重野安繹が、「歴史学者」であり「実証主義者」であり、 しかも「東大教授」であったという肩書きや経歴から、その必要はないと考えたのだろう。重野安繹の証言は信用出来る  、と。たとえば 、司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』には、「西南戦争」の場面で、重野安繹が、しばしば登場する。多分、司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』という歴史小説は、
重野安繹の証言を、重要史料の一つにすることによって、成り立っている。司馬遼太郎の「大久保利通(川路利良)=洋行帰りの近代主義者」、「西郷南洲(桐野利秋)=前近代的な非合理主義者」という図式は、重野安繹の証言と重なる。
しかし、いずれにしろ、奄美大島の「島流し」時代に、西郷南洲が、その後、「歴史学者」「漢学者」として大成することになる重野安繹と深く交遊したことは重要である。西郷南洲は、重野安繹を通して、多くの「学問」を学んだはずである。当時、重野安繹は奄美大島の「アキナ」というところに居を構えていた。重野安繹は、西郷南洲に会うために、山道を夜も歩き通しで、やってきて、三日三晩、一睡もせずに語り明かすことがしばしばだったというが、お互い、「島流し」の身とあっては、「さもありなん 」と思う。



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2020年10月28日水曜日

『 南洲伝 』 後書き(8)・・・重野安繹(しげの・やすつぐ)という人物は、その輝かしい経歴や肩書き、あるいは交遊関係のわりに、あまり知られていない人物である。実は、重野安繹は、明治維新後は、大久保利通に接近し、大久保利通側近の一人として、反西郷の立場にいた。重野安繹の娘(養女)は、大久保利通の長男に嫁いでいるぐらいだから、相当、大久保利通とは親しくしていたのだろう。



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『 南洲伝 』 後書き(8)・・・重野安繹(しげの・やすつぐ)という人物は、その輝かしい経歴や肩書き、あるいは交遊関係のわりに、あまり知られていない人物である。実は、重野安繹は、明治維新後は、大久保利通に接近し、大久保利通側近の一人として、反西郷の立場にいた。重野安繹の娘(養女)は、大久保利通の長男に嫁いでいるぐらいだから、相当、大久保利通とは親しくしていたのだろう。西郷南洲が、西南戦争で命を落とした時には、一番先に大久保利通邸に駆けつけている。それにもかかわらず、私には、重野安繹という人物は、裏方の人物としか見えない。おそらく、重野安繹自身の人格や人間性に問題があったのだろうと、私は想像する。薩摩藩士族出身ということもあって、政治家や官僚、あるいは軍人になることも可能であっただろうが、彼は、それらの道を歩まなかった。やはり根っからの学者肌だったのだろう。しかし、その方面でも、東京帝国大学草創期の教授となり、後に貴族院議員となったにも関わらず、歴史に残るような業績も名声も残していない。敢えて挙げれば、「抹殺博士」という奇妙な名前とともに、歴史学界に足跡を残しているぐらいだろうか。著作類に関しても、歴史に残るような著作は残していない。誤解を恐れずに言えば、重野安繹の名前が登場するのは、西郷南洲との関係からである。私が、重野安繹という人物を、具体的に知ったのも、西郷南洲に関する書物類からであった。私は、明治初頭に、実証主義歴史学を前面に掲げ、「抹殺博士」と呼ばれた不思議な歴史学者がいたらしいということは、薄々、知っていたが、それが、まさか、西郷南洲に関係する人物だとは想像もしなかった。しかも

それが、鹿児島県出身(薩摩藩)で、薩摩藩藩校造士館の出身だったというのだから・・・。





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2020年10月22日木曜日

『南洲伝』後書き(7)ー西郷南洲は、山川港を、安政6年(1859)1月10日、砂糖運搬船に乗せられて、奄美大島に向けて出発する。そして、2日後の12日に、奄美大島の「龍郷村(たつごうむら)」に到着する。以後、3年間、西郷南洲は、この奄美大島の「龍郷村」で、はやる心を抑えながら、悶々と過ごすことになる。そこへ、不思議な来客があった。同じく奄美大島に、西郷南洲より一年早く、「島流し」にあっていた薩摩藩士・重野安緒であった。

 




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『南洲伝』後書き(7)ー西郷南洲は、山川港を、安政6年(1859)1月10日、砂糖運搬船に乗せられて、奄美大島に向けて出発する。そして、2日後の12日に、奄美大島の「龍郷村(たつごうむら)」に到着する。以後、3年間、西郷南洲は、この奄美大島の「龍郷村」で、はやる心を抑えながら、悶々と過ごすことになる。そこへ、不思議な来客があった。同じく奄美大島に、西郷南洲より一年早く、「島流し」にあっていた薩摩藩士・重野安緒であった。重野安繹(しげの・やすつぐ)のことは、前にも書いた。薩摩藩坂元村生まれの飛び抜けた秀才少年で、若くして江戸に登り、徳川幕府の学問所・昌平黌に学び、そこでも天下の英才たちと勉学を競い合い、優秀な成績をおさめたらしい。特に漢学と歴史には精通していたらしい。その重野安繹は、薩摩藩留学生の管理・監督係をやっていた時、留学生の学費を使い込むというような金銭的な不祥事を起こし、藩の処分で、「島流し」にあったということである。私は、色々な意味で 、重野安繹は、西郷南洲にとって、重要人物の一人だと思う。もちろん、二人は、面識があった。 江戸勤務時代、二人は、共に島津斉彬に仕える身だった。西郷南洲を、水戸藩の藤田東湖に紹介したのも、重野安繹であるということだ。西郷南洲は、この重野安繹という人物と意気投合したわけではないが、奄美大島時代、他に話し相手がいなかったこともあって、かなり頻繁に会い、且つ、深く語りあった仲だった。この頃、外を見渡すと、「安政の大獄」の渦中であり、時代は風雲急を告げていた。尊王派の同志や仲間たちも、次々と捕縛されたり、惨殺されたりしている。焦り、悲憤慷慨する西郷南洲をなだめ、島流しの身分で、焦っても無駄だよ、ゆっくり 、ノンビリやろうよと、説得したのが重野安繹だった。重野安繹は、既に「島妻」を娶り、妻帯して 、ノンビリ暮らしていたので、西郷南洲にも、「島妻」を勧めたりしている。

(続く)


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2020年10月20日火曜日

小林秀雄とマルクス

 


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小林秀雄とマルクス


小林秀雄がマルクス主義を批判したという時、小林秀雄は、保守主義や民族主義や、あるいは芸術至上主義やロマン主義・・・等を擁護していたわけではない。このことは重要である。つまり、小林秀雄は、「マルクス主義的なもの」を批判したのであって、「マルクス主義的なもの」の中には、保守主義や民族主義、芸術至上主義、あるいはロマン主義・・・等も含まれている。

私は、この連載で、一貫して「マルクス主義」を批判し、「マルクス」を擁護するという立ち位置で、論を展開してきた。しかし、前回から、私は、少し、方針を変えている。理論としてのマルクス主義を擁護するという方向へ。それは誤解を避ける

ためである。小林秀雄が、マルクス主義を批判したのは、他に、もっと優れた理論やイデオロギーがあるという事ではない。

戦後、日本でも大流行したサルトルは、「マルクス主義は乗り越え不可能な哲学である」と言ったことがある。その場合、サルトルが念頭においていたのは、マルクスという実存ではなく、マルクス主義という理論であったように見える。しかし、そうだったとしても、今でも、サルトルの発言は有効である。マルクス主義批判は少なくないが、マルクス主義に取って代わるべき新しい哲学理論は、依然として登場していないからだ。実存主義も構造主義も、そして分析哲学やポスト・モダンの思想なども、マルクス主義に取って代わる哲学たり得ていない。線香花火のように一時的には、華々しく流行するが、あっという間に消えていく。そしてマルクス主義へ舞い戻る。

小林秀雄や丸山眞男が認めているように、マルクス主義という哲学理論は、我が国の文学や学問に、激しい衝撃を与えたのである。その衝撃の結果、「マルクス主義経済学」や「マルクス主義歴史学」や「マルクス主義社会学」、あるいは「マルクス主義文学(プロレタリア文学)」・・・等が、続々と誕生する。マルクス主義を否定しようがしまいが、それが現実だった。それを認めるところから小林秀雄は出発した。中島健蔵によると、「マルクスは正しい。ただそれだけだ」と学生時代の小林秀雄は、友人たち語っていたという。

小林秀雄の批評が、今でも、読むに値する批評であり続けているとすれば、その理由はそこにある。小林秀雄は、哲学理論としての、あるいはイデオロギーとしてのマルクス主義を批判していない。つまり、小林秀雄は、マルクス主義を批判・否定して、別の新しい思想や理論(イデオロギー)を構築し、それを対置したのではない。小林秀雄の批評は理論ではない。理論への批判である。そこが、小林秀雄の「マルクス主義批判」と小林秀雄以外の「マルクス主義批判」と違うところだ。


《第一私たちは今日に至るまで、批評の領域にすら全く科学の手を感じないで来た、と言っても過言ではない。こういう状態にあった時、突然極端に科学的な批評方法が導入された。言うまでもなくマルクシズムの思想に乗じてである。導入それ自体には何ら偶然な事情はなかったとしても、これを受け取った文壇にとっては、まさしく唐突な事件であった。》(「文が(文学界の混乱」)


小林秀雄は、この「マルクス主義体験」から出発したのである。繰り返して言うが、小林秀雄は、哲学理論としてのマルクス主義の登場を評価している。小林秀雄にとっても、マルクス主義の登場は衝撃だった。マルクス主義の、この衝撃を、正当に受け止めたからこそ、小林秀雄の「批評」は生み出されたのである。小林秀雄の「批評」は理論やイデオロギーではない。理論やイデオロギーへの批判である。もっと具体的に言えば、理論的思考やイデオロギー的思考への批判である。

今日でも「マルクス主義批判」は盛んである。しかし、それらは、小林秀雄の「マルクス主義批判」とは似て非なる物だ。

では、小林秀雄が認め、評価したマルクス主義という哲学理論とは何か。小林秀雄は、それを、どう評価していたか。


《弁証法的唯物論なる理論を血肉とするには困難な思案はいらぬ、ただ努力が要る。理論と実践とは弁証法的統一のもとにある、とは学者の寝言で、もともと異論と実践とは同じものだ。マルクスは、理論と実践とが弁証法的統一のもとにあるなどと説きはしない、その統一を生きたのだ。マルクスのもった理論は真実な大人の理論である。世の人たちが、先日学生騒動に鑑みて文部省に相寄り、マルクス主義に対抗する思想体系の樹立を宣言した。さぞよくマルクスを理解した事だろう。》(「マルクスの悟達」)


「世の人たちが、先日学生騒動に鑑みて文部省に相寄り、マルクス主義に対抗する思想体系の樹立を宣言した」という小林秀雄の皮肉は、「マルクス主義に対抗する思想体系の樹立を宣言した」ところで、一朝一夕にそんなものが出来るわけがない、ということだろう。そもそも、出来ると妄想して、マルクス主義に取って代わる新しい「思想体系の樹立を宣言した・・・」馬鹿どもは、思想もヘチマも、何も分かっていない、ということだろう。この文章からも分かるように、小林秀雄は、マルクス主義という思想の深さも恐ろしさも、そして思想的徹底性もよく分かっていたということだろう。


《マルクス、エンゲルス、レーニン、と三人の天才の手から手にわたった、弁証法的唯物論という真理はこの世で平凡が蒙る悲惨な宿命をあますところなく身に受けて来たように見える。だから彼らはこの美しい真理に対しては口をつぐんだ。喧嘩は売られた時だけ買ったのだ。そして平凡は当然喧嘩にいつも勝ったのだ。勝ったが相手は澄ましていたのだ。マルクスが「資本論」を書く時に経済学の方法などというものは自明な事に属した。二千頁をこえる書物を書くにあたって、「お前の道を進め、人には勝手な事を言わしておけ」というダンテの格言に終る四頁の序文で事は足りた。方法論の正しさはただ内容のみが明かしたのだ。人は余りに自明な事は一番語り難いものであり、語るを好まぬものである。彼らの抱いた認識の根本的基底については暇人のみがその認識論的基礎づけのために騒いだ、そしてさわぐ事だけしかしなかった。暇人には自明という事が一番わかりにくいものである。》(同上)


この「マルクスの悟達」が書かれたのは、1931年(昭和6年)のことである。『様々なる意匠』で文壇に登場して二年後、まだ、デビューしたばかりの頃である。この段階で、小林秀雄が、マルクス主義の文献をよく読み、深く理解した上で、マルクス主義なるものを高く評価していたことは、これらの文章からも理解できるだろう。しかし、小林秀雄は、当時の多くの青年たちのように、マルクス主義者にも、共産主義者にもならなかった。逆に小林秀雄は、マルクス主義を厳しく批判する側に回る。小林秀雄の「マルクス主義批判」が有効だったのは、マルクス主義を正確に読み込み、深く理解していたからだろう。言い換えれば、小林秀雄以上に、マルクス主義を深く研究し、細部までよく理解していた人はいなかったということではないか。

当時も今も、マルクス主義を批判したり攻撃する人は少なくないが、小林秀雄のように、マルクス主義を正確に理解した上で、批判・攻撃する者はいない。おそらくマルクス主義を正確に読み込んでいるという意味では、マルクス主義者たちやマルクス主義研究者たちも、遠く及ばないのではないか。

私は、小林秀雄と同時代の、マルクス主義批判の文章も、マルクス主義者たちのマルクス主義擁護の文章も、読む気になれない。何故だろうか。マルクス主義の理解が不十分だからではないか。


《「問題は懺悔であり、ただそれだけだ。人類はその罪の宥を得んがためにはその罪をただあるがままに告白しなければならぬ」と彼はルウゲに書いた。ありのままの告白がとりも直さず客観的理論であった。まことに根性をすて切った達人の業である。根性は根性、理論は理論なる迷信が、理論と実践を切り離そうとする。否、切り離して便利がる。今日の風潮に乗じて実践をスポーツと心得ているくせに、またそう心得ている者に限って理論と実践とは一つだ一つだ、と喧しく叫ぶ。黙々として争闘している人々が何故眼に這入らぬか。》(同上)


小林秀雄は、マルクスやマルクス主義を批判していない。マルクス主義を、実践と切り放して、理論として理解しようとするマルクス主義者やマルクス主義研究者たちを批判している。小林秀雄は、マルクス主義の理論を使って、マルクス主義者やマルクス主義研究者たちを批判している。マルクス主義者やマルクス主義研究者たちの多くは、実践の現場にいない。実践の現場では、そもそも理論と実践なる議論はおきない。

小林秀雄等が、マルクス主義の登場を、「衝撃」として受け止めたのは、マルクス主義が「実践」を要求する思想であり哲学理論だったからだ。その結果、多くの青年たちが、実践活動、つまり革命運動に飛び込んでいったのである。「黙々として争闘している人々が何故眼に這入らぬか。」とは、そういう意味であろう。


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2020年10月11日日曜日

『 南洲伝 』後書き(6)・・・西郷南洲は、「安政の大獄」事件以後、約5年間、何処に消えていたのか。実は、西郷南洲は、薩摩藩の命令で、島流しにあっていたのだ。


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『 南洲伝 』後書き(6)・・・西郷南洲は、「安政の大獄」事件以後、約5年間、何処に消えていたのか。実は、西郷南洲は、薩摩藩の命令で、島流しにあっていたのだ。この 5年間の「島流し」の意味は大きい。西郷南洲は、この5年間の「島流し」の時間を経て  、いわゆる「西郷南洲」になったと言っていい。最初の3年間は、奄美大島に幽閉されていた。江戸幕府の追求を逃れて、身を隠すため、という名目で、奄美大島に幽閉されていたにすぎない。つまり、罪人としての島流しではなかったが、実質的には罪人としての島流しとたいして違いはなかった。奄美大島の3年間の間に、日本の歴史は大きく動いていた。3年後 、一度は、許されて、呼び戻され、薩摩藩の政務に復帰するが、再び、島津久光が激怒する事件を起こし、次は本物の罪人として、徳之島に流され、さらに沖永良部島に流され、約2年間、獄舎生活を送った。したがって、西郷南洲は、幕末の大事件である「桜田門外の変」にも、「薩英戦争」にも関わっていない。では、激動の歴史の表舞台を傍観しながら、西郷南洲は、何をしていたのか。福沢諭吉が、「西郷には学問がなかった、それが最大の欠点だ・・・」と言ったところの「学問なるもの」を、やっていたのだ。西郷南洲にとっては、島流しの5年間が、「私の大学」だった。奄美大島時代には、前述した重野安繹(しげの・やすつぐ)が、流刑人として流されて来ており、話し相手を求めて、しばしば西郷南洲の元を訪れていた。重野安繹は、江戸の学問所・昌平黌で学び、しかも昌平黌でも優秀な成績を収め、その後、東大歴史学教授となる大秀才である。いろいろ問題のある人物ではあるが、西郷南洲は、奄美大島時代 、この同世代の大秀才から多くを学んだに違いない。一方 、沖永良部島では、川口雪蓬という陽明学者がいた。西郷南洲の「島流し時代」は、いわゆる「学問」に明け暮れる毎日だったのである。




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『 南洲伝 』後書き(5)・・・西郷南洲伝には、大きな曲がり角になる事件が、少なくないが 、その中でも、井伊直弼が強権を発動した「安政の大獄」事件は、西郷南洲にとっては、特筆すべき大事件だった。もちろん、この事件の余波は、西郷南洲だけを襲ったのではない。この時代のめぼしい思想家、文化人、政治家たち・・・にまで及び、多くの人々が 命を落としている。言い換えれば、この思想弾圧事件は、徳川幕府の「終わりの始まり」を告げる事件でもあった。この事件以後、倒幕運動は消滅するどころか 、逆に燃えひろがり、ますます過激 化することになるのだが、



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『 南洲伝 』後書き(5)・・・西郷南洲伝には、大きな曲がり角になる事件が、少なくないが 、その中でも、井伊直弼が強権を発動した「安政の大獄」事件は、西郷南洲にとっては、特筆すべき大事件だった。もちろん、この事件の余波は、西郷南洲だけを襲ったのではない。この時代のめぼしい思想家、文化人、政治家たち・・・にまで及び、多くの人々が 命を落としている。言い換えれば、この思想弾圧事件は、徳川幕府の「終わりの始まり」を告げる事件でもあった。この事件以後、倒幕運動は消滅するどころか 、逆に燃えひろがり、ますます過激 化することになるのだが、西郷南洲もまた、幕府の追手を逃れるように、江戸を脱出し、薩摩へ逃げ帰る。この事件を境に、西郷南洲は 、以後5年間も、政界や倒幕運動の表舞台から、忽然と消えるのである。では、以後5年間、西郷南洲は、何処に消えたのか。




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2020年10月10日土曜日

『 南洲伝 』後書き(4)・・・2、3年前、枕崎市の旧家で、西郷南洲の新しい肖像画が、発見されました。西郷南洲研究家で、糸夫人の子孫にあたる若松宏氏(敬天カフェ)なども太鼓判を押しています。もっとも、実物に近いのではないか、と。




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『 南洲伝 』後書き(4)・・・2、3年前、枕崎市の旧家で、西郷南洲の新しい肖像画が、発見されました。西郷南洲研究家で、糸夫人の子孫にあたる若松宏氏(敬天カフェ)なども太鼓判を押しています。もっとも、実物に近いのではないか、と。写真は、肖像画を保管していた枕崎市の旧家の「老夫婦」です。夫人の実家(この家!)の仏間に大事に飾ってあったものだそうです。西郷南洲は 、流刑地・奄美大島から 、許されて帰還する時 、枕崎のカツオ船(イサバ船)に乗って、嵐に見舞われながらも 、ようやく枕崎に到着しました。枕崎に一泊して、迎えに来た弟たちと、慌ただしく鹿児島に戻り、政務に復帰しました。枕崎の一夜(!)。その時 、地元の無名画家(?)が、描いたのではないか、と言われているそうです。






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2020年10月6日火曜日

南洲伝 』後書き(3)・・・では、西郷南洲の「学問」、あるいは西郷南洲の「思想」とは何か。日本全国の前途有望な青年たちが、西郷南洲のもとに駆けつけ、共に戦い、共に戦死していったのは、何故か。あるいは、西郷南洲の最期の戦いに参加出来なかった青年たちが、西郷南洲の「弔い合戦」として、あるいは「敵討ち」として、命を賭して、大久保利通惨殺事件へと突き進んでいったのは、何故か。西郷南洲の何が、彼等をそうさせたのか。

 


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『 南洲伝 』後書き(3)・・・では、西郷南洲の「学問」、あるいは西郷南洲の「思想」とは何か。日本全国の前途有望な青年たちが、西郷南洲のもとに駆けつけ、共に戦い、共に戦死していったのは、何故か。あるいは、西郷南洲の最期の戦いに参加出来なかった青年たちが、西郷南洲の「弔い合戦」として、あるいは「敵討ち」として、命を賭して、大久保利通惨殺事件へと突き進んでいったのは、何故か。西郷南洲の何が、彼等をそうさせたのか。

さて、私が、不思議に思うことが、もう一つある。それは、近代日本の優秀な知識人、思想家、学者文化人の多くが、叛逆者であり暴徒であり逆賊である西郷南洲を、極めて早い段階から、激しい口調で擁護し、絶賛している事だ。勝海舟や中江兆民から福沢諭吉、内村鑑三、そして新しくは、三島由紀夫、江藤淳に至るまで・・・。彼等が、今さら、私が言うまでもなく 、それぞれ思想的立場は違えど、それぞれの分野で、超一流の知識人であり、思想家であり、学者であったことは間違いない。何故、彼等は、逆徒、逆賊  、暴徒・・・という政府側のプロパガンダやそれに追随する新聞等のジャーナリズム、あるいはそれに付和雷同する大衆の悪罵・罵倒に逆らって、西郷南洲を擁護したのか・・・。

江藤淳が、西郷南洲の「思想」について、鋭いことを言っている。私が、西郷南洲に関する文章で、最も感銘を受けた文章だ。


《「陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、排外思想でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった」『南洲残影 』(p.262) 》


実は 、私は、江藤淳のこの文章を読むまでは、『 南洲伝 』なるものを書こうと思ったことはなかった。西郷南洲なんて、私の関心外だった。何回も書くが、英雄豪傑としての西郷南洲にも、郷土自慢的な西郷南洲にも、あるいは、そういう西郷南洲礼賛に反発した西郷南洲批判にも、私は無関心だった。その気持ちは、今も変わらない。何年か前のNHKの大河ドラマ『 西郷どん(セゴドン)』にも、鹿児島の一部で起きたらしい 『 西郷どん(セゴドン)』ブームにも、私は、嫌悪感しか持たなかった。私は、最近は、両親や兄の墓参りもかねて、年に数回は、鹿児島に帰っているが、その度に、田舎のバスにのりかえるために、鹿児島中央駅前の広場に立つが、毎回、『 西郷どん(セゴドン)』のノボリやポスターを見つけては、顔をそむけたものだ。皮肉な言い方をすれば、ここ、一、二年、その種のノボリやポスターが、駅前の風景から全て消えたので、ホッとしている。やっと、私が、私の「西郷南洲体験」を語る時が、来たな、と思うのだ。

今年は、従兄弟の案内で、枕崎市の旧家に眠る西郷南洲の肖像画を見せてもらった。その肖像画は、キヨソネ等の描いた、美しすぎる「西郷南洲像」とは異なる、厳しい「西郷南洲」の肖像画だった。ちょっと近寄り難い、重厚な西郷南洲が描かれていた。私が、『 南洲伝 』で描こうとしている西郷南洲は、枕崎市の旧家で、新しく発見された、この肖像画に近いかもしれない。あるいは、江藤淳が言う「西郷南洲という思想」も、この肖像画に近いのかもしれない。前途有望な青年たちから超一流の文化人まで、強力に引きつける西郷南洲の磁力とは何か。言い換えれば、江藤淳の言う「日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想」とは何か。

(続く)


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2020年10月5日月曜日

『 南洲伝 』後書き(2)・・・私が『 南洲伝 』で注目するのは、その「学問」や「思想」の次に、その「思想的影響力」や「思想的感化力」である。西郷南洲の学問や思想に共感し 、政治的行動を共にしたい、あるいは生死を共にしたいと願った青年たちは、一人や二人ではなかった。



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『 南洲伝 』後書き(2)・・・私が『 南洲伝 』で注目するのは、その「学問」や「思想」の次に、その「思想的影響力」や「思想的感化力」である。西郷南洲の学問や思想に共感し 、政治的行動を共にしたい、あるいは生死を共にしたいと願った青年たちは、一人や二人ではなかった。これ以上ないだろうと思わせるような、有名な 、美しい言葉を遺した中津藩士・増田宗太郎は言うまでもないが、そういう青年たちは増田宗太郎だけではなかった。熊本には宮崎八郎がいたし、宮崎の佐土原藩には島津啓次郎がいた。いづれも 、学問も教養もある前途有望な青年たちだった。ここで、増田宗太郎の言葉を引用しておく。


《 吾(われ)、此処(ここ)に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ。》


増田宗太郎は、西郷軍に参戦することで、一攫千金ならぬ、人生上の一発逆転を狙ったのか。まったくそうではない。増田が西郷軍に投じた時、既に勝敗は決しており、誰が見ても敗色濃厚だった。増田は、西郷南洲と共に、死にたかったのだ。

島津啓次郎に至っては、アメリカ留学帰りの少壮の青年学者だった。学習院学長を懇願されたが、その趣旨が気に入らぬといって、それを断り、故郷に戻り、私塾を開き、後の小村寿太郎を育てた・・・という人物であった。さらに、石川県の金沢藩には、西郷南洲没後の翌年に、宿敵・大久保利通を 、紀尾井坂で襲い、惨殺した、いわゆる「紀尾井坂事件」の首謀者島田一郎等がいる。司馬遼太郎は、付和雷同する無知蒙昧な暴徒として描いているが、そんあはずはない。島田一郎等は、前もって事件を予告し、「斬奸状」を持ち、事件後は、誰一人逃げも隠れもせず、全員、警察に出頭し、極刑に服している。もちろん、『 西郷南洲翁遺訓 』 を遺した山形県酒田の庄内藩の青年たちが、西郷南洲の思想的影響を受け、一部の青年たちは、西南戦争にまで従軍し、戦死したことは、言うまでもない。

何故、多くの青年たちが、西郷南洲と、生死を共にしたのか。西郷南洲に学問があっただけではなく、その西郷南洲の学問が、机上の空論ではなく、生きた学問だったからだろう。思想的感化力を持つ学問だったからだろう。


(続く)




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2020年10月3日土曜日

『 南洲伝 』後書き(1)・・・しばらく「竹中平蔵研究」を中断し、『 南洲伝 』の完成・出版を目指したい。コロナ騒動などもあって、出版が遅れていた我が『 南洲伝 』だったが、社会情勢も個人的な生活状況にも変化があったので、のんびりやっているわけにはいかなくなった。予定通り、出版を急ぎたいと思う。というわけで、『 南洲伝 』の「後書き」を ・・・。


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『 南洲伝 』後書き(1)・・・しばらく「竹中平蔵研究」を中断し、『 南洲伝 』の完成・出版を目指したい。コロナ騒動などもあって、出版が遅れていた我が『 南洲伝 』だったが、社会情勢も個人的な生活状況にも変化があったので、のんびりやっているわけにはいかなくなった。予定通り、出版を急ぎたいと思う。というわけで、『 南洲伝 』の「後書き」を ・・・。

私は、『 南洲伝 』というタイトルではあるが、西郷隆盛、西郷南洲、菊池源吾・・・について、平凡・凡庸な伝記を書こうとは思はない。私は、巷に溢れている種々雑多な西郷隆盛本の類いを、それなりに評価しないわけではないが、私は、書きたいとは思はない。私は、江藤淳の『 南洲残影 』を読んで以来、「着眼点」というものにこだわるようになった。江藤淳の『南洲残影 』は、明らかに目の付け所が違う。負け戦に過ぎなかった「西南戦争」だけを取り上げ、それだけを描いて一冊の西郷南洲伝にしている。私が見習うべきは、このスタイルだと思った。そこで、私が、私の『 南洲伝 』で、こだわべきは何か、と考えた時、浮かんできたのは、私は、「私の西郷南洲体験」にこだわるべきだろう、ということだった。

私は、昔から、英雄豪傑としての西郷南洲も、郷土自慢的な西郷南洲も嫌いであった。要するに、成功した西郷南洲伝説が苦手だった。さらには、それに反発したと思われる西郷南洲批判も嫌いであった 。それなら書く必要などない。誰か、他の人が書くだろう。

私がこだわったのは、西郷南洲の「学問」「思想」、あるいは「思想的影響力」「思想的感化力」というようなものだった。

私は、福沢諭吉が言った「西郷には、学問がなかった。それが最大の欠点だった」という言葉に、激しく反発する自分に驚いた。福沢諭吉は、西郷南洲には好意的だった。西郷南洲を、『 丁丑公論』で、徹底的に擁護している。にもかかわらず、私は、福沢諭吉の言葉に、強く反発した。西郷南洲には「学問」がある、と。それは、福沢諭吉が考えるような「学問」ではないかもしれない。大学で洋書や原書購読を通じて学ぶような学問ではないだろう。しかし、洋書や原書購読だけが学問ではないだろう。西郷南洲の学問こそホモノの学問だろう、と。

西郷南洲は、現代風な言葉で言えば、確かに大学出ではない。もちろん、東大などの一流大学の卒業生でもない。明らかに高卒程度の学歴しかない。西郷南洲の古い友人に、重野安繹(しげのやすつぐ)という薩摩藩出身で、後に東大歴史学教授となった学者がいる。重野安繹は、若くして、その学問的才能を買われて、江戸に留学し、昌平黌(学問所)で、当時の日本を代表するような学者・文化人たちの元で学び、且つ彼等と交遊している。

その頃、西郷南洲は、薩摩藩の地方役人として、田舎暮らしの身だった。この経歴や境遇だけを見れば、確かに、福沢諭吉が言った通り、西郷南洲には「学問」がなかった、と言えるかもしれない。しかし、その直後、薩摩藩主となった島津斉彬に抜擢されて、江戸詰めの「御庭番」となる。ここで、西郷南洲と重野安繹は、江戸薩摩藩邸詰め役人として同僚となる。しかも、この頃、重野安繹の紹介で、水戸藩の藤田東湖を知る。藤田東湖は、即座に西郷南洲の才能を見抜き、以後、親交を結ぶことになる。同時に、福井藩の英才・橋本左内とも親交を結ぶ。西郷南洲が、表舞台に登場して、薩摩藩の対外交渉で重要な役割を担うのに対して、重野安繹は、裏方に留まることになる。つまり、以後、立場が逆転することになる。重野安繹には、一流の「学問」も「学識」もあったかもしれない。しかし、重野安繹には、それらを生かす才覚がなかった。

西郷南洲と重野安繹は、その後、別々の人生を歩むが、江戸ならぬ奄美大島という流刑地で、奇妙な再会を果たしている。



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2020年9月30日水曜日

竹中平蔵研究(66)・・・竹中平蔵式「ベーシック・インカム」とは何か。「ベーシック・インカム」という言葉だけを聞くと、歓迎すべきことのように聞こえるが、竹中平蔵が 、それを言い出したとすれば、それほど単純なものではなく、必ず裏があるはずだ。その裏とは、年金制度の廃止、生活保護制度の廃止ということらしい。



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竹中平蔵研究(66)・・・竹中平蔵式「ベーシック・インカム」とは何か。「ベーシック・インカム」という言葉だけを聞くと、歓迎すべきことのように聞こえるが、竹中平蔵が 、それを言い出したとすれば、それほど単純なものではなく、必ず裏があるはずだ。その裏とは、年金制度の廃止、生活保護制度の廃止ということらしい。これで、政府側は、丸儲けというわけだ。いかにも竹中平蔵が考えそうなことだ。しかし、問題は、これが 、竹中平蔵個人の妄想発言ではないということだ。おそらく、菅総理と打ち合わせ済みの話だろうということだ。言い替えれば、竹中平蔵が、考え 、言い出したことは、荒唐無稽な話ではないということだ。「根回し」は、既に、すんでいるはずだ。繰り返して言うが、竹中平蔵の恐ろしいことは、政治力である。政策や理念を実現するために 、全精力を使い果たしてもいい・・・ということだ。




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2020年9月29日火曜日

竹中平蔵研究(65)・・・竹中平蔵が、菅政権誕生とともに、公然と、政治の表舞台に登場してきた。それと同時に、「竹中平蔵批判」も盛り上がってきたようだ。それを見ていると、なんだか、小生の「竹中平蔵研究」も、虚しくなって来るような感じになる。そもそも、私は、権力に迎合することも、時流に迎合することも好きではない。しかし、私は、やりかけたことを、簡単に放棄することも嫌いである。



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竹中平蔵研究(65)・・・竹中平蔵が、菅政権誕生とともに、公然と、政治の表舞台に登場してきた。それと同時に、「竹中平蔵批判」も盛り上がってきたようだ。それを見ていると、なんだか、小生の「竹中平蔵研究」も、虚しくなって来るような感じになる。そもそも、私は、権力に迎合することも、時流に迎合することも好きではない。しかし、私は、やりかけたことを、簡単に放棄することも嫌いである。というわけで、私は、私の「竹中平蔵研究」を続ける。私見によれば、竹中平蔵問題は、竹中平蔵の個人の問題ではない。竹中平蔵的なものの集団の問題であり 、構造の問題である。もっと具体的にいえば、竹中一派の問題でもある。竹中平蔵問題を竹中平蔵個人の問題としてとらえ、竹中平蔵批判を繰り返しても、その刀は空を切るだけだろう。竹中平蔵の本質は経済学でも経済理論でもない。竹中平蔵の本質は「政治能力」である。竹中平蔵の経済理論や政策をいくら批判しても、竹中平蔵には通じない。カエルの面に小便である。竹中平蔵の本質は政治力である。悪しき政治力である。竹中平蔵は、一人ではない。竹中一派(高橋洋一、岸博幸 、原英史)がいる。そしてその周辺には、竹中平蔵シンパや竹中平蔵の弟子たちがいる。菅義偉もその一人である。そして、さらにその外側に、「竹中平蔵応援団」とも言うべき無数の「ネット右翼」がいる。


(続く)




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2020年9月24日木曜日

竹中平蔵研究(64)・・・菅義偉よ、耳学問で、中途半端な「改革馬鹿」になってはいけない。「小泉・竹中改革」の「結果」を充分に調査、分析、検証した上で、「改革」という言葉を使ってくれ。


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竹中平蔵研究(64)・・・菅義偉よ、耳学問で、中途半端な「改革馬鹿」になってはいけない。「小泉・竹中改革」の「結果」を充分に調査、分析、検証した上で、「改革」という言葉を使ってくれ。菅義偉が依存し、政策立案を丸投げしているらしい「構造改革狂い」の竹中平蔵は、自らが犯してしまった「構造改革の失敗」を直視出来ず、むしろ、その大失敗を隠蔽するべく、同じ過ちを繰り返そうとしているのだ 。自民党内部にも「反・竹中平蔵」や「竹中平蔵嫌い」は、半分以上はいるだろう。野党系だって、大多数は「反・竹中平蔵」だろう 。菅義偉よ、日本国民を道連れに、破れかぶれに、「集団自殺」へ突っ込むのは、止めてもらいたい 。菅義偉よ、もっと本を読め。「ネットウヨ」のような耳学問だけでは、必ず、失敗する。竹中平蔵の口車に乗せられて、日本国家の「国体」を破壊・解体するのは、止めろ。以下は「リテラ」から引用である。「リテラ」の記事でも読んで、頭を冷やせ。


〓〓〓〓以下引用〓〓〓〓

ついに動き出した菅政権。菅義偉新首相は16日の就任会見では、「行政の縦割り、既得権益、そして悪しき前例主義、こうしたものを打ち破って、規制改革を全力で進めます」「この内閣は、既得権益を打破し、規制を改革する、国民のために働く内閣」「規制改革というのをこの政権のど真ん中に置いています」などと「規制改革」「既得権益打破」を連発。18日朝にはあの竹中平蔵パソナグループ会長とさっそく約1時間会食懇談するなど、総裁選中の「自助・共助・公助」に続き、新自由主義路線を全開にしている。


 実質“自民党菅派”であり同じ新自由主義信者である維新の吉村洋文・大阪府知事や橋下徹・元大阪市長らも「規制改革に期待」とさっそく同調し、メディアも「規制緩和」「構造改革」ともてはやしている。(以下略)

〓〓〓〓引用終了〓〓〓〓





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2020年9月23日水曜日

「ネット右翼」と「馬鹿の壁」ー竹中一派とカズヤと上念司の場合ー 「Youtube動画」山崎行太郎の「反=論壇時評」


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●「ネット右翼」と「馬鹿の壁」ー竹中一派とカズヤと上念司の場合ー「Youtube動画」山崎行太郎の「反=論壇時評」

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https://youtu.be/v5FYWRIVcME



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