2020年10月28日水曜日

『 南洲伝 』 後書き(8)・・・重野安繹(しげの・やすつぐ)という人物は、その輝かしい経歴や肩書き、あるいは交遊関係のわりに、あまり知られていない人物である。実は、重野安繹は、明治維新後は、大久保利通に接近し、大久保利通側近の一人として、反西郷の立場にいた。重野安繹の娘(養女)は、大久保利通の長男に嫁いでいるぐらいだから、相当、大久保利通とは親しくしていたのだろう。



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『 南洲伝 』 後書き(8)・・・重野安繹(しげの・やすつぐ)という人物は、その輝かしい経歴や肩書き、あるいは交遊関係のわりに、あまり知られていない人物である。実は、重野安繹は、明治維新後は、大久保利通に接近し、大久保利通側近の一人として、反西郷の立場にいた。重野安繹の娘(養女)は、大久保利通の長男に嫁いでいるぐらいだから、相当、大久保利通とは親しくしていたのだろう。西郷南洲が、西南戦争で命を落とした時には、一番先に大久保利通邸に駆けつけている。それにもかかわらず、私には、重野安繹という人物は、裏方の人物としか見えない。おそらく、重野安繹自身の人格や人間性に問題があったのだろうと、私は想像する。薩摩藩士族出身ということもあって、政治家や官僚、あるいは軍人になることも可能であっただろうが、彼は、それらの道を歩まなかった。やはり根っからの学者肌だったのだろう。しかし、その方面でも、東京帝国大学草創期の教授となり、後に貴族院議員となったにも関わらず、歴史に残るような業績も名声も残していない。敢えて挙げれば、「抹殺博士」という奇妙な名前とともに、歴史学界に足跡を残しているぐらいだろうか。著作類に関しても、歴史に残るような著作は残していない。誤解を恐れずに言えば、重野安繹の名前が登場するのは、西郷南洲との関係からである。私が、重野安繹という人物を、具体的に知ったのも、西郷南洲に関する書物類からであった。私は、明治初頭に、実証主義歴史学を前面に掲げ、「抹殺博士」と呼ばれた不思議な歴史学者がいたらしいということは、薄々、知っていたが、それが、まさか、西郷南洲に関係する人物だとは想像もしなかった。しかも

それが、鹿児島県出身(薩摩藩)で、薩摩藩藩校造士館の出身だったというのだから・・・。





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