2020年10月11日日曜日

『 南洲伝 』後書き(6)・・・西郷南洲は、「安政の大獄」事件以後、約5年間、何処に消えていたのか。実は、西郷南洲は、薩摩藩の命令で、島流しにあっていたのだ。


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『 南洲伝 』後書き(6)・・・西郷南洲は、「安政の大獄」事件以後、約5年間、何処に消えていたのか。実は、西郷南洲は、薩摩藩の命令で、島流しにあっていたのだ。この 5年間の「島流し」の意味は大きい。西郷南洲は、この5年間の「島流し」の時間を経て  、いわゆる「西郷南洲」になったと言っていい。最初の3年間は、奄美大島に幽閉されていた。江戸幕府の追求を逃れて、身を隠すため、という名目で、奄美大島に幽閉されていたにすぎない。つまり、罪人としての島流しではなかったが、実質的には罪人としての島流しとたいして違いはなかった。奄美大島の3年間の間に、日本の歴史は大きく動いていた。3年後 、一度は、許されて、呼び戻され、薩摩藩の政務に復帰するが、再び、島津久光が激怒する事件を起こし、次は本物の罪人として、徳之島に流され、さらに沖永良部島に流され、約2年間、獄舎生活を送った。したがって、西郷南洲は、幕末の大事件である「桜田門外の変」にも、「薩英戦争」にも関わっていない。では、激動の歴史の表舞台を傍観しながら、西郷南洲は、何をしていたのか。福沢諭吉が、「西郷には学問がなかった、それが最大の欠点だ・・・」と言ったところの「学問なるもの」を、やっていたのだ。西郷南洲にとっては、島流しの5年間が、「私の大学」だった。奄美大島時代には、前述した重野安繹(しげの・やすつぐ)が、流刑人として流されて来ており、話し相手を求めて、しばしば西郷南洲の元を訪れていた。重野安繹は、江戸の学問所・昌平黌で学び、しかも昌平黌でも優秀な成績を収め、その後、東大歴史学教授となる大秀才である。いろいろ問題のある人物ではあるが、西郷南洲は、奄美大島時代 、この同世代の大秀才から多くを学んだに違いない。一方 、沖永良部島では、川口雪蓬という陽明学者がいた。西郷南洲の「島流し時代」は、いわゆる「学問」に明け暮れる毎日だったのである。




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