2020年10月3日土曜日

『 南洲伝 』後書き(1)・・・しばらく「竹中平蔵研究」を中断し、『 南洲伝 』の完成・出版を目指したい。コロナ騒動などもあって、出版が遅れていた我が『 南洲伝 』だったが、社会情勢も個人的な生活状況にも変化があったので、のんびりやっているわけにはいかなくなった。予定通り、出版を急ぎたいと思う。というわけで、『 南洲伝 』の「後書き」を ・・・。


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『 南洲伝 』後書き(1)・・・しばらく「竹中平蔵研究」を中断し、『 南洲伝 』の完成・出版を目指したい。コロナ騒動などもあって、出版が遅れていた我が『 南洲伝 』だったが、社会情勢も個人的な生活状況にも変化があったので、のんびりやっているわけにはいかなくなった。予定通り、出版を急ぎたいと思う。というわけで、『 南洲伝 』の「後書き」を ・・・。

私は、『 南洲伝 』というタイトルではあるが、西郷隆盛、西郷南洲、菊池源吾・・・について、平凡・凡庸な伝記を書こうとは思はない。私は、巷に溢れている種々雑多な西郷隆盛本の類いを、それなりに評価しないわけではないが、私は、書きたいとは思はない。私は、江藤淳の『 南洲残影 』を読んで以来、「着眼点」というものにこだわるようになった。江藤淳の『南洲残影 』は、明らかに目の付け所が違う。負け戦に過ぎなかった「西南戦争」だけを取り上げ、それだけを描いて一冊の西郷南洲伝にしている。私が見習うべきは、このスタイルだと思った。そこで、私が、私の『 南洲伝 』で、こだわべきは何か、と考えた時、浮かんできたのは、私は、「私の西郷南洲体験」にこだわるべきだろう、ということだった。

私は、昔から、英雄豪傑としての西郷南洲も、郷土自慢的な西郷南洲も嫌いであった。要するに、成功した西郷南洲伝説が苦手だった。さらには、それに反発したと思われる西郷南洲批判も嫌いであった 。それなら書く必要などない。誰か、他の人が書くだろう。

私がこだわったのは、西郷南洲の「学問」「思想」、あるいは「思想的影響力」「思想的感化力」というようなものだった。

私は、福沢諭吉が言った「西郷には、学問がなかった。それが最大の欠点だった」という言葉に、激しく反発する自分に驚いた。福沢諭吉は、西郷南洲には好意的だった。西郷南洲を、『 丁丑公論』で、徹底的に擁護している。にもかかわらず、私は、福沢諭吉の言葉に、強く反発した。西郷南洲には「学問」がある、と。それは、福沢諭吉が考えるような「学問」ではないかもしれない。大学で洋書や原書購読を通じて学ぶような学問ではないだろう。しかし、洋書や原書購読だけが学問ではないだろう。西郷南洲の学問こそホモノの学問だろう、と。

西郷南洲は、現代風な言葉で言えば、確かに大学出ではない。もちろん、東大などの一流大学の卒業生でもない。明らかに高卒程度の学歴しかない。西郷南洲の古い友人に、重野安繹(しげのやすつぐ)という薩摩藩出身で、後に東大歴史学教授となった学者がいる。重野安繹は、若くして、その学問的才能を買われて、江戸に留学し、昌平黌(学問所)で、当時の日本を代表するような学者・文化人たちの元で学び、且つ彼等と交遊している。

その頃、西郷南洲は、薩摩藩の地方役人として、田舎暮らしの身だった。この経歴や境遇だけを見れば、確かに、福沢諭吉が言った通り、西郷南洲には「学問」がなかった、と言えるかもしれない。しかし、その直後、薩摩藩主となった島津斉彬に抜擢されて、江戸詰めの「御庭番」となる。ここで、西郷南洲と重野安繹は、江戸薩摩藩邸詰め役人として同僚となる。しかも、この頃、重野安繹の紹介で、水戸藩の藤田東湖を知る。藤田東湖は、即座に西郷南洲の才能を見抜き、以後、親交を結ぶことになる。同時に、福井藩の英才・橋本左内とも親交を結ぶ。西郷南洲が、表舞台に登場して、薩摩藩の対外交渉で重要な役割を担うのに対して、重野安繹は、裏方に留まることになる。つまり、以後、立場が逆転することになる。重野安繹には、一流の「学問」も「学識」もあったかもしれない。しかし、重野安繹には、それらを生かす才覚がなかった。

西郷南洲と重野安繹は、その後、別々の人生を歩むが、江戸ならぬ奄美大島という流刑地で、奇妙な再会を果たしている。



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