2020年10月22日木曜日

『南洲伝』後書き(7)ー西郷南洲は、山川港を、安政6年(1859)1月10日、砂糖運搬船に乗せられて、奄美大島に向けて出発する。そして、2日後の12日に、奄美大島の「龍郷村(たつごうむら)」に到着する。以後、3年間、西郷南洲は、この奄美大島の「龍郷村」で、はやる心を抑えながら、悶々と過ごすことになる。そこへ、不思議な来客があった。同じく奄美大島に、西郷南洲より一年早く、「島流し」にあっていた薩摩藩士・重野安緒であった。

 




⤴︎ ⤴︎⤴︎⤴︎ ⤴︎⤴︎⤴︎ ⤴︎⤴︎⤴︎ ⤴︎⤴︎⤴︎ 
人気ブログランキングに参加しています。クリック  、よろしくお願いいたします。
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

『南洲伝』後書き(7)ー西郷南洲は、山川港を、安政6年(1859)1月10日、砂糖運搬船に乗せられて、奄美大島に向けて出発する。そして、2日後の12日に、奄美大島の「龍郷村(たつごうむら)」に到着する。以後、3年間、西郷南洲は、この奄美大島の「龍郷村」で、はやる心を抑えながら、悶々と過ごすことになる。そこへ、不思議な来客があった。同じく奄美大島に、西郷南洲より一年早く、「島流し」にあっていた薩摩藩士・重野安緒であった。重野安繹(しげの・やすつぐ)のことは、前にも書いた。薩摩藩坂元村生まれの飛び抜けた秀才少年で、若くして江戸に登り、徳川幕府の学問所・昌平黌に学び、そこでも天下の英才たちと勉学を競い合い、優秀な成績をおさめたらしい。特に漢学と歴史には精通していたらしい。その重野安繹は、薩摩藩留学生の管理・監督係をやっていた時、留学生の学費を使い込むというような金銭的な不祥事を起こし、藩の処分で、「島流し」にあったということである。私は、色々な意味で 、重野安繹は、西郷南洲にとって、重要人物の一人だと思う。もちろん、二人は、面識があった。 江戸勤務時代、二人は、共に島津斉彬に仕える身だった。西郷南洲を、水戸藩の藤田東湖に紹介したのも、重野安繹であるということだ。西郷南洲は、この重野安繹という人物と意気投合したわけではないが、奄美大島時代、他に話し相手がいなかったこともあって、かなり頻繁に会い、且つ、深く語りあった仲だった。この頃、外を見渡すと、「安政の大獄」の渦中であり、時代は風雲急を告げていた。尊王派の同志や仲間たちも、次々と捕縛されたり、惨殺されたりしている。焦り、悲憤慷慨する西郷南洲をなだめ、島流しの身分で、焦っても無駄だよ、ゆっくり 、ノンビリやろうよと、説得したのが重野安繹だった。重野安繹は、既に「島妻」を娶り、妻帯して 、ノンビリ暮らしていたので、西郷南洲にも、「島妻」を勧めたりしている。

(続く)


⤴︎ ⤴︎⤴︎⤴︎ ⤴︎⤴︎⤴︎ ⤴︎⤴︎⤴︎ ⤴︎⤴︎⤴︎ 
人気ブログランキングに参加しています。クリック  、よろしくお願いいたします。
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓