《 吾(われ)、此処(ここ)に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ。》
増田宗太郎は、西郷軍に参戦することで、一攫千金ならぬ、人生上の一発逆転を狙ったのか。まったくそうではない。増田が西郷軍に投じた時、既に勝敗は決しており、誰が見ても敗色濃厚だった。増田は、西郷南洲と共に、死にたかったのだ。
島津啓次郎に至っては、アメリカ留学帰りの少壮の青年学者だった。学習院学長を懇願されたが、その趣旨が気に入らぬといって、それを断り、故郷に戻り、私塾を開き、後の小村寿太郎を育てた・・・という人物であった。さらに、石川県の金沢藩には、西郷南洲没後の翌年に、宿敵・大久保利通を 、紀尾井坂で襲い、惨殺した、いわゆる「紀尾井坂事件」の首謀者島田一郎等がいる。司馬遼太郎は、付和雷同する無知蒙昧な暴徒として描いているが、そんあはずはない。島田一郎等は、前もって事件を予告し、「斬奸状」を持ち、事件後は、誰一人逃げも隠れもせず、全員、警察に出頭し、極刑に服している。もちろん、『 西郷南洲翁遺訓 』 を遺した山形県酒田の庄内藩の青年たちが、西郷南洲の思想的影響を受け、一部の青年たちは、西南戦争にまで従軍し、戦死したことは、言うまでもない。
何故、多くの青年たちが、西郷南洲と、生死を共にしたのか。西郷南洲に学問があっただけではなく、その西郷南洲の学問が、机上の空論ではなく、生きた学問だったからだろう。思想的感化力を持つ学問だったからだろう。
(続く)