2020年10月5日月曜日

『 南洲伝 』後書き(2)・・・私が『 南洲伝 』で注目するのは、その「学問」や「思想」の次に、その「思想的影響力」や「思想的感化力」である。西郷南洲の学問や思想に共感し 、政治的行動を共にしたい、あるいは生死を共にしたいと願った青年たちは、一人や二人ではなかった。



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『 南洲伝 』後書き(2)・・・私が『 南洲伝 』で注目するのは、その「学問」や「思想」の次に、その「思想的影響力」や「思想的感化力」である。西郷南洲の学問や思想に共感し 、政治的行動を共にしたい、あるいは生死を共にしたいと願った青年たちは、一人や二人ではなかった。これ以上ないだろうと思わせるような、有名な 、美しい言葉を遺した中津藩士・増田宗太郎は言うまでもないが、そういう青年たちは増田宗太郎だけではなかった。熊本には宮崎八郎がいたし、宮崎の佐土原藩には島津啓次郎がいた。いづれも 、学問も教養もある前途有望な青年たちだった。ここで、増田宗太郎の言葉を引用しておく。


《 吾(われ)、此処(ここ)に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ。》


増田宗太郎は、西郷軍に参戦することで、一攫千金ならぬ、人生上の一発逆転を狙ったのか。まったくそうではない。増田が西郷軍に投じた時、既に勝敗は決しており、誰が見ても敗色濃厚だった。増田は、西郷南洲と共に、死にたかったのだ。

島津啓次郎に至っては、アメリカ留学帰りの少壮の青年学者だった。学習院学長を懇願されたが、その趣旨が気に入らぬといって、それを断り、故郷に戻り、私塾を開き、後の小村寿太郎を育てた・・・という人物であった。さらに、石川県の金沢藩には、西郷南洲没後の翌年に、宿敵・大久保利通を 、紀尾井坂で襲い、惨殺した、いわゆる「紀尾井坂事件」の首謀者島田一郎等がいる。司馬遼太郎は、付和雷同する無知蒙昧な暴徒として描いているが、そんあはずはない。島田一郎等は、前もって事件を予告し、「斬奸状」を持ち、事件後は、誰一人逃げも隠れもせず、全員、警察に出頭し、極刑に服している。もちろん、『 西郷南洲翁遺訓 』 を遺した山形県酒田の庄内藩の青年たちが、西郷南洲の思想的影響を受け、一部の青年たちは、西南戦争にまで従軍し、戦死したことは、言うまでもない。

何故、多くの青年たちが、西郷南洲と、生死を共にしたのか。西郷南洲に学問があっただけではなく、その西郷南洲の学問が、机上の空論ではなく、生きた学問だったからだろう。思想的感化力を持つ学問だったからだろう。


(続く)




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