2020年10月6日火曜日

南洲伝 』後書き(3)・・・では、西郷南洲の「学問」、あるいは西郷南洲の「思想」とは何か。日本全国の前途有望な青年たちが、西郷南洲のもとに駆けつけ、共に戦い、共に戦死していったのは、何故か。あるいは、西郷南洲の最期の戦いに参加出来なかった青年たちが、西郷南洲の「弔い合戦」として、あるいは「敵討ち」として、命を賭して、大久保利通惨殺事件へと突き進んでいったのは、何故か。西郷南洲の何が、彼等をそうさせたのか。

 


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『 南洲伝 』後書き(3)・・・では、西郷南洲の「学問」、あるいは西郷南洲の「思想」とは何か。日本全国の前途有望な青年たちが、西郷南洲のもとに駆けつけ、共に戦い、共に戦死していったのは、何故か。あるいは、西郷南洲の最期の戦いに参加出来なかった青年たちが、西郷南洲の「弔い合戦」として、あるいは「敵討ち」として、命を賭して、大久保利通惨殺事件へと突き進んでいったのは、何故か。西郷南洲の何が、彼等をそうさせたのか。

さて、私が、不思議に思うことが、もう一つある。それは、近代日本の優秀な知識人、思想家、学者文化人の多くが、叛逆者であり暴徒であり逆賊である西郷南洲を、極めて早い段階から、激しい口調で擁護し、絶賛している事だ。勝海舟や中江兆民から福沢諭吉、内村鑑三、そして新しくは、三島由紀夫、江藤淳に至るまで・・・。彼等が、今さら、私が言うまでもなく 、それぞれ思想的立場は違えど、それぞれの分野で、超一流の知識人であり、思想家であり、学者であったことは間違いない。何故、彼等は、逆徒、逆賊  、暴徒・・・という政府側のプロパガンダやそれに追随する新聞等のジャーナリズム、あるいはそれに付和雷同する大衆の悪罵・罵倒に逆らって、西郷南洲を擁護したのか・・・。

江藤淳が、西郷南洲の「思想」について、鋭いことを言っている。私が、西郷南洲に関する文章で、最も感銘を受けた文章だ。


《「陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、排外思想でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった」『南洲残影 』(p.262) 》


実は 、私は、江藤淳のこの文章を読むまでは、『 南洲伝 』なるものを書こうと思ったことはなかった。西郷南洲なんて、私の関心外だった。何回も書くが、英雄豪傑としての西郷南洲にも、郷土自慢的な西郷南洲にも、あるいは、そういう西郷南洲礼賛に反発した西郷南洲批判にも、私は無関心だった。その気持ちは、今も変わらない。何年か前のNHKの大河ドラマ『 西郷どん(セゴドン)』にも、鹿児島の一部で起きたらしい 『 西郷どん(セゴドン)』ブームにも、私は、嫌悪感しか持たなかった。私は、最近は、両親や兄の墓参りもかねて、年に数回は、鹿児島に帰っているが、その度に、田舎のバスにのりかえるために、鹿児島中央駅前の広場に立つが、毎回、『 西郷どん(セゴドン)』のノボリやポスターを見つけては、顔をそむけたものだ。皮肉な言い方をすれば、ここ、一、二年、その種のノボリやポスターが、駅前の風景から全て消えたので、ホッとしている。やっと、私が、私の「西郷南洲体験」を語る時が、来たな、と思うのだ。

今年は、従兄弟の案内で、枕崎市の旧家に眠る西郷南洲の肖像画を見せてもらった。その肖像画は、キヨソネ等の描いた、美しすぎる「西郷南洲像」とは異なる、厳しい「西郷南洲」の肖像画だった。ちょっと近寄り難い、重厚な西郷南洲が描かれていた。私が、『 南洲伝 』で描こうとしている西郷南洲は、枕崎市の旧家で、新しく発見された、この肖像画に近いかもしれない。あるいは、江藤淳が言う「西郷南洲という思想」も、この肖像画に近いのかもしれない。前途有望な青年たちから超一流の文化人まで、強力に引きつける西郷南洲の磁力とは何か。言い換えれば、江藤淳の言う「日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想」とは何か。

(続く)


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