2020年10月29日木曜日

『 南洲伝 』後書き(9)・・・奄美大島時代の西郷南洲をもっと身近で見た人物は、奄美大島の地元の人間を中心に他にも、たくさんいるだろうが、中でも重野安繹(しげの・やすつぐ)の存在は大きい。「本土」(?)側の人間としては唯一と言っていいからだ。



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『 南洲伝 』後書き(9)・・・奄美大島時代の西郷南洲をもっと身近で見た人物は、奄美大島の地元の人間を中心に他にも、たくさんいるだろうが、中でも重野安繹(しげの・やすつぐ)の存在は大きい。「本土」(?)側の人間としては唯一と言っていいからだ。だから、重野安繹の「証言」が重視されることになる。当然だろうが、重野安繹という人物が、どういう人物だった、どういう人間性の持ち主で、どういう政治的立場にいたか・・・などを考慮するならば、重野安繹の証言を、無条件に、信用するわけにもいかないだろうと思う。要するに、重野安繹は、「大久保利通側」「新政府側」の人間、西郷南洲とは敵対関係にあった人間なのである。重野安繹は、後に、つまり西郷南洲の死後、次のよように証言している。

《 「西郷は兎角相手を取る性質がある。これは西郷の悪いところである。自分にもそれは悪いということをいって居た。そうして、その相手をばひどく憎む塩梅がある。西郷という人は一体大度量がある人物ではない。人は豪傑肌であるけれども、度量が大きいとはいえない。いわば度量が偏狭である。度量が偏狭であるから、西南の役などが起るのである。世間の人は大変度量の広い人のように思って居るが、それは皮相の見で、やはり敵を持つ性質である。トウトウ敵を持って、それがために自分も倒れるに至った」 》(重野安繹『西郷南洲逸話』)

貴重な証言であることは間違いない。しかし、この重野安繹の証言は、何処まで信用できるだろうか。「英雄豪傑」や「伝説上の人物」に関する、この種の心理分析や性格分析の証言は、証言者自身の心理状態や性格(パーソナリティ)を、反映していることが少なくない。私は、逆に、重野安繹という人物の「度量」と「偏狭」をあらわしているのではないか、と思う。私は、過剰な褒め言葉も信用しないが、こういう辛辣な批判や蔑視論も信用しない。しかし、多くの作家や歴史家、あるいは歴史愛好家たちは、この重野証言を引用する。しかも、時代考証や史料分析がない。ただ 、無批判に引用するだけである。おそらく、重野安繹が、「歴史学者」であり「実証主義者」であり、 しかも「東大教授」であったという肩書きや経歴から、その必要はないと考えたのだろう。重野安繹の証言は信用出来る  、と。たとえば 、司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』には、「西南戦争」の場面で、重野安繹が、しばしば登場する。多分、司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』という歴史小説は、
重野安繹の証言を、重要史料の一つにすることによって、成り立っている。司馬遼太郎の「大久保利通(川路利良)=洋行帰りの近代主義者」、「西郷南洲(桐野利秋)=前近代的な非合理主義者」という図式は、重野安繹の証言と重なる。
しかし、いずれにしろ、奄美大島の「島流し」時代に、西郷南洲が、その後、「歴史学者」「漢学者」として大成することになる重野安繹と深く交遊したことは重要である。西郷南洲は、重野安繹を通して、多くの「学問」を学んだはずである。当時、重野安繹は奄美大島の「アキナ」というところに居を構えていた。重野安繹は、西郷南洲に会うために、山道を夜も歩き通しで、やってきて、三日三晩、一睡もせずに語り明かすことがしばしばだったというが、お互い、「島流し」の身とあっては、「さもありなん 」と思う。



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