2020年11月8日日曜日

『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。



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『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。西郷南洲は、沖永良部島時代に、学問に打ち込みすぎて、「学者になったような気分・・・」と手紙に書いている。奄美大島時代にしろ沖永良部島時代にしろ、政治運動や倒幕運動・・・から切り離され、社会からも情報からも孤絶していた。西郷南洲の関心は内部に向かわざるを得なかった。「内部」とは学問や思想以外にない。西郷南洲の向きあった学問や思想が、未熟なものだったにしろ、凡庸なものだったにしろ、西郷南洲のような境遇に追い込められたものは、そんなに多くはないだろう。西郷南洲が向きあった学問が、経歴や肩書きで塗り固められたような表層的なエセ学問だったはずはない。西郷南洲の向きあった学問こそ、ホンモノの学問だったはずだと、私は確信する。司馬遼太郎のような「大衆通俗読み物作家」なら、西洋留学(遊学)の経験があるかないかで、学問のレベルを測定するだろう。西郷南洲は、西洋留学も西洋見物もしていない。西郷の留学先は、奄美大島と沖永良部島だった。「奄美大島と沖永良部島」が、留学先として不足だったはずはない。奄美大島には、昌平黌で、天下の秀才とうたわれ、後に東京帝国大学教授となる「漢学者・重野安繹」がおり、沖永良部島には、川口雪蓬(かわぐちせっぽう)という「陽明学者」がいた。そして周辺には、圧政や貧窮に苦しむ孤島の一般庶民・一般大衆がいた。学問を極めるのに、これ以上、恵まれた環境はない。
私は、ここまで書いて、唐突かもしれないが、私が、高校時代、読み始めて、強い影響を受けたドストエフスキーの約10年間に及ぶ、政治犯としての「シベリア流刑時代」を思い出した。ドストエフスキーもまた、シベリア流刑時代の「10年間」を経て、いわゆる、『 罪と罰』や『悪霊 』『カラマーゾフの兄弟 』・・・等を書くことになる「文豪ドストエフスキー」へと成長する。それまでのドストエフスキーは、才能はある作家ではあったが、何処にでもいる群小作家の一人に過ぎなかった。ドストエフスキーは、この10年間に、極寒の地・シベリアで、何を学んだのか。何が、ドストエフスキーを、群小作家の一人から世界の文学史に残るような「文豪ドストエフスキー」へと変えていったのか。ドストエフスキーは、シベリア流刑時代、「デカブリストの乱」で、夫たちが流刑の処分を受けた「デカブリストの妻たち」に 、護送途中に手渡された『聖書 』を、熟読した。『聖書 』以外は読むことを禁じられていたからだ。ドストエフスキーの文学は、獄中での聖書熟読によって成り立っている。
私は、西郷南洲にも同じことが言えると思う。西郷南洲もまた、絶海の孤島で、書物を熟読し、学問を極めることによって、「西郷吉之助」から「西郷南洲」へと成長して行く。もちろん、「西郷吉之助」もまた、藩主島津斉彬に、類まれな才能を見出され、江戸詰めの「薩摩藩お庭番」に取り立てらるような有能な青年武士だったかもしれない。しかし、「西郷吉之助」を「西郷南洲」に成長させたのは、5年間の「島流し時代」であり、その間に励んだ「学問」のお陰だった。西郷南洲には、「学問がない」のではなく、薄っぺらな、付け刃の「エセ学問」がないだけである。西郷南洲が、孤島の流刑生活で向きあった学問こそ 、ホンモノの学問だった。そこで身につけた学問こそが、「西郷南洲という思想」(江藤淳『南洲残影 』)であったはずだ。