2020年11月13日金曜日

『 南洲伝 』後書き(12)・・・西郷は、奄美大島で、橋本左内が江戸の小伝馬町の牢獄で、斬首されたという報せを聞いた。この報せをうけとった西郷が、落胆して、悲痛な悲しみに襲われたことは言うまでもないが、同時に、激しい怒りと復讐心が燃え上がるのを抑えることは出来なかった。

 



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『 南洲伝 』後書き(12)・・・西郷は、奄美大島で、橋本左内が江戸の小伝馬町の牢獄で、斬首されたという報せを聞いた。この報せをうけとった西郷が、落胆して、悲痛な悲しみに襲われたことは言うまでもないが、同時に、激しい怒りと復讐心が燃え上がるのを抑えることは出来なかった。その時のことを、手紙で、こう書いている。《 悲憤千万  耐え難き時世・・・》と。
橋本左内との交流は、わずか二年 前後の短い期間に過ぎなかったが、西郷に、六歳下の若い橋本左内という存在は、鮮烈な印象を残している。最初の出会いから意気投合したわけではない 。むしろ、最悪の出会い方をしている。安政2年12月27日、橋本左内が薩摩藩邸を訪れる。西郷と話をするためであった。しかし、西郷は、橋本左内を、歳下で、インテリ風の風貌から、話をする前から、この人物はたいしたことはないと判断したらしく、甘く見て 、かなり侮蔑的な態度をとった。 しかし、橋本左内の政治や思想の話を聞いているうちに、西郷は、橋本左内への人物評価をガラリと変える。西郷は、わざわざ 、その翌日、橋本左内のいる越前・福井藩邸に、「失礼を詫びる」という形で、謝りに出かけている。後に、西郷は、尊敬する人物として、水戸藩の藤田東湖と並べて、橋本左内の名前をあげている。藤田東湖と橋本左内。二人とも、その後の歴史に名を残している大学者、思想家、政治家である。何故、西郷が、当代随一と言っていいような人物たちと、対等に交流出来たのだろうか。特に、行動派、武断派・・・と思われている西郷が、学者肌の藤田東湖や橋本左内と、意気投合した挙句、肝胆相照らす仲になれたのだろうか。西郷の方にも、学問や思想に関する知性と能力が備わっていたからではないか。奄美大島で、親しく交流した重野安繹(しげの・やすつぐ)との間には、こういう関係は成立していない。西郷も、重野安繹をそれほど評価していなかったし、重野安繹も、西郷の知性や才能、能力が理解出来ていなかった。藤田東湖や橋本左内と、後に東京帝国大学教授ともなる重野安繹との違いは、何処にあるだろうか。





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