2020年11月13日金曜日

『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。

 



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『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。悲憤慷慨したり、自分を責め悲観したり、あるいは、誰それを激しく批判、罵倒したり・・・したこともあっただろう。おそらく、後に、重野安繹が証言したことは、ほぼ間違いはないだろう。しかし、それは西郷南洲の一面に過ぎないこともまた明らかである。たとえば、橋本左内とはじめて対面した時の印象を、橋本左内は、かなり辛辣に証言している。天下国家を声高に論じる血気盛んな青年・・・と。橋本左内は、「備忘録」に、こう記している。

《 卯月極月(安政二年十二月)、二十七日、原八(水戸藩士原田八兵衛)宅で始めて会す。燕趙悲歌の士う

なり。》(橋本景岳全集)


「 燕趙悲歌の士」と何か。時勢を憤り嘆く人という意味らしい。橋本左内の第一印象は、あまりいいものではなかったということだろう。橋本左内は、越前福井藩士で、西郷南洲より、六歳年下だったが、既に幼少期から、英才として注目されていたらしく、この頃、すでに藩主松平慶永の懐刀として、重くもちいられていた。橋本左内と西郷南洲は、共に 、藩主等が主導する「一橋慶喜将軍擁立運動」に、その実働部隊として活動し、邁進することになるのだが、少なくとも、この時点では、橋本左内は、西郷南洲をそれほど高く評価していない。しかし、西郷南洲の不思議なところは、そういう鋭い眼力の持ち主である橋本左内の評価さえも、短時間のうちに変えてしまうところだ。四ヶ月後の日記では、ガラリと変わっていく。

《西郷はすこぶる君候(斉彬) に得られる。当藩(越前藩)より(斉彬公に)仰せ遣わされた趣など、これを承っている様子。》


つまり、西郷南洲が、大言壮語の「燕趙悲歌の士」という第一印象とは異なり、薩摩藩主島津斉彬の信頼も勝ち得ている実直・有能な人だ・・・という評価へ変わる。こうして、意気投合し、肝胆相照らす仲になった二人は、藩主等の手足となって、「一橋慶喜将軍擁立運動」へと

突き進んでいく。しかし、二人の前にも、「安政の大獄」事件が立ち塞がる。西郷南洲が、奄美大島に島流しにあうのと、ほぼ同時に、橋本左内は、幕府の手に捕まり、安政6年10月7日(1859年11月1日)、伝馬町牢屋敷で斬首となった。26歳であった。




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