2020年11月13日金曜日

『 南洲伝 』後書き(13)・・・西郷は、徳之島で、奄美大島時代について、奄美大島で世話になった役人・木場伝内宛に、手紙で次のように書いている。

 




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『 南洲伝 』後書き(13)・・・西郷は、徳之島で、奄美大島時代について、奄美大島で世話になった役人・木場伝内宛に、手紙で次のように書いている。

《 大島にいましたときは 、今日は今日はと待っておりましたので、癇癪もおこり、一日が苦しいものでしたが、このたびは徳之島より二度と出ることはないとあきらめていますので、何の苦もなく安心なものです。もしや乱になれば、その節はまかり登るべきでしょうが、平常であれば、たとえご赦免をこうむっても、島に留まる願いを出すつもりです。》(木場伝内宛)

奄美大島から帰還後、わずか二ヶ月足らずで、再度、島流しにあった西郷は、奄美大島時代とは異なり、大きな心境の変化があったと思われる。この手紙から察するに、奄美大島の西郷は、現世(政治)への未練が断ち切れなかったのだろう。しかし、二度目の島流しで、心に期するものがあった。現世(政治)への未練を断ち切っている。この後、さらに沖永良部島へと移送されるのだが・・・。沖永良部島へ移送後、今度は、得藤長(とく・とうちょう)へ書き送った手紙には、こうある。

《 昨冬、お手紙いただき、遠方へお心がけ下さり、かたじけなくお礼申し上げます。・・・。私は異議なく消光(日を送る)いたし、この島でも詰役人がしごく丁寧で仕合わせの至りです。囲い入りになっていますので、脇から見ればよほど窮屈に見えるようですが、拙者にはかえってよろしく、俗事にる粉れることもなく、余念なく学問一辺にて、今通りに行けば学者にもあれそうな塩梅です。まずはご安心下さるよう。》(得藤長(とく・とうちょう)1883、3、21)







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『 南洲伝 』後書き(12)・・・西郷は、奄美大島で、橋本左内が江戸の小伝馬町の牢獄で、斬首されたという報せを聞いた。この報せをうけとった西郷が、落胆して、悲痛な悲しみに襲われたことは言うまでもないが、同時に、激しい怒りと復讐心が燃え上がるのを抑えることは出来なかった。

 



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『 南洲伝 』後書き(12)・・・西郷は、奄美大島で、橋本左内が江戸の小伝馬町の牢獄で、斬首されたという報せを聞いた。この報せをうけとった西郷が、落胆して、悲痛な悲しみに襲われたことは言うまでもないが、同時に、激しい怒りと復讐心が燃え上がるのを抑えることは出来なかった。その時のことを、手紙で、こう書いている。《 悲憤千万  耐え難き時世・・・》と。
橋本左内との交流は、わずか二年 前後の短い期間に過ぎなかったが、西郷に、六歳下の若い橋本左内という存在は、鮮烈な印象を残している。最初の出会いから意気投合したわけではない 。むしろ、最悪の出会い方をしている。安政2年12月27日、橋本左内が薩摩藩邸を訪れる。西郷と話をするためであった。しかし、西郷は、橋本左内を、歳下で、インテリ風の風貌から、話をする前から、この人物はたいしたことはないと判断したらしく、甘く見て 、かなり侮蔑的な態度をとった。 しかし、橋本左内の政治や思想の話を聞いているうちに、西郷は、橋本左内への人物評価をガラリと変える。西郷は、わざわざ 、その翌日、橋本左内のいる越前・福井藩邸に、「失礼を詫びる」という形で、謝りに出かけている。後に、西郷は、尊敬する人物として、水戸藩の藤田東湖と並べて、橋本左内の名前をあげている。藤田東湖と橋本左内。二人とも、その後の歴史に名を残している大学者、思想家、政治家である。何故、西郷が、当代随一と言っていいような人物たちと、対等に交流出来たのだろうか。特に、行動派、武断派・・・と思われている西郷が、学者肌の藤田東湖や橋本左内と、意気投合した挙句、肝胆相照らす仲になれたのだろうか。西郷の方にも、学問や思想に関する知性と能力が備わっていたからではないか。奄美大島で、親しく交流した重野安繹(しげの・やすつぐ)との間には、こういう関係は成立していない。西郷も、重野安繹をそれほど評価していなかったし、重野安繹も、西郷の知性や才能、能力が理解出来ていなかった。藤田東湖や橋本左内と、後に東京帝国大学教授ともなる重野安繹との違いは、何処にあるだろうか。





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『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。

 



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『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。悲憤慷慨したり、自分を責め悲観したり、あるいは、誰それを激しく批判、罵倒したり・・・したこともあっただろう。おそらく、後に、重野安繹が証言したことは、ほぼ間違いはないだろう。しかし、それは西郷南洲の一面に過ぎないこともまた明らかである。たとえば、橋本左内とはじめて対面した時の印象を、橋本左内は、かなり辛辣に証言している。天下国家を声高に論じる血気盛んな青年・・・と。橋本左内は、「備忘録」に、こう記している。

《 卯月極月(安政二年十二月)、二十七日、原八(水戸藩士原田八兵衛)宅で始めて会す。燕趙悲歌の士う

なり。》(橋本景岳全集)


「 燕趙悲歌の士」と何か。時勢を憤り嘆く人という意味らしい。橋本左内の第一印象は、あまりいいものではなかったということだろう。橋本左内は、越前福井藩士で、西郷南洲より、六歳年下だったが、既に幼少期から、英才として注目されていたらしく、この頃、すでに藩主松平慶永の懐刀として、重くもちいられていた。橋本左内と西郷南洲は、共に 、藩主等が主導する「一橋慶喜将軍擁立運動」に、その実働部隊として活動し、邁進することになるのだが、少なくとも、この時点では、橋本左内は、西郷南洲をそれほど高く評価していない。しかし、西郷南洲の不思議なところは、そういう鋭い眼力の持ち主である橋本左内の評価さえも、短時間のうちに変えてしまうところだ。四ヶ月後の日記では、ガラリと変わっていく。

《西郷はすこぶる君候(斉彬) に得られる。当藩(越前藩)より(斉彬公に)仰せ遣わされた趣など、これを承っている様子。》


つまり、西郷南洲が、大言壮語の「燕趙悲歌の士」という第一印象とは異なり、薩摩藩主島津斉彬の信頼も勝ち得ている実直・有能な人だ・・・という評価へ変わる。こうして、意気投合し、肝胆相照らす仲になった二人は、藩主等の手足となって、「一橋慶喜将軍擁立運動」へと

突き進んでいく。しかし、二人の前にも、「安政の大獄」事件が立ち塞がる。西郷南洲が、奄美大島に島流しにあうのと、ほぼ同時に、橋本左内は、幕府の手に捕まり、安政6年10月7日(1859年11月1日)、伝馬町牢屋敷で斬首となった。26歳であった。




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2020年11月8日日曜日

『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。



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『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。西郷南洲は、沖永良部島時代に、学問に打ち込みすぎて、「学者になったような気分・・・」と手紙に書いている。奄美大島時代にしろ沖永良部島時代にしろ、政治運動や倒幕運動・・・から切り離され、社会からも情報からも孤絶していた。西郷南洲の関心は内部に向かわざるを得なかった。「内部」とは学問や思想以外にない。西郷南洲の向きあった学問や思想が、未熟なものだったにしろ、凡庸なものだったにしろ、西郷南洲のような境遇に追い込められたものは、そんなに多くはないだろう。西郷南洲が向きあった学問が、経歴や肩書きで塗り固められたような表層的なエセ学問だったはずはない。西郷南洲の向きあった学問こそ、ホンモノの学問だったはずだと、私は確信する。司馬遼太郎のような「大衆通俗読み物作家」なら、西洋留学(遊学)の経験があるかないかで、学問のレベルを測定するだろう。西郷南洲は、西洋留学も西洋見物もしていない。西郷の留学先は、奄美大島と沖永良部島だった。「奄美大島と沖永良部島」が、留学先として不足だったはずはない。奄美大島には、昌平黌で、天下の秀才とうたわれ、後に東京帝国大学教授となる「漢学者・重野安繹」がおり、沖永良部島には、川口雪蓬(かわぐちせっぽう)という「陽明学者」がいた。そして周辺には、圧政や貧窮に苦しむ孤島の一般庶民・一般大衆がいた。学問を極めるのに、これ以上、恵まれた環境はない。
私は、ここまで書いて、唐突かもしれないが、私が、高校時代、読み始めて、強い影響を受けたドストエフスキーの約10年間に及ぶ、政治犯としての「シベリア流刑時代」を思い出した。ドストエフスキーもまた、シベリア流刑時代の「10年間」を経て、いわゆる、『 罪と罰』や『悪霊 』『カラマーゾフの兄弟 』・・・等を書くことになる「文豪ドストエフスキー」へと成長する。それまでのドストエフスキーは、才能はある作家ではあったが、何処にでもいる群小作家の一人に過ぎなかった。ドストエフスキーは、この10年間に、極寒の地・シベリアで、何を学んだのか。何が、ドストエフスキーを、群小作家の一人から世界の文学史に残るような「文豪ドストエフスキー」へと変えていったのか。ドストエフスキーは、シベリア流刑時代、「デカブリストの乱」で、夫たちが流刑の処分を受けた「デカブリストの妻たち」に 、護送途中に手渡された『聖書 』を、熟読した。『聖書 』以外は読むことを禁じられていたからだ。ドストエフスキーの文学は、獄中での聖書熟読によって成り立っている。
私は、西郷南洲にも同じことが言えると思う。西郷南洲もまた、絶海の孤島で、書物を熟読し、学問を極めることによって、「西郷吉之助」から「西郷南洲」へと成長して行く。もちろん、「西郷吉之助」もまた、藩主島津斉彬に、類まれな才能を見出され、江戸詰めの「薩摩藩お庭番」に取り立てらるような有能な青年武士だったかもしれない。しかし、「西郷吉之助」を「西郷南洲」に成長させたのは、5年間の「島流し時代」であり、その間に励んだ「学問」のお陰だった。西郷南洲には、「学問がない」のではなく、薄っぺらな、付け刃の「エセ学問」がないだけである。西郷南洲が、孤島の流刑生活で向きあった学問こそ 、ホンモノの学問だった。そこで身につけた学問こそが、「西郷南洲という思想」(江藤淳『南洲残影 』)であったはずだ。

2020年10月29日木曜日

『 南洲伝 』後書き(9)・・・奄美大島時代の西郷南洲をもっと身近で見た人物は、奄美大島の地元の人間を中心に他にも、たくさんいるだろうが、中でも重野安繹(しげの・やすつぐ)の存在は大きい。「本土」(?)側の人間としては唯一と言っていいからだ。



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『 南洲伝 』後書き(9)・・・奄美大島時代の西郷南洲をもっと身近で見た人物は、奄美大島の地元の人間を中心に他にも、たくさんいるだろうが、中でも重野安繹(しげの・やすつぐ)の存在は大きい。「本土」(?)側の人間としては唯一と言っていいからだ。だから、重野安繹の「証言」が重視されることになる。当然だろうが、重野安繹という人物が、どういう人物だった、どういう人間性の持ち主で、どういう政治的立場にいたか・・・などを考慮するならば、重野安繹の証言を、無条件に、信用するわけにもいかないだろうと思う。要するに、重野安繹は、「大久保利通側」「新政府側」の人間、西郷南洲とは敵対関係にあった人間なのである。重野安繹は、後に、つまり西郷南洲の死後、次のよように証言している。

《 「西郷は兎角相手を取る性質がある。これは西郷の悪いところである。自分にもそれは悪いということをいって居た。そうして、その相手をばひどく憎む塩梅がある。西郷という人は一体大度量がある人物ではない。人は豪傑肌であるけれども、度量が大きいとはいえない。いわば度量が偏狭である。度量が偏狭であるから、西南の役などが起るのである。世間の人は大変度量の広い人のように思って居るが、それは皮相の見で、やはり敵を持つ性質である。トウトウ敵を持って、それがために自分も倒れるに至った」 》(重野安繹『西郷南洲逸話』)

貴重な証言であることは間違いない。しかし、この重野安繹の証言は、何処まで信用できるだろうか。「英雄豪傑」や「伝説上の人物」に関する、この種の心理分析や性格分析の証言は、証言者自身の心理状態や性格(パーソナリティ)を、反映していることが少なくない。私は、逆に、重野安繹という人物の「度量」と「偏狭」をあらわしているのではないか、と思う。私は、過剰な褒め言葉も信用しないが、こういう辛辣な批判や蔑視論も信用しない。しかし、多くの作家や歴史家、あるいは歴史愛好家たちは、この重野証言を引用する。しかも、時代考証や史料分析がない。ただ 、無批判に引用するだけである。おそらく、重野安繹が、「歴史学者」であり「実証主義者」であり、 しかも「東大教授」であったという肩書きや経歴から、その必要はないと考えたのだろう。重野安繹の証言は信用出来る  、と。たとえば 、司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』には、「西南戦争」の場面で、重野安繹が、しばしば登場する。多分、司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』という歴史小説は、
重野安繹の証言を、重要史料の一つにすることによって、成り立っている。司馬遼太郎の「大久保利通(川路利良)=洋行帰りの近代主義者」、「西郷南洲(桐野利秋)=前近代的な非合理主義者」という図式は、重野安繹の証言と重なる。
しかし、いずれにしろ、奄美大島の「島流し」時代に、西郷南洲が、その後、「歴史学者」「漢学者」として大成することになる重野安繹と深く交遊したことは重要である。西郷南洲は、重野安繹を通して、多くの「学問」を学んだはずである。当時、重野安繹は奄美大島の「アキナ」というところに居を構えていた。重野安繹は、西郷南洲に会うために、山道を夜も歩き通しで、やってきて、三日三晩、一睡もせずに語り明かすことがしばしばだったというが、お互い、「島流し」の身とあっては、「さもありなん 」と思う。



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2020年10月28日水曜日

『 南洲伝 』 後書き(8)・・・重野安繹(しげの・やすつぐ)という人物は、その輝かしい経歴や肩書き、あるいは交遊関係のわりに、あまり知られていない人物である。実は、重野安繹は、明治維新後は、大久保利通に接近し、大久保利通側近の一人として、反西郷の立場にいた。重野安繹の娘(養女)は、大久保利通の長男に嫁いでいるぐらいだから、相当、大久保利通とは親しくしていたのだろう。



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『 南洲伝 』 後書き(8)・・・重野安繹(しげの・やすつぐ)という人物は、その輝かしい経歴や肩書き、あるいは交遊関係のわりに、あまり知られていない人物である。実は、重野安繹は、明治維新後は、大久保利通に接近し、大久保利通側近の一人として、反西郷の立場にいた。重野安繹の娘(養女)は、大久保利通の長男に嫁いでいるぐらいだから、相当、大久保利通とは親しくしていたのだろう。西郷南洲が、西南戦争で命を落とした時には、一番先に大久保利通邸に駆けつけている。それにもかかわらず、私には、重野安繹という人物は、裏方の人物としか見えない。おそらく、重野安繹自身の人格や人間性に問題があったのだろうと、私は想像する。薩摩藩士族出身ということもあって、政治家や官僚、あるいは軍人になることも可能であっただろうが、彼は、それらの道を歩まなかった。やはり根っからの学者肌だったのだろう。しかし、その方面でも、東京帝国大学草創期の教授となり、後に貴族院議員となったにも関わらず、歴史に残るような業績も名声も残していない。敢えて挙げれば、「抹殺博士」という奇妙な名前とともに、歴史学界に足跡を残しているぐらいだろうか。著作類に関しても、歴史に残るような著作は残していない。誤解を恐れずに言えば、重野安繹の名前が登場するのは、西郷南洲との関係からである。私が、重野安繹という人物を、具体的に知ったのも、西郷南洲に関する書物類からであった。私は、明治初頭に、実証主義歴史学を前面に掲げ、「抹殺博士」と呼ばれた不思議な歴史学者がいたらしいということは、薄々、知っていたが、それが、まさか、西郷南洲に関係する人物だとは想像もしなかった。しかも

それが、鹿児島県出身(薩摩藩)で、薩摩藩藩校造士館の出身だったというのだから・・・。





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2020年10月22日木曜日

『南洲伝』後書き(7)ー西郷南洲は、山川港を、安政6年(1859)1月10日、砂糖運搬船に乗せられて、奄美大島に向けて出発する。そして、2日後の12日に、奄美大島の「龍郷村(たつごうむら)」に到着する。以後、3年間、西郷南洲は、この奄美大島の「龍郷村」で、はやる心を抑えながら、悶々と過ごすことになる。そこへ、不思議な来客があった。同じく奄美大島に、西郷南洲より一年早く、「島流し」にあっていた薩摩藩士・重野安緒であった。

 




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『南洲伝』後書き(7)ー西郷南洲は、山川港を、安政6年(1859)1月10日、砂糖運搬船に乗せられて、奄美大島に向けて出発する。そして、2日後の12日に、奄美大島の「龍郷村(たつごうむら)」に到着する。以後、3年間、西郷南洲は、この奄美大島の「龍郷村」で、はやる心を抑えながら、悶々と過ごすことになる。そこへ、不思議な来客があった。同じく奄美大島に、西郷南洲より一年早く、「島流し」にあっていた薩摩藩士・重野安緒であった。重野安繹(しげの・やすつぐ)のことは、前にも書いた。薩摩藩坂元村生まれの飛び抜けた秀才少年で、若くして江戸に登り、徳川幕府の学問所・昌平黌に学び、そこでも天下の英才たちと勉学を競い合い、優秀な成績をおさめたらしい。特に漢学と歴史には精通していたらしい。その重野安繹は、薩摩藩留学生の管理・監督係をやっていた時、留学生の学費を使い込むというような金銭的な不祥事を起こし、藩の処分で、「島流し」にあったということである。私は、色々な意味で 、重野安繹は、西郷南洲にとって、重要人物の一人だと思う。もちろん、二人は、面識があった。 江戸勤務時代、二人は、共に島津斉彬に仕える身だった。西郷南洲を、水戸藩の藤田東湖に紹介したのも、重野安繹であるということだ。西郷南洲は、この重野安繹という人物と意気投合したわけではないが、奄美大島時代、他に話し相手がいなかったこともあって、かなり頻繁に会い、且つ、深く語りあった仲だった。この頃、外を見渡すと、「安政の大獄」の渦中であり、時代は風雲急を告げていた。尊王派の同志や仲間たちも、次々と捕縛されたり、惨殺されたりしている。焦り、悲憤慷慨する西郷南洲をなだめ、島流しの身分で、焦っても無駄だよ、ゆっくり 、ノンビリやろうよと、説得したのが重野安繹だった。重野安繹は、既に「島妻」を娶り、妻帯して 、ノンビリ暮らしていたので、西郷南洲にも、「島妻」を勧めたりしている。

(続く)


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