2020年11月13日金曜日

『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。

 



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『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。悲憤慷慨したり、自分を責め悲観したり、あるいは、誰それを激しく批判、罵倒したり・・・したこともあっただろう。おそらく、後に、重野安繹が証言したことは、ほぼ間違いはないだろう。しかし、それは西郷南洲の一面に過ぎないこともまた明らかである。たとえば、橋本左内とはじめて対面した時の印象を、橋本左内は、かなり辛辣に証言している。天下国家を声高に論じる血気盛んな青年・・・と。橋本左内は、「備忘録」に、こう記している。

《 卯月極月(安政二年十二月)、二十七日、原八(水戸藩士原田八兵衛)宅で始めて会す。燕趙悲歌の士う

なり。》(橋本景岳全集)


「 燕趙悲歌の士」と何か。時勢を憤り嘆く人という意味らしい。橋本左内の第一印象は、あまりいいものではなかったということだろう。橋本左内は、越前福井藩士で、西郷南洲より、六歳年下だったが、既に幼少期から、英才として注目されていたらしく、この頃、すでに藩主松平慶永の懐刀として、重くもちいられていた。橋本左内と西郷南洲は、共に 、藩主等が主導する「一橋慶喜将軍擁立運動」に、その実働部隊として活動し、邁進することになるのだが、少なくとも、この時点では、橋本左内は、西郷南洲をそれほど高く評価していない。しかし、西郷南洲の不思議なところは、そういう鋭い眼力の持ち主である橋本左内の評価さえも、短時間のうちに変えてしまうところだ。四ヶ月後の日記では、ガラリと変わっていく。

《西郷はすこぶる君候(斉彬) に得られる。当藩(越前藩)より(斉彬公に)仰せ遣わされた趣など、これを承っている様子。》


つまり、西郷南洲が、大言壮語の「燕趙悲歌の士」という第一印象とは異なり、薩摩藩主島津斉彬の信頼も勝ち得ている実直・有能な人だ・・・という評価へ変わる。こうして、意気投合し、肝胆相照らす仲になった二人は、藩主等の手足となって、「一橋慶喜将軍擁立運動」へと

突き進んでいく。しかし、二人の前にも、「安政の大獄」事件が立ち塞がる。西郷南洲が、奄美大島に島流しにあうのと、ほぼ同時に、橋本左内は、幕府の手に捕まり、安政6年10月7日(1859年11月1日)、伝馬町牢屋敷で斬首となった。26歳であった。




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2020年11月8日日曜日

『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。



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『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。西郷南洲は、沖永良部島時代に、学問に打ち込みすぎて、「学者になったような気分・・・」と手紙に書いている。奄美大島時代にしろ沖永良部島時代にしろ、政治運動や倒幕運動・・・から切り離され、社会からも情報からも孤絶していた。西郷南洲の関心は内部に向かわざるを得なかった。「内部」とは学問や思想以外にない。西郷南洲の向きあった学問や思想が、未熟なものだったにしろ、凡庸なものだったにしろ、西郷南洲のような境遇に追い込められたものは、そんなに多くはないだろう。西郷南洲が向きあった学問が、経歴や肩書きで塗り固められたような表層的なエセ学問だったはずはない。西郷南洲の向きあった学問こそ、ホンモノの学問だったはずだと、私は確信する。司馬遼太郎のような「大衆通俗読み物作家」なら、西洋留学(遊学)の経験があるかないかで、学問のレベルを測定するだろう。西郷南洲は、西洋留学も西洋見物もしていない。西郷の留学先は、奄美大島と沖永良部島だった。「奄美大島と沖永良部島」が、留学先として不足だったはずはない。奄美大島には、昌平黌で、天下の秀才とうたわれ、後に東京帝国大学教授となる「漢学者・重野安繹」がおり、沖永良部島には、川口雪蓬(かわぐちせっぽう)という「陽明学者」がいた。そして周辺には、圧政や貧窮に苦しむ孤島の一般庶民・一般大衆がいた。学問を極めるのに、これ以上、恵まれた環境はない。
私は、ここまで書いて、唐突かもしれないが、私が、高校時代、読み始めて、強い影響を受けたドストエフスキーの約10年間に及ぶ、政治犯としての「シベリア流刑時代」を思い出した。ドストエフスキーもまた、シベリア流刑時代の「10年間」を経て、いわゆる、『 罪と罰』や『悪霊 』『カラマーゾフの兄弟 』・・・等を書くことになる「文豪ドストエフスキー」へと成長する。それまでのドストエフスキーは、才能はある作家ではあったが、何処にでもいる群小作家の一人に過ぎなかった。ドストエフスキーは、この10年間に、極寒の地・シベリアで、何を学んだのか。何が、ドストエフスキーを、群小作家の一人から世界の文学史に残るような「文豪ドストエフスキー」へと変えていったのか。ドストエフスキーは、シベリア流刑時代、「デカブリストの乱」で、夫たちが流刑の処分を受けた「デカブリストの妻たち」に 、護送途中に手渡された『聖書 』を、熟読した。『聖書 』以外は読むことを禁じられていたからだ。ドストエフスキーの文学は、獄中での聖書熟読によって成り立っている。
私は、西郷南洲にも同じことが言えると思う。西郷南洲もまた、絶海の孤島で、書物を熟読し、学問を極めることによって、「西郷吉之助」から「西郷南洲」へと成長して行く。もちろん、「西郷吉之助」もまた、藩主島津斉彬に、類まれな才能を見出され、江戸詰めの「薩摩藩お庭番」に取り立てらるような有能な青年武士だったかもしれない。しかし、「西郷吉之助」を「西郷南洲」に成長させたのは、5年間の「島流し時代」であり、その間に励んだ「学問」のお陰だった。西郷南洲には、「学問がない」のではなく、薄っぺらな、付け刃の「エセ学問」がないだけである。西郷南洲が、孤島の流刑生活で向きあった学問こそ 、ホンモノの学問だった。そこで身につけた学問こそが、「西郷南洲という思想」(江藤淳『南洲残影 』)であったはずだ。

2020年10月29日木曜日

『 南洲伝 』後書き(9)・・・奄美大島時代の西郷南洲をもっと身近で見た人物は、奄美大島の地元の人間を中心に他にも、たくさんいるだろうが、中でも重野安繹(しげの・やすつぐ)の存在は大きい。「本土」(?)側の人間としては唯一と言っていいからだ。



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『 南洲伝 』後書き(9)・・・奄美大島時代の西郷南洲をもっと身近で見た人物は、奄美大島の地元の人間を中心に他にも、たくさんいるだろうが、中でも重野安繹(しげの・やすつぐ)の存在は大きい。「本土」(?)側の人間としては唯一と言っていいからだ。だから、重野安繹の「証言」が重視されることになる。当然だろうが、重野安繹という人物が、どういう人物だった、どういう人間性の持ち主で、どういう政治的立場にいたか・・・などを考慮するならば、重野安繹の証言を、無条件に、信用するわけにもいかないだろうと思う。要するに、重野安繹は、「大久保利通側」「新政府側」の人間、西郷南洲とは敵対関係にあった人間なのである。重野安繹は、後に、つまり西郷南洲の死後、次のよように証言している。

《 「西郷は兎角相手を取る性質がある。これは西郷の悪いところである。自分にもそれは悪いということをいって居た。そうして、その相手をばひどく憎む塩梅がある。西郷という人は一体大度量がある人物ではない。人は豪傑肌であるけれども、度量が大きいとはいえない。いわば度量が偏狭である。度量が偏狭であるから、西南の役などが起るのである。世間の人は大変度量の広い人のように思って居るが、それは皮相の見で、やはり敵を持つ性質である。トウトウ敵を持って、それがために自分も倒れるに至った」 》(重野安繹『西郷南洲逸話』)

貴重な証言であることは間違いない。しかし、この重野安繹の証言は、何処まで信用できるだろうか。「英雄豪傑」や「伝説上の人物」に関する、この種の心理分析や性格分析の証言は、証言者自身の心理状態や性格(パーソナリティ)を、反映していることが少なくない。私は、逆に、重野安繹という人物の「度量」と「偏狭」をあらわしているのではないか、と思う。私は、過剰な褒め言葉も信用しないが、こういう辛辣な批判や蔑視論も信用しない。しかし、多くの作家や歴史家、あるいは歴史愛好家たちは、この重野証言を引用する。しかも、時代考証や史料分析がない。ただ 、無批判に引用するだけである。おそらく、重野安繹が、「歴史学者」であり「実証主義者」であり、 しかも「東大教授」であったという肩書きや経歴から、その必要はないと考えたのだろう。重野安繹の証言は信用出来る  、と。たとえば 、司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』には、「西南戦争」の場面で、重野安繹が、しばしば登場する。多分、司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』という歴史小説は、
重野安繹の証言を、重要史料の一つにすることによって、成り立っている。司馬遼太郎の「大久保利通(川路利良)=洋行帰りの近代主義者」、「西郷南洲(桐野利秋)=前近代的な非合理主義者」という図式は、重野安繹の証言と重なる。
しかし、いずれにしろ、奄美大島の「島流し」時代に、西郷南洲が、その後、「歴史学者」「漢学者」として大成することになる重野安繹と深く交遊したことは重要である。西郷南洲は、重野安繹を通して、多くの「学問」を学んだはずである。当時、重野安繹は奄美大島の「アキナ」というところに居を構えていた。重野安繹は、西郷南洲に会うために、山道を夜も歩き通しで、やってきて、三日三晩、一睡もせずに語り明かすことがしばしばだったというが、お互い、「島流し」の身とあっては、「さもありなん 」と思う。



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2020年10月28日水曜日

『 南洲伝 』 後書き(8)・・・重野安繹(しげの・やすつぐ)という人物は、その輝かしい経歴や肩書き、あるいは交遊関係のわりに、あまり知られていない人物である。実は、重野安繹は、明治維新後は、大久保利通に接近し、大久保利通側近の一人として、反西郷の立場にいた。重野安繹の娘(養女)は、大久保利通の長男に嫁いでいるぐらいだから、相当、大久保利通とは親しくしていたのだろう。



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『 南洲伝 』 後書き(8)・・・重野安繹(しげの・やすつぐ)という人物は、その輝かしい経歴や肩書き、あるいは交遊関係のわりに、あまり知られていない人物である。実は、重野安繹は、明治維新後は、大久保利通に接近し、大久保利通側近の一人として、反西郷の立場にいた。重野安繹の娘(養女)は、大久保利通の長男に嫁いでいるぐらいだから、相当、大久保利通とは親しくしていたのだろう。西郷南洲が、西南戦争で命を落とした時には、一番先に大久保利通邸に駆けつけている。それにもかかわらず、私には、重野安繹という人物は、裏方の人物としか見えない。おそらく、重野安繹自身の人格や人間性に問題があったのだろうと、私は想像する。薩摩藩士族出身ということもあって、政治家や官僚、あるいは軍人になることも可能であっただろうが、彼は、それらの道を歩まなかった。やはり根っからの学者肌だったのだろう。しかし、その方面でも、東京帝国大学草創期の教授となり、後に貴族院議員となったにも関わらず、歴史に残るような業績も名声も残していない。敢えて挙げれば、「抹殺博士」という奇妙な名前とともに、歴史学界に足跡を残しているぐらいだろうか。著作類に関しても、歴史に残るような著作は残していない。誤解を恐れずに言えば、重野安繹の名前が登場するのは、西郷南洲との関係からである。私が、重野安繹という人物を、具体的に知ったのも、西郷南洲に関する書物類からであった。私は、明治初頭に、実証主義歴史学を前面に掲げ、「抹殺博士」と呼ばれた不思議な歴史学者がいたらしいということは、薄々、知っていたが、それが、まさか、西郷南洲に関係する人物だとは想像もしなかった。しかも

それが、鹿児島県出身(薩摩藩)で、薩摩藩藩校造士館の出身だったというのだから・・・。





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2020年10月22日木曜日

『南洲伝』後書き(7)ー西郷南洲は、山川港を、安政6年(1859)1月10日、砂糖運搬船に乗せられて、奄美大島に向けて出発する。そして、2日後の12日に、奄美大島の「龍郷村(たつごうむら)」に到着する。以後、3年間、西郷南洲は、この奄美大島の「龍郷村」で、はやる心を抑えながら、悶々と過ごすことになる。そこへ、不思議な来客があった。同じく奄美大島に、西郷南洲より一年早く、「島流し」にあっていた薩摩藩士・重野安緒であった。

 




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『南洲伝』後書き(7)ー西郷南洲は、山川港を、安政6年(1859)1月10日、砂糖運搬船に乗せられて、奄美大島に向けて出発する。そして、2日後の12日に、奄美大島の「龍郷村(たつごうむら)」に到着する。以後、3年間、西郷南洲は、この奄美大島の「龍郷村」で、はやる心を抑えながら、悶々と過ごすことになる。そこへ、不思議な来客があった。同じく奄美大島に、西郷南洲より一年早く、「島流し」にあっていた薩摩藩士・重野安緒であった。重野安繹(しげの・やすつぐ)のことは、前にも書いた。薩摩藩坂元村生まれの飛び抜けた秀才少年で、若くして江戸に登り、徳川幕府の学問所・昌平黌に学び、そこでも天下の英才たちと勉学を競い合い、優秀な成績をおさめたらしい。特に漢学と歴史には精通していたらしい。その重野安繹は、薩摩藩留学生の管理・監督係をやっていた時、留学生の学費を使い込むというような金銭的な不祥事を起こし、藩の処分で、「島流し」にあったということである。私は、色々な意味で 、重野安繹は、西郷南洲にとって、重要人物の一人だと思う。もちろん、二人は、面識があった。 江戸勤務時代、二人は、共に島津斉彬に仕える身だった。西郷南洲を、水戸藩の藤田東湖に紹介したのも、重野安繹であるということだ。西郷南洲は、この重野安繹という人物と意気投合したわけではないが、奄美大島時代、他に話し相手がいなかったこともあって、かなり頻繁に会い、且つ、深く語りあった仲だった。この頃、外を見渡すと、「安政の大獄」の渦中であり、時代は風雲急を告げていた。尊王派の同志や仲間たちも、次々と捕縛されたり、惨殺されたりしている。焦り、悲憤慷慨する西郷南洲をなだめ、島流しの身分で、焦っても無駄だよ、ゆっくり 、ノンビリやろうよと、説得したのが重野安繹だった。重野安繹は、既に「島妻」を娶り、妻帯して 、ノンビリ暮らしていたので、西郷南洲にも、「島妻」を勧めたりしている。

(続く)


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2020年10月20日火曜日

小林秀雄とマルクス

 


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小林秀雄とマルクス


小林秀雄がマルクス主義を批判したという時、小林秀雄は、保守主義や民族主義や、あるいは芸術至上主義やロマン主義・・・等を擁護していたわけではない。このことは重要である。つまり、小林秀雄は、「マルクス主義的なもの」を批判したのであって、「マルクス主義的なもの」の中には、保守主義や民族主義、芸術至上主義、あるいはロマン主義・・・等も含まれている。

私は、この連載で、一貫して「マルクス主義」を批判し、「マルクス」を擁護するという立ち位置で、論を展開してきた。しかし、前回から、私は、少し、方針を変えている。理論としてのマルクス主義を擁護するという方向へ。それは誤解を避ける

ためである。小林秀雄が、マルクス主義を批判したのは、他に、もっと優れた理論やイデオロギーがあるという事ではない。

戦後、日本でも大流行したサルトルは、「マルクス主義は乗り越え不可能な哲学である」と言ったことがある。その場合、サルトルが念頭においていたのは、マルクスという実存ではなく、マルクス主義という理論であったように見える。しかし、そうだったとしても、今でも、サルトルの発言は有効である。マルクス主義批判は少なくないが、マルクス主義に取って代わるべき新しい哲学理論は、依然として登場していないからだ。実存主義も構造主義も、そして分析哲学やポスト・モダンの思想なども、マルクス主義に取って代わる哲学たり得ていない。線香花火のように一時的には、華々しく流行するが、あっという間に消えていく。そしてマルクス主義へ舞い戻る。

小林秀雄や丸山眞男が認めているように、マルクス主義という哲学理論は、我が国の文学や学問に、激しい衝撃を与えたのである。その衝撃の結果、「マルクス主義経済学」や「マルクス主義歴史学」や「マルクス主義社会学」、あるいは「マルクス主義文学(プロレタリア文学)」・・・等が、続々と誕生する。マルクス主義を否定しようがしまいが、それが現実だった。それを認めるところから小林秀雄は出発した。中島健蔵によると、「マルクスは正しい。ただそれだけだ」と学生時代の小林秀雄は、友人たち語っていたという。

小林秀雄の批評が、今でも、読むに値する批評であり続けているとすれば、その理由はそこにある。小林秀雄は、哲学理論としての、あるいはイデオロギーとしてのマルクス主義を批判していない。つまり、小林秀雄は、マルクス主義を批判・否定して、別の新しい思想や理論(イデオロギー)を構築し、それを対置したのではない。小林秀雄の批評は理論ではない。理論への批判である。そこが、小林秀雄の「マルクス主義批判」と小林秀雄以外の「マルクス主義批判」と違うところだ。


《第一私たちは今日に至るまで、批評の領域にすら全く科学の手を感じないで来た、と言っても過言ではない。こういう状態にあった時、突然極端に科学的な批評方法が導入された。言うまでもなくマルクシズムの思想に乗じてである。導入それ自体には何ら偶然な事情はなかったとしても、これを受け取った文壇にとっては、まさしく唐突な事件であった。》(「文が(文学界の混乱」)


小林秀雄は、この「マルクス主義体験」から出発したのである。繰り返して言うが、小林秀雄は、哲学理論としてのマルクス主義の登場を評価している。小林秀雄にとっても、マルクス主義の登場は衝撃だった。マルクス主義の、この衝撃を、正当に受け止めたからこそ、小林秀雄の「批評」は生み出されたのである。小林秀雄の「批評」は理論やイデオロギーではない。理論やイデオロギーへの批判である。もっと具体的に言えば、理論的思考やイデオロギー的思考への批判である。

今日でも「マルクス主義批判」は盛んである。しかし、それらは、小林秀雄の「マルクス主義批判」とは似て非なる物だ。

では、小林秀雄が認め、評価したマルクス主義という哲学理論とは何か。小林秀雄は、それを、どう評価していたか。


《弁証法的唯物論なる理論を血肉とするには困難な思案はいらぬ、ただ努力が要る。理論と実践とは弁証法的統一のもとにある、とは学者の寝言で、もともと異論と実践とは同じものだ。マルクスは、理論と実践とが弁証法的統一のもとにあるなどと説きはしない、その統一を生きたのだ。マルクスのもった理論は真実な大人の理論である。世の人たちが、先日学生騒動に鑑みて文部省に相寄り、マルクス主義に対抗する思想体系の樹立を宣言した。さぞよくマルクスを理解した事だろう。》(「マルクスの悟達」)


「世の人たちが、先日学生騒動に鑑みて文部省に相寄り、マルクス主義に対抗する思想体系の樹立を宣言した」という小林秀雄の皮肉は、「マルクス主義に対抗する思想体系の樹立を宣言した」ところで、一朝一夕にそんなものが出来るわけがない、ということだろう。そもそも、出来ると妄想して、マルクス主義に取って代わる新しい「思想体系の樹立を宣言した・・・」馬鹿どもは、思想もヘチマも、何も分かっていない、ということだろう。この文章からも分かるように、小林秀雄は、マルクス主義という思想の深さも恐ろしさも、そして思想的徹底性もよく分かっていたということだろう。


《マルクス、エンゲルス、レーニン、と三人の天才の手から手にわたった、弁証法的唯物論という真理はこの世で平凡が蒙る悲惨な宿命をあますところなく身に受けて来たように見える。だから彼らはこの美しい真理に対しては口をつぐんだ。喧嘩は売られた時だけ買ったのだ。そして平凡は当然喧嘩にいつも勝ったのだ。勝ったが相手は澄ましていたのだ。マルクスが「資本論」を書く時に経済学の方法などというものは自明な事に属した。二千頁をこえる書物を書くにあたって、「お前の道を進め、人には勝手な事を言わしておけ」というダンテの格言に終る四頁の序文で事は足りた。方法論の正しさはただ内容のみが明かしたのだ。人は余りに自明な事は一番語り難いものであり、語るを好まぬものである。彼らの抱いた認識の根本的基底については暇人のみがその認識論的基礎づけのために騒いだ、そしてさわぐ事だけしかしなかった。暇人には自明という事が一番わかりにくいものである。》(同上)


この「マルクスの悟達」が書かれたのは、1931年(昭和6年)のことである。『様々なる意匠』で文壇に登場して二年後、まだ、デビューしたばかりの頃である。この段階で、小林秀雄が、マルクス主義の文献をよく読み、深く理解した上で、マルクス主義なるものを高く評価していたことは、これらの文章からも理解できるだろう。しかし、小林秀雄は、当時の多くの青年たちのように、マルクス主義者にも、共産主義者にもならなかった。逆に小林秀雄は、マルクス主義を厳しく批判する側に回る。小林秀雄の「マルクス主義批判」が有効だったのは、マルクス主義を正確に読み込み、深く理解していたからだろう。言い換えれば、小林秀雄以上に、マルクス主義を深く研究し、細部までよく理解していた人はいなかったということではないか。

当時も今も、マルクス主義を批判したり攻撃する人は少なくないが、小林秀雄のように、マルクス主義を正確に理解した上で、批判・攻撃する者はいない。おそらくマルクス主義を正確に読み込んでいるという意味では、マルクス主義者たちやマルクス主義研究者たちも、遠く及ばないのではないか。

私は、小林秀雄と同時代の、マルクス主義批判の文章も、マルクス主義者たちのマルクス主義擁護の文章も、読む気になれない。何故だろうか。マルクス主義の理解が不十分だからではないか。


《「問題は懺悔であり、ただそれだけだ。人類はその罪の宥を得んがためにはその罪をただあるがままに告白しなければならぬ」と彼はルウゲに書いた。ありのままの告白がとりも直さず客観的理論であった。まことに根性をすて切った達人の業である。根性は根性、理論は理論なる迷信が、理論と実践を切り離そうとする。否、切り離して便利がる。今日の風潮に乗じて実践をスポーツと心得ているくせに、またそう心得ている者に限って理論と実践とは一つだ一つだ、と喧しく叫ぶ。黙々として争闘している人々が何故眼に這入らぬか。》(同上)


小林秀雄は、マルクスやマルクス主義を批判していない。マルクス主義を、実践と切り放して、理論として理解しようとするマルクス主義者やマルクス主義研究者たちを批判している。小林秀雄は、マルクス主義の理論を使って、マルクス主義者やマルクス主義研究者たちを批判している。マルクス主義者やマルクス主義研究者たちの多くは、実践の現場にいない。実践の現場では、そもそも理論と実践なる議論はおきない。

小林秀雄等が、マルクス主義の登場を、「衝撃」として受け止めたのは、マルクス主義が「実践」を要求する思想であり哲学理論だったからだ。その結果、多くの青年たちが、実践活動、つまり革命運動に飛び込んでいったのである。「黙々として争闘している人々が何故眼に這入らぬか。」とは、そういう意味であろう。


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2020年10月11日日曜日

『 南洲伝 』後書き(6)・・・西郷南洲は、「安政の大獄」事件以後、約5年間、何処に消えていたのか。実は、西郷南洲は、薩摩藩の命令で、島流しにあっていたのだ。


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『 南洲伝 』後書き(6)・・・西郷南洲は、「安政の大獄」事件以後、約5年間、何処に消えていたのか。実は、西郷南洲は、薩摩藩の命令で、島流しにあっていたのだ。この 5年間の「島流し」の意味は大きい。西郷南洲は、この5年間の「島流し」の時間を経て  、いわゆる「西郷南洲」になったと言っていい。最初の3年間は、奄美大島に幽閉されていた。江戸幕府の追求を逃れて、身を隠すため、という名目で、奄美大島に幽閉されていたにすぎない。つまり、罪人としての島流しではなかったが、実質的には罪人としての島流しとたいして違いはなかった。奄美大島の3年間の間に、日本の歴史は大きく動いていた。3年後 、一度は、許されて、呼び戻され、薩摩藩の政務に復帰するが、再び、島津久光が激怒する事件を起こし、次は本物の罪人として、徳之島に流され、さらに沖永良部島に流され、約2年間、獄舎生活を送った。したがって、西郷南洲は、幕末の大事件である「桜田門外の変」にも、「薩英戦争」にも関わっていない。では、激動の歴史の表舞台を傍観しながら、西郷南洲は、何をしていたのか。福沢諭吉が、「西郷には学問がなかった、それが最大の欠点だ・・・」と言ったところの「学問なるもの」を、やっていたのだ。西郷南洲にとっては、島流しの5年間が、「私の大学」だった。奄美大島時代には、前述した重野安繹(しげの・やすつぐ)が、流刑人として流されて来ており、話し相手を求めて、しばしば西郷南洲の元を訪れていた。重野安繹は、江戸の学問所・昌平黌で学び、しかも昌平黌でも優秀な成績を収め、その後、東大歴史学教授となる大秀才である。いろいろ問題のある人物ではあるが、西郷南洲は、奄美大島時代 、この同世代の大秀才から多くを学んだに違いない。一方 、沖永良部島では、川口雪蓬という陽明学者がいた。西郷南洲の「島流し時代」は、いわゆる「学問」に明け暮れる毎日だったのである。




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