2021年3月13日土曜日

 存在論としての漱石論(9)


江藤淳は、文学や文学者を厳しく批判する。しかし、それは、文学を否定することではない。文学を肯定し、文学の精神と力を擁護するためだ。この分析と論理の「弁証法」が分からなければ、江藤淳の批評の意味も、その過激な批評的思考力の魅力も分からない。批判は否定ではない。厳しい批判のないところには「肯定」もない。


《今日、文学を業とすることはしばしば文学と絶縁すること意味する。 しかしここに「文学者」を廃業する自由が残されていることは案外気づかれていない。文学を業とする者は、自分の意志で他人の都合や「社会的要求」というあいまいな外圧や「良識」を拒絶することができる。業界の席を拒絶したとき、はじめて彼は精神の自由と文学とを回復するのかも知れない。》(江藤淳『 江藤淳著作集』「文学を業とすること」)


《今日、文学を業とすることはしばしば文学と絶縁すること意味する》ということの意味は、深い。江藤淳の批評を理解するためには、もっとも重要なカギの一つが、ここにある。私は、以前から「マルクス」と「マルクス主義」は違う、と言ってきた。同じことが「文学」についても言えるだろう。「文学」と「文学主義」は違う、と。江藤淳が批判するのは、ロマン主義化された「文学主義」であって、「文学」ではない。文学主義こそ文学である、と夢想している「文学青年/少女」たちには、江藤淳の文学の神髄は理解不可能だろう。