2021年3月4日木曜日

 ■存在論としての漱石論(2)。


江藤淳の「批評」が、本質的、原理的、存在論的・・・だということは、どういうことだろうか。江藤淳は、漱石について、面白いことを言っている。文壇や文学研究者たちの世界で、一種の「常識」となっている「作品至上主義」とも言うべき固定観念を激しく批判・攻撃している。


《小説作家としての漱石を考える時、ぼくらは、彼にとって小説の創作が必ずしも唯一最大の関心事ではなかったことに注意する必要がある。芸術作品の創造とか、作品のまったき完成のためにのみ、自らの生活を捧げ尽くすような作家がいるものだ。こうした作家に接する時、彼らが作家以外の職業についたとしたら、どういうことになるのだろうか、などという疑問は浮かばないものである。芸術が彼らの生活を呑みこんでいる。ぼくらは、彼らの伝記を作品の片隅に書き加えられた注釈ようにしか読まない。

漱石はそのような作家ではない。》(『 夏目漱石』)


江藤淳は、激しい口調で、「漱石はそのような作家ではない。」と主張する。では、「そのうな作家」とは 、どういう作家か。

たとえば、江藤淳は、英文学者=吉田健一(吉田茂の息子)を批判する。