2021年3月15日月曜日

 存在論としての漱石論(10)


江藤淳の評判も評価も悪い。所謂、「蛇蝎の如く嫌う」人も少なくない。江藤淳を高く評価する人に会ったことは、ほとんどない。何故だろうか。私は、むしろ、そこに、江藤淳の批評的才能の「凄さ」を感じる。江藤淳を高く評価する人の中の代表的な人物として、吉本隆明と柄谷行人がいる。特に吉本隆明の江藤淳論は、興味深い。江藤淳と吉本隆明とでは、政治思想は言うまでもなく、その文体やテーマも、そして生まれも育ちも、学歴や職歴も、明らかに違う。どうして、吉本隆明は、多くの人に嫌われている江藤淳を、高く評価し、共感を示すのだろうか。むろん、私は、それに疑問を持ったことはない。私は、学生時代、「江藤淳著作集」と「吉本隆明全著作集」を、本棚に並べて、「熟読玩味」していたという体験を持つ。私の中では、吉本隆明が、江藤淳を高く評価するのは自明のことなのだ。江藤淳と吉本隆明。この二人は、「過激な批評的思考力」とでも言うべきものを共有しているからではないか、と思う。「過激な批評的思考力」とは、「存在論的思考力」と言い換えてもいい。江藤淳が理解できない人達、あるいは江藤淳を嫌い、批判・罵倒する人達は、この「過激な批評的思考力」、あるいは「存在論的思考力」が、よく分かっていない人達だろう。言い換えれば、政治思想レベルでしか 、あるいはイデオロギーレベルでしか、物を考える力のない人たちではないのか 、と思う。私が、大学入学の前後に、山田宗睦という人が、『危険な思想家 』(光文社、カッパブックス)という本を出版してベストセラーになったことがある。その本で、山田宗睦という「自称=哲学者」(笑)は、江藤淳や石原慎太郎等を、「戦後民主主義を批判し、否定する・・・危険な思想家」と呼び、批判し、罵倒していた。私も、面白半分に、興味本位で読んでみた。実に、くだらない本だった。「まだ、こんな馬鹿がいるのか・・・」と唖然としたものだった。最近では、『もてない男 』の小谷野敦の『 江藤淳と大江健三郎』(筑摩書房)という本が出ているが、参考資料として、本屋で立ち読みしてみたが、同じように、実に、くだらない芸能週刊誌なみの駄本だった。私は、こういう低次元の誹謗中傷しか出来ない三流の物書き達に興味がない。そういう人達に、かかわることは、時間の無駄である。「  蟹は甲羅に似せて穴を掘る  」と言うが、まさにその通りである。自分が、無能無芸の三流の人物だということを証明しているだけである。

吉本隆明は、江藤淳との対談で、次のように言っている。


《 ただ江藤さんと僕とは、なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って一致しているような感じがする(笑)。》


この、吉本隆明の、あまりにも有名になった言葉の意味を、正確に理解したものは、そんなに多くない。私は、ほとんどいないのではないか、と思う。私の解釈によれば、「  なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って   」というところは、政治思想やイデオロギーの違いであって、「一致している」というのは、存在論としての過激な批評的思考力のことである。政治思想やイデオロギーレベルでしか物を考える力のない人たちには、江藤淳と吉本隆明が、たとえ存在論的レベルの過激な批評的思考力のレベルであっても、「一致する」はずはないのである。一致して欲しくない、というのが彼らのホンネであり、願望であろう。p