2021年3月18日木曜日

 (註記)本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。常に加筆修正中につき、完成稿は『月刊日本』でお読みください。


存在論としての漱石論(13)


漱石神話の中心にあるのは「則天去私」という神話である。江藤淳は、漱石の弟子たちが中心になって作り上げた、この神話を批判し、破壊する。そもそも、この言葉の意味は、「天然自然に則り、私という自我を捨てて生きる・・・」という漱石の晩年の生き方の理想と理念を表す漱石自作の言葉だが、しかし、漱石の弟子たちは、それを実体化し、あたかも「漱石先生」はその理想的境地に到達した聖人君子であるかのように美化し、偶像化する。漱石の弟子たちの中心にいたのは、小宮豊隆であった。したがって、江藤淳の漱石論は、小宮豊隆を批判し、攻撃、破壊することから始まる。「英雄崇拝位不潔なものはない」と書く23歳の大学生・江藤淳は、その若さからは想像出来ないような激しさと緻密な論理で、小宮豊隆の「英雄崇拝」を批判する。


《 小宮豊隆氏をはじめ、多くの優れた註釈者や伝記作者の熱心な努力にも関わらず「心」「道草」「明暗」の三つの作品を通じて、漱石は明らかに「愛」の可能性を探索するより、その不可能性を立証しようとしている。人間的愛の絶対的必要性を痛切に感じながら、それが同時に絶対的に不可能であることを、全ての智力を傾けて描いていた奇妙な男の姿が、これらの作品の行間から浮かび上がって来る。大作家や大思想家から、ある種の啓示をうけたいという欲求ほど、その弟子たちを誘惑するものはない。彼は問題を解決したが故に偉大である。彼はほとんど神に近い。そう思うことによって自らを使徒にしようとするのは極めて当然の感情である。》(江藤淳『夏目漱石 』)


この場合、「大作家や大思想家」が漱石であり、「弟子」や「使徒」が小宮豊隆である。小宮豊隆の「夏目漱石」像は、あまりにも理想化され、偶像化されていると、江藤淳は言いたいのだろう。実際の夏目漱石は、そんな単純素朴な作家ではなかった、と。では、江藤淳にとって、夏目漱石はどういう作家だったのか。


《 しかしぼくらが漱石を偉大という時、それは決して右のような理由いよってではない。彼は問題を解決しなかったから偉大なのであり、一生を通じて彼の精神を苦しめていた問題に結局忠実だったから偉大なのである。》(江藤淳『夏目漱石』)


我々は、しばしば、問題を解決したか、解決しなかったかということに、注目する。問題を解決した人を絶賛し、評価する。人類の歴史と言われるものは、問題を解決した人の歴史である。問題を解決しなかった人は、歴史から消え、忘れ去られる。

もちろん、夏目漱石も、問題を解決した人の側にいる。東京帝国大学を卒業し、愛媛や熊本で、教員生活の後、文部省留学生として、イギリス、ロンドンに留学、帰国後は東京帝国大学講師として、英文学の講義を始める。ここまでは、明らかに成功した側の人間ということになる。漱石の弟子たちや愛読者たちは、漱石を、「先生」、あるいは少し大袈裟に言うならば、「聖人君子」 

「人生の教師」・・・と見ていた。その象徴が、「則天去私」神話だといっていいだろう。

江藤淳は、それに激しく抗議し、漱石はそういう作家ではなかった、という。それが、「問題を解決したから偉大なのではなく、問題を解決しなかったからこそ偉大だ」という言葉遣いである。続けて、こういっている。

《 彼が「明暗」に「救済」の結末を書いたとしたなら、それは最後のどたん場で自らの問題を放棄したことになる。これまで述べた来たことから明らかなように、あらゆる作品の示すかぎりに於て、彼は小宮氏の期待する救済を書き得る人ではなかった。ぼくらの心に感動をひきおこすのは、こうした彼の悲惨な姿である。》

江藤淳は、漱石の「優秀な弟子たち」を、「鈍感な俗物たち」とみなして、批判し、罵倒する。漱石の弟子たちよいうのは、その大部分は、漱石と同じく東京帝国大学の学生や卒業生であった。芥川龍之介や菊池寛 、久米正雄、あるいは寺田寅彦、小宮豊隆・・・。彼らが作り上げた「美しい師弟愛物語」について、江藤淳は、こう書いている。

《不幸なことには、このような漱石ほど誤解され 続けている作家は少い。彼は、おそらく門弟達に「心」の先生のように理解されることを欲したのである。「文豪」や「師」としての自分をではなく、おびえた、孤独な、傷ついた獣のような自分を。しかし門弟は漱石を「偉大」にすることに懸命になり、漱石は漱石で、教師生活で身につけたポーズを守りながら 、こうした門弟から理解されることを諦めなければならなかった。このようにして、彼は、共感力の乏しい友人や弟子にとりかこまれている非凡な人間の、通常味わわねばならぬ孤独をも体験せざるを得なかったのである。》