2021年3月30日火曜日

 私が『呉座勇一問題 』に拘る個人的理由と思想的根拠(3)。


ヘーゲルは『歴史哲学講義 』の冒頭で、事実の記述だけでは、歴史ではない、歴史は、哲学的歴史において初めて歴史になると言っている。このヘーゲル的歴史には、賛否両論があるだろうが、私は、重要な意見だと思う。小林秀雄は、その初期の段階から、ヘーゲル=マルクス主義的な「唯物史観」を激しく批判・攻撃しているが 、史料や文献だけで歴史が成立するとは言っていない。歴史への参加を主張している。また、私は、以前から東洋史学の岡田英弘(東京外語大名誉教授)の『 歴史とはなにか』を愛読しているが、岡田英弘も、歴史とは「空間軸と時間軸」の交差するところに成立するものだといっている。史料や文献だけで 、歴史という複雑なものが、理解できるとは言っていない。歴史(ヒストリー)は物語(イストワール、ヒストリー)と同義語である。当然だが、史料や文献だけでは、歴史は成り立たない。

「呉座勇一問題」で、私が、最大の根本問題だと思ったことは、呉座勇一が自慢する「歴史学者」たちの「方法」に関する問題だった。作家で歴史研究家の井沢元彦は、歴史学者を、「史料絶対主義」とか「史料第一主義」とか言って、歴史のメインテーマに踏み込まない歴史学者は専門馬鹿だとか激しく、批判・罵倒しているらしい。私は、井沢元彦をほとんど読んだことがないので、この表現が正確かどうか分からないが、私自身は、どちらかと言うと、井沢元彦の意見に賛成だ。歴史学者がつまらなのは、歴史の深層を避けて、史料や資料、あるいは文献にこだわりすぎて、その先の「歴史の哲学」とでもいうべき世界にに踏み込まないことだ。たとえば、呉座勇一は、「本能寺の変」で、明智光秀が、何故、謀反を起こして信長を攻めて死に追いやったのか・・・というような問題に、踏み込まないのが「歴史学者」だという。「本能寺の変」の謎のような一般受けするような問題を採り上げないのが歴史学者だ、と。史料や文献がないような歴史問題は、留保するのが歴史学者だ、と。やなるほど、そうか。そうであるならば、われわれが、歴史学者という人種を軽視し、軽蔑、無視するのも当然だろう。しかし呉座勇一は、それに怒り狂っているのだ。歴史学者を馬鹿にするのもいい加減にしろ 、と。呉座勇一は、八幡和郎等に反論して、こう書いている。

ーーーーーー引用始まりーーーーーー

そもそもなぜ明智光秀が本能寺の変を起こしたかという動機を考える上で役に立つ史料は乏しい。安土宗論もそうだが、在野の歴史研究家が「アカデミズムの歴史学者は答えを出していない。怠慢だ!」と批判する事例は、史料が乏しくて決定打が出せないものばかりである。史料がないから歴史学者が慎重に解答を留保している事象について、在野の歴史研究者が勝手に妄想して「謎を解いた!」と一方的に勝利宣言しているだけである。

ーーーーーー引用終わりーーーーーー


「  史料がないから歴史学者が慎重に解答を留保している事象    」という一節に私は注目する。史料が見つからないような場合 、「歴史学者が慎重に解答を留保する」ことが、歴史研究者の正しい在り方だと、呉座勇一は、主張しているように見える。一方、呉座勇一は言う、「在野の歴史研究者が勝手に妄想して『 謎を解いた!』と一方的に勝利宣言しているだけである。」と。ここで、在野の歴史研究家が「勝手に妄想して・・・」というときの「妄想」という表現は、呉座勇一という人間の人間性を 、よく表しているように見える。歴史研究や歴史解釈には、あまり良くない表現だが、この「妄想力」が必要だろう。この「妄想力」とは、言い換えれば、「思考力」ということであり「想像力」、「構想力」ということだろう。呉座勇一は、それを否定し、拒絶し、嘲笑しているということだ。呉座勇一という三流の歴史学者の歴史研究がつまらないのは、そのためだろう。


(先日、早稲田大学に行ってきました。さすがに、学生は、いませんでした。大隈講堂で、大学進学直前、大江健三郎の講演を聴いたことを思い出します。)

 私が『呉座勇一問題 』に拘る個人的理由と思想的根拠(2)。


私は、呉座勇一をめぐる「呉座勇一●八幡和郎論争」や「呉座勇一●井沢元彦論争」をネット上で傍観しながら、「歴史問題」だけではなく、現在の日本が直面している多くの問題の根っこが、ここにあるのではないか、と考えた。それは、私が、日ごろから考えている日本人の「思考力の衰弱」「思考力の欠如」という問題であった。現在の日本では、「考えている人間」、あるいは「考えようとしている人間」を 、「考ええない人間」、あるいは「考える力のない人間」が、学歴や職歴、肩書きなどを武器にして、批判、攻撃し、バッシングしているという問題であった。受験馬鹿や受験秀才は、普通、「考える力」のある人間と思われている。しかし、それは、おおきな間違いである。彼らは、「考える力」「考える能力」「考える意欲」を放棄し、喪失した、「雑学=クイズ=マニア」的な丸暗記型のロボット人間である場合が少なくない。もちろん、例外はあるが・・・。呉座勇一がその具体的見本である。私が、呉座勇一の言動や論争時の言葉使いを傍観していて感じたことは、この人は、「考える力」のない人間だなー、ということだった。考える力のある人間は、自分の学歴や職歴、肩書きに、安易に依存する言論をしない。むしろ、そういう言論を恥じるものだ。私は、呉座勇一が、「在野の歴史研究者」という表現で、「在野の人間」を見下し、嘲笑し、愚弄している言論を見た時、すぐにそれを感じた。私自身 、東大卒でも国立大卒でもないので、ましてや国立大を盲目的に崇め奉る習癖のある地方の公立高出身なので、そういうことに敏感なのだ。さて、「呉座勇一問題」に戻る。呉座勇一は、井沢元彦と八幡和郎を相手に、以下のような文章(論争文)を書いている。タイトルからして、巫山戯ている。

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在野の歴史研究家に望むこと

2019年03月21日 

呉座 勇一

国際日本文化研究センター助教

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この文章は、論争文であり、当然、激しい口調になっているが、それはともかくとして、この文章の中に、私の「癇に障る」表現があった。たとえば「在野」という言葉である。ここで、呉座勇一は、論争相手である、作家の井沢元彦と官僚出身で地方の私立大学教授でもある八幡和郎を、「在野の歴史研究家」と呼んで、見くだしているのである。逆に、「オレ様・・・」は、大学や国立の研究機関に勤務する、いわゆる「アカデミズム」の歴史学者であると、誇らしげに、言おうとしているのである。こんな文章がある。

ーーーーーー   引用始まり ーーーーーー

そもそも井沢氏(ついでに言うと八幡氏もだが)がおかしな陰謀論を唱えなければ、私がわざわざそれを批判する必要もなかったわけで、在野のトンデモ歴史研究家によって、教育普及活動を行っている歴史学者は足を引っ張られているわけである。妨害している当の本人が歴史学者に「もっと教育普及活動に力を入れろ。百田・井沢の説をきちんと具体的に批判しろ」と言うのは、泥棒が「盗難事件が多いのは警察がだらしないからだ。もっとちゃんと仕事をしろ」と文句をつけるようなものである。(呉座勇一)

ーーーーーー引用終わりーーーーーー


はー(?)。私は、この論争文の一節を読んで、はっきり言って、不快感だけではなく、怒りに近いものを感じた。呉座勇一は、井沢元彦や八幡和郎の「主張」を 、「陰謀論」と呼んでいる。私は、呉座勇一の主張の多くは正しいだろうと、推察する。しかし、井沢元彦や八幡和郎らの主張を、「 在野のトンデモ歴史研究家  ・・・」の「陰謀論」と切り捨てることには、首をかしげざるをえない。しかも、「 在野のトンデモ歴史研究家」を「泥棒」にたとえ、自分たち、「官学アカデミズムの歴史学者」 を警官にたとえている。この一文を読みながら、私は、不謹慎にも、「この男、頭は大丈夫か」と思ったものだ。


ーーーーーー引用始まりーーーーーー

もちろん在野の歴史研究家が新説を唱えるのは自由である。だが「学界の通説を一蹴した」といった誇大宣伝はやめてほしい。現に、古今東西の歴史に通暁しているはずの八幡氏でさえ井沢氏の主張を鵜呑みにして「井沢元彦が安土宗論に関する学界の通説を一蹴した」と思い込んでいたではないか。まして一般の読者なら井沢氏の自信満々な口ぶりに騙され、「井沢氏の言っていることこそが歴史の真実であり、歴史学者は馬鹿ばかり」と誤解しても不思議はない。(呉座勇一)

 ーーーーーー引用終わりーーーーーー


この口ぶりには、唖然とせざるをえなかった。「学界」とか「歴史学者」というものに、誇りとプライドを持つことはいいだろう。さらに、「在野の歴史研究家」(歴史学者ではない!)と「歴史学者」とを、やや身分差別的に、明確に分けることも、しかたない。だが、考えてみるがいい。そもそも、「歴史学者」の歴史研究には誤りはなく、「在野の歴史研究家」の歴史研究は「陰謀論」ばかりというのは、言い過ぎというより、まさに「暴論」「愚論」でしかないのではないか。幸田露伴や森鴎外等の「歴史小説」や「歴史研究」には意味も価値もないのか。「江戸学の父」と言われる三田村鳶魚(えんぎょ)は、「官学アカデミズム」と無縁であったが、三田村鳶魚も、「在野のトンデモ歴史研究家」にしか過ぎないのか。あるいは 、小林秀雄の『 本居宣長』は、歴史研究に値しないのか。江藤淳の『 近代以前』という江戸思想史研究はどうか。あるいは 、秋田師範学校を出て、小学校教員や10数年のジャーナリスト生活を経て、京都帝国大学国史学科教授となり、東京帝国大学の白鳥倉吉教授とともに、戦前の歴史学界を二分した内藤湖南は、どうか。呉座勇一の説に従えば、内藤湖南の前半は、明らかに「在野のトンデモ歴史研究家」だったということになるのではないか。もし、若き日の内藤湖南が「在野のトンデモ歴史研究家」でしかなかったとすれば、何故  、京都帝国大学は、内藤湖南を教授に招聘したのか。内藤湖南の歴史研究を、評価したからではないのか。呉座勇一の井沢元彦や八幡和郎への批判には 、正しい批判もあるが、根本的間違いもある。  呉座勇一は、そもそも「歴史とは何か」という歴史研究の根本問題がわかっていない。

2021年3月29日月曜日

 私が『呉座勇一問題 』に拘る個人的理由と思想的根拠(1)。


知らない人は不思議に思うかもしれないが、呉座勇一に関しては、私は、野次馬的興味もないわけではないが、かなり真剣に、拘っている。私は、最近、「歴史」という問題に、関心を持っている。私は、これまで、「文学」や「哲学」、あるいは「政治」などには、関心を持ってきたが、正直のところ「歴史」には、さほど興味がなかった。私が、最近、「歴史」に関心と興味を持つようになったのには思想的理由がある。私は、NHKの歴史大河ドラマは、昔からほとんど見ていないが、たまたま、2、3年前、西郷南洲をメインテーマにした『 西郷どん(セゴドン)』が放映された時、主な舞台や主人公が、自分の郷里や郷里の出身者たちでもあり、またNHKドラマ『 西郷どん(セゴドン)』の「時代考証」を担当した原口泉(鹿児島大学名誉教授)が、高校時代のクラスメートでもあったことなどから、興味を持って見ることにした。しかし、『 西郷どん (セゴドン) 』は、第一回目から、林真理子原作で、原作自体がいい加減なもので、放映されたドラマも期待はずれだった。その上、時代考証なども、かなり粗雑なものだった。西郷南洲が、殿様(島津斉彬)と相撲をとったり、西郷南洲と篤姫が恋愛感情をもっていたり 、錦江湾に飛び込んで心中事件を引き起こした西郷南洲と月照が「ボーイズラブ」だったりとか・・・。面白おかしく仕立てられた漫画チックな「ファンタジーノベル」か「ライトノベル」でしかなかった。違和感どころか、不愉快になり 、怒りさえ感じ始めたので、精神衛生上良くないので、後は見なかった。違和感や怒りを感じたのは私だけではなかったようで、「時代考証」担当の原口泉に問い詰める人もいたらしい。驚くべきことに、原口泉の答えは、「アレはドラマですから・・・」というものだったらしい。原口泉は、鹿児島では、NHKテレビに頻繁に登場することもあって、芸能人なみに「超有名人」(笑)らしく、講演会や各種のイベントなどに「引っ張りだこ」のようだが、専門のはずの歴史研究や時代考証の方は、おざなりらしい。私は、同級生の悪口は、これ以上、言いたくないので、やめるが、南洲墓地の横に「大久保利通記念碑」を建てるなど、「東京大学歴史学科卒」「国立大学教授」というような学歴や職歴を利用して、他にもいろいろ問題や騒動をしでかしているようなのだ。西郷南洲の縁戚の人間で、NHKドラマにも協力し、かたわら西郷南洲関係の歴史研究を続けている「某氏」などは、原口泉の「西郷南洲研究」を、目の仇にしている・・・という具合だ。というわけで、私は、突然、「歴史」や「歴史学」、あるいは「歴史哲学」「時代考証」「史料分析」・・・というものに思想的関心を持つようになった。ところで、たまたま、その頃、私の視界に、「呉座勇一」という名前の歴史研究者が、飛び込んで来たのである。それは、井沢元彦や八幡和郎らと、ネット上で、「歴史」や「歴史研究」、あるいは「資料」「文学」「アカデミズムと在野」・・・などをめぐって、論争している呉座勇一であった。私は、面白かったので、しばらく静観していたが、次第に、私自身の問題関心にも、かなり強い刺激を与えるものだったので、その論争に、野次馬的に、横から介入していったのである。呉座勇一は、そこで、作家や評論家の「歴史研究」を 、「在野の素人の歴史研究」と位置づけ、「われわれ(呉座勇一等)、官学アカデミズムに属する歴史研究者だけが、正式の歴史研者である」、「ド素人は黙っていろ」というような暴論と暴言を吐きまくっていたので、これは、黙っているわけにはいかない、と、不肖、私、山崎行太郎大先生(笑)が、満を持して、立ち上がったわけである。そして、例によって、例のごとく、ネット上で、執拗に「呉座勇一批判」を繰り返したのである。すると  、ある日、とつぜん、呉座勇一の「子分」(笑)と思しきチンケな野郎(生駒哲郎 、

「日本史史料研究」会長?)からチンケなメールが届いた。「呉座勇一批判はやめろ」「呉座勇一先生に謝罪しろ」「謝罪文は以下( 謝罪文) にしろ」「この警告メールを無視したら 、とんでもないことになるぞ」・・・というような恐喝メールだった。笑った 、笑った、笑った。今どき、こんな大バカ野郎が、この日本に棲息しているとは・・・。世間知らずにもほどがある。何を考えて歴史研究をやっているんだろう 、コイツらは・・・。これが「官学アカデミズム」の実態なのか・・・。子どものチャンバラごっこのような、そのチンケな警告を、当然、私は無視した。その後、どうなったか。続きは次回に。

2021年3月26日金曜日

 呉座勇一の「ジェンダー事件」について、「Youtube動画」で話してみた。


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https://youtu.be/ncb50GEBuNg

https://youtu.be/ncb50GEBuNg

 国際日文研の「呉座勇一」について、私の知っていることを話してみよう。


「国際日文研」とは、バブル期のころ、古代史研究で有名な梅原猛等が主導して、京都に設立された研究機関「国際日本文化研究センター」である。バブル期の遺産である。そこで「助教」という下っ端研究員である「呉座勇一」が、何か、取り返しのつかない不始末をしでかして、謝罪騒動に追い込められたり、「国際日文研」の方でも、訳の分からない声明文を出したりと、前代未聞のスキャンダルに発展しているらしい。以下に引用するのは、「国際日文研」所長だという井上章一名義の声明文である。そもそも、井上章一という三流のナンチャラ文化人が、所長とは驚きであるが・・・。その前の「所長」は 「小松和彦」とかいう「妖怪ウォッチヤー」だったような気がするが、この程度の三流学者・エセ文化人が「所長」の国立研究機関が必要なのかどうか、はなはだ 疑問だが、こんなレベルのクズ研究機関のクズ研究員(呉座勇一のこと)が、学問や思想、文化の「阻害要因」になっているのだから、笑止である。税金の無駄使いとはこういうのを言うのだろう。


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2021.03.24 国際日本文化研究センター教員の不適切発言について

このたび、本センター教員が、私的に利用していたツイッターアカウントにおきまして、他者を傷つけ、研究者として到底容認されない発言を繰り返していたことが判明しました。即刻、解体し、廃絶すべきだろう。


本センターは、それらが個人の表現の自由を逸脱した良識を欠く行為であると考えています。


今回の発言は、多様性を尊重する本センターの方針に著しく背く行為と判断したため、所長および副所長が当該教員に厳重な注意を行い、傷つけられた方々に対し誠実に謝罪するよう厳しく指導いたしました。


本件におきまして、ツイッター上の発言を目にして不快な思いを抱かれた方々、また直接に迷惑をこうむられた関係者の皆さまには、心より深くお詫び申し上げます。


本センターは、性別・国籍はもとよりいかなる差別も厳しく禁ずる組織であり、今後、引き続き経緯を精査し規則等に照らし適切な対処を行います。併せて教職員の私的利用も含めたSNS利用ガイドラインを早急に公開し教職員に周知徹底し、このような事態が二度と起こらないよう努めてまいります。


このたびの本センター教員による一連の不適切発言につき深くお詫び申し上げます。


 

令和3年3月24日

所長 井上 章一

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井上章一名義の、この文章を読みながら、私は、本当に、お前は馬鹿だなーと思う。それで、よく学者を気取ってるなー。「美人論」が京大アカデミズムかよ・・・。呉座勇一はクズだが、女子供にペコペコするしか能のない、お前は、もっとクズだよ。ゴミクズ学者?

井上章一よ、「研究者として到底容認されない発言・・・」ってなんだよ。「ジェンダー」のことかよ。本来の「学問研究者」なら、職責を賭けて、言いたいこと、思うことを、自由に発言すべきだろう。世相や時勢に阿って、当たり障りのないことを発言することが、「学問の自由」なのか。お前が、三流のクズ芸人だということは明らかだよ。冗談だが、お前より、「ジェンダークソ喰らえ」の呉座勇一の方がまだマシだよ。私も、上野千鶴子とか「ジェンダーフリー」とか、「クソ喰らえ」と思っている。

井上章一のヒット作『美人論 』とかいう名著(迷著?)を読んだことはないが、バカバカしくて無視黙殺したが、その『美人論 』という名著(迷著)のタイトルからして、いかがわしいだろう。そもそも『 美人論』が「学問」なのか。女を美醜で判断し、選別している。何が、あらゆる差別に反対し・・・だよ。、

2021年3月25日木曜日

 藤田東湖と西郷南洲(3-2)


西郷南洲と藤田東湖とが、交流したのは、わずか一年半であった。しかし、何回も繰り返すが、この「一年半」は、貴重な一年半であった。藤田東湖は、安政2年10月2日、志半ばで、安政の大地震に巻き込まれ、あっけなく歴史の表舞台から消えていく。残された西郷南洲にとって、嘆き悲しむ余裕も時間もなかった。まさに歴史は激動の時代へと入っていく。西郷南洲は、藤田東湖の「死亡」と共に、その遺志を受け継ぐかのように、藩主島津斉彬の手足となり、政治の前面に登場し、目覚しい活躍をする。この頃の政治は、どちらかと言えば、水戸藩を中心に動いていた。しかし、藤田東湖や戸田忠太夫等、いわゆる水戸学派の大学者=大思想家を喪った水戸藩は、迷走の兆しをみせはじめていた。そこで、薩摩藩と水戸藩、あるいは京都の朝廷との仲介役として八面六臂の活躍をするのが西郷南洲だった。まだ、江戸に着いてから2 、3年後のことだ。私は、本稿の冒頭で、福澤諭吉の「西郷南洲には学がなかった」という言葉に違和感を感じると記したが、福澤諭吉は、もちろん、当時、群を抜く大思想家であったが、やはり、福澤諭吉もまた、西郷南洲を擁護しながらも、「西南戦争」での惨敗という歴史的事実に振り回されていたと思われる。歴史はもちろん「結果」が重要である。しかし、結果論だけでは見えないものもある。たとえば、凡庸な歴史学者、凡庸な歴史研究者には見えない「何ものか」である。たとえば、ハイデッガーの存在論哲学では、「存在」と「存在者」を区別する。存在と存在者とは同じではない  、と。見える存在と見えない存在の差異・・・。藤田東湖や内村鑑三、中江兆民・・・等には、その「何ものか」が見えていたのだろう。私は、藤田東湖は、自分の遺志を受け継いでくれる後継者として、西郷南洲を見ていたと思う。おそらく、まだ「一年半」の交流しかしていない薩摩出身の若者に、何かを見ていたはずである。わずか「一年半」の交流に過ぎなかったが、藤田東湖の「遺志」は、確実に受け継がれたのである。そして、西郷南洲自身も、その期待をひしひしと感じていただろう。西郷南洲は、この頃から、「自分は、いつ死んでもいい」、「命懸けで・・・」、政治活動に打ち込むと言いはじめる。

 

国際日文研の呉座要一(助教)が取り返しのつかない不始末をしでかしたらしい・・・。

「京都日文研ー助教」の呉座要一は、前から分かっていたが 、単なる「インチキ野郎」 「妄想野郎」だろう。呉座要一は、勤務先の「京都日文研」を傘にきて、民間歴史研究者に向かって、悪罵・暴言を吐きまくっていたが・・・。とうとうメッキが剥がれたようだ 。

「京都日文研」は責任取れよ。(笑)「京都人文研」も、呉座スキャンダルで終わったね。「京都日文研」は解体せよ。いつまで 、こういうキチガイを、税金で 、雇うのだよ。何は、ともあれ、呉座大先生  、NHK降板、おめでとうございます。“   

2021年3月22日月曜日

 藤田東湖と西郷南洲(3)


内村鑑三の『 代表的日本人』は、西郷南洲(西郷隆盛)の話から始まっている。それは、内村鑑三が、西郷南洲をいかに高く評価していたかを示している。その『 代表的日本人』の中の西郷南洲の話の中に、藤田東湖が登場する。藤田東湖と西郷南洲の出会いについて、こう書いている。

《 しかし、重要で、もっとも大きな精神的感化は、時代のリーダーであった人物から受けました。それは、「大和魂のかたまり」である水戸の藤田東湖です。東湖はまるで日本を霊化したような存在でした。》


つまり、内村鑑三の西郷南洲に対する評価は、政治や軍事的な側面ではなく、どちらかというと、精神的、道徳的 、倫理的、宗教的な側面だったように見える。そして、それらの側面を、水戸の藤田東湖に教わったのではないか、と。キリスト教徒であった内村鑑三は、宗派的なイデオロギーを超えて、西郷南洲だけではなく、藤田東湖をも、高く評価していた。おそらく、内村鑑三は、二人のなかに、「日本的霊性」(鈴木大拙)を発見していたのではないか。続けて、こう書いている。


《 外形きびしく、鋭くとがった容貌は、火山の富士の姿であり、そのなかに誠実そのものの精神を宿していました。正義の熱愛者であり、「西欧の蛮人」の嫌悪者である東湖の近くには、時代をになう若者たちが集いました。西郷は遠方にありながら東湖の名声を耳にして、藩主とともに江戸に滞在していたとき、接見の機会をのがさず会いに行きました。》


私は、内村鑑三のような一流の文化人、思想家、宗教家が、西郷南洲だけではなく、藤田東湖までを高く評価し、「霊化」とか「霊性」という次元で絶賛するのに、興味を持つ。藤田東湖はともかくとして、西郷南洲は、毀誉褒貶の激しい人である。聖人君子のように崇拝する人もいれば、「ウドの大木」とか「木偶の坊」とか呼ぶ人もいる。しかし、私は、内村鑑三が、西郷南洲を、「霊的人物」として評価していることに、ホットする。私は、西郷南洲を偶像崇拝することにも違和感を感じるが、西郷南洲を愚鈍な俗人扱いすることにも激しい違和感を感じる。

西郷南洲は、小説やテレビドラマなどでは、必ずと言っていいぐらいに、度の強い鹿児島弁(薩摩弁?)を使うことになっているが、これも、かなり怪しい。年上の大学者=藤田東湖とも、どういう言葉で対話、歓談したのだろうか。西郷南洲は、史料を調べると、服装も言葉遣いも、かなり気を遣い 、丁寧であったと言われる。


2021年3月18日木曜日

 (註記)本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。常に加筆修正中につき、完成稿は『月刊日本』でお読みください。


存在論としての漱石論(13)


漱石神話の中心にあるのは「則天去私」という神話である。江藤淳は、漱石の弟子たちが中心になって作り上げた、この神話を批判し、破壊する。そもそも、この言葉の意味は、「天然自然に則り、私という自我を捨てて生きる・・・」という漱石の晩年の生き方の理想と理念を表す漱石自作の言葉だが、しかし、漱石の弟子たちは、それを実体化し、あたかも「漱石先生」はその理想的境地に到達した聖人君子であるかのように美化し、偶像化する。漱石の弟子たちの中心にいたのは、小宮豊隆であった。したがって、江藤淳の漱石論は、小宮豊隆を批判し、攻撃、破壊することから始まる。「英雄崇拝位不潔なものはない」と書く23歳の大学生・江藤淳は、その若さからは想像出来ないような激しさと緻密な論理で、小宮豊隆の「英雄崇拝」を批判する。


《 小宮豊隆氏をはじめ、多くの優れた註釈者や伝記作者の熱心な努力にも関わらず「心」「道草」「明暗」の三つの作品を通じて、漱石は明らかに「愛」の可能性を探索するより、その不可能性を立証しようとしている。人間的愛の絶対的必要性を痛切に感じながら、それが同時に絶対的に不可能であることを、全ての智力を傾けて描いていた奇妙な男の姿が、これらの作品の行間から浮かび上がって来る。大作家や大思想家から、ある種の啓示をうけたいという欲求ほど、その弟子たちを誘惑するものはない。彼は問題を解決したが故に偉大である。彼はほとんど神に近い。そう思うことによって自らを使徒にしようとするのは極めて当然の感情である。》(江藤淳『夏目漱石 』)


この場合、「大作家や大思想家」が漱石であり、「弟子」や「使徒」が小宮豊隆である。小宮豊隆の「夏目漱石」像は、あまりにも理想化され、偶像化されていると、江藤淳は言いたいのだろう。実際の夏目漱石は、そんな単純素朴な作家ではなかった、と。では、江藤淳にとって、夏目漱石はどういう作家だったのか。


《 しかしぼくらが漱石を偉大という時、それは決して右のような理由いよってではない。彼は問題を解決しなかったから偉大なのであり、一生を通じて彼の精神を苦しめていた問題に結局忠実だったから偉大なのである。》(江藤淳『夏目漱石』)


我々は、しばしば、問題を解決したか、解決しなかったかということに、注目する。問題を解決した人を絶賛し、評価する。人類の歴史と言われるものは、問題を解決した人の歴史である。問題を解決しなかった人は、歴史から消え、忘れ去られる。

もちろん、夏目漱石も、問題を解決した人の側にいる。東京帝国大学を卒業し、愛媛や熊本で、教員生活の後、文部省留学生として、イギリス、ロンドンに留学、帰国後は東京帝国大学講師として、英文学の講義を始める。ここまでは、明らかに成功した側の人間ということになる。漱石の弟子たちや愛読者たちは、漱石を、「先生」、あるいは少し大袈裟に言うならば、「聖人君子」 

「人生の教師」・・・と見ていた。その象徴が、「則天去私」神話だといっていいだろう。

江藤淳は、それに激しく抗議し、漱石はそういう作家ではなかった、という。それが、「問題を解決したから偉大なのではなく、問題を解決しなかったからこそ偉大だ」という言葉遣いである。続けて、こういっている。

《 彼が「明暗」に「救済」の結末を書いたとしたなら、それは最後のどたん場で自らの問題を放棄したことになる。これまで述べた来たことから明らかなように、あらゆる作品の示すかぎりに於て、彼は小宮氏の期待する救済を書き得る人ではなかった。ぼくらの心に感動をひきおこすのは、こうした彼の悲惨な姿である。》

江藤淳は、漱石の「優秀な弟子たち」を、「鈍感な俗物たち」とみなして、批判し、罵倒する。漱石の弟子たちよいうのは、その大部分は、漱石と同じく東京帝国大学の学生や卒業生であった。芥川龍之介や菊池寛 、久米正雄、あるいは寺田寅彦、小宮豊隆・・・。彼らが作り上げた「美しい師弟愛物語」について、江藤淳は、こう書いている。

《不幸なことには、このような漱石ほど誤解され 続けている作家は少い。彼は、おそらく門弟達に「心」の先生のように理解されることを欲したのである。「文豪」や「師」としての自分をではなく、おびえた、孤独な、傷ついた獣のような自分を。しかし門弟は漱石を「偉大」にすることに懸命になり、漱石は漱石で、教師生活で身につけたポーズを守りながら 、こうした門弟から理解されることを諦めなければならなかった。このようにして、彼は、共感力の乏しい友人や弟子にとりかこまれている非凡な人間の、通常味わわねばならぬ孤独をも体験せざるを得なかったのである。》

2021年3月17日水曜日

 (註記)本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。常に加筆修正中につき、完成稿は『月刊日本』でお読みください。


存在論としての漱石論(12)


江藤淳の漱石論で、眼を引くものの一つは、漱石と、単なる崇拝者でしかない、その弟子たちとを分けて論じているところだ。江藤淳は、その漱石論で、所謂、「漱石神話」の製作者たちを手厳しく批判し、「漱石神話」なるものを破壊している。『夏目漱石 』の「初版へのあとがき」で、こう書いている。

《漱石についてはもうすべてがいいつくされている。今更なにをいってもはじまらない。というのがおそらく今日の通説である。しかしこのような通説ほど、ぼくにとって理解し難いものはなかった。ぼくには、自分の眼に見える漱石の姿を、出来るだけ生き生きと描いてみたいという凶暴な衝動があった。 》


江藤淳は、漱石の弟子たちが中心になって作り上げた「漱石神話」の破壊を、「凶暴な衝動」をもって開始した。「凶暴な衝動」とはおだやかではない。江藤淳には、この時、何か、穏やかならぬものがあったのであろう。この「凶暴な衝動」は、江藤淳の漱石論の全編を貫いているだくでなく、その死に至るまでの全著作を貫いているということが出来るかもしれない。常に「凶暴な衝動」を胸に秘めながら、批評を書き続けていたのが、江藤淳という批評家だった。さらに、こんなことも書いている。


《 英雄崇拝位不潔なものはない。ぼくは崇拝の対象となっている漱石が我慢ならなかったのだ。人間を崇拝することほど、傲慢な行為はないし、他人に崇拝されるほど屈辱的なこともない。崇拝もせず、軽蔑もせず、只平凡な生活人であった漱石の肖像を描くことが、ぼくには作家に対する最高の礼儀だと思われる。偶像は死んでいるが、こうしてひとたび人間の共感に捉えられた精神の動きは、常に生きているからである。》

2021年3月16日火曜日

 存在論としての漱石論(11)

(本稿は、『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。完成稿は『月刊日本』でお読みください。)


前にも書いたが、私は、小さ頃は、「文学」も「読書」も「図書館」も嫌いであった。嫌いというより、激しく軽蔑し、むしろ憎悪さえしていた。私は、その屈折した自分の心理構造がよく分からなかったが、高校時代、遅ればせながら、大江健三郎や小林秀雄やドストエフスキーなどを読むようになって、ぼんやり分かってきた。私は、「文学」や「読書」などが嫌いなのではなく 、ニセモノの文学やニセモノの読書が嫌いだったのだ、と。たとえば、私は、大宰治や太宰治フアンが嫌いだった。現在でいえば、私は、村上春樹や村上春樹フアンが大嫌いである。そういう状態にあった頃、私は江藤淳を読むようになった。江藤淳の文章も文体も、私には、心地よかった。たとえば、江藤淳は、この問題を的確に、『 夏目漱石』論で、書いている。


《 文学青年という人種が軽蔑されるのも、結局は、現実にありもしない亡霊を信仰しているからであって、健康な生活人の感覚が自然にそのようなからくりに反発を覚えるのである。》(江藤淳『 夏目漱石』)


江藤淳の漱石論のメイン・テーマは、「文学批判」である。この「文学青年批判」の文章は、その入口である。では、江藤淳の描く夏目漱石は、どういう文学者なのか。どういう作家なのか。普通の作家ではないのか。江藤淳は、漱石を、他の作家達とは違うと考える。では、漱石と他の作家達との間にある「断絶」と「距離」は、何処にあるのか。江藤淳に言わせれば 、漱石は、文学を否定する文学者でった。ここが、凡庸な文学者達と決定的に違うところであった。


《 そこで、批評とは多くの場合文学否定というかたちをとってあらわれる文学であり、批評家の思想とは思想否定というかたちをとって語られる思想だ 、という逆説が生じる。ここでいう文学否定は、勿論新文学による旧文学の否定ではない。思想否定もまた新思想による旧思想の駆逐ではない。新しい文学や思想をささえるのは、むしろ文学者の願望である。彼は既成文学にあきたりないだけで、文学そのもの、思想そのものについては依然としてこれを信頼しつづけている。彼はスタンダールが体験したような認識上の冒険とは無縁である   》(「批評について」)

《 》

2021年3月15日月曜日

 存在論としての漱石論(10)


江藤淳の評判も評価も悪い。所謂、「蛇蝎の如く嫌う」人も少なくない。江藤淳を高く評価する人に会ったことは、ほとんどない。何故だろうか。私は、むしろ、そこに、江藤淳の批評的才能の「凄さ」を感じる。江藤淳を高く評価する人の中の代表的な人物として、吉本隆明と柄谷行人がいる。特に吉本隆明の江藤淳論は、興味深い。江藤淳と吉本隆明とでは、政治思想は言うまでもなく、その文体やテーマも、そして生まれも育ちも、学歴や職歴も、明らかに違う。どうして、吉本隆明は、多くの人に嫌われている江藤淳を、高く評価し、共感を示すのだろうか。むろん、私は、それに疑問を持ったことはない。私は、学生時代、「江藤淳著作集」と「吉本隆明全著作集」を、本棚に並べて、「熟読玩味」していたという体験を持つ。私の中では、吉本隆明が、江藤淳を高く評価するのは自明のことなのだ。江藤淳と吉本隆明。この二人は、「過激な批評的思考力」とでも言うべきものを共有しているからではないか、と思う。「過激な批評的思考力」とは、「存在論的思考力」と言い換えてもいい。江藤淳が理解できない人達、あるいは江藤淳を嫌い、批判・罵倒する人達は、この「過激な批評的思考力」、あるいは「存在論的思考力」が、よく分かっていない人達だろう。言い換えれば、政治思想レベルでしか 、あるいはイデオロギーレベルでしか、物を考える力のない人たちではないのか 、と思う。私が、大学入学の前後に、山田宗睦という人が、『危険な思想家 』(光文社、カッパブックス)という本を出版してベストセラーになったことがある。その本で、山田宗睦という「自称=哲学者」(笑)は、江藤淳や石原慎太郎等を、「戦後民主主義を批判し、否定する・・・危険な思想家」と呼び、批判し、罵倒していた。私も、面白半分に、興味本位で読んでみた。実に、くだらない本だった。「まだ、こんな馬鹿がいるのか・・・」と唖然としたものだった。最近では、『もてない男 』の小谷野敦の『 江藤淳と大江健三郎』(筑摩書房)という本が出ているが、参考資料として、本屋で立ち読みしてみたが、同じように、実に、くだらない芸能週刊誌なみの駄本だった。私は、こういう低次元の誹謗中傷しか出来ない三流の物書き達に興味がない。そういう人達に、かかわることは、時間の無駄である。「  蟹は甲羅に似せて穴を掘る  」と言うが、まさにその通りである。自分が、無能無芸の三流の人物だということを証明しているだけである。

吉本隆明は、江藤淳との対談で、次のように言っている。


《 ただ江藤さんと僕とは、なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って一致しているような感じがする(笑)。》


この、吉本隆明の、あまりにも有名になった言葉の意味を、正確に理解したものは、そんなに多くない。私は、ほとんどいないのではないか、と思う。私の解釈によれば、「  なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って   」というところは、政治思想やイデオロギーの違いであって、「一致している」というのは、存在論としての過激な批評的思考力のことである。政治思想やイデオロギーレベルでしか物を考える力のない人たちには、江藤淳と吉本隆明が、たとえ存在論的レベルの過激な批評的思考力のレベルであっても、「一致する」はずはないのである。一致して欲しくない、というのが彼らのホンネであり、願望であろう。p

2021年3月13日土曜日

 存在論としての漱石論(9)


江藤淳は、文学や文学者を厳しく批判する。しかし、それは、文学を否定することではない。文学を肯定し、文学の精神と力を擁護するためだ。この分析と論理の「弁証法」が分からなければ、江藤淳の批評の意味も、その過激な批評的思考力の魅力も分からない。批判は否定ではない。厳しい批判のないところには「肯定」もない。


《今日、文学を業とすることはしばしば文学と絶縁すること意味する。 しかしここに「文学者」を廃業する自由が残されていることは案外気づかれていない。文学を業とする者は、自分の意志で他人の都合や「社会的要求」というあいまいな外圧や「良識」を拒絶することができる。業界の席を拒絶したとき、はじめて彼は精神の自由と文学とを回復するのかも知れない。》(江藤淳『 江藤淳著作集』「文学を業とすること」)


《今日、文学を業とすることはしばしば文学と絶縁すること意味する》ということの意味は、深い。江藤淳の批評を理解するためには、もっとも重要なカギの一つが、ここにある。私は、以前から「マルクス」と「マルクス主義」は違う、と言ってきた。同じことが「文学」についても言えるだろう。「文学」と「文学主義」は違う、と。江藤淳が批判するのは、ロマン主義化された「文学主義」であって、「文学」ではない。文学主義こそ文学である、と夢想している「文学青年/少女」たちには、江藤淳の文学の神髄は理解不可能だろう。

 言論誌『維新と興亜 』の編集長=坪内隆彦氏のFacebookからの孫引きですが、福島伸享=前衆議院議員(茨城一区)が、 Facebookで、『 維新と興亜』と、小生の『藤田東湖と西郷南洲(2) 』を紹介してくれたようです。ありがとうございます。ちなみに、福島伸享氏は、茨城県(水戸)の出身で、現在も水戸に住んでいるようです。(山崎行太郎)

https://m.facebook.com/nobuyuki.fukushima.58#!/story.php?story_fbid=2000099373462332&id=100003868655340&refid=17&_ft_=mf_story_key.2000099373462332%3Atop_level_post_id.2000099373462332%3Atl_objid.2000099373462332%3Acontent_owner_id_new.100003868655340%3Athrowback_story_fbid.2000099373462332%3Aphoto_attachments_list.%5B2000099306795672%2C2000099263462343%2C2000099283462341%5D%3Aphoto_id.2000099306795672%3Astory_location.4%3Astory_attachment_style.album%3Athid.100003868655340%3A306061129499414%3A2%3A0%3A1617260399%3A7418781537698125342&__tn__=%2As%2As-R



 *存在論としての漱石論(7)


正宗白鳥を援用しつつ、繰り返される江藤淳の日本の近代文学、特に「私小説」に対する批判は鋭く、過激だ。まず、正宗白鳥から。

《明治文学中の懐疑苦悶の影も要するに西洋文学の真似で付焼刃なのではないだろらうか。明治の雰囲気に育った私は、過去を回想して多少疑いが起こらないことはない 》(正宗白鳥『明治文学総覧 』)


正宗白鳥を引用した後、江藤淳は、次のように書いている。


《明治以来、ーーやや限定していえば、所謂自然主義以来ーーのぼくらの主たる不幸は、こうした「懐疑苦悶」の亡霊に陶酔しつづけて来たことにあるといっても、さして事実と遠くはない。田山花袋などが野心的にはじめた西欧文学の輸入は、実は極く素朴な感動の模倣にすぎなかったで、清新な外国文学を読んで感動した青年逹は、通俗に信じられているように「近代的な自我」に目覚めたりせず、只、その感動の自分自身による追体験を求めただけの話である。》(江藤淳『夏目漱石 』)


江藤淳は明治文学の「懐疑苦悶」がニセモノであり、モノマネだと言う。「懐疑苦悶」ではなく 、「懐疑苦悶の亡霊」だと。江藤淳が、文学者や多くの文芸愛好者たちに嫌われる理由は、おそらく、ここにあるのかもしれない。しかし、江藤淳はさらに、追撃する。

《 すなわち、作家達は現実に存在しない「懐疑苦悶」の亡霊を輸入し、その亡霊を誠実に信仰することからはじめたのである。当時の日本で、鉄道が敷設され、軍艦が自国の造船所で建造されることが名誉だったように 、西欧風の「懐疑苦悶」を所有していることも名誉だったのであって、所謂自然主義の作家達は、この意味では、光栄ある帝国陸海軍並の国家的貢献をしていたといわねばならない。今日からみればまるでお笑い草であるが、これを嘲笑し去るのは極めて危険なことである。》

突然だが、江藤淳と吉本隆明の違いも、ここらあたりにあるのかもしれない 。吉本隆明には、それほど激しい近代文学に対する批判はない。実は、私は、江藤淳と吉本隆明を同時並行的に読んでいた。いずれも、深く共感しつつ、熟読を繰り返した。有名な「江藤淳=吉本隆明対談」における「一周まわって一致する」とかいう吉本隆明の言葉が、腑に落ちたことを、よく覚えている。吉本隆明を読みながら、江藤淳を読むことが、可能であった時代だった。もちろん、例外は、いくらでもあっただろう。左翼リベラル系の読者たちの多くは、吉本隆明を愛読しながらも、政治思想家的には保守反動系の江藤淳を、蛇蝎のごとく嫌っていた。吉本隆明と江藤淳は違う 、と思い込んでいる人達が、多数いたことも確かだろう。そこで、私は、当時、「群像新人文学賞」を受賞して登場してきた柄谷行人を思い出す。柄谷行人は、江藤淳と吉本隆明を、両方とも高く評価していた。吉本隆明のことはともかくとして、江藤淳をも、同じように評価し、擁護する論陣を張っていた柄谷行人は、左翼リベラル系の評論家や読者たちから激しく批判されていた。が、私は、むしろ逆に 、それ故に 、柄谷行人を真剣に読み始めた。ここらあたりの微妙な立ち位置に、私の存在根拠があった、と思う。当時の私の立ち位置は、今でもほとんど変わらない。「江藤淳=吉本隆明=柄谷行人」という三位一体構造が、私の存在根拠だった。私の『江藤淳とその時代 』は、そういう立ち位置に立脚している。それこそが、私の思考のアルファでありオメガである。私は、私と同じように考えている人が、他に多数いたのか、ほとんどいなかったのか、知らない。ところで 、私は、「世代論」が嫌いである。私は、世代論に回収されるような議論や言説が嫌いである。私は、世代論的には、全共闘世代とか団塊の世代とか言われる世代に属するが、私は、この世代の思想や思考が、嫌いである。私は、「東大全共闘」関係の思い出話が、大嫌いである。「三島由紀夫と東大全共闘」とかいう懐メロ映画があったが 、私は、見たくもなかった。もちろん、見なかった。私は同世代に、共感出来るような学者、思想家、言論人を、一人も持っていない。加藤典洋や村上春樹、内田樹、高橋源一郎・・・等が、大嫌いである。少なくとも、私は、思想も思考も感受性も、彼等とは決定的に違う。それが 、私が文章を書く時のプライドである。p

2021年3月12日金曜日

 存在論としての漱石論(6)

(本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代3 』の下書きです。)


江藤淳は、吉田健一的な、あるいは西脇順三郎的な、高尚で、高踏的な文学や文学研究を、それが限りなくホンモノに近いにも関わらず、まさにホンモノに近いが故に、批判する。おそらく ,彼らが、自分自身の実存 、日本の現実、日本の時代背景、日本国民の生活・・・を無視、黙殺しているからだろう。漱石も、英国留学を経験した洋行帰りの紳士だったが、漱石は、単なる洋行帰りのノーテンキな浮かれ紳士ではなかった。森鴎外もそうだった。森鴎外は「洋行帰りの保守主義者」と言われるが、森鴎外と同様に 、漱石もまた、「洋行帰りの保守主義者」だった。江藤淳が、漱石に注目するのは、そこである。「洋行帰りの保守主義者」とは何か。洋行し、留学し、西欧文明、西欧文学を知るにも関わらず、自分自身の実存、日本の現実を忘れていないということである。しかし、その一方で、日本の近代文学を象徴する「私小説」作家たちをも批判する。両者はいずれも、文学というものに対する懐疑が欠如しているからだ。「フランスに行きたしと思えど、フランスはあまりにも遠し・・・」という言葉があった。正確には 、萩原朔太郎の詩「旅k上」の一節、「   ふらんすへ行きたしと思へども   ふらんすはあまりに遠し  せめては新しき背廣をきて  きままなる旅にいでてみん  」・・・。日本の私小説作家たちの多くは、「フランスに行きたしと思えど、フランスはあまりにも遠し・・・」というような、「洋行帰り」ならぬ、洋行にも行けなかった「洋行紳士」気取りの「田舎紳士」だった。

江藤淳は、そこで、正宗白鳥を取り上げる。

《正宗白鳥氏が、「明治文壇総評」 という優れた文章を書いたのは、昭和三年六月のことである。ここに描破されているのは我が国の近代文学の絶望的な状態であって、身をもって三代の文学の変遷に耐えて来た。この異常に洞察に富んだ批評家の苦々しい幻滅が、息を呑ませる程の率直さで語られている。しかしそれ以上にぼくらの心胆を寒からしめるのは、三十年前に書かれたこの文章が今日少しも新しさを失っていないという事実なのだ。》(江藤淳『夏目漱石 』)


正宗白鳥に対する江藤淳の評価は、高い。私は、江藤淳と、正宗白鳥と小林秀雄の「『 思想と実生活』論争をめぐって」(「海燕」平成8-3)という対談を行ったが、その時も、さかんに正宗白鳥に対する尊敬と評価の感情を吐露していた。「白鳥の批評文には常に動きがある。精神の躍動がある・・・」と。私は、小林秀雄の晩年の「正宗白鳥の作について」ぐらいしか読んでいなかったので、小林秀雄に続いて、江藤淳までが、正宗白鳥を高く評価するのが意外だったが、デビュー作『 夏目漱石』のことを考えるならば、意外でもなんでもなかったのかもしれない。江藤淳は、正宗白鳥の「明治文学総覧」から引用する。

《 明治文壇は色さまざまの百花繚乱のお趣きがあるが、それとともに植民地文学の感じがする。そして私などは、その植民地文学を喜んで自己の思想、感情を培つて来た。今日のマルクス主義、共産主義の文学にしたつて、今のところ私には植民地文学に過ぎないように思われる。   》


おそらく、正宗白鳥が言っていることは、現在でも、そのまま通用すると言っていい。

 


存在論としての漱石論(7)


正宗白鳥を援用しつつ、繰り返される江藤淳の日本の近代文学、特に「私小説」に対する批判は鋭く、過激だ。まず、正宗白鳥から。

《明治文学中の懐疑苦悶の影も要するに西洋文学の真似で付焼刃なのではないだろらうか。明治の雰囲気に育った私は、過去を回想して多少疑いが起こらないことはない 》(正宗白鳥『明治文学総覧 』)


正宗白鳥を引用した後、江藤淳は、次のように書いている。


《明治以来、ーーやや限定していえば、所謂自然主義以来ーーのぼくらの主たる不幸は、こうした「懐疑苦悶」の亡霊に陶酔しつづけて来たことにあるといっても、さして事実と遠くはない。田山花袋などが野心的にはじめた西欧文学の輸入は、実は極く素朴な感動の模倣にすぎなかったで、清新な外国文学を読んで感動した青年逹は、通俗に信じられているように「近代的な自我」に目覚めたりせず、只、その感動の自分自身による追体験を求めただけの話である。》(江藤淳『夏目漱石 』)


江藤淳は明治文学の「懐疑苦悶」がニセモノであり、モノマネだと言う。「懐疑苦悶」ではなく 、「懐疑苦悶の亡霊」だと。江藤淳が、文学者や多くの文芸愛好者たちに嫌われる理由は、おそらく、ここにあるのかもしれない。しかし、江藤淳はさらに、追撃する。

《 すなわち、作家達は現実に存在しない「懐疑苦悶」の亡霊を輸入し、その亡霊を誠実に信仰することからはじめたのである。当時の日本で、鉄道が敷設され、軍艦が自国の造船所で建造されることが名誉だったように 、西欧風の「懐疑苦悶」を所有していることも名誉だったのであって、所謂自然主義の作家達は、この意味では、光栄ある帝国陸海軍並の国家的貢献をしていたといわねばならない。今日からみればまるでお笑い草であるが、これを嘲笑し去るのは極めて危険なことである。》

突然だが、江藤淳と吉本隆明の違いも、ここらあたりにあるのかもしれない 。吉本隆明には、それほど激しい近代文学に対する批判はない。実は、私は、江藤淳と吉本隆明を同時並行的に読んでいた。いずれも、深く共感しつつ、熟読を繰り返した。有名な「江藤淳=吉本隆明対談」における「一周まわって一致する」とかいう吉本隆明の言葉が、腑に落ちたことを、よく覚えている。吉本隆明を読みながら、江藤淳を読むことが、可能であった時代だった。もちろん、例外は、いくらでもあっただろう。左翼リベラル系の読者たちの多くは、吉本隆明を愛読しながらも、政治思想家的には保守反動系の江藤淳を、蛇蝎のごとく嫌っていた。吉本隆明と江藤淳は違う 、と思い込んでいる人達が、多数いたことも確かだろう。そこで、私は、当時、「群像新人文学賞」を受賞して登場してきた柄谷行人を思い出す。柄谷行人は、江藤淳と吉本隆明を、両方とも高く評価していた。吉本隆明のことはともかくとして、江藤淳をも、同じように評価し、擁護する論陣を張っていた柄谷行人は、左翼リベラル系の評論家や読者たちから激しく批判されていた。が、私は、むしろ逆に 、それ故に 、柄谷行人を真剣に読み始めた。ここらあたりの微妙な立ち位置に、私の存在根拠があった、と思う。当時の私の立ち位置は、今でもほとんど変わらない。「江藤淳=吉本隆明=柄谷行人」という三位一体構造が、私の存在根拠だった。私の『江藤淳とその時代 』は、そういう立ち位置に立脚している。それこそが、私の思考のアルファでありオメガである。私は、私と同じように考えている人が、他に多数いたのか、ほとんどいなかったのか、知らない。ところで 、私は、「世代論」が嫌いである。私は、世代論に回収されるような議論や言説が嫌いである。私は、世代論的には、全共闘世代とか団塊の世代とか言われる世代に属するが、私は、この世代の思想や思考が、嫌いである。私は、「東大全共闘」関係の思い出話が、大嫌いである。「三島由紀夫と東大全共闘」とかいう懐メロ映画があったが 、私は、見たくもなかった。もちろん、見なかった。私は同世代に、共感出来るような学者、思想家、言論人を、一人も持っていない。加藤典洋や村上春樹、内田樹、高橋源一郎・・・等が、大嫌いである。少なくとも、私は、思想も思考も感受性も、彼等とは決定的に違う。それが 、私が文章を書く時のプライドである。



2021年3月8日月曜日


■昨日(3.7、日曜日)、【山崎行太郎】【内山卓也】【森哲子】の「ZOOM」によるYoutube動画『反=論壇時評』を収録、配信しました。テーマは、『 総務省スキャンダルと竹中平蔵とスガ総理』・・・。

■総務省は、小泉政権における「郵政民営化」以来、「竹中一派」(竹中平蔵、菅義偉、高橋洋一、岸博幸・・・)の利権と人脈の巣窟である。現代日本の政権中枢にくい込み、内部から「日本潰し(日本後進国化)」を目論む「スガ政権(竹中一派)」の陰謀を排除するには 、総務省解体=再構築しかない。

■今こそ、「郵政民営化一派」(構造改革一派 、竹中一派)をぶつつぶせ。

■「スガ=竹中一派」の総務省幹部の国賊官僚が二人も追放された。総務省の「スガ=竹中一派」のヒラメ官僚を根こそぎ探し出し、追放せよ。

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https://youtu.be/gjK1Jgs01hM
https://youtu.be/gjK1Jgs01hM



 

 「存在論としての漱石論」(5)


夏目漱石は、「維新の志士」たちのように、命懸けで 文学をやりたいと言っている。それは「英文学としての文学」ではない。漱石は、「英文学者」になろうとしてなれなかった人である。何故、なれなかったのか。漱石に、学者としての能力がなかったから、なれなかったのか。無論、そうではない。では、何故 、なれなかったのか。漱石の有名な言葉に、「英文学に欺かれたるが如き不安の念」というのがある。これは、東京帝国大学の講義ノート『 文学論』の中の言葉である。漱石は、東京帝国大学講師を辞めて、作家として、朝日新聞に入社した。漱石が東京帝国大学講師という職を投げ出して、新聞社の社員となった背景には、「怒り」があったはずである。

2021年3月7日日曜日

 『月刊日本』に連載開始した『 江藤淳とその時代 (2)』の二発目の原稿を書き終えました。サブタイトルは、「存在論としての漱石論」です。江藤淳は、文芸評論家であるにもかかわら ず、激しい「文学」及び「文学的なるもの」への反感、批判、拒否感情をもっていました。江藤淳は、日比谷高校から、同窓生たちが東大へ進学していくのを尻目に、早々と東大進学を断念し、敢えて、慶應義塾大学文学部へ進学し、英文学を専攻しました。飛び抜けた秀才で、教師からも一目置かれていました。しかし、そこで、天敵というか宿敵というか、西脇順三郎という英文学者、 詩人にめぐり逢い、火花を散らすことになります。相手は、「ノーベル賞候補」にもなった詩人=学者です。大学院進学後は、江藤淳の敵意を感じ取った西脇順三郎教授に徹底的に嫌われ、ジャーナリズムで雑文を書くのなら大学院をやめたまえ、と宣告されます。 江藤淳は、「喧嘩別れ」のような形で、大学院を中退し、無宿渡世の「文芸評論家」になります。私は、デビュー作『 夏目漱石』における江藤淳の何物かに対する激しい「怒り」に注目します。江藤淳の「存在論的批評」の根っこには、この「怒り」があります。・・・。詳しくは、『月刊日本』をお読みください。


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『月刊日本』

発行所 株式会社K&Kプレス

発行人 南丘喜八郎

編集人 中村友哉


〒102-0093

東京都 千代田区 平河町 2-13-1 読売平河町ビル5F

電 話: 03-5211-0096

FAX: 03-5211-0097

e-mail:kkpress@gekkan-nippon.com

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2021年3月6日土曜日

 言論誌『維新と興亜』第5号が発売中です。キンドル版(500円)も・・・。定期購読も募集中です。

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2021年3月4日木曜日

 (本稿は、例によって、『 月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代 』の下書きです。)


存在論としての漱石論(3)


江藤淳が標的にしているのは、主に吉田健一であるが、実は、文面には出てこないが、当時、慶應義塾大学英文科教授で、詩人だった西脇順三郎がいる。ちなみに、西脇順三郎は 、江藤淳の大学の指導教授の一人であった。江藤淳は、指導教授に喧嘩を仕掛けているのだ。並々ならぬ決意が感じられるだろう。その頃、慶應義塾大学英文科の優秀な学生として、慶應義塾大学教授になることを目標にしていた江藤淳にしてみれば、西脇順三郎に喧嘩売るということは、自殺行為に等しかった。それでも 、江藤淳は、漱石論を、吉田健一や西脇順三郎等の「文学論」の対極に位置づけようとしている。つまり、江藤淳は、漱石論を、吉田健一的な高等趣味的な文学論でもなく、西脇順三郎的な高尚な詩歌や文学研究でもなく、もっと生々しい、「生きるか死ぬか」というような、いわゆる実存的な問題として展開しようとしている。吉田健一や西脇順三郎的な文学論から見れば、明らかに、江藤淳の漱石論は、「野暮な仕事」にほかならない。しかし、江藤淳は、敢えて、その「野暮な仕事から」始めようとする。

《しかし、ぼくらは野暮な仕事からはじめねばならぬ。近代日本文学の生み得た 寥々たる文学作品を拾い上げ、その系譜を明らかにすることがそれであって、これは同時に、この国の文学が書かれ得るためにはどれ程の苦悩が要求されかを知ることでもある。》(『 夏目漱石』)

「 この国の文学が書かれ得るためにはどれ程の苦悩が要求されかを・・・ 」というところに、この文章のポイントはある。特に「苦悩」という単語に。近代日本文学が、まだ、海のものとも山のものとも分からない段階において、文学を生み出すということには「苦悩」が伴う。「苦悩」の伴わない文学は、西欧文学の表面的な模倣と反復にしか過ぎない「植民地文学」でしかない。

 ■存在論としての漱石論(2)。


江藤淳の「批評」が、本質的、原理的、存在論的・・・だということは、どういうことだろうか。江藤淳は、漱石について、面白いことを言っている。文壇や文学研究者たちの世界で、一種の「常識」となっている「作品至上主義」とも言うべき固定観念を激しく批判・攻撃している。


《小説作家としての漱石を考える時、ぼくらは、彼にとって小説の創作が必ずしも唯一最大の関心事ではなかったことに注意する必要がある。芸術作品の創造とか、作品のまったき完成のためにのみ、自らの生活を捧げ尽くすような作家がいるものだ。こうした作家に接する時、彼らが作家以外の職業についたとしたら、どういうことになるのだろうか、などという疑問は浮かばないものである。芸術が彼らの生活を呑みこんでいる。ぼくらは、彼らの伝記を作品の片隅に書き加えられた注釈ようにしか読まない。

漱石はそのような作家ではない。》(『 夏目漱石』)


江藤淳は、激しい口調で、「漱石はそのような作家ではない。」と主張する。では、「そのうな作家」とは 、どういう作家か。

たとえば、江藤淳は、英文学者=吉田健一(吉田茂の息子)を批判する。

 『維新と興亜 』という雑誌があります。友人の坪内隆彦氏が編集長です。私も、『藤田東湖と西郷南洲 』を前号より連載しています。第五号が発売中です。内容は以下の通りです。Amazonやネットより、お求めください。定期購読者も募集中です。よろしくお願いします。

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いつもお世話になっております。

道義国家日本を再建する言論誌

『維新と興亜』第5号(令和3年2月)発売中です!(坪内隆彦)


 《目 次》

【特集】自主防衛に舵を切れ

国益を損なうアメリカ依存(田母神俊雄)

「軍隊を動かす原理」を持たない国でいいのか(西村眞悟)


米中結託による世界二分割構想の終焉(稲村公望)

【巻頭言】地位協定改訂なくして主権回復なし(坪内隆彦)

●時論 コロナで露呈したグローバリズムと戦後民主主義の弊害(折本龍則)

●時論 原田伊織『昭和維新という過ち』の過ち(小野耕資)

吉田松陰の根本精神は絶対尊皇思想である(四宮正貴)

愛郷心を育み郷土を取り戻そう(杉本延博)

三島由紀夫『英霊の聲』再読①(玉川博己)

【特集】大河ドラマ『青天を衝け』と渋沢栄一

渋沢栄一を支えた水戸学と楠公精神(本誌編集部)

藤田東湖と西郷南洲②(山崎行太郎)

タブーなき論戦 グローバリズム 竹中平蔵 天皇親政 CIA ……(加藤嶺、野尻誠斗、中村一晃、仲原和孝、海野学、三角直矢、佐野允彦)


川島澄之助が関与した「大楽源太郎殺害事件」(浦辺登)

天皇親政のための君徳培養(坪内隆彦)

崎門学の必読書『靖献遺言』(折本龍則)

興亜先覚の地、弘前─陸羯南と山田良政(小野耕資)

村上一郎と三島由紀夫事件②(山本直人)

影佐禎昭 日中和平工作の謀略と信義(野尻誠斗)

田中角榮が総理大臣を辞めた理由②(田口仁)

菅原兵治先生『農士道』を読む⑦(三浦夏南)

【蔵書紹介】権藤成卿『自治民範』他

【書評】 小野耕資『大和魂の精神史』

活動報告

編集後記

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2021年3月1日月曜日

 『 スガと総務省スキャンダルとマスコミ支配』ー『 総理が怒ってますよ』と脅迫したのはアノ女だった。


山崎行太郎と内山卓也と森哲子のYoutube動画『 反=論壇時評』


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