Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
2021年8月29日日曜日
■「顰蹙」を承知で言うのだが、アフガニスタン問題が面白い。特に、タリバン側の「テロ」や「自爆テロ」が・・・。昨日( 8 /26)もカブール空港近くで、国外退避を目指す米軍や米軍への協力者たちをターゲットにした「自爆テロ」があったようだ。慶応義塾大学東洋史出身のイスラム学者=宮田律(元静岡県立大学教授)の以下の記事を読んで知ったのだが、この自爆テロについて犯行声明を出しているIS(イスラム国)の下部組織「ISKP( ISホラーサーン州 )」という組織があるらしい。過激派タリバンの中のさらなる超過激派ということか。タリバン政権が抱える「反政府ゲリラ」の登場か。内戦のはじまりか。うーん、ますます、面白くなってきたなー(笑)。国家論や建国物語のパラドクス。政治闘争や思想闘争、革命闘争には、終わりはないということだろう。「永久革命者の悲哀」かな。
2021年8月26日木曜日
郷原信郎は「仙石由人」の仲間(スパイ)だったのか?・・・郷原信郎とかいう弁護士( 元検事 )の正体 、見たり、枯れ尾花(2)
■郷原信郎は「仙石由人」の仲間(スパイ)だったのか?・・・郷原信郎とかいう弁護士( 元検事 )の正体 、見たり、枯れ尾花(2)
郷原信郎が、「小沢一郎冤罪裁判」(陸山会事件)で、小沢一郎擁護側の元検事の弁護士として論陣をはり、それなりに重要な役割を果たしたことは、多くの人が知っているはずだ。ところが、郷原信郎は、旧民主党の「仙石由人」の仲間だったと、本人が言っている動画を見た。関係者の間では、よく知られているように、仙石由人は、小沢一郎の「天敵」(?)だった。民主党内の反小沢グループの代表が仙石由人だった。私も、つい最近まで、郷原信郎って、その言動には気にくわない点も多いけど、まあー、仕方ないなー、と思って、好意的に見ていた。しかし、横浜市長選挙事件でようやく、郷原信郎の正体が見えてきた 。郷原信郎って、「反権力」でも、「反自民」でもなくて、単なる「反野党共闘」だなー、と。「横浜市長選挙」の「野党統一候補トラブル」で血迷ったとはいえ、「ネットウヨ」系の「Youtube動画」に出て、ベラベラ喋っているところを見ると、郷原信郎自身が、元々、「ネットウヨ」の一人だった、ということではないか。自分が、「反自民」「反権力」・・・の弁護士という自覚があったら 、「ネットウヨ」おやじの須田慎一郎あたり動画に出てくるはずがない。
■郷原信郎とかいう弁護士( 元検事 )の正体 、見たり、枯れ尾花。
■郷原信郎とかいう弁護士( 元検事 )の正体 、見たり、枯れ尾花
■郷原信郎とかいう弁護士( 元検事 )の正体 、見たり、枯れ尾花。
郷原信郎とかいう弁護士については、民主党政権誕生の前後に起こった「小沢一郎冤罪裁判」の頃から知っている。知っているといっても面識があるわけではない。その頃から、なんとなく虫の好かない奴だと思っていた。何やら、エリート臭プンプンで、上から目線の喋り方に、「いかがわしいもの」を感じていたのだ。ところで、その後、その、はったりじみた言動が飽きられたようで、マスコミに出る機会も減り、あまり見かけることもなくなった。いいことだと思っていた。しかし、最近、久しぶりに「Youtube動画」の世界で、見つけた。相変わらず、去勢をはった、「上から目線」の喋り方で、世相問題を論じているのを見て、「変わらないな〜」と思っていたのだが、今、話題の「横浜市長選」に立候補したという報道に、「相変わらず、馬鹿だな〜」と痛感したものだ。以前には、広島か何処かの「補選」にも立候補したとか、しなかったとか、あるいは辞退したとかいう話も聞いたことがあるような・・・。ところが、なんと、横浜市長選立候補を辞退したというのだ。その「立候補辞退の理由」には笑った。どうも郷原信郎は、野党統一候補を狙っていたようなのだ。田中康夫や、当選した山中竹春( 横浜市大医学部教授 )等と、「野党統一候補」の一本化を目指して、裏で調整を行っていたが、うまくいかなかったらしいのだ。山中竹春が、事前調整の交渉( 談合? )を断ったというのだ。田中康夫はともかくとして、山中竹春が断ったのは当然である。番茶の出涸らしのような「ジジババ候補者たち」と関わりになること自体が、イメージダウン。百害あって一利なし。ところが、その後、郷原信郎は、「野党統一候補」になれなかった恨み辛みからか(笑)、パワハラだ、ニセモノだと「山中竹春批判」や「立憲民主党批判」を始める始末。実に見苦しい。哀れな所業。「副市長( 助役 )」か「顧問」のポストか、あるいは辞退の見返りの金銭でも、欲しかったのか。自民党の田舎議員以下の・・・。郷原信郎の正体見たり 枯れ尾花。黙って静かに、しがない「弁護士稼業」でもやってろよ、と言っておきたい。
ところで、話は変わる。二三週間前、東京の某弁護士事務所から、内容証明入りの封書が届いた。開けてみたら、お前の記事や動画は、「名誉毀損」や「人権侵害」にあたるから、該当するものを「削除」してもらいたい、一週間以内に電話を寄越せ、電話がない場合は「法的手段」をとると、脅迫してきたのだった。もちろん無視。すると、弁護士事務所から電話がかかってきた 。「削除するか削除しないか」と聞くから、削除するつもりはない、と答え、電話を切った。二三年前のことで 、明瞭に記憶している案件だったからである。「相手の人物が、どういう人物か、それまで、何をやっていたか、ちゃんと知っているのか?」と問い返すと、よく知らない様子。その後、「法的手段」とやらをとったのかどうか、知らないが、郷原信郎といい、内容証明を送り付けてきた弁護士といい、近頃の弁護士というのはいい加減なものだなー(笑)、と思った次第だ。
ところで、またまた話は変わるが、実は、横浜市長選挙で「圧勝」した山中竹春について、私は、何も知らなかったし、知ろうとも思わなかったが、スマホで調べてみて、驚いた。山中竹春は、横浜市大医学部教授で、「コロナの専門家」ということだったが、医者でもなんでもなく、専門は「医療統計学」だという。郷原信郎等は、ここから、山中竹春は「コロナの専門家ではない。インチキだ、ニセモノだ」と言いたかったらしい。だが 、私が、驚いたのはそういうことではない。山中竹春の学歴だった。山中竹春は、「早稲田本庄高校」「早稲田大学政経学部」、そして「早稲田大学理工学部数学科」「早稲田大理工学部大学院」、米国国立衛生研究所に留学、フェローに・・・。九州大学医学部病院助手や国立がんセンターで室長や部長を経て横浜市大医学部教授教授ということらしい。郷原信郎等は「医師免許」を持っていないということを問題視し、「コロナの専門家」という言葉を、ニセモノだと糾弾したらしいが、時代錯誤も甚だしい。田舎のガリ勉優等生(東大病患者? )の「時代錯誤」である。
私は、鹿児島から上京以来、埼玉県浦和市に住んでいる。早稲田本庄高校のことは、早稲田大学が埼玉県本庄に移転するとかしないとかで騒いでいた頃から、つまり早稲田本庄高校の誕生の頃から知っている。埼玉県には浦和高校という東大進学を目指す県立高校もあるが、時代は変わった。地方出身者は知らないだろうが、慶応志木高校や早稲田本庄高校の偏差値は、埼玉県随一の進学校=浦和高校と同等か、それを上回る。ちなみに、今、言論界の売れっ子=佐藤優は、早稲田本庄が第一志望だったが、そこに落ちて浦和高校に進学、大学は同志社大学神学部へ進学したという変わり者。私は、今、日比谷高校から慶応義塾大学文学部へ進学した江藤淳のことを、調べているが、何がなんでも東大へ、あるいは国立大学へ、という田舎のガリ勉優等生の時代は終わりつつあるのではないか 、と思う。玉木雄一郎や枝野幸男を見ていても、そう思う。もちろん、郷原を見ていても、そう思う。気の毒だが、人間的魅力がどこにもないのだ。横浜のカジノ誘致に反対する市民運動のリーダーだった慶應義塾大学法学部名誉教授の小林節も、横浜市長候補に「山中竹春」が浮上してくると、それに不満を感じたらしく、市民運動から去った一人らしい。小林節も、「野党統一候補」にでもなりたかったのだろうか。いい加減にしろ、と言いたい。
以上は、横浜市長選挙が、山中竹春の「圧勝」で終わった政治的事件の、私なりの極めて独断と偏見に満ちた個人的感想である。山中竹春は、今後、野党統一候補として「首相候補」にまで浮上してくるのではないか。そういう予感がする。いずれにしろ、郷原信郎や小林節のような干からびた「エセ・エリート」や「年寄り」の出る幕ではない。古い言葉で言えば、お前たちには「華」がないのだ。
■闇取引に失敗し、「山中竹春落選運動」を展開する郷原信郎のブザマな「Youtube動画」。⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎
https://youtu.be/0O_E9_Wvrmc、
https://youtu.be/oMcsfMxj4ME
p
■「ネット右翼」系ユーチューバー須田慎一郎の「Youtube動画」⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎
https://youtu.be/f0WcDKAtF6A
https://youtu.be/KRJQv2T8qgY
2021年8月20日金曜日
■アフガン政府軍は、なぜ、弱かったのか。 アフガニスタン政府軍の実態は、米国政府が作った寄せ集めの「ニワカ軍隊」だった。カネさえ手に入れれば、後は用なし。いつでも逃げる用意ができていた。言い換えると、「思想」のない軍隊だった。一方、「イスラム原理主義」という強固な思想に依拠するタリバンは、20年前、米軍に、一度は政権を追われたとはいえ、しぶとく米軍への抵抗を続けたあげく、20年後の今、政権を再奪取することに成功した。
■アフガン政府軍は、なぜ、弱かったのか。
アフガニスタン政府軍の実態は、米国政府が作った寄せ集めの「ニワカ軍隊」だった。カネさえ手に入れれば、後は用なし。いつでも逃げる用意ができていた。言い換えると、「思想」のない軍隊だった。一方、「イスラム原理主義」という強固な思想に依拠するタリバンは、20年前、米軍に、一度は政権を追われたとはいえ、しぶとく米軍への抵抗を続けたあげく、20年後の今、政権を再奪取することに成功した。
■タリバン革命を支持する。私は
、自分は「保守反動」だと思っていたが 、「革命」や「破壊」「解体」が好きなのだということが、最近、わかってきた。
タリバンがアフガニスタン全土を支配下においたことが、わかって、拍手喝采をしている自分がいることに驚いた。私は、革命が好きなのだ、と。私は、小林秀雄や三島由紀夫や江藤淳が好きだが、よく考えみると、彼らの思考は「保守」ではない。明らかに、かれらの思考は「永久革命者」のそれである。彼らは、何も創造しない、、何も努力しない、いわゆる、やる気のない現状維持的な「保守」でも「保守主義者」でもなかった。彼らは、「創造」のための革命的努力を怠らなかった。私が、彼らを、「永久革命者」と呼ぶ所以である。
ところで、タリバンは、アメリカの貿易センタービル襲撃事件以後、米国政府と西側マスコミから目の仇にされ、テロ集団の烙印を押されて来た。アフガニスタンには、米国の傀儡政権が、「民主政府」という名のもとに成立し、「植民地政府」が、アフガニスタン民衆の上に君臨してきた。タリバンとアフガニスタン民衆の蜂起によリ、米国の傀儡政権は崩壊し、アフガニスタン民衆の「独立国家」と「民衆政府」が誕生しようとしている。私は、ベトナム戦争における「サイゴン陥落」を思い出した。カブール陥落、カブール奪還によって、アフガニスタン民衆は、右往左往して、国外脱出を試みる人々で、飛行場は大混乱のようだ。軍用機は、民衆を見捨てて、次々と飛びたって行く。いつか見た風景だ。米軍への協力者や政府関係者たちをはじめ、警察や軍の関係者たちには 、過酷な運命がまっていることだろう。
2021年8月16日月曜日
■純文学の神髄は同人雑誌にあり。
純文学という言葉は、近ごろ、あまり使われないようである。純文学と大衆文学という二分法も、あまり使われなくなっている。何故だろうか。私は、純文学という文学それ自体が消滅しつつあるからではないかとおもう。しかし、私は、純文学という文学にこだわっている。何故、純文学にこだわっているのか。私は、純文学の可能性を信じているからだ。それは、純文学の可能性であって
大衆文学の可能性ではない。純文学は売れなくていい。売れる必要はない。「純文学も売れなければならない」と言い始めた時、純文学は純文学ではなくなったのである。私は、大衆文学が存在することも、大衆文学の可能性や将来性に命をかけている人がいることも否定しない。私が、大衆文学に興味がないだけである。私は、文芸雑誌に問題があるとおもっている。日本には、大手出版社が発行する文芸雑誌というものがあり、それらは、おもに純文学系の文芸雑誌である。ところが、この純文学系の文芸雑誌が商業主義化し、もっぱら売り上げを重視する商業雑誌のようになり、「売れる必要はない」という純文学の精神は失われていったからからである。不思議なことだが、ここで、奇妙な逆説的構造が成立する。純文学作品は、「売れる必要はない」といっていた時は、ある程度売れていたにもかかわらず、売り上げを優先し、商業主義化すると同時に、純文学作品は、ますます売れなくなったからである。純文学は純文学をつらぬいたから売れなくなったのではない。純文学の精神を失ったからこそ純文学作品は売れなくなったのである。読者は、純文学作品に、あくまでも、純文学的精神を求めていたからであろう。純文学が歴史を作る、あるいは時代を先導することがあったが、それは、爆発的に、売れたからではない。「売れる必要はない」という純文学の神髄が、そこにあったからであった。現在の純文学作品が売れなくなったのは、純文学の精神が、つまり純文学の神髄が、失われてしまったからである。
では、純文学とは何か。純文学の神髄とは何か。
2021年8月14日土曜日
ー藤田東湖と西郷南洲(5)( 『維新と興亜 』次号(8号)に掲載予定の原稿です。 興味のある方は、是非、『維新と興亜 』の定期購読をお願いします。 )
https://ishintokoua.com/?page_id=7283
薩摩藩と水戸藩は、幕末の激動期に、きわめて深く、かつ緊密に結びついていた。「水薩同盟」とか「水薩連合」とかいう言葉が、それをあらわしている。たしかに、幕末の歴史を、詳しく見ていくと、「薩長同盟」よりは、「水薩同盟」の方が歴史的には重大な意味を持っていたと言ってもいいかもしれない。「一橋慶喜擁立運動」も「戊午の密勅」事件も、「安政の大獄」事件も、「桜田門外の変」も、水戸藩と薩摩藩の連携なくしては起こりえなかった歴史的大事件だった。薩摩藩の歴史や水戸藩の歴史を、それぞれ独立した別々の視点から見ていくと、「水薩同盟」の実態はなかなか見えてこない。実は、私も、つい最近まで、薩摩藩と水戸藩が、藩主同士の個人的な信頼関係もあり、それなりに親しい同盟関係にあったということは知っていたが、これほど深い関係にあったということは知らなかった。
実は、島津斉彬の手足として政治工作をおこなっていた西郷南洲は、いづれの事件にも深く関わっている。江戸に登場した西郷南洲は、主君=島津斉彬の命を受けて、水戸藩の有志たちとともに、「一橋慶喜擁立運動」に参加し、積極的に政治の表舞台で中心的な役割をはたしはじめる。それは、日本近海への異国船の登場に対して無為無策な江戸幕府の政治運営に批判的だった薩摩藩主=島津斉彬や、水戸藩主=徳川斉昭からの影響や指導があったことは言うまでもない。当時、水戸藩は、徳川御三家であるにも関わらず、「国防論」などをめぐって、徳川幕府とことごとく対立していた。水戸藩主=徳川斉昭が、幕政の改革を目ざしていたからだ。そして、徳川斉昭を支援していたのが、薩摩藩主=島津斉彬であり、島津斉彬の手足となって政治工作を展開していたのが西郷南洲だった。西郷自身については、無知無能な「木偶の坊」だったという意見もある。しかし、西郷南洲は、島津斉彬や徳川斉昭等が主張していた思想や政治を、島津斉彬が死に、徳川斉昭が謹慎蟄居を命じられても、一貫して、大胆に実行し、明治維新という革命を成功へ導いて行ったところを見ると、西郷南洲自身もまた有能な思想家であり、行動的な政治家だったように見える。
水戸藩と薩摩藩には、目に見えない思想的な「共通点」があった。それは、「死を恐れない行動力」の重視という点であった。その代表的な、そして典型的な事件が、水戸藩の有志たちと薩摩藩の有志たちが、連携して実行した「桜田門外の変」であった。
前回、「平和桜田門外の変」について触れたが、そこで話題にした、井伊直弼の首をとった後、現場近くで切腹・自決した「有村次左衛門」という薩摩藩の若いサムライについて、もう少し書いておきたいことが見つかったので、書き留めておきたい 。有村次左衛門は、事件の前夜、「婚礼」をあげていたというのだ。ほぼ99パーセント、死を覚悟の上での「大老=井伊直弼暗殺事件」への参加であった。死は、本人たちも覚悟のうえだったはずだ。では、相手の女性は誰だったのか。その後、その女性はどうなったのか。その女性の父親は、日下部伊三次(くさかべ・いそじ)という元水戸藩士だった。元々は水戸藩士ではなかった。薩摩藩からの脱藩浪人で、水戸の地に住み着いていた海江田連の長男だった。水戸に生まれ、弘道館で藤田東湖等の指導受け、成績優秀で、文武両道にひいでた青年ということで、水戸藩士に取り立てられていた。しかも、藩主=徳川斉昭につかえる立場にあった。日下部伊三次は、水戸生まれとはいえ、元々は薩摩藩士の子弟だということは知られていたのだあろう。当時は、徳川斉昭や島津斉彬の計らいで、薩摩藩に復帰し、薩摩藩士となって、江戸の薩摩藩邸を根城に政治工作に専念していたのだ。しかも、水戸藩の京都留守居=鵜飼吉兵衛らの工作で、朝廷から水戸藩にくだった「戊午の密勅」を、鵜飼吉兵衛の息子=幸吉とともに、京から江戸の水戸藩邸に運び込んだのが、日下部伊三次だった。そのために、井伊直弼が発動した「安政の大獄」で、捕縛され、すでに獄死していた。有村次左衛門と婚姻の儀式をおこなった相手の女性は、その日下部伊三次の長女の日下部マツ(松子 )だった 。有村次左衛門は、薩摩藩の有村三兄弟(俊斎 、雄助、次左衛門)の三男として有名だが、有村次左衛門と日下部マツは、父=日下部伊三次の希望で、日下部家を継ぐべく「養子縁組」の話が決まっており、すでに許嫁となっていたのであった。しかも、日下部伊三次は、すでに獄死していた。父の遺志をついで、若い二人は、翌日には死別することになるかもしれないということを承知の上で、ささやかな「婚礼」の儀式をおこなったのだろう。そこには、明らかに、「死を恐れない行動力」の精神の共有があった。実は、有村次左衛門の次兄=有村雄助も、「井伊直弼暗殺事件」の報告役だったが、その後、薩摩藩に逮捕、護送され、薩摩の地で大久保利通等の見守るなかで、切腹を命じられ、落命している。その後、日下部マツは、有村次左衛門の長兄=有村俊斎と再婚している。有村俊斎は、弟に代わって、日下部家を相続し、しかも、日下部家の本来の姓である「海江田」姓を名乗ることになる。後の「海江田信義」である。
海江田信義は、明治維新の激動期を生き延び、貴族院議員や枢密顧問官になっている。日下部伊三次一家は、水戸で、何故、「日下部」を名乗っていたかと言うと、実は日下部という姓は、「海江田」の本姓であったらしい。だから海江田連は、薩摩藩を脱藩、水戸の地に逃亡し、住みついた時、「日下部」を名乗ったのであろう。
さて、私が、今回、取り上げたいのは、日下部伊三次という人物である。日下部伊三次は、「 常陸国多賀郡」に生まれている。父は、太田学館幹事の海江田連である。海江田連は、元々は薩摩藩士であったが、薩摩藩の内部抗争で 敗れて、薩摩藩を脱藩、水戸の地に逃れて来て、そこで私塾を開いていた。当然、士分( 水戸藩士)ではなかった。しかし、私塾の評判はよく、水戸藩の青少年教育の一端をになっていた。太田学館の幹事になっていた。その子が 日下部伊三次である。日下部伊三次は、成長するにしたがって、人格・識見ともに高く評価され、水戸藩士となっていた。 徳川斉昭の謹慎・蟄居事件の時は、藤田東湖らとともに、その赦免活動に奔走している。すでに有力な水戸藩士だったことが推察されるが、やがて、事情を知った薩摩藩の島津斉彬に請われて、薩摩藩に復帰、薩摩藩士となり、江戸薩摩藩邸を根城に「尊皇攘夷運動」の中心人物として活動する。西郷南洲よりは一回り年長で、西郷南洲もひそかに心服していた。西郷南洲の手紙が残っている。
《 先日は日下部伊三次をお召し抱え
になり、誠にありがたく大いに力を得て、かれこれ教示を受けています。水戸に罷りおられたころには決死の儀四度、幕府に捕われること五度、かく大難に処しおりし人物にて・・・。》
西郷南洲の人物評価は、 かなり手厳しいのが通例だが、水戸藩の藤田東湖等への評価は通例で、同じく水戸藩士だった日下部伊三次への評価もきわめて高いことがわかる。
島津斉彬が、水戸藩士・日下部伊三次を「薩摩藩士」として召しかかえると同時に、日下部伊三次は、西郷南洲らとともに、島津斉彬の手足となり、「尊皇攘夷運動」や「討幕運動」に奔走していた。特に、朝廷から水戸藩にくだった「戊午の密勅」事件における日下部伊三次の果たした役割は大きい。
水戸藩、あるいは水戸学派にとって、「戊午の密勅」事件は、重要な分岐点になる事件だった。水戸藩では、この朝廷からの密書を受け入れるか、それをそのまま返還すべきかを巡って、水戸藩内部で、激しい意見の対立が起こった。それは門閥派と改革派との対立だけではない。改革派内部でさえ、激しく対立=分裂したのである。たとえば、水戸学派の重鎮で改革派のリーダーでもあった会沢正志斎は、「 戊午の密勅 」を返納すべきと主張し、後に桜田門外の変の首謀者となる高橋多一郎や金子孫二郎等と激しく対立し、分裂していった。
さて、この水戸藩を揺り動かす密勅騒動だが、実は、この密勅騒動の中心人物の一人が、薩摩藩士となって京都で活動していた日下部伊三次だった。日下部伊三次は、水戸藩京都留守居の鵜飼吉左衛門等と、「戊午の密勅」と呼ばれることになる密勅を、手にいれると同時に、鵜飼吉左衛門の息子、幸吉と二人で、江戸の水戸藩邸に届けている。この事実を幕府の知ることとなり、大老=井伊直弼等は、密勅の返還を求め、水戸藩家老等を、ますます厳しく問い詰め、脅迫し始める。それと同時に、水戸藩でも、返還派と拒否派に別れ、深刻な内紛が始まる。
この頃、西郷南洲は、どうしていたか。
一部には、西郷南洲は、主君=島津斉彬が急死したために、糸の切れた凧のように、右往左往しはじめたという人もいるが、私は、そうは思わない。西郷南洲は、島津斉彬の急死で、一時的には、殉死も考えるほど絶望し、途方に暮れるが、いつまでも途方に暮れていることは許されなかった。時代は急激に動いていた。西郷南洲も、動かざるをえなかった。もちろん、日下部伊三次や水戸藩の同士たちと連絡を取りつつ動いていた。
実は 、いわゆる「戊午の密勅」が朝廷から水戸藩へくだる直前に、西郷は、西郷で、もう一つの「密書」を手に入れ、それを江戸の水戸藩邸に届けている。しかし、その頃の水戸藩邸は、幕府の監視下にあり、立ち入る隙はなかった。仕方なく有村俊斎に持たせて京に向かわせている。おそらく、水戸藩や薩摩藩は、この頃、局面を打開するために、朝廷からの密書や密勅を手にいれようと躍起になっていたのだろう。
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