2020年12月30日水曜日

藤田東湖と西郷南洲(1)



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以下は、『 維新と興亜』という雑誌に掲載(連載)予定の原稿です。以前に書いたものに加筆修正したものです。かたぐるしい「論文調」ではなく、読みやすい「読み物ふう」に書き直しました。興味のある方は、ご一読ください。『 維新と興亜』は、「崎門学研究会」と「大アジア研究会」の若手研究者達が主宰する雑誌です。


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藤田東湖と西郷南洲(1)


西郷南洲は、1854年、つまり安政元年、28歳で、藩主・島津斉彬に抜擢されて江戸の薩摩藩邸詰めになる。西郷が、江戸に到着したのは、同年、3月6日であった。1ヶ月後の4月初頭には、「庭方役」を拝命した。そして、4月10日、いち早く、樺山三円に誘われて、当時、随一の学者・思想家と見られていた水戸藩の藤田東湖に会いに出掛けている。西郷にとって、藤田東湖とは何であったのか。

福澤諭吉は、西南戦争終結後、『丁丑公論』 で、西郷の行動を擁護しながらも、西郷の欠点は、「学問がなかった」ことだと言っている(「西郷の罪は不学に在りといはざるを得ず」)。私は、福澤諭吉の言う「学問」がどういうものかについて、大いに疑問を持つ。西郷には、目立った「学歴」や「学問的業績」はなかったかもしれない。しかし、西郷に、「学問がなかった」というのは間違っている。西郷には、誰にも負けないような「学問への情熱」と「深い思考力」があった。西郷に学問がなかったから、最後の内乱としての西南戦争を引き起こしたのではない。学問があったからこそ、西南戦争を引き起こしたのである。福澤諭吉は、西郷が、武力を使ったことにも反対だという。そうだろうか。私の解釈は、福澤諭吉とは反対である。武力行使=武装蜂起なくして西南戦争はありえない。命懸けの軍事行動に出たからこそ、西南戦争は、西南戦争なののだ。だからこそ、西南戦争は、いまだに語るに値するのだ。

さて、西郷は、江戸小石川の水戸藩邸に藤田東湖や戸田忠太夫等を訪ね、感激の初対面を行っている。しかも、初対面にもかかわらず、藤田東湖は、西郷を 、歓待しただけではなく、西郷という人物を高く評価し、信頼できる人物だと判断したらしく、西郷を感激させるような対話をおこなっている。その後も、水戸藩邸に、頻繁に出入りして、藤田東湖を師として仰ぎつつ、対話を繰り返し、結果的に思想的にも人間的にも意気投合している。学問と無縁な人間のすることだろうか。西郷は、さっそく、藤田東湖との初対面の模様やその後の様子を、故郷にいる母方の叔父椎原与右衛門、椎原権兵衛兄弟へ 、手紙で書きおくっている。

《 先鞭に東湖先生が書いて下された書を送っておきましたが、無事着ききましたか。東湖先生を訪ねると、まるで清水の中に浴したようで、心中一点の雲霞なく、ただ清浄な心になってしまって帰りを忘れてしまいます。他人に申すのは、口幅ったいいが、東湖先生は私を心の中で可愛がって居られるようです。偉丈夫、偉丈夫と私を呼ばれ、私が何かいうと、さうだ、さうだ、まさにその通りだと賛成されます。天下のために薩摩が大いに活躍する時が来た。君達のような人達が斉彬公を押し立てて活動すれば、夷狄を打攘い皇国を振起することは難事ではない。有難い、頼もしいことだと言われ、身に余るうれしさよろこびです。若し水戸老侯が鞭をあげて、異船打攘いに魁けらられることでもありますれば逸散に駆けつけて、戦場の埋草になりとも役立ちたいと、心から東湖先生に心酔いたしております。 》

西郷は、学者・藤田東湖を、最大の尊敬と愛着の眼差しをもって見ている。おそらく、この時、西郷は、藤田東湖の語る思想やイデオロギーばかりではなく、人間・藤田東湖を見ている。人間・藤田東湖の「語り方」、あるいは「立ち居振る舞い」に心酔している。

藤田東湖は、言うまでもなく、尊皇思想の牙城とも言うべき水戸学派の中心人物であり、水戸藩主・徳川斉昭からも信認の厚い忠臣であり、政治家でもある。島津斉彬の推薦があったにしろ、西郷が、短期間のうちに、藤田東湖の信頼を勝ち得たのは、西郷自身にも、それだけの知性と学問があったからだろう。学問や知性の伴わない田舎出の凡夫でしかなかとすれば、藤田東湖という大学者と意気投合するはずがない。また、西郷が、藤田東湖との出会いや対話に、これだけ純粋に感激し、感動しているということは、西郷の学問への意欲と情熱が、並大抵のものではなかったということを示している。

西郷には、知性も学問も思考力もあった。しかし、ここで特筆すべきは、西郷南洲が、すでに、若いという年齢を越えていたにもかかかわらず、依然として、純粋な「学問への情熱」と「学ぶという姿勢」を持ち続けていたということだろう。


西郷は、交流を重ねるにつれて、ますます藤田東湖という人物の学識とその言動に心服し 、文字通り心酔していったが、それは、藤田東湖の方も同じだった。藤田東湖もまた、西郷同様に、見るからに精神も身体も大きい大思想家であり 、豪傑型の大人物だった。藤田東湖が、西郷の中に、単なる表層的な学問や教養にとどまらず、それを具体的な場面でも、果敢に実践、実行する行動的人格を見出し、次の時代の指導者として期待しただろうことは、西郷の手紙を読むまでもなく、明らかだ。もちろん西郷を、藤田東湖に紹介し、推奨した薩摩藩主・島津斉彬の言葉の影響はおおきかっただろう。島津斉彬は、こう言っている。

《  乃公は(吾輩は)このころ、大変よきものを手に入れた。中小姓の西郷吉之助という軽身であるが、すぐれた人物と確信している。どうぞよろしくお引立て願いたい》。

藤田東湖が、薩摩藩主・島津斉彬のこの言葉を重く受け止めただろうことは間違いない。しかし、それだけではあるまい。藤田東湖が西郷を見込んだのは、西郷という人物を目の前で、直接、見て、しかも対話を繰り返すうちに、「この人物はタダモノではない」と、その鋭い鑑識眼で見抜き、確信したはずである。

ところで、西郷を感激させ 、感動させた「藤田東湖」とは何者だったのか。言うまでもなく、藤田東湖こそ「水戸学派」を代表する「尊皇攘夷」思想の大思想家であり、大学者だった。しかも、とりわけ西郷を感動させたのは、藤田東湖を筆頭とする水戸学派の思想運動が机上の空論ではなく、実践や行動をともなった、一種の革命思想であったことだった。西郷の手紙に、こういう一文がある。

《水戸藩の学問は始終、忠義を旨とし、武士となる仕立てのもので学者風のものとは大いに違います。 》

「水戸藩の学問は、・・・学者風のものとは大いに違います。」という言葉の意味するところは、何だろうか。私には、ここに西郷の本質、あるいは藤田東湖の本質があるようにみえる。これは、「水戸藩の学問」が、革命運動を連想させる実践的、行動的な学問だったということだろう。言い換えれば、藤田東湖と西郷南洲が意気投合し、肝胆相照らす仲になったということは、いつ、命を落とすかも分からない反体制的な革命運動の同志となったということを意味していた。少なくとも、この頃は、水戸学派の主張する「尊皇攘夷」思想とは、一触即発の危険な反対制思想だった。時は、まさに徳川幕藩体制下である。しかも水戸藩は、徳川御三家の一つである。その水戸藩が、尊皇攘夷を主張する水戸学派を形成し、徳川幕藩体制との全面対決の姿勢を強めていくのである。幕府側が、水戸藩を警戒の眼で見ていたことは間違いない。つまり、藤田東湖も西郷南洲も、この頃、ともに決死の覚悟の上で、行動していたはずである。


西郷が藤田東湖のもとに頻繁に出入りし、教えを乞うた時間は、それほど長いものではなかった。藤田東湖は、江戸を襲った大地震(1955)で、来たるべき歴史の大激震を予告するかのように、あっけなく、倒壊した家の下敷きになって圧死してしまうからだ。藤田東湖の死を待っていたかのように、歴史は、大激動の時代を迎える。まず「安政の大獄」事件(1958)や「桜田門外の変」(1960)である。徳川幕藩体制下で、幕政の実権を掌握した大老・井伊直弼が発動した「安政の大獄」騒動で、水戸学派の尊皇攘夷思想に影響を受けていた尊皇攘夷派の全国の志士たちが、次々と逮捕・拘束され、切腹や斬死、謹慎、蟄居に追い込まれていくからだ。

たとえば、梅田雲浜、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎、安島帯刀、鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、日下部伊三治・・・などが殺される。もちろん、藩主・島津斉彬の指導のもとに、尊皇攘夷派の志士の一人として活動していた西郷も例外ではなかった。西郷が、一回目の「島流し」になるのもこの事件の余波である。西郷も、江戸を逃れ、京都を経て、いわゆる尊皇攘夷派の僧・月照らとともに、薩摩へ逃げ延びる。しかし、薩摩藩の権力構造も大きく変動していた。西郷の後ろ楯となっていた藩主・島津斉彬が急死(毒殺?) し、島津斉彬の父で前藩主の島津斉興が、実権を掌握していた。しかも島津斉興は、幕府よりの政治姿勢をとっていた。そこには、もう西郷のいる場所はなかった。西郷は、幕府に追われる「お尋ね者」でしかなかった。追い詰められた西郷は、月照との「心中事件」を引き起こし、その後、一命を取り留めるのだが、藩命で、名前を「菊地源吾」、あるいは「大島三之助」と改めて、奄美大島に流刑され、そこに三年間、逃亡、潜伏することになる。これが、一回目の「島流し」である。


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2020年12月3日木曜日

(緊急速報)東京地検特捜部が、安倍首相に事情聴取要請。 ーーーーーーーーーーーー 安倍晋三前首相の後援会が主催した「桜を見る会」前日の夕食会を巡り、東京地検特捜部が安倍氏本人に任意の事情聴取を要請したことが3日、関係者への取材で分かった。(共同通信) ーーーーーーーーーーーー

 





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(緊急速報)

東京地検特捜部が、安倍首相に事情聴取要請。(共同通)

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安倍晋三前首相の後援会が主催した「桜を見る会」前日の夕食会を巡り、東京地検特捜部が安倍氏本人に任意の事情聴取を要請したことが3日、関係者への取材で分かった。(共同通信)

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2020年11月23日月曜日

『 南洲伝 』後書き(14)・・・Facebookの「投稿を編集」という機能が、使えなくなり、しばらく投稿を止めていたが、別の方法で「投稿の編集」が使えることがわかったので、また投稿を始めることにした。また、私事だが、薩摩半島の山奥(「毒蛇山荘」)に 、しばらく隠遁していたが、先日上京、戦線復帰 。

 





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『 南洲伝 』後書き(14)・・・Facebookの「投稿を編集」という機能が、使えなくなり、しばらく投稿を止めていたが、別の方法で「投稿の編集」が使えることがわかったので、また投稿を始めることにした。また、私事だが、薩摩半島の山奥(「毒蛇山荘」)に 、しばらく隠遁していたが、先日上京、戦線復帰 。2ヶ月前後、テレビのない生活を続けていたので、上京後、テレビを見て驚いた。「一億総白痴」(?)とかいう言葉もあったように思うが、なるほど、そうだったのか、と確信する。私は、山奥で、晴耕雨読を繰り返しながら、気晴らしには、焼酎をのみながら、もっぱら「Youtube動画」を見ていた。「Youtube動画」もくだらないと思っていたが、「Youtube動画」の世界の方が、はるかにレベルが高いことに気付いた。「Youtube動画」で、「オリンピックは中止決定・・・」と論じる本間龍(作家)や、コロナ大不況を論じる女装の東大教授、アメリカ大統領選挙の「不正選挙報道」など、「Youtube動画」の方が、はるかに情報量が豊富で、中身も濃く、面白い。テレビの「アメリカ大統領選挙報道」(明治大学の海野素央、上智大学の前島某)を見たが、「お笑い芸人たちの子どもニュース」にしか見えて来ない。日本のGDPが、現在、どのくらいなのか、あるいは日本が「IT戦争」で負け続けていることなども報道しろよ、と思うが、無理らしい。さて 、冗談はこのぐらいにして、本題に戻ろう。

ところで 、「西郷の唯一の欠点は学問がなかったことだ・・・」とかいう福沢諭吉の言葉に、私は、こだわっている。そもそも学問とは何か、福沢諭吉の言う学問とは何か、あるいは、福沢門下に、そういう学問のある人物がいるのか 、いないのか。私も、慶應義塾大学出身の塾員のはしくれだが、私の見るところ、福沢門下に、大学教授や実業家、文化人は、掃いて捨てるほどいるだろうが、思想的な広さと深さ、そして思想的感化力や思想的伝播力において、西郷南洲に匹敵するような人物が、一人でもいるとは思えない。少なくとも私は知らない。福沢諭吉の西郷論として有名な・・・『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』にしてからが、福沢自身が 、死後まで出版しないように遺言していたらしい。西郷が命を賭けて戦った「西南戦争」を、あるいは明治維新を、擁護する資格は、福沢にはない。福沢は、明治新政府、つまり大久保利通政府の「権力」を恐れているのである。






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2020年11月13日金曜日

『 南洲伝 』後書き(13)・・・西郷は、徳之島で、奄美大島時代について、奄美大島で世話になった役人・木場伝内宛に、手紙で次のように書いている。

 




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『 南洲伝 』後書き(13)・・・西郷は、徳之島で、奄美大島時代について、奄美大島で世話になった役人・木場伝内宛に、手紙で次のように書いている。

《 大島にいましたときは 、今日は今日はと待っておりましたので、癇癪もおこり、一日が苦しいものでしたが、このたびは徳之島より二度と出ることはないとあきらめていますので、何の苦もなく安心なものです。もしや乱になれば、その節はまかり登るべきでしょうが、平常であれば、たとえご赦免をこうむっても、島に留まる願いを出すつもりです。》(木場伝内宛)

奄美大島から帰還後、わずか二ヶ月足らずで、再度、島流しにあった西郷は、奄美大島時代とは異なり、大きな心境の変化があったと思われる。この手紙から察するに、奄美大島の西郷は、現世(政治)への未練が断ち切れなかったのだろう。しかし、二度目の島流しで、心に期するものがあった。現世(政治)への未練を断ち切っている。この後、さらに沖永良部島へと移送されるのだが・・・。沖永良部島へ移送後、今度は、得藤長(とく・とうちょう)へ書き送った手紙には、こうある。

《 昨冬、お手紙いただき、遠方へお心がけ下さり、かたじけなくお礼申し上げます。・・・。私は異議なく消光(日を送る)いたし、この島でも詰役人がしごく丁寧で仕合わせの至りです。囲い入りになっていますので、脇から見ればよほど窮屈に見えるようですが、拙者にはかえってよろしく、俗事にる粉れることもなく、余念なく学問一辺にて、今通りに行けば学者にもあれそうな塩梅です。まずはご安心下さるよう。》(得藤長(とく・とうちょう)1883、3、21)







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『 南洲伝 』後書き(12)・・・西郷は、奄美大島で、橋本左内が江戸の小伝馬町の牢獄で、斬首されたという報せを聞いた。この報せをうけとった西郷が、落胆して、悲痛な悲しみに襲われたことは言うまでもないが、同時に、激しい怒りと復讐心が燃え上がるのを抑えることは出来なかった。

 



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『 南洲伝 』後書き(12)・・・西郷は、奄美大島で、橋本左内が江戸の小伝馬町の牢獄で、斬首されたという報せを聞いた。この報せをうけとった西郷が、落胆して、悲痛な悲しみに襲われたことは言うまでもないが、同時に、激しい怒りと復讐心が燃え上がるのを抑えることは出来なかった。その時のことを、手紙で、こう書いている。《 悲憤千万  耐え難き時世・・・》と。
橋本左内との交流は、わずか二年 前後の短い期間に過ぎなかったが、西郷に、六歳下の若い橋本左内という存在は、鮮烈な印象を残している。最初の出会いから意気投合したわけではない 。むしろ、最悪の出会い方をしている。安政2年12月27日、橋本左内が薩摩藩邸を訪れる。西郷と話をするためであった。しかし、西郷は、橋本左内を、歳下で、インテリ風の風貌から、話をする前から、この人物はたいしたことはないと判断したらしく、甘く見て 、かなり侮蔑的な態度をとった。 しかし、橋本左内の政治や思想の話を聞いているうちに、西郷は、橋本左内への人物評価をガラリと変える。西郷は、わざわざ 、その翌日、橋本左内のいる越前・福井藩邸に、「失礼を詫びる」という形で、謝りに出かけている。後に、西郷は、尊敬する人物として、水戸藩の藤田東湖と並べて、橋本左内の名前をあげている。藤田東湖と橋本左内。二人とも、その後の歴史に名を残している大学者、思想家、政治家である。何故、西郷が、当代随一と言っていいような人物たちと、対等に交流出来たのだろうか。特に、行動派、武断派・・・と思われている西郷が、学者肌の藤田東湖や橋本左内と、意気投合した挙句、肝胆相照らす仲になれたのだろうか。西郷の方にも、学問や思想に関する知性と能力が備わっていたからではないか。奄美大島で、親しく交流した重野安繹(しげの・やすつぐ)との間には、こういう関係は成立していない。西郷も、重野安繹をそれほど評価していなかったし、重野安繹も、西郷の知性や才能、能力が理解出来ていなかった。藤田東湖や橋本左内と、後に東京帝国大学教授ともなる重野安繹との違いは、何処にあるだろうか。





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『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。

 



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『 南洲伝 』後書き(11)・・・奄美大島の話に戻ろう。奄美大島の「龍郷村」に到着直後の西郷南洲は、島流しにあった自分自身の運命を、冷静に受け止め、その後の西郷南洲のように、人生や運命の有為転変を達観していたわけではない。悲憤慷慨したり、自分を責め悲観したり、あるいは、誰それを激しく批判、罵倒したり・・・したこともあっただろう。おそらく、後に、重野安繹が証言したことは、ほぼ間違いはないだろう。しかし、それは西郷南洲の一面に過ぎないこともまた明らかである。たとえば、橋本左内とはじめて対面した時の印象を、橋本左内は、かなり辛辣に証言している。天下国家を声高に論じる血気盛んな青年・・・と。橋本左内は、「備忘録」に、こう記している。

《 卯月極月(安政二年十二月)、二十七日、原八(水戸藩士原田八兵衛)宅で始めて会す。燕趙悲歌の士う

なり。》(橋本景岳全集)


「 燕趙悲歌の士」と何か。時勢を憤り嘆く人という意味らしい。橋本左内の第一印象は、あまりいいものではなかったということだろう。橋本左内は、越前福井藩士で、西郷南洲より、六歳年下だったが、既に幼少期から、英才として注目されていたらしく、この頃、すでに藩主松平慶永の懐刀として、重くもちいられていた。橋本左内と西郷南洲は、共に 、藩主等が主導する「一橋慶喜将軍擁立運動」に、その実働部隊として活動し、邁進することになるのだが、少なくとも、この時点では、橋本左内は、西郷南洲をそれほど高く評価していない。しかし、西郷南洲の不思議なところは、そういう鋭い眼力の持ち主である橋本左内の評価さえも、短時間のうちに変えてしまうところだ。四ヶ月後の日記では、ガラリと変わっていく。

《西郷はすこぶる君候(斉彬) に得られる。当藩(越前藩)より(斉彬公に)仰せ遣わされた趣など、これを承っている様子。》


つまり、西郷南洲が、大言壮語の「燕趙悲歌の士」という第一印象とは異なり、薩摩藩主島津斉彬の信頼も勝ち得ている実直・有能な人だ・・・という評価へ変わる。こうして、意気投合し、肝胆相照らす仲になった二人は、藩主等の手足となって、「一橋慶喜将軍擁立運動」へと

突き進んでいく。しかし、二人の前にも、「安政の大獄」事件が立ち塞がる。西郷南洲が、奄美大島に島流しにあうのと、ほぼ同時に、橋本左内は、幕府の手に捕まり、安政6年10月7日(1859年11月1日)、伝馬町牢屋敷で斬首となった。26歳であった。




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2020年11月8日日曜日

『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。



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『 南洲伝 』後書き(10)・・・私は、西郷南洲には「学問がなかった・・・」という言い方に強い違和感を感じる。そういう時、その「学問」とは何だろうか、どういう「学問」を「学問」というのだろうか、と。私が、西郷南洲の存在から感じ取るのは、「学問を超えた学問」のような気がする。西郷南洲は、沖永良部島時代に、学問に打ち込みすぎて、「学者になったような気分・・・」と手紙に書いている。奄美大島時代にしろ沖永良部島時代にしろ、政治運動や倒幕運動・・・から切り離され、社会からも情報からも孤絶していた。西郷南洲の関心は内部に向かわざるを得なかった。「内部」とは学問や思想以外にない。西郷南洲の向きあった学問や思想が、未熟なものだったにしろ、凡庸なものだったにしろ、西郷南洲のような境遇に追い込められたものは、そんなに多くはないだろう。西郷南洲が向きあった学問が、経歴や肩書きで塗り固められたような表層的なエセ学問だったはずはない。西郷南洲の向きあった学問こそ、ホンモノの学問だったはずだと、私は確信する。司馬遼太郎のような「大衆通俗読み物作家」なら、西洋留学(遊学)の経験があるかないかで、学問のレベルを測定するだろう。西郷南洲は、西洋留学も西洋見物もしていない。西郷の留学先は、奄美大島と沖永良部島だった。「奄美大島と沖永良部島」が、留学先として不足だったはずはない。奄美大島には、昌平黌で、天下の秀才とうたわれ、後に東京帝国大学教授となる「漢学者・重野安繹」がおり、沖永良部島には、川口雪蓬(かわぐちせっぽう)という「陽明学者」がいた。そして周辺には、圧政や貧窮に苦しむ孤島の一般庶民・一般大衆がいた。学問を極めるのに、これ以上、恵まれた環境はない。
私は、ここまで書いて、唐突かもしれないが、私が、高校時代、読み始めて、強い影響を受けたドストエフスキーの約10年間に及ぶ、政治犯としての「シベリア流刑時代」を思い出した。ドストエフスキーもまた、シベリア流刑時代の「10年間」を経て、いわゆる、『 罪と罰』や『悪霊 』『カラマーゾフの兄弟 』・・・等を書くことになる「文豪ドストエフスキー」へと成長する。それまでのドストエフスキーは、才能はある作家ではあったが、何処にでもいる群小作家の一人に過ぎなかった。ドストエフスキーは、この10年間に、極寒の地・シベリアで、何を学んだのか。何が、ドストエフスキーを、群小作家の一人から世界の文学史に残るような「文豪ドストエフスキー」へと変えていったのか。ドストエフスキーは、シベリア流刑時代、「デカブリストの乱」で、夫たちが流刑の処分を受けた「デカブリストの妻たち」に 、護送途中に手渡された『聖書 』を、熟読した。『聖書 』以外は読むことを禁じられていたからだ。ドストエフスキーの文学は、獄中での聖書熟読によって成り立っている。
私は、西郷南洲にも同じことが言えると思う。西郷南洲もまた、絶海の孤島で、書物を熟読し、学問を極めることによって、「西郷吉之助」から「西郷南洲」へと成長して行く。もちろん、「西郷吉之助」もまた、藩主島津斉彬に、類まれな才能を見出され、江戸詰めの「薩摩藩お庭番」に取り立てらるような有能な青年武士だったかもしれない。しかし、「西郷吉之助」を「西郷南洲」に成長させたのは、5年間の「島流し時代」であり、その間に励んだ「学問」のお陰だった。西郷南洲には、「学問がない」のではなく、薄っぺらな、付け刃の「エセ学問」がないだけである。西郷南洲が、孤島の流刑生活で向きあった学問こそ 、ホンモノの学問だった。そこで身につけた学問こそが、「西郷南洲という思想」(江藤淳『南洲残影 』)であったはずだ。