『 南洲伝 』後書き(4)・・・2、3年前、枕崎市の旧家で、西郷南洲の新しい肖像画が、発見されました。西郷南洲研究家で、糸夫人の子孫にあたる若松宏氏(敬天カフェ)なども太鼓判を押しています。もっとも、実物に近いのではないか、と。写真は、肖像画を保管していた枕崎市の旧家の「老夫婦」です。夫人の実家(この家!)の仏間に大事に飾ってあったものだそうです。西郷南洲は 、流刑地・奄美大島から 、許されて帰還する時 、枕崎のカツオ船(イサバ船)に乗って、嵐に見舞われながらも 、ようやく枕崎に到着しました。枕崎に一泊して、迎えに来た弟たちと、慌ただしく鹿児島に戻り、政務に復帰しました。枕崎の一夜(!)。その時 、地元の無名画家(?)が、描いたのではないか、と言われているそうです。
Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
2020年10月10日土曜日
『 南洲伝 』後書き(4)・・・2、3年前、枕崎市の旧家で、西郷南洲の新しい肖像画が、発見されました。西郷南洲研究家で、糸夫人の子孫にあたる若松宏氏(敬天カフェ)なども太鼓判を押しています。もっとも、実物に近いのではないか、と。
2020年10月6日火曜日
南洲伝 』後書き(3)・・・では、西郷南洲の「学問」、あるいは西郷南洲の「思想」とは何か。日本全国の前途有望な青年たちが、西郷南洲のもとに駆けつけ、共に戦い、共に戦死していったのは、何故か。あるいは、西郷南洲の最期の戦いに参加出来なかった青年たちが、西郷南洲の「弔い合戦」として、あるいは「敵討ち」として、命を賭して、大久保利通惨殺事件へと突き進んでいったのは、何故か。西郷南洲の何が、彼等をそうさせたのか。
『 南洲伝 』後書き(3)・・・では、西郷南洲の「学問」、あるいは西郷南洲の「思想」とは何か。日本全国の前途有望な青年たちが、西郷南洲のもとに駆けつけ、共に戦い、共に戦死していったのは、何故か。あるいは、西郷南洲の最期の戦いに参加出来なかった青年たちが、西郷南洲の「弔い合戦」として、あるいは「敵討ち」として、命を賭して、大久保利通惨殺事件へと突き進んでいったのは、何故か。西郷南洲の何が、彼等をそうさせたのか。
さて、私が、不思議に思うことが、もう一つある。それは、近代日本の優秀な知識人、思想家、学者文化人の多くが、叛逆者であり暴徒であり逆賊である西郷南洲を、極めて早い段階から、激しい口調で擁護し、絶賛している事だ。勝海舟や中江兆民から福沢諭吉、内村鑑三、そして新しくは、三島由紀夫、江藤淳に至るまで・・・。彼等が、今さら、私が言うまでもなく 、それぞれ思想的立場は違えど、それぞれの分野で、超一流の知識人であり、思想家であり、学者であったことは間違いない。何故、彼等は、逆徒、逆賊 、暴徒・・・という政府側のプロパガンダやそれに追随する新聞等のジャーナリズム、あるいはそれに付和雷同する大衆の悪罵・罵倒に逆らって、西郷南洲を擁護したのか・・・。
江藤淳が、西郷南洲の「思想」について、鋭いことを言っている。私が、西郷南洲に関する文章で、最も感銘を受けた文章だ。
《「陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、排外思想でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった」『南洲残影 』(p.262) 》
実は 、私は、江藤淳のこの文章を読むまでは、『 南洲伝 』なるものを書こうと思ったことはなかった。西郷南洲なんて、私の関心外だった。何回も書くが、英雄豪傑としての西郷南洲にも、郷土自慢的な西郷南洲にも、あるいは、そういう西郷南洲礼賛に反発した西郷南洲批判にも、私は無関心だった。その気持ちは、今も変わらない。何年か前のNHKの大河ドラマ『 西郷どん(セゴドン)』にも、鹿児島の一部で起きたらしい 『 西郷どん(セゴドン)』ブームにも、私は、嫌悪感しか持たなかった。私は、最近は、両親や兄の墓参りもかねて、年に数回は、鹿児島に帰っているが、その度に、田舎のバスにのりかえるために、鹿児島中央駅前の広場に立つが、毎回、『 西郷どん(セゴドン)』のノボリやポスターを見つけては、顔をそむけたものだ。皮肉な言い方をすれば、ここ、一、二年、その種のノボリやポスターが、駅前の風景から全て消えたので、ホッとしている。やっと、私が、私の「西郷南洲体験」を語る時が、来たな、と思うのだ。
今年は、従兄弟の案内で、枕崎市の旧家に眠る西郷南洲の肖像画を見せてもらった。その肖像画は、キヨソネ等の描いた、美しすぎる「西郷南洲像」とは異なる、厳しい「西郷南洲」の肖像画だった。ちょっと近寄り難い、重厚な西郷南洲が描かれていた。私が、『 南洲伝 』で描こうとしている西郷南洲は、枕崎市の旧家で、新しく発見された、この肖像画に近いかもしれない。あるいは、江藤淳が言う「西郷南洲という思想」も、この肖像画に近いのかもしれない。前途有望な青年たちから超一流の文化人まで、強力に引きつける西郷南洲の磁力とは何か。言い換えれば、江藤淳の言う「日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想」とは何か。
(続く)
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2020年10月5日月曜日
『 南洲伝 』後書き(2)・・・私が『 南洲伝 』で注目するのは、その「学問」や「思想」の次に、その「思想的影響力」や「思想的感化力」である。西郷南洲の学問や思想に共感し 、政治的行動を共にしたい、あるいは生死を共にしたいと願った青年たちは、一人や二人ではなかった。
《 吾(われ)、此処(ここ)に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ。》
増田宗太郎は、西郷軍に参戦することで、一攫千金ならぬ、人生上の一発逆転を狙ったのか。まったくそうではない。増田が西郷軍に投じた時、既に勝敗は決しており、誰が見ても敗色濃厚だった。増田は、西郷南洲と共に、死にたかったのだ。
島津啓次郎に至っては、アメリカ留学帰りの少壮の青年学者だった。学習院学長を懇願されたが、その趣旨が気に入らぬといって、それを断り、故郷に戻り、私塾を開き、後の小村寿太郎を育てた・・・という人物であった。さらに、石川県の金沢藩には、西郷南洲没後の翌年に、宿敵・大久保利通を 、紀尾井坂で襲い、惨殺した、いわゆる「紀尾井坂事件」の首謀者島田一郎等がいる。司馬遼太郎は、付和雷同する無知蒙昧な暴徒として描いているが、そんあはずはない。島田一郎等は、前もって事件を予告し、「斬奸状」を持ち、事件後は、誰一人逃げも隠れもせず、全員、警察に出頭し、極刑に服している。もちろん、『 西郷南洲翁遺訓 』 を遺した山形県酒田の庄内藩の青年たちが、西郷南洲の思想的影響を受け、一部の青年たちは、西南戦争にまで従軍し、戦死したことは、言うまでもない。
何故、多くの青年たちが、西郷南洲と、生死を共にしたのか。西郷南洲に学問があっただけではなく、その西郷南洲の学問が、机上の空論ではなく、生きた学問だったからだろう。思想的感化力を持つ学問だったからだろう。
(続く)
2020年10月3日土曜日
『 南洲伝 』後書き(1)・・・しばらく「竹中平蔵研究」を中断し、『 南洲伝 』の完成・出版を目指したい。コロナ騒動などもあって、出版が遅れていた我が『 南洲伝 』だったが、社会情勢も個人的な生活状況にも変化があったので、のんびりやっているわけにはいかなくなった。予定通り、出版を急ぎたいと思う。というわけで、『 南洲伝 』の「後書き」を ・・・。
『 南洲伝 』後書き(1)・・・しばらく「竹中平蔵研究」を中断し、『 南洲伝 』の完成・出版を目指したい。コロナ騒動などもあって、出版が遅れていた我が『 南洲伝 』だったが、社会情勢も個人的な生活状況にも変化があったので、のんびりやっているわけにはいかなくなった。予定通り、出版を急ぎたいと思う。というわけで、『 南洲伝 』の「後書き」を ・・・。
私は、『 南洲伝 』というタイトルではあるが、西郷隆盛、西郷南洲、菊池源吾・・・について、平凡・凡庸な伝記を書こうとは思はない。私は、巷に溢れている種々雑多な西郷隆盛本の類いを、それなりに評価しないわけではないが、私は、書きたいとは思はない。私は、江藤淳の『 南洲残影 』を読んで以来、「着眼点」というものにこだわるようになった。江藤淳の『南洲残影 』は、明らかに目の付け所が違う。負け戦に過ぎなかった「西南戦争」だけを取り上げ、それだけを描いて一冊の西郷南洲伝にしている。私が見習うべきは、このスタイルだと思った。そこで、私が、私の『 南洲伝 』で、こだわべきは何か、と考えた時、浮かんできたのは、私は、「私の西郷南洲体験」にこだわるべきだろう、ということだった。
私は、昔から、英雄豪傑としての西郷南洲も、郷土自慢的な西郷南洲も嫌いであった。要するに、成功した西郷南洲伝説が苦手だった。さらには、それに反発したと思われる西郷南洲批判も嫌いであった 。それなら書く必要などない。誰か、他の人が書くだろう。
私がこだわったのは、西郷南洲の「学問」「思想」、あるいは「思想的影響力」「思想的感化力」というようなものだった。
私は、福沢諭吉が言った「西郷には、学問がなかった。それが最大の欠点だった」という言葉に、激しく反発する自分に驚いた。福沢諭吉は、西郷南洲には好意的だった。西郷南洲を、『 丁丑公論』で、徹底的に擁護している。にもかかわらず、私は、福沢諭吉の言葉に、強く反発した。西郷南洲には「学問」がある、と。それは、福沢諭吉が考えるような「学問」ではないかもしれない。大学で洋書や原書購読を通じて学ぶような学問ではないだろう。しかし、洋書や原書購読だけが学問ではないだろう。西郷南洲の学問こそホモノの学問だろう、と。
西郷南洲は、現代風な言葉で言えば、確かに大学出ではない。もちろん、東大などの一流大学の卒業生でもない。明らかに高卒程度の学歴しかない。西郷南洲の古い友人に、重野安繹(しげのやすつぐ)という薩摩藩出身で、後に東大歴史学教授となった学者がいる。重野安繹は、若くして、その学問的才能を買われて、江戸に留学し、昌平黌(学問所)で、当時の日本を代表するような学者・文化人たちの元で学び、且つ彼等と交遊している。
その頃、西郷南洲は、薩摩藩の地方役人として、田舎暮らしの身だった。この経歴や境遇だけを見れば、確かに、福沢諭吉が言った通り、西郷南洲には「学問」がなかった、と言えるかもしれない。しかし、その直後、薩摩藩主となった島津斉彬に抜擢されて、江戸詰めの「御庭番」となる。ここで、西郷南洲と重野安繹は、江戸薩摩藩邸詰め役人として同僚となる。しかも、この頃、重野安繹の紹介で、水戸藩の藤田東湖を知る。藤田東湖は、即座に西郷南洲の才能を見抜き、以後、親交を結ぶことになる。同時に、福井藩の英才・橋本左内とも親交を結ぶ。西郷南洲が、表舞台に登場して、薩摩藩の対外交渉で重要な役割を担うのに対して、重野安繹は、裏方に留まることになる。つまり、以後、立場が逆転することになる。重野安繹には、一流の「学問」も「学識」もあったかもしれない。しかし、重野安繹には、それらを生かす才覚がなかった。
西郷南洲と重野安繹は、その後、別々の人生を歩むが、江戸ならぬ奄美大島という流刑地で、奇妙な再会を果たしている。
2020年9月30日水曜日
竹中平蔵研究(66)・・・竹中平蔵式「ベーシック・インカム」とは何か。「ベーシック・インカム」という言葉だけを聞くと、歓迎すべきことのように聞こえるが、竹中平蔵が 、それを言い出したとすれば、それほど単純なものではなく、必ず裏があるはずだ。その裏とは、年金制度の廃止、生活保護制度の廃止ということらしい。
竹中平蔵研究(66)・・・竹中平蔵式「ベーシック・インカム」とは何か。「ベーシック・インカム」という言葉だけを聞くと、歓迎すべきことのように聞こえるが、竹中平蔵が 、それを言い出したとすれば、それほど単純なものではなく、必ず裏があるはずだ。その裏とは、年金制度の廃止、生活保護制度の廃止ということらしい。これで、政府側は、丸儲けというわけだ。いかにも竹中平蔵が考えそうなことだ。しかし、問題は、これが 、竹中平蔵個人の妄想発言ではないということだ。おそらく、菅総理と打ち合わせ済みの話だろうということだ。言い替えれば、竹中平蔵が、考え 、言い出したことは、荒唐無稽な話ではないということだ。「根回し」は、既に、すんでいるはずだ。繰り返して言うが、竹中平蔵の恐ろしいことは、政治力である。政策や理念を実現するために 、全精力を使い果たしてもいい・・・ということだ。
2020年9月29日火曜日
竹中平蔵研究(65)・・・竹中平蔵が、菅政権誕生とともに、公然と、政治の表舞台に登場してきた。それと同時に、「竹中平蔵批判」も盛り上がってきたようだ。それを見ていると、なんだか、小生の「竹中平蔵研究」も、虚しくなって来るような感じになる。そもそも、私は、権力に迎合することも、時流に迎合することも好きではない。しかし、私は、やりかけたことを、簡単に放棄することも嫌いである。
竹中平蔵研究(65)・・・竹中平蔵が、菅政権誕生とともに、公然と、政治の表舞台に登場してきた。それと同時に、「竹中平蔵批判」も盛り上がってきたようだ。それを見ていると、なんだか、小生の「竹中平蔵研究」も、虚しくなって来るような感じになる。そもそも、私は、権力に迎合することも、時流に迎合することも好きではない。しかし、私は、やりかけたことを、簡単に放棄することも嫌いである。というわけで、私は、私の「竹中平蔵研究」を続ける。私見によれば、竹中平蔵問題は、竹中平蔵の個人の問題ではない。竹中平蔵的なものの集団の問題であり 、構造の問題である。もっと具体的にいえば、竹中一派の問題でもある。竹中平蔵問題を竹中平蔵個人の問題としてとらえ、竹中平蔵批判を繰り返しても、その刀は空を切るだけだろう。竹中平蔵の本質は経済学でも経済理論でもない。竹中平蔵の本質は「政治能力」である。竹中平蔵の経済理論や政策をいくら批判しても、竹中平蔵には通じない。カエルの面に小便である。竹中平蔵の本質は政治力である。悪しき政治力である。竹中平蔵は、一人ではない。竹中一派(高橋洋一、岸博幸 、原英史)がいる。そしてその周辺には、竹中平蔵シンパや竹中平蔵の弟子たちがいる。菅義偉もその一人である。そして、さらにその外側に、「竹中平蔵応援団」とも言うべき無数の「ネット右翼」がいる。
(続く)
2020年9月24日木曜日
竹中平蔵研究(64)・・・菅義偉よ、耳学問で、中途半端な「改革馬鹿」になってはいけない。「小泉・竹中改革」の「結果」を充分に調査、分析、検証した上で、「改革」という言葉を使ってくれ。
竹中平蔵研究(64)・・・菅義偉よ、耳学問で、中途半端な「改革馬鹿」になってはいけない。「小泉・竹中改革」の「結果」を充分に調査、分析、検証した上で、「改革」という言葉を使ってくれ。菅義偉が依存し、政策立案を丸投げしているらしい「構造改革狂い」の竹中平蔵は、自らが犯してしまった「構造改革の失敗」を直視出来ず、むしろ、その大失敗を隠蔽するべく、同じ過ちを繰り返そうとしているのだ 。自民党内部にも「反・竹中平蔵」や「竹中平蔵嫌い」は、半分以上はいるだろう。野党系だって、大多数は「反・竹中平蔵」だろう 。菅義偉よ、日本国民を道連れに、破れかぶれに、「集団自殺」へ突っ込むのは、止めてもらいたい 。菅義偉よ、もっと本を読め。「ネットウヨ」のような耳学問だけでは、必ず、失敗する。竹中平蔵の口車に乗せられて、日本国家の「国体」を破壊・解体するのは、止めろ。以下は「リテラ」から引用である。「リテラ」の記事でも読んで、頭を冷やせ。
〓〓〓〓以下引用〓〓〓〓
ついに動き出した菅政権。菅義偉新首相は16日の就任会見では、「行政の縦割り、既得権益、そして悪しき前例主義、こうしたものを打ち破って、規制改革を全力で進めます」「この内閣は、既得権益を打破し、規制を改革する、国民のために働く内閣」「規制改革というのをこの政権のど真ん中に置いています」などと「規制改革」「既得権益打破」を連発。18日朝にはあの竹中平蔵パソナグループ会長とさっそく約1時間会食懇談するなど、総裁選中の「自助・共助・公助」に続き、新自由主義路線を全開にしている。
実質“自民党菅派”であり同じ新自由主義信者である維新の吉村洋文・大阪府知事や橋下徹・元大阪市長らも「規制改革に期待」とさっそく同調し、メディアも「規制緩和」「構造改革」ともてはやしている。(以下略)
〓〓〓〓引用終了〓〓〓〓