2021年4月13日火曜日

藤田東湖と西郷南洲(3)・・・『維新と興亜 』連載中の原稿の下書き(メモ)(続々)です。


この「井伊直弼暗殺事件」(桜田門外の変)は、元々、西郷南洲と無縁な事件ではなかった。事件当時、奄美大島に島流しの身だったとはいえ、島流しの直前まで、水戸藩と薩摩藩、そして朝廷との間を頻繁に行き来し、反幕府的な政治工作活動を行っていたのが、西郷南洲その人だった。もちろん、当面の敵は大老=井伊直弼だった。井伊直弼暗殺事件の直接的な契機になったと言われる「戊午の密勅」騒動には、西郷南洲も深く関わっていた。そもそも、正式の密勅(「戊午の密勅」)とは別に、水戸藩への「密書」を、京都から江戸へ運んだのは西郷南洲だった。ともあれ、幕府の手を通さずに、密勅を朝廷から直接、受け取った水戸藩は、返納すべきか、返納すべきでないか、をめぐり藩内が分裂し、大きく揺れることになる。たとえば、水戸学派の重鎮である会沢正志斎は返納派であり、水戸学派の「三田」の一人と言われた武田耕雲斎は反返納派だった。幕府は、「水戸藩/取り潰し」もチラつかせつつ、密勅の即時返還を要求してきた。それに対して水戸藩では、反返納派で、尊皇攘夷派の藩士達が水戸街道を武力で封鎖して、幕府に対抗した。尊皇攘夷派の水戸藩士たちの一部は(高橋多一郎、金子孫二郎)、江戸在住の薩摩藩士たち(有村三兄弟、堀)と連携しつつ 、「井伊直弼暗殺事件」(桜田門外の変)へ向けて、綿密な地下工作を開始していた。あくまでも、この井伊直弼暗殺事件は、薩摩藩の尊皇攘夷派と水戸藩の尊皇攘夷派の共同作戦だった。水戸藩の実行部隊は、脱藩届を出した上で、続々と江戸市中を目指し、あらかじめ指定された潜伏先に身を潜め、決行の日を待った。薩摩藩邸も、潜伏先の一つだった。指導者の金子孫二郎は、薩摩藩邸に身を潜め、そこから、各隊員へ指揮をとっていた。実行部隊は水戸藩中心だったが、薩摩藩の有村雄助、次左衛門兄弟らも含まれていた。しかも、井伊直弼の首を撃ちとったのは、薩摩示現流の免許皆伝で、江戸で道場まで開いていた剣豪の有村次左衛門であった。