2021年4月12日月曜日

 藤田東湖と西郷南洲(3)・・・『維新と興亜 』連載中の原稿の下書き(メモ)です。


藤田東湖が安政の大地震で急死し、西郷南洲が奄美大島に島流しにあっている時、その事件は起きた。水戸藩士(脱藩浪士)たちを中心とする暗殺グループが、時の大老井伊直弼を、桜田門外において、血祭りに上げた、いわゆる「桜田門外の変」である。実は、私は、幕末から維新にいたる歴史的大変革の時代において、もっとも重要な事件だったのではないかと思っている。ここには、良かれ悪しかれ、水戸学の精神が、もっとも鮮明に生きていると言っていいのではないだろうか。水戸学は、何回も言うが、学問のための学問でも、空理空論としての学問でもなく、生きた学問であり、それは実践、実行、行動をともなう学問だった。藤田東湖亡き後 、水戸学派は迷走を始め、暴走を繰り返したあげく、壊滅的打撃を受けて、歴史の表舞台から消えていった、という人も少なくないようだが、私は、そういう史観は、歴史を、「損得勘定」や「結果論」でしか見ない歪んだ史観である、と思う。「生きた歴史」、あるいは「生きられた歴史」とは、そういうものではない。つまり、藤田東湖という水戸学派の指導者が生きていたら、桜田門外の変は、防げただろうか。確かに桜田門外の変以外の方法が有り得たかもしれない。しかし、藤田東湖や戸田忠太夫等が、大地震で、あっけなく死んでしまったように、歴史とは、思い通りにいくものではない。私が、この事件に注目するのは、この事件が、水戸藩と薩摩藩の共同作戦として計画、実行された事件だったからだ。もちろん、藩が総力をあげていどんだ暗殺=謀殺事件だったわけではない。水戸藩にしろ薩摩藩にしろ、一部の過激分子が 、藩中枢の反対を押し切って 、あるいは秘密作戦として、決死の覚悟でいどんだ暗殺=謀殺事件だった。暗殺=謀殺の実行部隊は、水戸藩士が中心だっったが 、この「義挙」が成功した暁には、薩摩藩の大群が 、一挙、上京し 、京都の朝廷を守護し 、さらに倒幕の行動に出るはずだった。こういう密約を信じて、水戸藩士たちと薩摩藩の有村次左衛門 ・雄助兄弟等は、井伊直弼暗殺=謀殺を実行したのだった。しかし 、薩摩藩の大群は、事件後も動かなかった。動けなかったのかもしれない。その結果 、事件にかかわった水戸藩の藩士たちは 行き場も逃げ場も失い 、ほぼ全員が逮捕されたり、自決に追い込められたりしている。