2021年4月23日金曜日

 ■江藤淳と西尾幹二の「差異」について。


江藤淳と西尾幹二とでは、私の中では、何かが決定的に違う。江藤淳と渡部昇一、江藤淳と西部邁・・・でも同じである。決定的に何かが違う。それは、「存在論」、ないしは「存在論的思考力」があるかないかである。西尾幹二や渡部昇一、西部邁等の文章には、この「存在論」、ないしは「存在論的思考力」がない。政治イデオロギー的次元でしか読めない。江藤淳の文章は違う。誤解を恐れずに言えば、江藤淳の文章は、左翼にも通用する。それは、江藤淳の文章に「存在論」、ないしは「存在論的思考力」があるからだ。

私は、今年から 、江藤淳論『江藤淳とその時代 』の連載を、『月刊日本』という月刊雑誌で開始したが  、それは、私にとっては、かなり重要な仕事である。「江藤淳」が好きだとか嫌いだとかいうレベルとは異なる次元の思考力の問題に関わっているからだ。つまり 、私は、江藤淳を、吉本隆明や柄谷行人、廣松渉・・・と同じ次元で読むことが出来る。これは、言い換えると、右派と左派、右翼と左翼、保守と革新・・・というような政治イデオロギーの次元とは異なる次元で読むことが出来るという意味である。具体的に言えば、小林秀雄や三島由紀夫や大江健三郎を、政治イデオロギーの次元で読む人もいるだろうが、そういう人は、問題外で、多くの読者は、政治イデオロギー的二元論とは無縁な次元で、あくまでも文学として、読んでいるはずである。私は、右翼と左翼、保守と革新・・・という「二元論」が、通用しないと言っているわけではない。むしろ私は、「右翼と左翼、保守と革新・・・」という「二元論」は永久に不滅だと思っている。ただその種の二元論では、底の浅い、薄っぺらな議論しか出来ない、と言いたいだけだ。

  ところが、「ネット右翼」(「ネット左翼」?)の時代、「ネットウヨ」の時代と言ってもいい、この時代にあっては、文学を文学として読む読者は、あるいは政治イデオロギー的二元論とは異なる次元で読む読者は、極端に少なくなっているような気がする。「ネット右翼」も「ネット左翼」も、それぞれ自分たちだけの自閉的な「小宇宙」=「タコツボ」を作って、そこに閉じこもり、外部を見ようとしない。そこでは、論争も闘争も対立も起きない。右翼にも左翼にも、それぞれ、自己慰安的な閉鎖空間が出来上がっている 。これが、現代日本の文化的貧困、思想的貧困、さらに言うと政治=経済的貧困をもたらしている。