Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
2020年10月29日木曜日
『 南洲伝 』後書き(9)・・・奄美大島時代の西郷南洲をもっと身近で見た人物は、奄美大島の地元の人間を中心に他にも、たくさんいるだろうが、中でも重野安繹(しげの・やすつぐ)の存在は大きい。「本土」(?)側の人間としては唯一と言っていいからだ。
2020年10月28日水曜日
『 南洲伝 』 後書き(8)・・・重野安繹(しげの・やすつぐ)という人物は、その輝かしい経歴や肩書き、あるいは交遊関係のわりに、あまり知られていない人物である。実は、重野安繹は、明治維新後は、大久保利通に接近し、大久保利通側近の一人として、反西郷の立場にいた。重野安繹の娘(養女)は、大久保利通の長男に嫁いでいるぐらいだから、相当、大久保利通とは親しくしていたのだろう。
『 南洲伝 』 後書き(8)・・・重野安繹(しげの・やすつぐ)という人物は、その輝かしい経歴や肩書き、あるいは交遊関係のわりに、あまり知られていない人物である。実は、重野安繹は、明治維新後は、大久保利通に接近し、大久保利通側近の一人として、反西郷の立場にいた。重野安繹の娘(養女)は、大久保利通の長男に嫁いでいるぐらいだから、相当、大久保利通とは親しくしていたのだろう。西郷南洲が、西南戦争で命を落とした時には、一番先に大久保利通邸に駆けつけている。それにもかかわらず、私には、重野安繹という人物は、裏方の人物としか見えない。おそらく、重野安繹自身の人格や人間性に問題があったのだろうと、私は想像する。薩摩藩士族出身ということもあって、政治家や官僚、あるいは軍人になることも可能であっただろうが、彼は、それらの道を歩まなかった。やはり根っからの学者肌だったのだろう。しかし、その方面でも、東京帝国大学草創期の教授となり、後に貴族院議員となったにも関わらず、歴史に残るような業績も名声も残していない。敢えて挙げれば、「抹殺博士」という奇妙な名前とともに、歴史学界に足跡を残しているぐらいだろうか。著作類に関しても、歴史に残るような著作は残していない。誤解を恐れずに言えば、重野安繹の名前が登場するのは、西郷南洲との関係からである。私が、重野安繹という人物を、具体的に知ったのも、西郷南洲に関する書物類からであった。私は、明治初頭に、実証主義歴史学を前面に掲げ、「抹殺博士」と呼ばれた不思議な歴史学者がいたらしいということは、薄々、知っていたが、それが、まさか、西郷南洲に関係する人物だとは想像もしなかった。しかも
それが、鹿児島県出身(薩摩藩)で、薩摩藩藩校造士館の出身だったというのだから・・・。
2020年10月22日木曜日
『南洲伝』後書き(7)ー西郷南洲は、山川港を、安政6年(1859)1月10日、砂糖運搬船に乗せられて、奄美大島に向けて出発する。そして、2日後の12日に、奄美大島の「龍郷村(たつごうむら)」に到着する。以後、3年間、西郷南洲は、この奄美大島の「龍郷村」で、はやる心を抑えながら、悶々と過ごすことになる。そこへ、不思議な来客があった。同じく奄美大島に、西郷南洲より一年早く、「島流し」にあっていた薩摩藩士・重野安緒であった。
『南洲伝』後書き(7)ー西郷南洲は、山川港を、安政6年(1859)1月10日、砂糖運搬船に乗せられて、奄美大島に向けて出発する。そして、2日後の12日に、奄美大島の「龍郷村(たつごうむら)」に到着する。以後、3年間、西郷南洲は、この奄美大島の「龍郷村」で、はやる心を抑えながら、悶々と過ごすことになる。そこへ、不思議な来客があった。同じく奄美大島に、西郷南洲より一年早く、「島流し」にあっていた薩摩藩士・重野安緒であった。重野安繹(しげの・やすつぐ)のことは、前にも書いた。薩摩藩坂元村生まれの飛び抜けた秀才少年で、若くして江戸に登り、徳川幕府の学問所・昌平黌に学び、そこでも天下の英才たちと勉学を競い合い、優秀な成績をおさめたらしい。特に漢学と歴史には精通していたらしい。その重野安繹は、薩摩藩留学生の管理・監督係をやっていた時、留学生の学費を使い込むというような金銭的な不祥事を起こし、藩の処分で、「島流し」にあったということである。私は、色々な意味で 、重野安繹は、西郷南洲にとって、重要人物の一人だと思う。もちろん、二人は、面識があった。 江戸勤務時代、二人は、共に島津斉彬に仕える身だった。西郷南洲を、水戸藩の藤田東湖に紹介したのも、重野安繹であるということだ。西郷南洲は、この重野安繹という人物と意気投合したわけではないが、奄美大島時代、他に話し相手がいなかったこともあって、かなり頻繁に会い、且つ、深く語りあった仲だった。この頃、外を見渡すと、「安政の大獄」の渦中であり、時代は風雲急を告げていた。尊王派の同志や仲間たちも、次々と捕縛されたり、惨殺されたりしている。焦り、悲憤慷慨する西郷南洲をなだめ、島流しの身分で、焦っても無駄だよ、ゆっくり 、ノンビリやろうよと、説得したのが重野安繹だった。重野安繹は、既に「島妻」を娶り、妻帯して 、ノンビリ暮らしていたので、西郷南洲にも、「島妻」を勧めたりしている。
(続く)
2020年10月20日火曜日
小林秀雄とマルクス
小林秀雄とマルクス
小林秀雄がマルクス主義を批判したという時、小林秀雄は、保守主義や民族主義や、あるいは芸術至上主義やロマン主義・・・等を擁護していたわけではない。このことは重要である。つまり、小林秀雄は、「マルクス主義的なもの」を批判したのであって、「マルクス主義的なもの」の中には、保守主義や民族主義、芸術至上主義、あるいはロマン主義・・・等も含まれている。
私は、この連載で、一貫して「マルクス主義」を批判し、「マルクス」を擁護するという立ち位置で、論を展開してきた。しかし、前回から、私は、少し、方針を変えている。理論としてのマルクス主義を擁護するという方向へ。それは誤解を避ける
ためである。小林秀雄が、マルクス主義を批判したのは、他に、もっと優れた理論やイデオロギーがあるという事ではない。
戦後、日本でも大流行したサルトルは、「マルクス主義は乗り越え不可能な哲学である」と言ったことがある。その場合、サルトルが念頭においていたのは、マルクスという実存ではなく、マルクス主義という理論であったように見える。しかし、そうだったとしても、今でも、サルトルの発言は有効である。マルクス主義批判は少なくないが、マルクス主義に取って代わるべき新しい哲学理論は、依然として登場していないからだ。実存主義も構造主義も、そして分析哲学やポスト・モダンの思想なども、マルクス主義に取って代わる哲学たり得ていない。線香花火のように一時的には、華々しく流行するが、あっという間に消えていく。そしてマルクス主義へ舞い戻る。
小林秀雄や丸山眞男が認めているように、マルクス主義という哲学理論は、我が国の文学や学問に、激しい衝撃を与えたのである。その衝撃の結果、「マルクス主義経済学」や「マルクス主義歴史学」や「マルクス主義社会学」、あるいは「マルクス主義文学(プロレタリア文学)」・・・等が、続々と誕生する。マルクス主義を否定しようがしまいが、それが現実だった。それを認めるところから小林秀雄は出発した。中島健蔵によると、「マルクスは正しい。ただそれだけだ」と学生時代の小林秀雄は、友人たち語っていたという。
小林秀雄の批評が、今でも、読むに値する批評であり続けているとすれば、その理由はそこにある。小林秀雄は、哲学理論としての、あるいはイデオロギーとしてのマルクス主義を批判していない。つまり、小林秀雄は、マルクス主義を批判・否定して、別の新しい思想や理論(イデオロギー)を構築し、それを対置したのではない。小林秀雄の批評は理論ではない。理論への批判である。そこが、小林秀雄の「マルクス主義批判」と小林秀雄以外の「マルクス主義批判」と違うところだ。
《第一私たちは今日に至るまで、批評の領域にすら全く科学の手を感じないで来た、と言っても過言ではない。こういう状態にあった時、突然極端に科学的な批評方法が導入された。言うまでもなくマルクシズムの思想に乗じてである。導入それ自体には何ら偶然な事情はなかったとしても、これを受け取った文壇にとっては、まさしく唐突な事件であった。》(「文が(文学界の混乱」)
小林秀雄は、この「マルクス主義体験」から出発したのである。繰り返して言うが、小林秀雄は、哲学理論としてのマルクス主義の登場を評価している。小林秀雄にとっても、マルクス主義の登場は衝撃だった。マルクス主義の、この衝撃を、正当に受け止めたからこそ、小林秀雄の「批評」は生み出されたのである。小林秀雄の「批評」は理論やイデオロギーではない。理論やイデオロギーへの批判である。もっと具体的に言えば、理論的思考やイデオロギー的思考への批判である。
今日でも「マルクス主義批判」は盛んである。しかし、それらは、小林秀雄の「マルクス主義批判」とは似て非なる物だ。
では、小林秀雄が認め、評価したマルクス主義という哲学理論とは何か。小林秀雄は、それを、どう評価していたか。
《弁証法的唯物論なる理論を血肉とするには困難な思案はいらぬ、ただ努力が要る。理論と実践とは弁証法的統一のもとにある、とは学者の寝言で、もともと異論と実践とは同じものだ。マルクスは、理論と実践とが弁証法的統一のもとにあるなどと説きはしない、その統一を生きたのだ。マルクスのもった理論は真実な大人の理論である。世の人たちが、先日学生騒動に鑑みて文部省に相寄り、マルクス主義に対抗する思想体系の樹立を宣言した。さぞよくマルクスを理解した事だろう。》(「マルクスの悟達」)
「世の人たちが、先日学生騒動に鑑みて文部省に相寄り、マルクス主義に対抗する思想体系の樹立を宣言した」という小林秀雄の皮肉は、「マルクス主義に対抗する思想体系の樹立を宣言した」ところで、一朝一夕にそんなものが出来るわけがない、ということだろう。そもそも、出来ると妄想して、マルクス主義に取って代わる新しい「思想体系の樹立を宣言した・・・」馬鹿どもは、思想もヘチマも、何も分かっていない、ということだろう。この文章からも分かるように、小林秀雄は、マルクス主義という思想の深さも恐ろしさも、そして思想的徹底性もよく分かっていたということだろう。
《マルクス、エンゲルス、レーニン、と三人の天才の手から手にわたった、弁証法的唯物論という真理はこの世で平凡が蒙る悲惨な宿命をあますところなく身に受けて来たように見える。だから彼らはこの美しい真理に対しては口をつぐんだ。喧嘩は売られた時だけ買ったのだ。そして平凡は当然喧嘩にいつも勝ったのだ。勝ったが相手は澄ましていたのだ。マルクスが「資本論」を書く時に経済学の方法などというものは自明な事に属した。二千頁をこえる書物を書くにあたって、「お前の道を進め、人には勝手な事を言わしておけ」というダンテの格言に終る四頁の序文で事は足りた。方法論の正しさはただ内容のみが明かしたのだ。人は余りに自明な事は一番語り難いものであり、語るを好まぬものである。彼らの抱いた認識の根本的基底については暇人のみがその認識論的基礎づけのために騒いだ、そしてさわぐ事だけしかしなかった。暇人には自明という事が一番わかりにくいものである。》(同上)
この「マルクスの悟達」が書かれたのは、1931年(昭和6年)のことである。『様々なる意匠』で文壇に登場して二年後、まだ、デビューしたばかりの頃である。この段階で、小林秀雄が、マルクス主義の文献をよく読み、深く理解した上で、マルクス主義なるものを高く評価していたことは、これらの文章からも理解できるだろう。しかし、小林秀雄は、当時の多くの青年たちのように、マルクス主義者にも、共産主義者にもならなかった。逆に小林秀雄は、マルクス主義を厳しく批判する側に回る。小林秀雄の「マルクス主義批判」が有効だったのは、マルクス主義を正確に読み込み、深く理解していたからだろう。言い換えれば、小林秀雄以上に、マルクス主義を深く研究し、細部までよく理解していた人はいなかったということではないか。
当時も今も、マルクス主義を批判したり攻撃する人は少なくないが、小林秀雄のように、マルクス主義を正確に理解した上で、批判・攻撃する者はいない。おそらくマルクス主義を正確に読み込んでいるという意味では、マルクス主義者たちやマルクス主義研究者たちも、遠く及ばないのではないか。
私は、小林秀雄と同時代の、マルクス主義批判の文章も、マルクス主義者たちのマルクス主義擁護の文章も、読む気になれない。何故だろうか。マルクス主義の理解が不十分だからではないか。
《「問題は懺悔であり、ただそれだけだ。人類はその罪の宥を得んがためにはその罪をただあるがままに告白しなければならぬ」と彼はルウゲに書いた。ありのままの告白がとりも直さず客観的理論であった。まことに根性をすて切った達人の業である。根性は根性、理論は理論なる迷信が、理論と実践を切り離そうとする。否、切り離して便利がる。今日の風潮に乗じて実践をスポーツと心得ているくせに、またそう心得ている者に限って理論と実践とは一つだ一つだ、と喧しく叫ぶ。黙々として争闘している人々が何故眼に這入らぬか。》(同上)
小林秀雄は、マルクスやマルクス主義を批判していない。マルクス主義を、実践と切り放して、理論として理解しようとするマルクス主義者やマルクス主義研究者たちを批判している。小林秀雄は、マルクス主義の理論を使って、マルクス主義者やマルクス主義研究者たちを批判している。マルクス主義者やマルクス主義研究者たちの多くは、実践の現場にいない。実践の現場では、そもそも理論と実践なる議論はおきない。
小林秀雄等が、マルクス主義の登場を、「衝撃」として受け止めたのは、マルクス主義が「実践」を要求する思想であり哲学理論だったからだ。その結果、多くの青年たちが、実践活動、つまり革命運動に飛び込んでいったのである。「黙々として争闘している人々が何故眼に這入らぬか。」とは、そういう意味であろう。
2020年10月11日日曜日
『 南洲伝 』後書き(6)・・・西郷南洲は、「安政の大獄」事件以後、約5年間、何処に消えていたのか。実は、西郷南洲は、薩摩藩の命令で、島流しにあっていたのだ。
『 南洲伝 』後書き(6)・・・西郷南洲は、「安政の大獄」事件以後、約5年間、何処に消えていたのか。実は、西郷南洲は、薩摩藩の命令で、島流しにあっていたのだ。この 5年間の「島流し」の意味は大きい。西郷南洲は、この5年間の「島流し」の時間を経て 、いわゆる「西郷南洲」になったと言っていい。最初の3年間は、奄美大島に幽閉されていた。江戸幕府の追求を逃れて、身を隠すため、という名目で、奄美大島に幽閉されていたにすぎない。つまり、罪人としての島流しではなかったが、実質的には罪人としての島流しとたいして違いはなかった。奄美大島の3年間の間に、日本の歴史は大きく動いていた。3年後 、一度は、許されて、呼び戻され、薩摩藩の政務に復帰するが、再び、島津久光が激怒する事件を起こし、次は本物の罪人として、徳之島に流され、さらに沖永良部島に流され、約2年間、獄舎生活を送った。したがって、西郷南洲は、幕末の大事件である「桜田門外の変」にも、「薩英戦争」にも関わっていない。では、激動の歴史の表舞台を傍観しながら、西郷南洲は、何をしていたのか。福沢諭吉が、「西郷には学問がなかった、それが最大の欠点だ・・・」と言ったところの「学問なるもの」を、やっていたのだ。西郷南洲にとっては、島流しの5年間が、「私の大学」だった。奄美大島時代には、前述した重野安繹(しげの・やすつぐ)が、流刑人として流されて来ており、話し相手を求めて、しばしば西郷南洲の元を訪れていた。重野安繹は、江戸の学問所・昌平黌で学び、しかも昌平黌でも優秀な成績を収め、その後、東大歴史学教授となる大秀才である。いろいろ問題のある人物ではあるが、西郷南洲は、奄美大島時代 、この同世代の大秀才から多くを学んだに違いない。一方 、沖永良部島では、川口雪蓬という陽明学者がいた。西郷南洲の「島流し時代」は、いわゆる「学問」に明け暮れる毎日だったのである。
『 南洲伝 』後書き(5)・・・西郷南洲伝には、大きな曲がり角になる事件が、少なくないが 、その中でも、井伊直弼が強権を発動した「安政の大獄」事件は、西郷南洲にとっては、特筆すべき大事件だった。もちろん、この事件の余波は、西郷南洲だけを襲ったのではない。この時代のめぼしい思想家、文化人、政治家たち・・・にまで及び、多くの人々が 命を落としている。言い換えれば、この思想弾圧事件は、徳川幕府の「終わりの始まり」を告げる事件でもあった。この事件以後、倒幕運動は消滅するどころか 、逆に燃えひろがり、ますます過激 化することになるのだが、
『 南洲伝 』後書き(5)・・・西郷南洲伝には、大きな曲がり角になる事件が、少なくないが 、その中でも、井伊直弼が強権を発動した「安政の大獄」事件は、西郷南洲にとっては、特筆すべき大事件だった。もちろん、この事件の余波は、西郷南洲だけを襲ったのではない。この時代のめぼしい思想家、文化人、政治家たち・・・にまで及び、多くの人々が 命を落としている。言い換えれば、この思想弾圧事件は、徳川幕府の「終わりの始まり」を告げる事件でもあった。この事件以後、倒幕運動は消滅するどころか 、逆に燃えひろがり、ますます過激 化することになるのだが、西郷南洲もまた、幕府の追手を逃れるように、江戸を脱出し、薩摩へ逃げ帰る。この事件を境に、西郷南洲は 、以後5年間も、政界や倒幕運動の表舞台から、忽然と消えるのである。では、以後5年間、西郷南洲は、何処に消えたのか。
2020年10月10日土曜日
『 南洲伝 』後書き(4)・・・2、3年前、枕崎市の旧家で、西郷南洲の新しい肖像画が、発見されました。西郷南洲研究家で、糸夫人の子孫にあたる若松宏氏(敬天カフェ)なども太鼓判を押しています。もっとも、実物に近いのではないか、と。
『 南洲伝 』後書き(4)・・・2、3年前、枕崎市の旧家で、西郷南洲の新しい肖像画が、発見されました。西郷南洲研究家で、糸夫人の子孫にあたる若松宏氏(敬天カフェ)なども太鼓判を押しています。もっとも、実物に近いのではないか、と。写真は、肖像画を保管していた枕崎市の旧家の「老夫婦」です。夫人の実家(この家!)の仏間に大事に飾ってあったものだそうです。西郷南洲は 、流刑地・奄美大島から 、許されて帰還する時 、枕崎のカツオ船(イサバ船)に乗って、嵐に見舞われながらも 、ようやく枕崎に到着しました。枕崎に一泊して、迎えに来た弟たちと、慌ただしく鹿児島に戻り、政務に復帰しました。枕崎の一夜(!)。その時 、地元の無名画家(?)が、描いたのではないか、と言われているそうです。
2020年10月6日火曜日
南洲伝 』後書き(3)・・・では、西郷南洲の「学問」、あるいは西郷南洲の「思想」とは何か。日本全国の前途有望な青年たちが、西郷南洲のもとに駆けつけ、共に戦い、共に戦死していったのは、何故か。あるいは、西郷南洲の最期の戦いに参加出来なかった青年たちが、西郷南洲の「弔い合戦」として、あるいは「敵討ち」として、命を賭して、大久保利通惨殺事件へと突き進んでいったのは、何故か。西郷南洲の何が、彼等をそうさせたのか。
『 南洲伝 』後書き(3)・・・では、西郷南洲の「学問」、あるいは西郷南洲の「思想」とは何か。日本全国の前途有望な青年たちが、西郷南洲のもとに駆けつけ、共に戦い、共に戦死していったのは、何故か。あるいは、西郷南洲の最期の戦いに参加出来なかった青年たちが、西郷南洲の「弔い合戦」として、あるいは「敵討ち」として、命を賭して、大久保利通惨殺事件へと突き進んでいったのは、何故か。西郷南洲の何が、彼等をそうさせたのか。
さて、私が、不思議に思うことが、もう一つある。それは、近代日本の優秀な知識人、思想家、学者文化人の多くが、叛逆者であり暴徒であり逆賊である西郷南洲を、極めて早い段階から、激しい口調で擁護し、絶賛している事だ。勝海舟や中江兆民から福沢諭吉、内村鑑三、そして新しくは、三島由紀夫、江藤淳に至るまで・・・。彼等が、今さら、私が言うまでもなく 、それぞれ思想的立場は違えど、それぞれの分野で、超一流の知識人であり、思想家であり、学者であったことは間違いない。何故、彼等は、逆徒、逆賊 、暴徒・・・という政府側のプロパガンダやそれに追随する新聞等のジャーナリズム、あるいはそれに付和雷同する大衆の悪罵・罵倒に逆らって、西郷南洲を擁護したのか・・・。
江藤淳が、西郷南洲の「思想」について、鋭いことを言っている。私が、西郷南洲に関する文章で、最も感銘を受けた文章だ。
《「陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、排外思想でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった」『南洲残影 』(p.262) 》
実は 、私は、江藤淳のこの文章を読むまでは、『 南洲伝 』なるものを書こうと思ったことはなかった。西郷南洲なんて、私の関心外だった。何回も書くが、英雄豪傑としての西郷南洲にも、郷土自慢的な西郷南洲にも、あるいは、そういう西郷南洲礼賛に反発した西郷南洲批判にも、私は無関心だった。その気持ちは、今も変わらない。何年か前のNHKの大河ドラマ『 西郷どん(セゴドン)』にも、鹿児島の一部で起きたらしい 『 西郷どん(セゴドン)』ブームにも、私は、嫌悪感しか持たなかった。私は、最近は、両親や兄の墓参りもかねて、年に数回は、鹿児島に帰っているが、その度に、田舎のバスにのりかえるために、鹿児島中央駅前の広場に立つが、毎回、『 西郷どん(セゴドン)』のノボリやポスターを見つけては、顔をそむけたものだ。皮肉な言い方をすれば、ここ、一、二年、その種のノボリやポスターが、駅前の風景から全て消えたので、ホッとしている。やっと、私が、私の「西郷南洲体験」を語る時が、来たな、と思うのだ。
今年は、従兄弟の案内で、枕崎市の旧家に眠る西郷南洲の肖像画を見せてもらった。その肖像画は、キヨソネ等の描いた、美しすぎる「西郷南洲像」とは異なる、厳しい「西郷南洲」の肖像画だった。ちょっと近寄り難い、重厚な西郷南洲が描かれていた。私が、『 南洲伝 』で描こうとしている西郷南洲は、枕崎市の旧家で、新しく発見された、この肖像画に近いかもしれない。あるいは、江藤淳が言う「西郷南洲という思想」も、この肖像画に近いのかもしれない。前途有望な青年たちから超一流の文化人まで、強力に引きつける西郷南洲の磁力とは何か。言い換えれば、江藤淳の言う「日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想」とは何か。
(続く)
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2020年10月5日月曜日
『 南洲伝 』後書き(2)・・・私が『 南洲伝 』で注目するのは、その「学問」や「思想」の次に、その「思想的影響力」や「思想的感化力」である。西郷南洲の学問や思想に共感し 、政治的行動を共にしたい、あるいは生死を共にしたいと願った青年たちは、一人や二人ではなかった。
《 吾(われ)、此処(ここ)に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ。》
増田宗太郎は、西郷軍に参戦することで、一攫千金ならぬ、人生上の一発逆転を狙ったのか。まったくそうではない。増田が西郷軍に投じた時、既に勝敗は決しており、誰が見ても敗色濃厚だった。増田は、西郷南洲と共に、死にたかったのだ。
島津啓次郎に至っては、アメリカ留学帰りの少壮の青年学者だった。学習院学長を懇願されたが、その趣旨が気に入らぬといって、それを断り、故郷に戻り、私塾を開き、後の小村寿太郎を育てた・・・という人物であった。さらに、石川県の金沢藩には、西郷南洲没後の翌年に、宿敵・大久保利通を 、紀尾井坂で襲い、惨殺した、いわゆる「紀尾井坂事件」の首謀者島田一郎等がいる。司馬遼太郎は、付和雷同する無知蒙昧な暴徒として描いているが、そんあはずはない。島田一郎等は、前もって事件を予告し、「斬奸状」を持ち、事件後は、誰一人逃げも隠れもせず、全員、警察に出頭し、極刑に服している。もちろん、『 西郷南洲翁遺訓 』 を遺した山形県酒田の庄内藩の青年たちが、西郷南洲の思想的影響を受け、一部の青年たちは、西南戦争にまで従軍し、戦死したことは、言うまでもない。
何故、多くの青年たちが、西郷南洲と、生死を共にしたのか。西郷南洲に学問があっただけではなく、その西郷南洲の学問が、机上の空論ではなく、生きた学問だったからだろう。思想的感化力を持つ学問だったからだろう。
(続く)
2020年10月3日土曜日
『 南洲伝 』後書き(1)・・・しばらく「竹中平蔵研究」を中断し、『 南洲伝 』の完成・出版を目指したい。コロナ騒動などもあって、出版が遅れていた我が『 南洲伝 』だったが、社会情勢も個人的な生活状況にも変化があったので、のんびりやっているわけにはいかなくなった。予定通り、出版を急ぎたいと思う。というわけで、『 南洲伝 』の「後書き」を ・・・。
『 南洲伝 』後書き(1)・・・しばらく「竹中平蔵研究」を中断し、『 南洲伝 』の完成・出版を目指したい。コロナ騒動などもあって、出版が遅れていた我が『 南洲伝 』だったが、社会情勢も個人的な生活状況にも変化があったので、のんびりやっているわけにはいかなくなった。予定通り、出版を急ぎたいと思う。というわけで、『 南洲伝 』の「後書き」を ・・・。
私は、『 南洲伝 』というタイトルではあるが、西郷隆盛、西郷南洲、菊池源吾・・・について、平凡・凡庸な伝記を書こうとは思はない。私は、巷に溢れている種々雑多な西郷隆盛本の類いを、それなりに評価しないわけではないが、私は、書きたいとは思はない。私は、江藤淳の『 南洲残影 』を読んで以来、「着眼点」というものにこだわるようになった。江藤淳の『南洲残影 』は、明らかに目の付け所が違う。負け戦に過ぎなかった「西南戦争」だけを取り上げ、それだけを描いて一冊の西郷南洲伝にしている。私が見習うべきは、このスタイルだと思った。そこで、私が、私の『 南洲伝 』で、こだわべきは何か、と考えた時、浮かんできたのは、私は、「私の西郷南洲体験」にこだわるべきだろう、ということだった。
私は、昔から、英雄豪傑としての西郷南洲も、郷土自慢的な西郷南洲も嫌いであった。要するに、成功した西郷南洲伝説が苦手だった。さらには、それに反発したと思われる西郷南洲批判も嫌いであった 。それなら書く必要などない。誰か、他の人が書くだろう。
私がこだわったのは、西郷南洲の「学問」「思想」、あるいは「思想的影響力」「思想的感化力」というようなものだった。
私は、福沢諭吉が言った「西郷には、学問がなかった。それが最大の欠点だった」という言葉に、激しく反発する自分に驚いた。福沢諭吉は、西郷南洲には好意的だった。西郷南洲を、『 丁丑公論』で、徹底的に擁護している。にもかかわらず、私は、福沢諭吉の言葉に、強く反発した。西郷南洲には「学問」がある、と。それは、福沢諭吉が考えるような「学問」ではないかもしれない。大学で洋書や原書購読を通じて学ぶような学問ではないだろう。しかし、洋書や原書購読だけが学問ではないだろう。西郷南洲の学問こそホモノの学問だろう、と。
西郷南洲は、現代風な言葉で言えば、確かに大学出ではない。もちろん、東大などの一流大学の卒業生でもない。明らかに高卒程度の学歴しかない。西郷南洲の古い友人に、重野安繹(しげのやすつぐ)という薩摩藩出身で、後に東大歴史学教授となった学者がいる。重野安繹は、若くして、その学問的才能を買われて、江戸に留学し、昌平黌(学問所)で、当時の日本を代表するような学者・文化人たちの元で学び、且つ彼等と交遊している。
その頃、西郷南洲は、薩摩藩の地方役人として、田舎暮らしの身だった。この経歴や境遇だけを見れば、確かに、福沢諭吉が言った通り、西郷南洲には「学問」がなかった、と言えるかもしれない。しかし、その直後、薩摩藩主となった島津斉彬に抜擢されて、江戸詰めの「御庭番」となる。ここで、西郷南洲と重野安繹は、江戸薩摩藩邸詰め役人として同僚となる。しかも、この頃、重野安繹の紹介で、水戸藩の藤田東湖を知る。藤田東湖は、即座に西郷南洲の才能を見抜き、以後、親交を結ぶことになる。同時に、福井藩の英才・橋本左内とも親交を結ぶ。西郷南洲が、表舞台に登場して、薩摩藩の対外交渉で重要な役割を担うのに対して、重野安繹は、裏方に留まることになる。つまり、以後、立場が逆転することになる。重野安繹には、一流の「学問」も「学識」もあったかもしれない。しかし、重野安繹には、それらを生かす才覚がなかった。
西郷南洲と重野安繹は、その後、別々の人生を歩むが、江戸ならぬ奄美大島という流刑地で、奇妙な再会を果たしている。