2021年6月10日木曜日

 ■以下は『月刊日本』7月号に掲載予定の『江藤淳とその時代 5』です。

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漱石の東京帝国大学辞職と朝日新聞入社が  、漱石の文学にとってだけでなく 、日本近代文学全体にとっても 、あるいは近代思想史全体にとっても、極めて重要な 、エポックメーキングな出来事=事件だったことは明らかである。ここで、文学は、あるいは小説は、国家や大学 、あるいは政府や大学が主導する近代化=欧米化という世俗的価値観から独立した、独自の自立的存在を主張することになる、と言っていい。

そして同じことが、江藤淳にも言えるような気がする。江藤淳の「日比谷高校時代」については、あまりよく知られていないが、いくつかの同級生や教師たちの証言を調べていくと、漱石の東京帝国大学辞職事件に匹敵するような「問題」をはらんでいるようにみえる。


  柄谷行人が、江藤淳の「日比谷高校時代」について、「追悼文」で、面白いことを書いている。

《七0年代に、江藤淳を通して、彼を若い時から知っている人たちと知り合いになったが 、たとえば、日比谷高校で江藤淳と同級生だった小説家の故柏原兵三は、江藤淳が学生大会でストライキに反対して演説し、ストをつぶしたと語った。あの温厚な柏原兵三がかなり激しくその時の恨みを語ったので、驚いた記憶がある。(余談だが、彼は、江藤淳は抜群に優秀であったのに数字だけがまったくだめだだったともいっていた。三島由紀夫もそうであっただけに、私はそれを興味深く思う。)そうだとすると、一九六0年前後に江藤淳が「転向」したというのは、錯覚だといわねばならない。彼自身が認めているように、湘南中学時代にマルクス主義的であったことが確かだとしたら、日比谷高校に移る時点で変わったということができる。しかし、そう簡単ではない。それなら、先行世代に江藤淳を左翼だと思いこませたようなラディカルな著作を、どう説明するのか。》(柄谷行人『江藤淳と私』文学界)


柄谷行人は、伝聞ながら、日比谷高校時代の江藤淳について、その「雄姿」と「武勇伝」を伝えると同時に、江藤淳の『ラディカルさ』、つまり思考や行動のラディカリズムについても書いている。このラディカリズムは、東大を辞職した前後の漱石の「凶暴な衝動」(江藤淳  )にも通じるものだろう。江藤淳の批評や行動にも、しばしば「凶暴な衝動」が散見される。たとえば、粕谷一希や中嶋峰雄、山崎正和・・・等を名指しで、情け容赦なく、批判、罵倒した「ユダの季節」や「ペンの政治学」というような論争的文章などは、この「凶暴な衝動」なしには書かれなかっただろう。

 日比谷高校時代のこの学生大会の様子にも、明らかに「凶暴な衝動」に突き動かされた行動が見られる。この学生大会ついては、日比谷高校の下級生で、同じく慶応義塾大学に進学し、同じく「三田文学」を経て作家になる坂上弘も書いているが、ここでは 、東大名誉教授で、美術史家である辻惟雄の証言を引用してみよう。辻惟雄も、東大医学部志望で、岐阜高校から、三年の時、日比谷高校に編入している。


《   さあ授業だ。なるほど秀才ぞろいだ。先生方もきびきびと厳しく授業を進める。付いていくのに必死だった。3年生の始業式の日の教頭先生の訓示が忘れられない。「諸君は脇目もふらずに東京大学を目指して勉強しろ」。厳しい檄(げき)が生徒たちの頭上にこだました。訓辞が終わった途端だった。黙って聞いていたひとりの生徒が立ち上がってつかつかと壇上にのぼり、よく通る声で異議をを唱えた。「我々は将棋の駒ではない!!」。本当にびっくりした。先生に堂々と反論するなんて岐阜高校では考えられない。彼は江頭淳夫(えがしらあつお)君。後年、文芸評論家として活躍する江藤淳さんである。》

(辻惟雄『私の履歴書』日本経済新聞) 


江藤淳が、演壇に駆け上がって、「我々は将棋の駒ではない!!」と発言したのは、江藤淳が結核で一年休学後の、二回目の三年生の時のことだろう。江藤淳は、この時、すでに「東大進学」を諦め、慶応義塾大学進学を決めていたのだろう。校長や教頭の、「東大合格者数」しか頭にない、受験勉強優先的な「日比谷高校的価値観」を、江藤淳が軽蔑し、拒絶していたことがわかる。江藤淳は、受験勉強的価値観より 、ホンモノの学問や思想、あるいはホンモノの文学的な価値観を重視し優先していたのであろう。江藤淳が、「三田文学」に発表した『夏目漱石論』を引っさげて、新進気鋭の文芸評論家としてデビューするのは、わずか二、三年後のことである。この頃の二、三年が、長いか短いかは即断出来ないが、少なくとも江藤淳の場合、早熟な高校生だったと、誰もが証言しているように、短い二、三年であった。日比谷高校三年の時、演壇に駆け上がって、教頭の受験勉強優先的な教育方針を批判した江藤淳の演説は、既に高校生の演説ではなかったのであろう。文芸評論家=江藤淳は、この高校生時代には、すでに出来上がっていたのだ、と私は思う。だから、「浪人してでも東大へ」という普通の高校生や受験生とは異なり、東大にこだわらず 、慶応義塾大学に、「意気揚々」と進学し、文学や学問の道を目指したのである。

江藤淳は、こんなことも書いている。


《 私が結核になって高校三年を二回やり、東大に落ちて慶応の制服制帽で教員室にあいさつに行くと、「君、慶応は経済かね、なに文科?  君も案外伸びなかったね」といわれたものである。それ以来私はこの学校を訪れたことがない。》( 「日本と私」 )


「東大に落ちて慶応に進学」した人のやることだろうか。地方の名もない県立高校出身の私にも、「 慶応の制服制帽で教員室にあいさつに行く」という発想が分からない。これは、深読みすれば、江藤淳は、「私は第一志望の大学にに合格しました」と言いたかったのかもしれない。

「東大を落ちて、慶応に進学した」と江藤淳は書いているが、むしろ、漱石と同様に、東大型の受験勉強的な、受験教育的な教育システムに「NO」を突きつけ、もっと自由な教育の場所として慶応義塾大学を目指したのだろう。そして、その通りの文学や学問を実現したのである。江藤淳の日比谷高校時代の同級生の「その後」を見ると、江藤淳の判断と決断が間違っていなかったことが分かる。先に名前の出た柏原兵三( 作家 )や安藤元雄(  詩人)、篠沢秀夫( 仏文学者 )、あるいは、文学関係以外の、その他の分野に進んだ人たちを含めても、江藤淳以上に、はなばなしい活躍や、学問的業績を残した人はそんなに多くはないだろう。

日比谷高校の同級生はたちに取材して、江藤淳の日比谷高校時代を克明に描いた『 江藤淳は甦る』で平山周吉は、東大を経て外交官になった藤井宏昭の証言を書き留めている。実は、藤井宏昭も高校時代は作家志望だった。当時、藤井宏昭は、一度東大受験に落第し浪人中だったが、江藤淳に偶然、出会った時、江藤淳は、「東大には行かないよ。慶応の文科に行くんだ」と意気揚々と宣言したという。以下は藤井宏昭の発言。


《自分の進路をしっかり考えて、外にも公言するのは大したものだと、その時、彼を見直しました。頭のいい才人で、とりスマした所がある奴だったけど、それですっかり尊敬してしまいました 》(平山周吉『江藤淳は甦る 』  )


やはり、江藤淳の心の中は、単純ではない。「東大を落ちて・・・」という話は、江藤淳の韜晦に過ぎないのかもしれない。


ここに、面白い文章がある。当時、東大生だった小堀桂一郎による新潮文庫の解説である。解説の対象になっているのは、江藤淳の『夏目漱石』である。


《甚だ私的な回想を以てこの解説文を始めることをお許し願いたい。あれは昭和三十一年 の冬であった。私は当時まだ大学の寄宿寮の火の気のない一室に寝起きする身であったが、或る晩のこと、机を並べていた同室の友がそれまで読みふけっていた書物をいま読み了えたらしく静かに閉じてそれを私の方に差し出してこう言った。「君、素晴らしい批評家が現れたのだ、しかも僕等と同年代の人だ、まあこれを読んでみたまえ」その友人が示した小型の書物が、江藤淳氏の華麗にして規模雄大な評論活動の出発点となった記念碑的労作『夏目漱石』であって、東京ライフ社という聞きなれない出版社からの刊行になるものだった。(中略)ところでその時の私の反応は至って冷淡だった。結局私はその友人の強い勧めにも拘らずその衝撃の書を読まなかった。(中略)そういうわけでまだ慶応の学生だった若い江藤氏のこの出世作を私は当時には遂に読まず終いだった。私がそれを実際に繙いたのは、それから何と二十年も後のことである。》(新潮文庫『決定版夏目漱石 』 解説 )


私は、批判するためにこの文章を引用したのではない。小堀桂一郎は、高名なドイツ文学者で、比較文学者である。私も、『若き日の森鴎外 』を読んだことがある。ここで、私が注目したいのは、江藤淳の同級生たちは、東大進学組を含めて、まだ、「現役大学生」でしかなかったということである。

もちろん、私は、デビューするのが早いか遅いかを問題にしているのではない。江藤淳が、心ならずも、「東大合格者数日本一」を誇りにしている日比谷高校生となりながらも 、「東大」にこだわらずに「慶応」に、意気揚々と進学し、しかもその「慶応」においてさえ、追われるように、そこを去ったという事実を指摘しているだけである。私は、ここに、江藤淳の批評に繋がる「何か」があると思うからだ。


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2021年6月9日水曜日

 江藤淳の「日比谷高校時代」について(2 )

(『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代 5』原稿の下書きです。)


江藤淳は、同級生たちが、東大へ進学するのが当然の秀才揃いの中で、自分自身のことを、かなり意識的に卑下して 、あまり目立たない劣等生だったかのよような書き方をしている。「東大に落ちて慶応に進学した・・・」という説明には、それなりに説得力があり、多くの人が納得しているはずだ。私も、長い間、そう思っていた。しかし、私は、日比谷高校の同級生や同窓生(上級生や下級生)たちの「回想」や「談話」を読んでいくうちに、どうも、そうではなかったのではないか、と思うようになった。むしろ 、江藤淳(江頭敦夫)は、日比谷高校という秀才揃いの高校で  、目立ち過ぎるぐら目立つ、才気煥発な「秀才たちの中の秀才」だったうようだ。

日比谷高校時代の江藤淳は、学生集会で、演壇に駆け上がり、校長に反論する大演説をぶち上げたかと思うと、演劇や音楽などの部活でも主役級を演じ、誰もが舌を巻くほどの有能な高校生だったようだ。しかし、江藤淳は、それらの「武勇伝」(?)のことについては、あまり書いても語ってもいない。ひたすら暗く惨めな高校時代だったかのようにしか、書いていない。何故か。江藤淳が、この頃のことで語りたかったことは、別にあったからではないか。それは、おそらく家庭の事情であった。つまり、「家の経済的没落」であった。

江藤淳が、神奈川県の進学校=湘南高校(中学)から日比谷高校(都立一中)へ転校して来たのは、家庭の事情からであった。つまリ、江藤家(江頭家)が経済的に没落した結果、鎌倉の家を売り払い、父親の勤務する銀行の社宅へ引越したということだったらしい。「戦後と私」というエッセイで、こう書いている。


《 昭和二十三年の春に祖母が死に、夏には鎌倉の家が売られて東京の場末に建てられた銀行の社宅に移らなければならなくなった。(中略)父は義母と弟妹をやはり鎌倉にあった義理の祖父の隠居所にあずけ、私を連れて東京北端の場末にできた壁にテックスをはりつけたバラック建ての社宅に移り住んだ。》(「戦後と私」)


江藤淳は、引越し先を、敢えて「場末」と書いている。「場末」と江藤淳が書いた理由は明らかである。不本意な「引越し」だったからだ。さらに、こんなことも書いている。


《 一つの階層から他の階層に転落するということは辛いことである。私は社宅に移ったとき東京に戻ったという気持ちがしなかった。それほどこの界隈は私が知っていた「東京」と違ったからである。》(同上)


ここでは「転落」と書いている。上流階級から下層階級への「転落」ということだろうか。少し大袈裟な表現だが、江藤淳自身にとっては、そうだったということだろう。したがって、日比谷高校への転校も、自ら望んだ転校ではなかった。この「転校」の裏には、江藤家の経済的没落という辛い現実があったのである。鎌倉の家から湘南高校に通っていた時代から 、北区十条の銀行社宅から日比谷高校へ通学する時代へ。私は、長い間、江藤淳の引越し先は、「北区王子」だと思っていたが、正確には「北区十条」だった。「北区十条仲原」。江藤淳が、高校時代から大学時代の七年間、多感な青春時代を過ごした場所である。鎌倉から北区十条へ。この「引越し」は、江藤少年にとって、重要な意味を持っていた。重要過ぎるぐらい重要な意味を。「戦後と私」の続編と言うべきエッセイがある。五年後に書かれた「場所と私」というエッセイである。この「北区十条仲原」という社宅時代について、かなり詳しく書いている。日比谷高校でのきらびやかな学生生活より、この「北区十条仲原」の暗い生活の方が 重要な、存在論的意味を持っていたのだろうか。


《それにしても、勝木氏の小説を読んで、「帝銀社宅」がなつかじくなったとはまったく意外であった。あの七年間は、私にとってもっとも辛く、耐えがたい時期だったからである。私はそこで二度病臥し、病臥しなが ら奇妙に外界に露q出されていると感じていた。義母は肋膜の患者としてこの社宅におくれてはいり、いったん小康を得たが、今度はカリエスになってまた 寝たきりになった。私はここか ら高校に通い、大学に通い、義母のかわりに妹の小学校のPTAに出た。私が批評を書き出したのもこの「帝銀社宅」の四畳半の病床のなかであり、どこにもない場所に行きたいと渇望したのも同じ病床のなかであった。》


江藤淳は、「北区十条仲原」にこだわっている。この「北区十条仲原」について、具体的に、事細かに書くのは、江藤淳自身に、少し余裕が出来たからだろう。41年に書いたエッセイ「戦後と私」では、「北区十条仲原」について書いているが、具体的には書いていない。5年後の「場所と私」では、住所も具体的に書いている、「北区十条仲原3丁目一番地」と。この五年間に何があったのか。

2021年6月8日火曜日

 江藤淳の「日比谷高校時代」について。(『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代 5』原稿の下書きです。)


漱石の東京帝国大学辞職が  、漱石の文学にとってだけでなく 、日本近代文学全体にとっても 、あるいは近代思想史全体にとっても、極めて重要な 、エポックメーキングな出来事=事件だったことは明らかである。同じことが江藤淳にも言えるような気がする。江藤淳の日比谷高校時代については、あまりよく知られていないが、いくつかの証言を調べていくと、漱石の東京帝国大学辞職事件に匹敵するような問題をはらんでいるようにみえる。江藤淳は、日比谷高校の「劣等生」だったわけではなく、むしろ誰もが認める優秀な高校生だった。にもかかわらず、極めて強烈な、学校的なもに対する永遠の反逆者であった。日比谷高校から東京大学・・・という世俗的なエリートコースに対する違和感の持ち主で、極めて敏感な反逆者だった。日比谷高校の同級生や教師たちの証言からも、江藤淳(江頭敦夫)に対する「畏怖感」は読み取れても、見下すような蔑視感や軽視感は伝わってこない。夏目漱石は、東京帝国大学教授を目前にして東京帝国大学講師の職を辞職し、朝日新聞に入社している。漱石は、いつまでも講師のままで、教授にしてくれない大学当局に不満や怒りがあって、辞表を叩きつけたのか。明らかに、そうではなかった。漱石の不満や怒りはもっと別のところに  、もっと本質的なところにあった。《 英文学に欺かれたるがごとき不安の念・・・》がそれだ。それは厳密に言うと、自分自身に対する不満や怒りだった。本来的な願望を抑圧・隠蔽してきた自分自身への不満と怒りだった。東京帝国大学辞職によって、本来の荒々しい自分自身に戻ったのである。

 



私は深田萌絵女史の「信者」です。「信者」の何処が悪いのか。「信者」はレベルが低いそうだが・・・。お前らにいわれたくないよ。私が、イロニカルに「信者」だと言うのは、私が深田萌絵女史の思考力と分析力を信頼し、評価しているということだ。私は、小林秀雄や江藤淳、柄谷行人  、廣松渉の「信者」でもある。文句ある(?)。レベルがひくい(?)。「信者」にもなれない中途半端な、思考停止の「日和見主義者」=「傍観者」よ、邪魔だから、さっさと消えろ。


元経産省官僚や親台湾系文化人等は、盛んに深田萌絵発言は嘘だ、デタラメだ、陰謀論だ〜と遠くから批判はするが、具体的批判はない。深田萌絵女史は「討論=対決」呼びかけるが、応じる者はない。


そもそも、たとえば、台湾企業(ホンハイ)による「シャープ買収」を、経産省や日本政府は、何故 、傍観したのか。多くの日本国民が疑問に思ったはずだ。その疑問に答えたのが深田萌絵女史だ。


「日本の終わりは、経産省と自民党議員を主体とする政治主導で始まる。」は深田萌絵女史の主張です。まったくその通りだ、と小生も思います。お笑い芸人以下の論壇バーバー「桜井よしこ」(笑)を講師にして「勉強会」を開いている時点で今の自民党は終わり。狂っているとしか思えない。


頭のトロイ、今の日本の自民党議員や経産官僚等が、「一夜漬けの勉強」を、どんなに頑張っても、墓穴を掘るだけです。「半導体産業」や、台湾の半導体メーカー「TSMC問題」を通して、深田萌絵女史は、極めて深刻な問題を提起しています。


深田萌絵女史の「Youtube動画」を中心とする発言「台湾半導体産業に技術を盗まれている・・・」「シャープ買収やパナソニック(半導体)買収等がその見本・・・」が、反響を呼び、広まるにしたがって、深田萌絵女史への「誹謗中傷」も増えているようですが、私は、すべて無視しています。私生活の「粗探し」をして、それを理由に、深田萌絵女史の発言を「陰謀論」だの、「小使い稼ぎ」だのと批判、罵倒している時点で、失格。


「ネットウヨ」化した自民党のアホ議員よ、深田萌絵女史と「一対一」で討論=対決してみろよ。逃げる。しまいには、半導体は「専門」じゃないので、言い訳。負けるとわかっているらしい。逃げ足だけは早いね。笑う気も起きない。


自民党のバカ議員どもよ、エセ保守論壇の親台湾派文化人どもよ、「国、売りたもうことなかれ」・・・。「保守」も「愛国」も「国益」も、「国家観」も「歴史観」も、いづれも言葉だけ。メッキはとうにはげてるよ。


《 青蛙、おのれも、ペンキ、塗りたてか》(芥川龍之介)


自民党「半導体議連」の議員たちよ、お前らこそ「売国議員」だ。深田萌絵女史の爪の垢でも煎じて飲めよ。


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https://youtu.be/rTMDXHej04Q

https://youtu.be/rTMDXHej04Q

2021年6月3日木曜日

 ■深田萌絵女史が「自民党議員=上野宏史」とモメているようだ。


米国滞在中の深田萌絵女史の「半導体」をめぐる議論が、いよいよ佳境に入りつつあるが、それ同時に、自民党に「半導体議連」なる団体が結成され、怪しい動きを始めている。


「半導体議連」なるものが立ち上がったのは、明らかに深田萌絵女史の、自民党をターゲットにした「半導体の技術が台湾や韓国に盗まれている」「技術移転を許すな」「日の丸半導体産業を再構築せよ」「TSMCの誘致に反対する」・・・という議論に触発されたものだろう。


おそらく、自民党議員の多くは、深田萌絵女史の議論を理解していない。というより理解出来ていない。戦々恐々として、右往左往しているのが現状だろう。もちろん、深田萌絵女史の議論が「正論」であり、経産省や経産官僚を含む自民党議員たちの盲点を、あるいは犯罪的無知を突いている。


深田萌絵女史の発言を、 「陰謀論」だとか「嘘つき」だとか言っている時点で、アウトだろう。話にならない。今の自民党議員は無知蒙昧どころか、無知蒙昧を超えて犯罪的である。自分たちが、何をやっているかが、まったく分かっていない。「愛国者」を叫びながら、やることなすこと「売国奴」そのもの・・・(笑)。


そもそも、各種の勉強会に、あの「ネット右翼の女王=桜井よしこ」を講師に呼ぶ時点で、常識を疑う。アウトだろう。自民党は、「桜井よしこセンセー(笑)」こそが 、日本の最高の知性だとでも妄想しているのか。失笑ものである。日本が転落に転落を重ねて、やがて後進国の仲間入りをするはずだ。「日本よ、堕ちるよことまで堕ちよ」だね。


深田萌絵攻撃を始めたが、逆に深田萌絵女史の批判、攻撃に怯えて警察に駆け込み、経産権力を使って、深田萌絵女史やその賛同者や支援者を恫喝し始めた「上野宏史」という自民党のチンピラ議員も、そういう無知蒙昧のトンデモ議員の一人だろう。上野宏史は、「東大法学部」→「経産省」→「みんなの党」→「維新」→「自民党」らしいが、最近の「エリート・コース」というより、最近の典型的な「バカ養成コース」というか「落ちこぼれコース」と言うべだろう。



次期選挙で、上野宏史の落選を・・・。

2021年5月29日土曜日

 ■藤田東湖と西郷南洲(4)(本稿は『維新と興亜 』第7号のための草稿です。)


水戸学派というと、「尊皇攘夷論」というのが常識であり、学問的固定観念である。もちろん、それは間違いではない。だがそれは、水戸光圀(水戸黄門)を筆頭に、藤田東湖等にいたるまでの水戸学派の政治家や思想家たちが、具体的にどう考え、どう行動していたかということとは別である。私は、水戸学派には、「尊皇攘夷論」という思想とは別の独特の思想的エネルギーが生きていたと思う。その思想的エネルギーが、幕末に、全国的に拡散し、多くの志士たちの思想と行動の原動力になったのだと思う。人は、たとえ命知らずの革命家といえども、思想や理論のために命はかけない。たとえ、思想や理論に命をかけたかのように見えたとしても、そこには必ず、思想的エネルギーの共有がある。たとえば、西郷南洲は、鹿児島の城山で「戦死」する直前まで、徳川幕府の御用学者(笑)だった佐藤一斎の『 言志四録』を持ち歩き、戦死の直前まで読んでいた。西郷南洲は、佐藤一斎の『 言志四録』から何を学び、何を行動の指針にしていうたのだろうか。佐藤一斎は水戸学派の藤田東湖と対立し、論敵だったのではないか。西郷南洲は、藤田東湖から佐藤一斎へ、思想的に転向したのだろうか。

ところで、水戸学派の思想的エネルギーが最高潮に達したのが、藤田東湖亡き後 、水戸藩の脱藩浪人たちによって引き起こされた「井伊直弼暗殺事件」、いわゆる「桜田門外の変」であった。この事件が起きた時、藤田東湖が既に安政の大地震で家が倒壊し、梁の下敷きになり圧死していただけではなく、西郷南洲も、奄美大島に幽閉・蟄居中であった。井伊直弼暗殺が成功したという連絡を受け取った西郷は、密かに祝杯をあげて、喜んだという。

 ■fと西郷南洲(4)(本稿は『維新と興亜 』のための草稿です。)


水戸学派というと、「尊皇攘夷論」というのが常識であり、学問的固定観念である。もちろん、それは間違いではない。だがそれは、水戸光圀(水戸黄門)を筆頭に、藤田東湖等にいたるまでの水戸学派の政治家や思想家たちが、具体的にどう考え、どう行動していたかということとは別である。私は、水戸学派には、「尊皇攘夷論」という思想とは別の独特の思想的エネルギーが生きていたと思う。その思想的エネルギーが、幕末に、全国的に拡散し、多くの志士たちの思想と行動の原動力になったのだと思う。人は、たとえ命知らずの革命家といえども、思想や理論のために命はかけない。たとえ、思想や理論に命をかけたかのように見えたとしても、そこには必ず、思想的エネルギーの共有がある。たとえば、西郷南洲は、鹿児島の城山で「戦死」する直前まで、徳川幕府の御用学者(笑)だった佐藤一斎の『 言志四録』を持ち歩き、戦死の直前まで読んでいた。西郷南洲は、佐藤一斎の『 言志四録』から何を学び、何を行動の指針にしていうたのだろうか。佐藤一斎は水戸学派の藤田東湖と対立し、論敵だったのではないか。西郷南洲は、藤田東湖から佐藤一斎へ、思想的に転向したのだろうか。

ところで、水戸学派の思想的エネルギーが最高潮に達したのが、藤田東湖亡き後 、水戸藩の脱藩浪人たちによって引き起こされた「井伊直弼暗殺事件」、いわゆる「桜田門外の変」であった。この事件が起きた時、藤田東湖が既に安政の大地震で家が倒壊し、梁の下敷きになり圧死していただけではなく、西郷南洲も、奄美大島に幽閉・蟄居中であった。井伊直弼暗殺が成功したという連絡を受け取った西郷は、密かに祝杯をあげて、喜んだという。