■以下は『月刊日本』7月号に掲載予定の『江藤淳とその時代 5』です。
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漱石の東京帝国大学辞職と朝日新聞入社が 、漱石の文学にとってだけでなく 、日本近代文学全体にとっても 、あるいは近代思想史全体にとっても、極めて重要な 、エポックメーキングな出来事=事件だったことは明らかである。ここで、文学は、あるいは小説は、国家や大学 、あるいは政府や大学が主導する近代化=欧米化という世俗的価値観から独立した、独自の自立的存在を主張することになる、と言っていい。
そして同じことが、江藤淳にも言えるような気がする。江藤淳の「日比谷高校時代」については、あまりよく知られていないが、いくつかの同級生や教師たちの証言を調べていくと、漱石の東京帝国大学辞職事件に匹敵するような「問題」をはらんでいるようにみえる。
柄谷行人が、江藤淳の「日比谷高校時代」について、「追悼文」で、面白いことを書いている。
《七0年代に、江藤淳を通して、彼を若い時から知っている人たちと知り合いになったが 、たとえば、日比谷高校で江藤淳と同級生だった小説家の故柏原兵三は、江藤淳が学生大会でストライキに反対して演説し、ストをつぶしたと語った。あの温厚な柏原兵三がかなり激しくその時の恨みを語ったので、驚いた記憶がある。(余談だが、彼は、江藤淳は抜群に優秀であったのに数字だけがまったくだめだだったともいっていた。三島由紀夫もそうであっただけに、私はそれを興味深く思う。)そうだとすると、一九六0年前後に江藤淳が「転向」したというのは、錯覚だといわねばならない。彼自身が認めているように、湘南中学時代にマルクス主義的であったことが確かだとしたら、日比谷高校に移る時点で変わったということができる。しかし、そう簡単ではない。それなら、先行世代に江藤淳を左翼だと思いこませたようなラディカルな著作を、どう説明するのか。》(柄谷行人『江藤淳と私』文学界)
柄谷行人は、伝聞ながら、日比谷高校時代の江藤淳について、その「雄姿」と「武勇伝」を伝えると同時に、江藤淳の『ラディカルさ』、つまり思考や行動のラディカリズムについても書いている。このラディカリズムは、東大を辞職した前後の漱石の「凶暴な衝動」(江藤淳 )にも通じるものだろう。江藤淳の批評や行動にも、しばしば「凶暴な衝動」が散見される。たとえば、粕谷一希や中嶋峰雄、山崎正和・・・等を名指しで、情け容赦なく、批判、罵倒した「ユダの季節」や「ペンの政治学」というような論争的文章などは、この「凶暴な衝動」なしには書かれなかっただろう。
日比谷高校時代のこの学生大会の様子にも、明らかに「凶暴な衝動」に突き動かされた行動が見られる。この学生大会ついては、日比谷高校の下級生で、同じく慶応義塾大学に進学し、同じく「三田文学」を経て作家になる坂上弘も書いているが、ここでは 、東大名誉教授で、美術史家である辻惟雄の証言を引用してみよう。辻惟雄も、東大医学部志望で、岐阜高校から、三年の時、日比谷高校に編入している。
《 さあ授業だ。なるほど秀才ぞろいだ。先生方もきびきびと厳しく授業を進める。付いていくのに必死だった。3年生の始業式の日の教頭先生の訓示が忘れられない。「諸君は脇目もふらずに東京大学を目指して勉強しろ」。厳しい檄(げき)が生徒たちの頭上にこだました。訓辞が終わった途端だった。黙って聞いていたひとりの生徒が立ち上がってつかつかと壇上にのぼり、よく通る声で異議をを唱えた。「我々は将棋の駒ではない!!」。本当にびっくりした。先生に堂々と反論するなんて岐阜高校では考えられない。彼は江頭淳夫(えがしらあつお)君。後年、文芸評論家として活躍する江藤淳さんである。》
(辻惟雄『私の履歴書』日本経済新聞)
江藤淳が、演壇に駆け上がって、「我々は将棋の駒ではない!!」と発言したのは、江藤淳が結核で一年休学後の、二回目の三年生の時のことだろう。江藤淳は、この時、すでに「東大進学」を諦め、慶応義塾大学進学を決めていたのだろう。校長や教頭の、「東大合格者数」しか頭にない、受験勉強優先的な「日比谷高校的価値観」を、江藤淳が軽蔑し、拒絶していたことがわかる。江藤淳は、受験勉強的価値観より 、ホンモノの学問や思想、あるいはホンモノの文学的な価値観を重視し優先していたのであろう。江藤淳が、「三田文学」に発表した『夏目漱石論』を引っさげて、新進気鋭の文芸評論家としてデビューするのは、わずか二、三年後のことである。この頃の二、三年が、長いか短いかは即断出来ないが、少なくとも江藤淳の場合、早熟な高校生だったと、誰もが証言しているように、短い二、三年であった。日比谷高校三年の時、演壇に駆け上がって、教頭の受験勉強優先的な教育方針を批判した江藤淳の演説は、既に高校生の演説ではなかったのであろう。文芸評論家=江藤淳は、この高校生時代には、すでに出来上がっていたのだ、と私は思う。だから、「浪人してでも東大へ」という普通の高校生や受験生とは異なり、東大にこだわらず 、慶応義塾大学に、「意気揚々」と進学し、文学や学問の道を目指したのである。
江藤淳は、こんなことも書いている。
《 私が結核になって高校三年を二回やり、東大に落ちて慶応の制服制帽で教員室にあいさつに行くと、「君、慶応は経済かね、なに文科? 君も案外伸びなかったね」といわれたものである。それ以来私はこの学校を訪れたことがない。》( 「日本と私」 )
「東大に落ちて慶応に進学」した人のやることだろうか。地方の名もない県立高校出身の私にも、「 慶応の制服制帽で教員室にあいさつに行く」という発想が分からない。これは、深読みすれば、江藤淳は、「私は第一志望の大学にに合格しました」と言いたかったのかもしれない。
「東大を落ちて、慶応に進学した」と江藤淳は書いているが、むしろ、漱石と同様に、東大型の受験勉強的な、受験教育的な教育システムに「NO」を突きつけ、もっと自由な教育の場所として慶応義塾大学を目指したのだろう。そして、その通りの文学や学問を実現したのである。江藤淳の日比谷高校時代の同級生の「その後」を見ると、江藤淳の判断と決断が間違っていなかったことが分かる。先に名前の出た柏原兵三( 作家 )や安藤元雄( 詩人)、篠沢秀夫( 仏文学者 )、あるいは、文学関係以外の、その他の分野に進んだ人たちを含めても、江藤淳以上に、はなばなしい活躍や、学問的業績を残した人はそんなに多くはないだろう。
日比谷高校の同級生はたちに取材して、江藤淳の日比谷高校時代を克明に描いた『 江藤淳は甦る』で平山周吉は、東大を経て外交官になった藤井宏昭の証言を書き留めている。実は、藤井宏昭も高校時代は作家志望だった。当時、藤井宏昭は、一度東大受験に落第し浪人中だったが、江藤淳に偶然、出会った時、江藤淳は、「東大には行かないよ。慶応の文科に行くんだ」と意気揚々と宣言したという。以下は藤井宏昭の発言。
《自分の進路をしっかり考えて、外にも公言するのは大したものだと、その時、彼を見直しました。頭のいい才人で、とりスマした所がある奴だったけど、それですっかり尊敬してしまいました 》(平山周吉『江藤淳は甦る 』 )
やはり、江藤淳の心の中は、単純ではない。「東大を落ちて・・・」という話は、江藤淳の韜晦に過ぎないのかもしれない。
ここに、面白い文章がある。当時、東大生だった小堀桂一郎による新潮文庫の解説である。解説の対象になっているのは、江藤淳の『夏目漱石』である。
《甚だ私的な回想を以てこの解説文を始めることをお許し願いたい。あれは昭和三十一年 の冬であった。私は当時まだ大学の寄宿寮の火の気のない一室に寝起きする身であったが、或る晩のこと、机を並べていた同室の友がそれまで読みふけっていた書物をいま読み了えたらしく静かに閉じてそれを私の方に差し出してこう言った。「君、素晴らしい批評家が現れたのだ、しかも僕等と同年代の人だ、まあこれを読んでみたまえ」その友人が示した小型の書物が、江藤淳氏の華麗にして規模雄大な評論活動の出発点となった記念碑的労作『夏目漱石』であって、東京ライフ社という聞きなれない出版社からの刊行になるものだった。(中略)ところでその時の私の反応は至って冷淡だった。結局私はその友人の強い勧めにも拘らずその衝撃の書を読まなかった。(中略)そういうわけでまだ慶応の学生だった若い江藤氏のこの出世作を私は当時には遂に読まず終いだった。私がそれを実際に繙いたのは、それから何と二十年も後のことである。》(新潮文庫『決定版夏目漱石 』 解説 )
私は、批判するためにこの文章を引用したのではない。小堀桂一郎は、高名なドイツ文学者で、比較文学者である。私も、『若き日の森鴎外 』を読んだことがある。ここで、私が注目したいのは、江藤淳の同級生たちは、東大進学組を含めて、まだ、「現役大学生」でしかなかったということである。
もちろん、私は、デビューするのが早いか遅いかを問題にしているのではない。江藤淳が、心ならずも、「東大合格者数日本一」を誇りにしている日比谷高校生となりながらも 、「東大」にこだわらずに「慶応」に、意気揚々と進学し、しかもその「慶応」においてさえ、追われるように、そこを去ったという事実を指摘しているだけである。私は、ここに、江藤淳の批評に繋がる「何か」があると思うからだ。
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