2021年6月8日火曜日

 江藤淳の「日比谷高校時代」について。(『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代 5』原稿の下書きです。)


漱石の東京帝国大学辞職が  、漱石の文学にとってだけでなく 、日本近代文学全体にとっても 、あるいは近代思想史全体にとっても、極めて重要な 、エポックメーキングな出来事=事件だったことは明らかである。同じことが江藤淳にも言えるような気がする。江藤淳の日比谷高校時代については、あまりよく知られていないが、いくつかの証言を調べていくと、漱石の東京帝国大学辞職事件に匹敵するような問題をはらんでいるようにみえる。江藤淳は、日比谷高校の「劣等生」だったわけではなく、むしろ誰もが認める優秀な高校生だった。にもかかわらず、極めて強烈な、学校的なもに対する永遠の反逆者であった。日比谷高校から東京大学・・・という世俗的なエリートコースに対する違和感の持ち主で、極めて敏感な反逆者だった。日比谷高校の同級生や教師たちの証言からも、江藤淳(江頭敦夫)に対する「畏怖感」は読み取れても、見下すような蔑視感や軽視感は伝わってこない。夏目漱石は、東京帝国大学教授を目前にして東京帝国大学講師の職を辞職し、朝日新聞に入社している。漱石は、いつまでも講師のままで、教授にしてくれない大学当局に不満や怒りがあって、辞表を叩きつけたのか。明らかに、そうではなかった。漱石の不満や怒りはもっと別のところに  、もっと本質的なところにあった。《 英文学に欺かれたるがごとき不安の念・・・》がそれだ。それは厳密に言うと、自分自身に対する不満や怒りだった。本来的な願望を抑圧・隠蔽してきた自分自身への不満と怒りだった。東京帝国大学辞職によって、本来の荒々しい自分自身に戻ったのである。