2021年4月21日水曜日

 米中対立という二元論が隠蔽した差異の哲学・・・深田萌絵小論。


私は、最近 、熱中して見るものも読むものも 、ほとんどない。これもダメ、あれもダメ  、 ともっぱら批判や嫌悪の対象しか見つからない。そうした中で、私は、深田萌絵という「ITビジネス・アナリスト」と名乗っている女性の言論に注目している。私が、認める言論人とは、それぞれの専門領域で独自の業績を持ち、批判や罵倒においては個人名を挙げ、名指しして批判や罵倒ができる人である。だから、私は、西尾幹二も渡部昇一も、西部邁も評価しない。たとえば、専門領域でろくな仕事しかしていないくせに、やたらに政治問題や社会問題に口を出し、口先だけの過激な発言をする言論人がいるが、「西尾幹二や渡部昇一、西部邁・・・」もその部類である。「西尾幹二も渡部昇一も、西部邁も・・・」自分の専門領域で、目立った業績をあげていない。仕事の大半は、居酒屋政治漫談か、井戸端会議的な立ち話程度ものにすぎない。私が高く評価する「江藤淳や吉本隆明や柄谷行人等・・・」は、彼等とは違う。江藤淳は「漱石論」「漱石研究」を死ぬまで続けた。吉本隆明や柄谷行人も同様である。政治漫談だけが本業のすべてではない。さらに言うと、批判や罵倒はするが、いつも集団的な、付和雷同的な批判や罵倒ばかりで、訴訟覚悟の個人相手の批判が出来ない言論人を、私は評価しない。ところで、菅 首相が訪米し、日米会談が開かれたようだが  、それに対する論評も、くだらないものだらけだった。その中で、深田萌絵女史の論評だけは、出色のものだった。深田萌絵女史の言論は、現場体験を踏まえた独特の「半導体論」と「台湾論」を土台にしている。おそらく、彼女の言論は何処かの誰かの「受け売り」でも「パクリ」でもない。実は、私は、深田萌絵において、台湾を批判する日本人を初めて見た。米ソ冷戦時代から、現在の米中対立の時代まで、台湾問題は常に重要問題であったが、この台湾問題 、いわゆる台湾海峡問題に、正面から向き合った日本人は、これまで皆無だった。台湾問題は米ソ対立、米中対立という二元論が、隠蔽していた小さな差異の問題だったのだ。ネット右翼やネットウヨは、中国批判には熱心だが、台湾批判はしない。台湾問題が見えていないのだ。深田萌絵が、初めて台湾問題を正面から向き合った、と私は見る。「台湾は親日国家ではない」と深田萌絵は言う。ということは、深田萌絵は、「台湾親日国家論」にドップリとハマっている保守系言論人を激しく批判しているということだ。私は、一流の言論人は、常に具体的であり、批判や罵倒も具体的個人名をあげて、個人的に批判、罵倒するものだという考えを持っている 。私は、批判や罵倒の対象をボカして、抽象的な一般論として批判や罵倒を繰り返す言論人を信用しない。朝日新聞や野党を、毎日の日課のように 、安全地帯から批判するネットウヨ(笑)。批判する時は  、相手を名指しして訴訟覚悟で 批判しろよ、と思う。深田萌絵女史は、自民党の「台湾問題プロジェクトチーム」代表である「佐藤正久」自民党議員を、名指しして、「半導体」の知識ゼロ、「台湾のTSMC」の知識もゼロ・・・と断罪する。自民党議員を名指しして、「お前はバカだ、アホだ・・・」と批判するのだから、相当の覚悟が必要だろう。深田萌絵女史は、それを、堂々とやってのけている。言うまでもなく、彼女は、左派的な立場から自民党議員(佐藤正久)やネットウヨを批判しているのではない。純然たる保守、愛国者として批判しているのだ。日米首脳会談の分析と評価も 鋭い。日本再生も、日本復活も、女性に頼るしかないな・・・と思う、今日この頃だ。


〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

深田萌絵女史の「Youtube動画」を見よ。

⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎

https://youtu.be/CGX7RKuoaq0


https://youtu.be/shDbiNTbV1E


https://youtu.be/pJMeCe0F8NE


https://youtu.be/AaJiWU8vuME

2021年4月20日火曜日

 「防衛省見学ツアー」に参加して・・・拙著『小説三島由紀夫事件 』を振り返りつつ・・・。


昨日は、若い友人で政治学者の内山卓也君に誘われて、市ヶ谷の「防衛省見学ツアー」に参加してきました。私は、『小説三島由紀夫事件 』を書く時、地図の上では、詳しく調べたのですが、不覚にも、市ヶ谷のホンモノの防衛省の存在を、知りませんでした。すぐ近くにある「ホテル・グランドヒル市ヶ谷」には、何回も行ったことがありますが・・・。そのちょっと先に防衛省はありました。入口の門構えも、私がイメージしていたものとは大きく違いました。三島由紀夫が、演説したバルコニーも 、解体=移築されて、残されていましたが、意外に 、小ぶりなものでした。東京裁判の舞台となった講堂も詳しく見学出来ましたが、こちらも、私のイメージとは大きく異なりました。写真や動画類から受けた印象では、もっと、「どでかい」ものと想像していました。昨日の「防衛省見学ツアー」で、もっとも印象に残ったのは、東條英機の写真でした。何回も見たことはありますが、東京裁判の場所で、あらためて拝見して、その背筋をピンと伸ばした、凛々しい姿に、感銘を受けました。あまり評判の良くない東條英機ですが、やはり戦前の日本軍人ですね。この後、絞首刑になるわけですが、「死の恐怖」

など、その顔からは微塵も感じられないです。「戦う気概」を失っていませんね。

2021年4月17日土曜日

 『維新と興亜 』(隔月刊)に連載中の「藤田東湖と西郷南洲(3)」を、書き終えました。今回は 、予定を変更して、藤田東湖の『弘道館記述義』について書きました。藤田東湖によると、水戸学の始祖である水戸光圀(水戸黄門)は、「学校(藩校)」を作ることに反対だったそうです。私は、この、水戸光圀(水戸黄門)が、「学校」建設に反対だったということに 、大変、興味を持ちました。学問好きであった水戸光圀(水戸黄門)が、何故、学校建設に反対だったのか。水戸光圀(水戸黄門)にとって学問とは何だったのか。・・・

詳しいことは、『維新と興亜 』(隔月刊)の五月号でお読みください。


ーーーーーーーーーーーー

『維新と興亜 』チャンネル

https://youtu.be/NgoSYU8G2qw

https://youtu.be/NgoSYU8G2qw

2021年4月14日水曜日

 藤田東湖と西郷南洲(3)・・・『維新と興亜 』連載中の原稿の下書き(メモ)(続々々)です。


藤田東湖の著作を読むと、その多くが「実践」「実行」「行動」を重視しているようにみえる。たとえば、藤田東湖の主著の一つである『 弘道館記述義』に 、こんな文章がある。

《 学問事業、ソノ効ヲ殊二セズ》


これは、学問と事業とはその効用を異にするものではない、ということである。さらに、こんなことを言っている。


《学問と事業を一つとするのがむずかしいというのは多くの理由によるが、もっとも大きい弊害が四つある。「実践躬行を怠る」 こと。「実用的学問をしない」こと。「型どおりのの考えに拘泥する」こと。「情勢に応じすぎる」ことの四点である。》


これは、もちろん、実践が大事で、学問は疎かにしてもいい、というような意味ではない。同じく「実用的学問」が、すぐ役に立つ学問や、どの時代の情勢に妥協し、便乗する学問のでもないことは言うまでもない。学問を極めることは、実践も伴うということだろう。実践の伴わない学問もなく、学問の伴わない実践もないということだろう。学問か実践か、というような二者択一的な 、いわゆる二元論的な意味ではない。我々は、しばしば、誤解しがちであるが、実践=行動した人間を、「彼は学問がなかった」「無知だった」と言いたがる。そうではない。学問があったからこそ、実践=行動できたのだということも出来るはずだ。私は、この論考の冒頭に、福沢諭吉が、西郷南洲について論評した、「不学が最大の欠点なり」とかいう言葉を引用したが、福沢諭吉もまた、この点に関しては、凡庸だったと思う。西郷南洲は「不学」  でも「無学」でもなかった。西郷南洲は、藤田東湖に心酔でき、また福沢諭吉の著書も熟読していた。西郷南洲が、実践=行動(西南戦争)したから、「不学」だったとか「無学」だったとか言うのは、福沢諭吉の学問の限界を示している。しかも、福沢諭吉は、西郷南洲の行動を擁護し、絶賛しさえしている。その上、西郷南洲を論じた文章(『丁丑公論』)の生前の公開を禁じている。まさに 、巧妙な「良いとこ取り」である。

藤田東湖は、「学校=藩校」の設立について も、学校を建てなかった「義公(水戸光圀)」について興味深いことを言っている。


《 してみれば、義公(水戸光圀)が学校を建てられなかったのは、そのために道があるいは廃れるかもしれぬことを懸念されたからであり、後世、学校が建てられなかったのは逆に道があるいは盛んになるかもしれぬことを懸念したからである。そもそも義公は修史に非常な熱意をもたれていた。したがって当時、学問ある人々はたいてい史館に集められていた。》

水戸学派の始祖である水戸光圀は、歴史研究や史書の編纂には熱心だったが、「学校(藩校)」は作ろうとしなかった。何故か、と藤田東湖は問う。水戸光圀は、「学校」という建物を作ると 

逆に学問は衰退し、学問が廃れる、と考えた。学校という制度や建物によって、学問が 、「学問のための学問」「教養のための学問」「趣味としての学問」に堕落し 、本来の学問の精神が失われる、と考えたからだ、と藤田東湖は言っているようにみえる。水戸学の根本精神は、ここにあるのではないか。

水戸光圀も藤田東湖も、凡庸な学者、思想家、政治家ではなかった。彼等の思想も学問も決して理解しやすいものではなかった。

そこで、私は、この問題を理解しやすくするために、参考のために、文芸評論家(&哲学者)の柄谷行人の『 政治と思想』から引用したい。

《このような「動く集会」は、近代に始まったものではない。人類は本来、遊動的な狩猟採集民であり、日々の生活が「動く集会」であった。それは定住以後に失われたが、国家以後の社会においても、様々なかたちで回復されてきた。たとえば、普遍宗教の始祖たちは、神社や寺院を拒み、人々を引き連れて歩き、また、共食した。思想家たちも都市から都市へ移動し、広場で議論した。その後にできた教会、寺院、大学などの荘厳な建物の中には「動く集会」はない。したがって、そこには生きた思想もない。ということである。》(柄谷行人『政治と思想 』)


柄谷行人の文章を読むと、私は、自然に水戸光圀(水戸黄門)の「水戸黄門漫遊記」の「漫遊」を連想する。私は、『 水戸黄門漫遊記』の話が、どこまで史実であり、どこからがフィクションであるかは、明言出来ないが、意外に、「漫遊」という言葉には、深い意味があるのではないか 、と思う。柄谷行人が「遊動」という言葉と 、水戸光圀の「漫遊」という言葉は、その思想を共有しているのではないか。水戸学派の始祖である水戸黄門(水戸光圀)は、学問好きな水戸藩二代目藩主であり、歴史研究や歴史書の編纂事業には異常に熱心だったが、不思議なことに「学校=藩校」を作ることには、熱心ではなかった。熱心ではなかったというより、むしろ反対だったようだ。何故か。藤田東湖の『弘道館記述義』を読むと、その理由が分かるような気がする。

 東芝社長(車谷)追放へ。いいザマだな。この手の経営者は、次々と追放すべきだよ。車谷って、三井住友銀行副頭取からマッキンゼー、英国ファンド日本法人社長、東芝社長・・・らしい。最近 

この手のいかがわしい経営者が増えたみたいだ。要するに、金目当てで、あっちこっちとふらついて、上前をはねている、何もやる気のない「東大病」だね。さっさと消えろ。大恥をかかせてやれ。それはともかくとして裏で誰が動いているのか。日本の企業を守らなければならない「経産省」は、いったい、何をしているのか。なんと、「経産相官僚」は、車谷社長や投資ファンド「cvcキャピタルパートナーズ」と、「外資への東芝売り飛ばし」の事前調整(密談)していたみたいだ。車谷の自己保身のため、だとか。経産省こそ「日本売」を推し進める売国奴だ。(笑)私は、東芝という一民間企業などには 、全く興味ないが、日本の大企業を外資に次々と売り飛ばす・・・竹中平蔵的な最近の風潮をみていると 、「許せない」「こんな奴は、サッサとたたっ斬れ」と思う。


〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓


東芝・車谷社長が辞任へ 後任は綱川会長が復帰2021/4/14 0:


 東芝の車谷暢昭社長が14日午前の臨時取締役会で辞任を表明することがわかった。後任の社長には綱川智会長が復帰する。綱川氏は車谷氏の前任の社長だった。英国系投資ファンドから買収提案を受けているさなかでの異例のトップ交代となる。


ADVERTISEMENT


 複数の関係者によると、14日の臨時取締役会では、取締役会議長の永山治社外取締役(中外製薬特別顧問)が車谷氏の解任をはかる構えだった。取締役会は、英国系投資ファンドCVCキャピタル・パートナーズからの買収提案をめぐり、株主への対応などを議論するとして招集されている。


 車谷氏は三井住友銀行の元副頭取。CVCの日本法人のトップを経て、2018年4月、東芝会長に就任した。20年4月には外部出身者として約50年ぶりとなる社長に就いていた。


 東芝では、15年に全社的な不…


〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

2021年4月13日火曜日

藤田東湖と西郷南洲(3)・・・『維新と興亜 』連載中の原稿の下書き(メモ)(続々)です。


この「井伊直弼暗殺事件」(桜田門外の変)は、元々、西郷南洲と無縁な事件ではなかった。事件当時、奄美大島に島流しの身だったとはいえ、島流しの直前まで、水戸藩と薩摩藩、そして朝廷との間を頻繁に行き来し、反幕府的な政治工作活動を行っていたのが、西郷南洲その人だった。もちろん、当面の敵は大老=井伊直弼だった。井伊直弼暗殺事件の直接的な契機になったと言われる「戊午の密勅」騒動には、西郷南洲も深く関わっていた。そもそも、正式の密勅(「戊午の密勅」)とは別に、水戸藩への「密書」を、京都から江戸へ運んだのは西郷南洲だった。ともあれ、幕府の手を通さずに、密勅を朝廷から直接、受け取った水戸藩は、返納すべきか、返納すべきでないか、をめぐり藩内が分裂し、大きく揺れることになる。たとえば、水戸学派の重鎮である会沢正志斎は返納派であり、水戸学派の「三田」の一人と言われた武田耕雲斎は反返納派だった。幕府は、「水戸藩/取り潰し」もチラつかせつつ、密勅の即時返還を要求してきた。それに対して水戸藩では、反返納派で、尊皇攘夷派の藩士達が水戸街道を武力で封鎖して、幕府に対抗した。尊皇攘夷派の水戸藩士たちの一部は(高橋多一郎、金子孫二郎)、江戸在住の薩摩藩士たち(有村三兄弟、堀)と連携しつつ 、「井伊直弼暗殺事件」(桜田門外の変)へ向けて、綿密な地下工作を開始していた。あくまでも、この井伊直弼暗殺事件は、薩摩藩の尊皇攘夷派と水戸藩の尊皇攘夷派の共同作戦だった。水戸藩の実行部隊は、脱藩届を出した上で、続々と江戸市中を目指し、あらかじめ指定された潜伏先に身を潜め、決行の日を待った。薩摩藩邸も、潜伏先の一つだった。指導者の金子孫二郎は、薩摩藩邸に身を潜め、そこから、各隊員へ指揮をとっていた。実行部隊は水戸藩中心だったが、薩摩藩の有村雄助、次左衛門兄弟らも含まれていた。しかも、井伊直弼の首を撃ちとったのは、薩摩示現流の免許皆伝で、江戸で道場まで開いていた剣豪の有村次左衛門であった。

 藤田東湖と西郷南洲(3)・・・『維新と興亜 』連載中の原稿の下書き(メモ)(続)です。


高橋多一郎 、金子孫二郎等 、水戸藩の急進派の藩士達が中心になり、江戸在住の薩摩藩の藩士たちと連携し、密約を交わした末に、「お家断絶」も覚悟の上で実行したのが、大老=井伊直弼暗殺事件 、いわゆる「桜田門外の変」であった。もちろん、藩主=徳川慶篤、前藩主=徳川斉昭をはじめ、水戸藩の上層部=中枢部は 、それを押しとどめようとしたが、しかし、急進派藩士たちは、あらゆる説得や脅迫を跳ね除け、それをかいくぐって実行に移した。私は、この事件を調べて行くうちに、あらためて、水戸学というものの学問的、思想的な底の深さと徹底性を感じないわけにはいかなかった。水戸学の思想は、思想としては「尊皇攘夷」ということになっている。しかし、この「尊皇攘夷」という思想は、それを貫けば、いずれ「死」や「お家断絶」が待っていることは確実な思想だった。前にも書いたが、「尊皇攘夷論」とは、徳川幕府政権下では、どう美辞麗句を並べ 、多弁で取り繕うとも、「革命思想」であることにかわりはなかった。井伊直弼殺害には成功したとはいえ、この暗殺事件に関わった水戸藩士達は、ほとんどの者が、自決したり、獄死したりしている。不思議なことは、「薩摩藩」との約束の元に実行されたこの井伊直弼殺害事件で、綿密な計画と密約の上で、動くはずだった薩摩藩の兵士三千の大軍は、まったく動かなかったことだ。大阪に潜伏していた事件の指導者=高橋多一郎等は、井伊直弼殺害成功を聞き、祝杯をあげつつ  、薩摩藩の軍隊の登場を待っていた。しかし、援軍として登場するはずだった薩摩藩の軍隊三千は、影も形もなかった。