藤田東湖と西郷南洲(3)・・・『維新と興亜 』連載中の原稿の下書き(メモ)(続々々)です。
藤田東湖の著作を読むと、その多くが「実践」「実行」「行動」を重視しているようにみえる。たとえば、藤田東湖の主著の一つである『 弘道館記述義』に 、こんな文章がある。
《 学問事業、ソノ効ヲ殊二セズ》
これは、学問と事業とはその効用を異にするものではない、ということである。さらに、こんなことを言っている。
《学問と事業を一つとするのがむずかしいというのは多くの理由によるが、もっとも大きい弊害が四つある。「実践躬行を怠る」 こと。「実用的学問をしない」こと。「型どおりのの考えに拘泥する」こと。「情勢に応じすぎる」ことの四点である。》
これは、もちろん、実践が大事で、学問は疎かにしてもいい、というような意味ではない。同じく「実用的学問」が、すぐ役に立つ学問や、どの時代の情勢に妥協し、便乗する学問のでもないことは言うまでもない。学問を極めることは、実践も伴うということだろう。実践の伴わない学問もなく、学問の伴わない実践もないということだろう。学問か実践か、というような二者択一的な 、いわゆる二元論的な意味ではない。我々は、しばしば、誤解しがちであるが、実践=行動した人間を、「彼は学問がなかった」「無知だった」と言いたがる。そうではない。学問があったからこそ、実践=行動できたのだということも出来るはずだ。私は、この論考の冒頭に、福沢諭吉が、西郷南洲について論評した、「不学が最大の欠点なり」とかいう言葉を引用したが、福沢諭吉もまた、この点に関しては、凡庸だったと思う。西郷南洲は「不学」 でも「無学」でもなかった。西郷南洲は、藤田東湖に心酔でき、また福沢諭吉の著書も熟読していた。西郷南洲が、実践=行動(西南戦争)したから、「不学」だったとか「無学」だったとか言うのは、福沢諭吉の学問の限界を示している。しかも、福沢諭吉は、西郷南洲の行動を擁護し、絶賛しさえしている。その上、西郷南洲を論じた文章(『丁丑公論』)の生前の公開を禁じている。まさに 、巧妙な「良いとこ取り」である。
藤田東湖は、「学校=藩校」の設立について も、学校を建てなかった「義公(水戸光圀)」について興味深いことを言っている。
《 してみれば、義公(水戸光圀)が学校を建てられなかったのは、そのために道があるいは廃れるかもしれぬことを懸念されたからであり、後世、学校が建てられなかったのは逆に道があるいは盛んになるかもしれぬことを懸念したからである。そもそも義公は修史に非常な熱意をもたれていた。したがって当時、学問ある人々はたいてい史館に集められていた。》
水戸学派の始祖である水戸光圀は、歴史研究や史書の編纂には熱心だったが、「学校(藩校)」は作ろうとしなかった。何故か、と藤田東湖は問う。水戸光圀は、「学校」という建物を作ると
逆に学問は衰退し、学問が廃れる、と考えた。学校という制度や建物によって、学問が 、「学問のための学問」「教養のための学問」「趣味としての学問」に堕落し 、本来の学問の精神が失われる、と考えたからだ、と藤田東湖は言っているようにみえる。水戸学の根本精神は、ここにあるのではないか。
水戸光圀も藤田東湖も、凡庸な学者、思想家、政治家ではなかった。彼等の思想も学問も決して理解しやすいものではなかった。
そこで、私は、この問題を理解しやすくするために、参考のために、文芸評論家(&哲学者)の柄谷行人の『 政治と思想』から引用したい。
《このような「動く集会」は、近代に始まったものではない。人類は本来、遊動的な狩猟採集民であり、日々の生活が「動く集会」であった。それは定住以後に失われたが、国家以後の社会においても、様々なかたちで回復されてきた。たとえば、普遍宗教の始祖たちは、神社や寺院を拒み、人々を引き連れて歩き、また、共食した。思想家たちも都市から都市へ移動し、広場で議論した。その後にできた教会、寺院、大学などの荘厳な建物の中には「動く集会」はない。したがって、そこには生きた思想もない。ということである。》(柄谷行人『政治と思想 』)
柄谷行人の文章を読むと、私は、自然に水戸光圀(水戸黄門)の「水戸黄門漫遊記」の「漫遊」を連想する。私は、『 水戸黄門漫遊記』の話が、どこまで史実であり、どこからがフィクションであるかは、明言出来ないが、意外に、「漫遊」という言葉には、深い意味があるのではないか 、と思う。柄谷行人が「遊動」という言葉と 、水戸光圀の「漫遊」という言葉は、その思想を共有しているのではないか。水戸学派の始祖である水戸黄門(水戸光圀)は、学問好きな水戸藩二代目藩主であり、歴史研究や歴史書の編纂事業には異常に熱心だったが、不思議なことに「学校=藩校」を作ることには、熱心ではなかった。熱心ではなかったというより、むしろ反対だったようだ。何故か。藤田東湖の『弘道館記述義』を読むと、その理由が分かるような気がする。