2021年3月25日木曜日

 

国際日文研の呉座要一(助教)が取り返しのつかない不始末をしでかしたらしい・・・。

「京都日文研ー助教」の呉座要一は、前から分かっていたが 、単なる「インチキ野郎」 「妄想野郎」だろう。呉座要一は、勤務先の「京都日文研」を傘にきて、民間歴史研究者に向かって、悪罵・暴言を吐きまくっていたが・・・。とうとうメッキが剥がれたようだ 。

「京都日文研」は責任取れよ。(笑)「京都人文研」も、呉座スキャンダルで終わったね。「京都日文研」は解体せよ。いつまで 、こういうキチガイを、税金で 、雇うのだよ。何は、ともあれ、呉座大先生  、NHK降板、おめでとうございます。“   

2021年3月22日月曜日

 藤田東湖と西郷南洲(3)


内村鑑三の『 代表的日本人』は、西郷南洲(西郷隆盛)の話から始まっている。それは、内村鑑三が、西郷南洲をいかに高く評価していたかを示している。その『 代表的日本人』の中の西郷南洲の話の中に、藤田東湖が登場する。藤田東湖と西郷南洲の出会いについて、こう書いている。

《 しかし、重要で、もっとも大きな精神的感化は、時代のリーダーであった人物から受けました。それは、「大和魂のかたまり」である水戸の藤田東湖です。東湖はまるで日本を霊化したような存在でした。》


つまり、内村鑑三の西郷南洲に対する評価は、政治や軍事的な側面ではなく、どちらかというと、精神的、道徳的 、倫理的、宗教的な側面だったように見える。そして、それらの側面を、水戸の藤田東湖に教わったのではないか、と。キリスト教徒であった内村鑑三は、宗派的なイデオロギーを超えて、西郷南洲だけではなく、藤田東湖をも、高く評価していた。おそらく、内村鑑三は、二人のなかに、「日本的霊性」(鈴木大拙)を発見していたのではないか。続けて、こう書いている。


《 外形きびしく、鋭くとがった容貌は、火山の富士の姿であり、そのなかに誠実そのものの精神を宿していました。正義の熱愛者であり、「西欧の蛮人」の嫌悪者である東湖の近くには、時代をになう若者たちが集いました。西郷は遠方にありながら東湖の名声を耳にして、藩主とともに江戸に滞在していたとき、接見の機会をのがさず会いに行きました。》


私は、内村鑑三のような一流の文化人、思想家、宗教家が、西郷南洲だけではなく、藤田東湖までを高く評価し、「霊化」とか「霊性」という次元で絶賛するのに、興味を持つ。藤田東湖はともかくとして、西郷南洲は、毀誉褒貶の激しい人である。聖人君子のように崇拝する人もいれば、「ウドの大木」とか「木偶の坊」とか呼ぶ人もいる。しかし、私は、内村鑑三が、西郷南洲を、「霊的人物」として評価していることに、ホットする。私は、西郷南洲を偶像崇拝することにも違和感を感じるが、西郷南洲を愚鈍な俗人扱いすることにも激しい違和感を感じる。

西郷南洲は、小説やテレビドラマなどでは、必ずと言っていいぐらいに、度の強い鹿児島弁(薩摩弁?)を使うことになっているが、これも、かなり怪しい。年上の大学者=藤田東湖とも、どういう言葉で対話、歓談したのだろうか。西郷南洲は、史料を調べると、服装も言葉遣いも、かなり気を遣い 、丁寧であったと言われる。


2021年3月18日木曜日

 (註記)本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。常に加筆修正中につき、完成稿は『月刊日本』でお読みください。


存在論としての漱石論(13)


漱石神話の中心にあるのは「則天去私」という神話である。江藤淳は、漱石の弟子たちが中心になって作り上げた、この神話を批判し、破壊する。そもそも、この言葉の意味は、「天然自然に則り、私という自我を捨てて生きる・・・」という漱石の晩年の生き方の理想と理念を表す漱石自作の言葉だが、しかし、漱石の弟子たちは、それを実体化し、あたかも「漱石先生」はその理想的境地に到達した聖人君子であるかのように美化し、偶像化する。漱石の弟子たちの中心にいたのは、小宮豊隆であった。したがって、江藤淳の漱石論は、小宮豊隆を批判し、攻撃、破壊することから始まる。「英雄崇拝位不潔なものはない」と書く23歳の大学生・江藤淳は、その若さからは想像出来ないような激しさと緻密な論理で、小宮豊隆の「英雄崇拝」を批判する。


《 小宮豊隆氏をはじめ、多くの優れた註釈者や伝記作者の熱心な努力にも関わらず「心」「道草」「明暗」の三つの作品を通じて、漱石は明らかに「愛」の可能性を探索するより、その不可能性を立証しようとしている。人間的愛の絶対的必要性を痛切に感じながら、それが同時に絶対的に不可能であることを、全ての智力を傾けて描いていた奇妙な男の姿が、これらの作品の行間から浮かび上がって来る。大作家や大思想家から、ある種の啓示をうけたいという欲求ほど、その弟子たちを誘惑するものはない。彼は問題を解決したが故に偉大である。彼はほとんど神に近い。そう思うことによって自らを使徒にしようとするのは極めて当然の感情である。》(江藤淳『夏目漱石 』)


この場合、「大作家や大思想家」が漱石であり、「弟子」や「使徒」が小宮豊隆である。小宮豊隆の「夏目漱石」像は、あまりにも理想化され、偶像化されていると、江藤淳は言いたいのだろう。実際の夏目漱石は、そんな単純素朴な作家ではなかった、と。では、江藤淳にとって、夏目漱石はどういう作家だったのか。


《 しかしぼくらが漱石を偉大という時、それは決して右のような理由いよってではない。彼は問題を解決しなかったから偉大なのであり、一生を通じて彼の精神を苦しめていた問題に結局忠実だったから偉大なのである。》(江藤淳『夏目漱石』)


我々は、しばしば、問題を解決したか、解決しなかったかということに、注目する。問題を解決した人を絶賛し、評価する。人類の歴史と言われるものは、問題を解決した人の歴史である。問題を解決しなかった人は、歴史から消え、忘れ去られる。

もちろん、夏目漱石も、問題を解決した人の側にいる。東京帝国大学を卒業し、愛媛や熊本で、教員生活の後、文部省留学生として、イギリス、ロンドンに留学、帰国後は東京帝国大学講師として、英文学の講義を始める。ここまでは、明らかに成功した側の人間ということになる。漱石の弟子たちや愛読者たちは、漱石を、「先生」、あるいは少し大袈裟に言うならば、「聖人君子」 

「人生の教師」・・・と見ていた。その象徴が、「則天去私」神話だといっていいだろう。

江藤淳は、それに激しく抗議し、漱石はそういう作家ではなかった、という。それが、「問題を解決したから偉大なのではなく、問題を解決しなかったからこそ偉大だ」という言葉遣いである。続けて、こういっている。

《 彼が「明暗」に「救済」の結末を書いたとしたなら、それは最後のどたん場で自らの問題を放棄したことになる。これまで述べた来たことから明らかなように、あらゆる作品の示すかぎりに於て、彼は小宮氏の期待する救済を書き得る人ではなかった。ぼくらの心に感動をひきおこすのは、こうした彼の悲惨な姿である。》

江藤淳は、漱石の「優秀な弟子たち」を、「鈍感な俗物たち」とみなして、批判し、罵倒する。漱石の弟子たちよいうのは、その大部分は、漱石と同じく東京帝国大学の学生や卒業生であった。芥川龍之介や菊池寛 、久米正雄、あるいは寺田寅彦、小宮豊隆・・・。彼らが作り上げた「美しい師弟愛物語」について、江藤淳は、こう書いている。

《不幸なことには、このような漱石ほど誤解され 続けている作家は少い。彼は、おそらく門弟達に「心」の先生のように理解されることを欲したのである。「文豪」や「師」としての自分をではなく、おびえた、孤独な、傷ついた獣のような自分を。しかし門弟は漱石を「偉大」にすることに懸命になり、漱石は漱石で、教師生活で身につけたポーズを守りながら 、こうした門弟から理解されることを諦めなければならなかった。このようにして、彼は、共感力の乏しい友人や弟子にとりかこまれている非凡な人間の、通常味わわねばならぬ孤独をも体験せざるを得なかったのである。》

2021年3月17日水曜日

 (註記)本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。常に加筆修正中につき、完成稿は『月刊日本』でお読みください。


存在論としての漱石論(12)


江藤淳の漱石論で、眼を引くものの一つは、漱石と、単なる崇拝者でしかない、その弟子たちとを分けて論じているところだ。江藤淳は、その漱石論で、所謂、「漱石神話」の製作者たちを手厳しく批判し、「漱石神話」なるものを破壊している。『夏目漱石 』の「初版へのあとがき」で、こう書いている。

《漱石についてはもうすべてがいいつくされている。今更なにをいってもはじまらない。というのがおそらく今日の通説である。しかしこのような通説ほど、ぼくにとって理解し難いものはなかった。ぼくには、自分の眼に見える漱石の姿を、出来るだけ生き生きと描いてみたいという凶暴な衝動があった。 》


江藤淳は、漱石の弟子たちが中心になって作り上げた「漱石神話」の破壊を、「凶暴な衝動」をもって開始した。「凶暴な衝動」とはおだやかではない。江藤淳には、この時、何か、穏やかならぬものがあったのであろう。この「凶暴な衝動」は、江藤淳の漱石論の全編を貫いているだくでなく、その死に至るまでの全著作を貫いているということが出来るかもしれない。常に「凶暴な衝動」を胸に秘めながら、批評を書き続けていたのが、江藤淳という批評家だった。さらに、こんなことも書いている。


《 英雄崇拝位不潔なものはない。ぼくは崇拝の対象となっている漱石が我慢ならなかったのだ。人間を崇拝することほど、傲慢な行為はないし、他人に崇拝されるほど屈辱的なこともない。崇拝もせず、軽蔑もせず、只平凡な生活人であった漱石の肖像を描くことが、ぼくには作家に対する最高の礼儀だと思われる。偶像は死んでいるが、こうしてひとたび人間の共感に捉えられた精神の動きは、常に生きているからである。》

2021年3月16日火曜日

 存在論としての漱石論(11)

(本稿は、『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。完成稿は『月刊日本』でお読みください。)


前にも書いたが、私は、小さ頃は、「文学」も「読書」も「図書館」も嫌いであった。嫌いというより、激しく軽蔑し、むしろ憎悪さえしていた。私は、その屈折した自分の心理構造がよく分からなかったが、高校時代、遅ればせながら、大江健三郎や小林秀雄やドストエフスキーなどを読むようになって、ぼんやり分かってきた。私は、「文学」や「読書」などが嫌いなのではなく 、ニセモノの文学やニセモノの読書が嫌いだったのだ、と。たとえば、私は、大宰治や太宰治フアンが嫌いだった。現在でいえば、私は、村上春樹や村上春樹フアンが大嫌いである。そういう状態にあった頃、私は江藤淳を読むようになった。江藤淳の文章も文体も、私には、心地よかった。たとえば、江藤淳は、この問題を的確に、『 夏目漱石』論で、書いている。


《 文学青年という人種が軽蔑されるのも、結局は、現実にありもしない亡霊を信仰しているからであって、健康な生活人の感覚が自然にそのようなからくりに反発を覚えるのである。》(江藤淳『 夏目漱石』)


江藤淳の漱石論のメイン・テーマは、「文学批判」である。この「文学青年批判」の文章は、その入口である。では、江藤淳の描く夏目漱石は、どういう文学者なのか。どういう作家なのか。普通の作家ではないのか。江藤淳は、漱石を、他の作家達とは違うと考える。では、漱石と他の作家達との間にある「断絶」と「距離」は、何処にあるのか。江藤淳に言わせれば 、漱石は、文学を否定する文学者でった。ここが、凡庸な文学者達と決定的に違うところであった。


《 そこで、批評とは多くの場合文学否定というかたちをとってあらわれる文学であり、批評家の思想とは思想否定というかたちをとって語られる思想だ 、という逆説が生じる。ここでいう文学否定は、勿論新文学による旧文学の否定ではない。思想否定もまた新思想による旧思想の駆逐ではない。新しい文学や思想をささえるのは、むしろ文学者の願望である。彼は既成文学にあきたりないだけで、文学そのもの、思想そのものについては依然としてこれを信頼しつづけている。彼はスタンダールが体験したような認識上の冒険とは無縁である   》(「批評について」)

《 》

2021年3月15日月曜日

 存在論としての漱石論(10)


江藤淳の評判も評価も悪い。所謂、「蛇蝎の如く嫌う」人も少なくない。江藤淳を高く評価する人に会ったことは、ほとんどない。何故だろうか。私は、むしろ、そこに、江藤淳の批評的才能の「凄さ」を感じる。江藤淳を高く評価する人の中の代表的な人物として、吉本隆明と柄谷行人がいる。特に吉本隆明の江藤淳論は、興味深い。江藤淳と吉本隆明とでは、政治思想は言うまでもなく、その文体やテーマも、そして生まれも育ちも、学歴や職歴も、明らかに違う。どうして、吉本隆明は、多くの人に嫌われている江藤淳を、高く評価し、共感を示すのだろうか。むろん、私は、それに疑問を持ったことはない。私は、学生時代、「江藤淳著作集」と「吉本隆明全著作集」を、本棚に並べて、「熟読玩味」していたという体験を持つ。私の中では、吉本隆明が、江藤淳を高く評価するのは自明のことなのだ。江藤淳と吉本隆明。この二人は、「過激な批評的思考力」とでも言うべきものを共有しているからではないか、と思う。「過激な批評的思考力」とは、「存在論的思考力」と言い換えてもいい。江藤淳が理解できない人達、あるいは江藤淳を嫌い、批判・罵倒する人達は、この「過激な批評的思考力」、あるいは「存在論的思考力」が、よく分かっていない人達だろう。言い換えれば、政治思想レベルでしか 、あるいはイデオロギーレベルでしか、物を考える力のない人たちではないのか 、と思う。私が、大学入学の前後に、山田宗睦という人が、『危険な思想家 』(光文社、カッパブックス)という本を出版してベストセラーになったことがある。その本で、山田宗睦という「自称=哲学者」(笑)は、江藤淳や石原慎太郎等を、「戦後民主主義を批判し、否定する・・・危険な思想家」と呼び、批判し、罵倒していた。私も、面白半分に、興味本位で読んでみた。実に、くだらない本だった。「まだ、こんな馬鹿がいるのか・・・」と唖然としたものだった。最近では、『もてない男 』の小谷野敦の『 江藤淳と大江健三郎』(筑摩書房)という本が出ているが、参考資料として、本屋で立ち読みしてみたが、同じように、実に、くだらない芸能週刊誌なみの駄本だった。私は、こういう低次元の誹謗中傷しか出来ない三流の物書き達に興味がない。そういう人達に、かかわることは、時間の無駄である。「  蟹は甲羅に似せて穴を掘る  」と言うが、まさにその通りである。自分が、無能無芸の三流の人物だということを証明しているだけである。

吉本隆明は、江藤淳との対談で、次のように言っている。


《 ただ江藤さんと僕とは、なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って一致しているような感じがする(笑)。》


この、吉本隆明の、あまりにも有名になった言葉の意味を、正確に理解したものは、そんなに多くない。私は、ほとんどいないのではないか、と思う。私の解釈によれば、「  なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って   」というところは、政治思想やイデオロギーの違いであって、「一致している」というのは、存在論としての過激な批評的思考力のことである。政治思想やイデオロギーレベルでしか物を考える力のない人たちには、江藤淳と吉本隆明が、たとえ存在論的レベルの過激な批評的思考力のレベルであっても、「一致する」はずはないのである。一致して欲しくない、というのが彼らのホンネであり、願望であろう。p

2021年3月13日土曜日

 存在論としての漱石論(9)


江藤淳は、文学や文学者を厳しく批判する。しかし、それは、文学を否定することではない。文学を肯定し、文学の精神と力を擁護するためだ。この分析と論理の「弁証法」が分からなければ、江藤淳の批評の意味も、その過激な批評的思考力の魅力も分からない。批判は否定ではない。厳しい批判のないところには「肯定」もない。


《今日、文学を業とすることはしばしば文学と絶縁すること意味する。 しかしここに「文学者」を廃業する自由が残されていることは案外気づかれていない。文学を業とする者は、自分の意志で他人の都合や「社会的要求」というあいまいな外圧や「良識」を拒絶することができる。業界の席を拒絶したとき、はじめて彼は精神の自由と文学とを回復するのかも知れない。》(江藤淳『 江藤淳著作集』「文学を業とすること」)


《今日、文学を業とすることはしばしば文学と絶縁すること意味する》ということの意味は、深い。江藤淳の批評を理解するためには、もっとも重要なカギの一つが、ここにある。私は、以前から「マルクス」と「マルクス主義」は違う、と言ってきた。同じことが「文学」についても言えるだろう。「文学」と「文学主義」は違う、と。江藤淳が批判するのは、ロマン主義化された「文学主義」であって、「文学」ではない。文学主義こそ文学である、と夢想している「文学青年/少女」たちには、江藤淳の文学の神髄は理解不可能だろう。