2020年7月28日火曜日

竹中平蔵研究(6)・・・誰でもが竹中平蔵を批判・罵倒するが、その竹中平蔵批判が、まったく通用しないのは何故か。批判に、持続力と思想的深さがないからだ。

■竹中平蔵研究(6)・・・誰でもが竹中平蔵を批判・罵倒するが、その竹中平蔵批判が、まったく通用しないのは何故か。批判に、持続力と思想的深さがないからだ。

●昨夜、上京し、今、郵便物を整理したりして、今日は朝から休養をとっている。上京して驚いたのは、東京の人が、皆、マスクをしていることだ。やはり、コロナウイルスは深刻な問題だったのだろう。私は、薩摩半島の山奥で4、5ヶ月を、コロナ騒動なしで過ごしていたので、その深刻さがわからない。コロナなって知らないよ、と軽い気持ちでいると大変なことになるだろう。気をつけなければ、と思う。
●さて、「竹中平蔵批判」だが、何故か、「竹中平蔵批判」は、ありきたりのステレオタイプ化したものが、ほとんどである。「竹中平蔵批判」が空転するはずだ。最近のネット右翼の中国批判や韓国批判、あるいは小市民左翼の安倍政権批判など・・・と同じで、毒にも薬にもならない人畜無害な「批判ごっこ」に過ぎない。批判の自己満足 、批判のマスタベーションに過ぎない。竹中平蔵が、ヘラヘラわらいながら、平然と、小泉政権だけではなく、その後の民主党政権や安倍政権に至るまで、その中枢にくい込み、経済ヤクザか、犯罪者もどきの悪業を、やりたい放題やるはずである。竹中平蔵批判が、批判になっていないからだ。単なる噂話か誹謗中傷程度の批判に過ぎないからだ。石井某女史の『 女帝 小池百合子』にも遠く及ばない。
●竹中平蔵批判は、既に実質的には終わっている。つまり、竹中平蔵批判は出尽くしている。しかし、竹中平蔵は
それらの批判に、びくともせずに、現在も大活躍している。何故か。