メルマガ「山崎行太郎の毒蛇通信(2021 /10/31)「総選挙なんてしらないよ。」ー「江藤淳とサルトル」を送信しました。「文学と哲学を知らずして政治や経済を語ることなかれ」
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山崎行太郎のメルマガ『毒蛇通信 』
https://www.mag2.com/m/0001151310.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
■江藤淳は、サルトルの『ボードレール』論を読んで、どう変わったか。
江藤淳にとって、サルトルの『ボードレール』論ほど重要な書物はないように、私には思われる。この書物を読むことによって、文学的に開眼したことも重要だが、それよりももっと重要なことがあった。江藤淳は、幼年時代から「家庭的トラブル」をかかえていた。4歳で、母親を喪い、翌年、父親が再婚し 、新しい母親を迎える。そして義弟や義妹が誕生する。それに江藤淳はうまく順応できなかった。4歳から小中高校時代を経て、大学入学の時点まで、精神状態は 、常に不安定だった。登校拒否や引きこもり、家庭内暴力、自殺未遂事件など。とても江藤淳のイメージからは想像できないような波乱万丈の少年・青年時代を過ごしている。江藤淳が、鎌倉の義祖父の家にあずけらられたのも、「家庭的トラブル」から逃れるためだった。高校時代には、義母と添い寝していた義弟を殴りつけるという事件もおこしている。また大学入学後には、自殺未遂事件までおこしている。その頃まで 、江藤淳は 「母の死」という精神的トラウマを抱え、そのトラウマの中で、荒れ狂い、右往左往していたと言っていい。そこで出会ったのがサルトルの『ボードレール 』論だった。この書物を読むことによって、ボードレールを反面教師として、「母の死」というトラウマから解放されれることになるからである。つまり、サルトルの『ボードレール 』論を読むことで、江藤淳は、江藤淳自身の生涯のテーマである「母の死」という問題を冷静、かつ客観的に自己分析する方法を身につけ、ある意味で「母の死」というトラウマから開放される。それ以後、比較的に安定した精神状態を維持していく。つまり 、サルトルの『ボードレール』論は、父の死と、その直後の母の再婚・・・。そして母から捨てられるように寄宿舎へ入れられるという幼児体験によって、ボードレールの人生は、反抗的 、かつ破滅的なものになる、そして、そこから立ち直ることはなかったと分析する。江藤淳は、そのサルトルの「実存主義的な精神分析」と出会うことによって、ボードレールの生き方に、自分自身を重ねると同時に、自分自身の家庭的トラウマを、冷静に、かつ客観的に分析できるようになる。言い換えれば、この頃から、ボードレールのような「反抗的」「破滅的」な生き方ではなく、それとは逆の生き方を、積極的に模索していく。
■『維新と興亜』第9号、10月28日発売。以下は本文の一部の抜粋です。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
★【座談会】『Hanada』『WiLL』『正論』 ネトウヨ保守雑誌の読者に問う!(山崎行太郎×金子宗德×本誌編集部)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
★対談(稲村公望=深田萌絵)「米中台のグローバリストに挟撃される日本」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
★何故 、水戸学は 「水戸学」と呼ばれるのか。ー 実践と実行をともなった学問(山崎行太郎)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
★【座談会】『Hanada』『WiLL』『正論』 ネトウヨ保守雑誌の読者に問う!(山崎行太郎×金子宗德×本誌編集部)
『Hanada』、『WiLL』、『正論』などの「保守雑誌」は、中国や韓国、左派や野党に対しては、非常に鋭いパンチを繰り出している。読者はそれを喝采し、溜飲を下げているのかもしれない。しかし、これらの保守雑誌には重大な欠陥が潜んでいるのだ。彼らは、ひたすら自民党や政権を礼賛し、国家の主権や独立よりもアメリカへの追従、迎合を重視し、売国的な経済政策を主導し、日本社会を破壊してきた竹中平蔵氏らの新自由主義者を恥じらいもなく重用しているからだ。こうした言論が「保守論壇」の主流を占めている限り、わが国は本来の姿を取り戻せない。
では、保守雑誌のあるべき姿とは何か。『保守論壇亡国論』などで保守思想家を撫で斬ってきた山崎行太郎さんと、「国体」を基軸とする独自の編集方針を貫く『国体文化』(日本国体学会機関誌)の編集長を務める金子宗德さんと本誌編集部メンバーが保守雑誌の問題点について徹底的に議論した。
「結論」を横取りし自説のごとく振り回す「パクリ野郎」
── 『WiLL』などの保守雑誌は野党を激しく叩いていますが、政権には阿るばかりです。まるで自民党の御用雑誌のような様相を呈しています。
金子 これらの雑誌は、九月に行われた自民党総裁選では「高市待望論」を展開し、その前は菅政権擁護、そしてその前は安倍政権擁護の主張を載せてきました。
特に第二次安倍政権以降は、政権を礼賛するためのプロパガンダ雑誌のようになっています。安倍氏が政権を退いた直後に刊行された昨年十一月号では、『Hanada』が「総力大特集 永久保存版 ありがとう安倍晋三総理」、『WiLL』が「総力特集 身命を賭した安倍政権の光輝」、『正論』が「未完の安倍政治」という特集を組むなど、安倍氏への忠誠心を競い合っているようでした。
政権を礼賛し、現状を肯定することが「保守」であり、政権を批判する者は「反日」だという誤った考え方が広がっているように思います。編集者も執筆者も、何を保守するのか分かっていないのです。
そもそも、日本には「保守」という言葉が十分に定着していないのかもしれません。「保守」の用例の早いものとしては、明治十二(一八七九)年に福澤諭吉が著した『民情一新』が挙げられます。福澤は「在来の物を保ち旧き事を守り以て当世の無事平穏を謀る、之を保守の主義と云ふ」と書いています。ここでの「保守」は、事なかれ主義に近いニュアンスで用いられているに過ぎません。その二年後の明治十四年には、金子堅太郎が『政治論略』で「保守主義」の政治思想を説いています。自由民権運動が活発な時期であり、明治政府の打倒にも繋がりかねない急進的な思想に歯止めをかける思想として、金子は「保守主義」を提唱します。注目すべきは、金子の「保守主義」がエドマンド・バークの思想に基づいたものだったということです。
山崎 金子さんの説明の通りだと思います。ただし、私は、そもそも「保守」という言葉が好きではありません。「保守」は「ことなかれ主義」の匂いがしますね。だから私は、学生時代、全共闘世代で、左翼全盛の頃ですが、皮肉を込めて「保守反動」を自称していました。私の考える保守は、小林秀雄や江藤淳等に学んだものですが、「革命的保守」というか「保守過激派」とでも呼ぶべき保守です。したがってフランス革命に怯えたバークにもまったく興味ありません。ところで、政治思想として、メディアなどで「保守」という言葉が頻繁に使われるようになったのは、比較的最近だと思います。小林秀雄、江藤淳、三島由紀夫たちは、敢えて「保守」という言葉は使いませんでした。むしろ彼らが亡くなった後に、「保守」という言葉が氾濫するようになりました。本来、「保守」は理論化、イデオロギー化できないもののはずです。それを理論化したのが、西部邁だと思います。小林秀雄、江藤淳、三島由紀夫、福田恒存らの「保守思想」は、生活感覚のような保守であり、「直接経験」や西田幾多朗の「純粋経験」を重視するものでした。「保守」は理論化とは馴染みのないものだったからこそ、保守であることは決してやさしいことではなかったのです。
ところが西部以後、保守は誰でも簡単になれるものに変貌してしまいました。「従属慰安婦はいなかった」「南京事件はなかった」などと言いさえすれば、誰でも保守の仲間入りができるようになったというわけです。こうして「保守の通俗化」、「保守の大衆化」が始まりました。
江藤淳は、自分で「問題」を見出し、自分の頭で考え、自分で調査し、自分で分析して、結論を導きました。例えば、「占領憲法」に「問題点」を見出し、自らアメリカの国立文書資料館に通い、関係資料を発掘し、調査・分析し、「押し付け憲法」の実態を暴露していきました。これに対して、昨今の保守思想家は、「問題」の結論だけを横取り、模倣し、自説のごとく振り回す「パクリ野郎」たちばかりです。
私は、保守派を名乗っている「ネトウヨ雑誌」を読みません。立ち読みぐらいはした事がありますが。書いている人は、目次を見れば明らかですが、ほぼ素人か、素人に毛の生えた人たちです。学問的業績も思想的業績もゼロ。オヤジたちの居酒屋漫談とオバサンたちの井戸端会議レベル。それを大真面目に読んで、アッサリと洗脳され、熱狂的信者になって、騒いでいるのがネトウヨとかネット右翼とか呼ばれている連中です。まともな読書とは無縁な老若男女の皆さんたち。普段は漫画か週刊誌ぐらいしか読まないので、簡単に活字に洗脳されてしまうのです。
外来の保守思想にかぶれる言論人たち
山崎 西部は、遅れて来た「転向保守」らしく、保守思想家の先輩格である小林秀雄や江藤淳を、バーク理論を使って批判し、保守論壇を「左翼論壇化」しました。それが「保守思想の理論化」です。
金子 確かに、バークの保守思想を持ち出した西部の議論は、エポック・メイキングになりました。しかし、保守論壇の「バークかぶれ」を助長したのは八木秀次氏らだと思います。例えば、『諸君!』(平成十二年八月号)には、八木氏と中川八洋氏、渡部昇一による「エドマンド・バークに学ぶ 保守主義の大道」鼎談が掲載されています。
── 今や中島岳志氏から小川栄太郎氏に至るまで、論壇は「バークかぶれ」だらけです。
金子 「理性の絶対視はだめだ」「設計主義はいけない」といったバーク流の保守主義には、大きな落とし穴があると思います。フランス革命を批判したバークの保守主義は、人間の「理性」の能力に懐疑的で、それに基づく急進的な社会改革・革命を批判する立場です。
しかし、人間はどうしても理想を求める生き物です。理想を掲げ、現実社会を変えようとすれば、どうしても設計主義的側面が出てきます。逆に、設計主義はいけないとして理想を懐くことまでも否定してしまったら、結局のところ現状を無批判に肯定し、流されてしまうのではないでしょうか。
── 日本の保守派がイギリスの保守思想家の思想を有難がっていることが大きな矛盾です。陸羯南や柳田国男もバークを読んでいましたが、彼らはそれをあからさまに出さない恥じらいを持っていました。そもそもバークが基盤とするキリスト教的価値観は、日本の伝統思想とは異なるものです。しかも、我々は君民一体の國體の回復こそ、保守派が目指すべき最重要課題だと考えていますが、バークは親政論者でもなく、資本主義に対して好意的な考えを持っていました。バークの思想には、國體を重視する我々の考え方とは相容れない部分が少なくありません。
我々は、日本の本来あるべき姿を描き、そこに回帰するための不断の運動を展開するのが保守だと考えています。バーク流の保守主義に頼っていてはだめです。つまり、現在の保守雑誌には、明治維新や昭和維新の原動力となった國體思想が決定的に欠落しているのです。(以下略)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
★『藤田東湖と西郷南洲()』(山崎行太郎)
何故、水戸学は「水戸学」と呼ばれるのか。ー実践と実行をともなった学問
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『藤田東湖と西郷南洲』というテーマで、『維新と興亜』の貴重な誌面を拝借して、長々と書き続けてきたが、今後も、飽きもせずに書き続けるつもりだ。もうすぐ、後期高齢者の仲間入りをする小生の生命も、自然の摂理として終わりに近づきつつあるわけだが、私が書きたいテーマに終わりはない。私は、藤田東湖や西郷南洲の事績やその歴史を書きたいわけではない。藤田東湖や西郷南洲の思想と行動の軌跡を追いながら、「思想とは何か」「学問とは何か」を追求しようと思って、書き続けている。何故、水戸学は「水戸学」になったのか。
私が、「水戸学」とか「水戸学派」というものに興味をもったのも、この「思想とは何か」「学問とは何か」という問題と深くかかわっている。水戸学にとって、思想とは、いわゆるただの「思想」でも、机上の空論としての「学問」でもない。最近、巷で流行の「居酒屋政治漫談」的な与太話としての「思想」でも「学問」でもない。何回も繰り返すが、水戸学は、実践や実行をともなった学問である。実践や実行をともなっているということは、その実践や実行には、必然的に「死」がともなっているということだ。「実践」や「実行」や「死」がともなっていない水戸学は水戸学ではない。私は、そこに深い思想的刺激を受け、興味をもった。私は、水戸藩の武士たちが中心になって実行した「桜田門外の変」や「天狗党の乱」は、水戸学派の正当な思想や学問を受け継ぐ純正水戸学であり、水戸学の深化・延長上の出来事だったと思っている。水戸学の誤解や混迷や暴走がもたらした偶発的事件だという解釈もあるらしいが、私はそうは思わない。薩摩藩の子弟教育の教材だったと言われる「日新公いろは唄」の中に、
いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし
というものがあるが、それは水戸学派に通じる「実践論」の哲学そのものである。西郷南洲が藤田東湖に初めて面会した時、西郷南洲は、それを直感し、それを骨身に沁みるように感得したはずだ。藤田東湖の水戸学には、「死の匂い」がしていたはずだ。換言すれば、「やるか、やらないか」「死ぬ覚悟はあるか、ないか」の実存的決断を迫っていたはずだ。
藤田東湖に面会・談話した直後の西郷南洲の手紙を改めて引用する。
《他人に申すのは、口幅ったいが、東湖先生は私を心の中で非常に可愛がって居られるようです。偉丈夫、偉丈夫と私を呼ばれ、私が何かいうと、さうだ、さうだ、まさにその通りだと賛成されます。天下のために薩摩が大いに活躍する時が来た。君たちのような人達が斉彬公を押立てて活動すれば、夷狄を打攘い皇国を振起することは難事ではない。有難い、頼もしいことだと言われ、身に余るうれしさよろこびです。若し水戸老侯が鞭をあげて異船打攘いに魁けられることでもありますれば逸散に駆けつけて、戦場の埋草になりとも役立ちたいと、心から東湖先生に心酔いたしております。》
これは、西郷南洲の側からみた藤田東湖の言動と振る舞いを記述したものだが、もうこの時点で二人の対話には、単なる学問や思想を超えた、思想的同志の対話があったとみていい。要するに、師弟関係を超えた「革命家」と「革命家」の対話である。藤田東湖は、西郷南洲を一目見て、「この男は、口説の男ではない、やる男だ」と直感している。西郷南洲は西郷南洲で、藤田東湖を、単なる「大学者」、単なる「大思想家」とは見ていない。それ以上の「何か」を見ている。その「何か」とは何か。私は、それは、哲学者・西田幾多郎が言った水戸学派の内包する「ガイスト(精神)」ではないか、と思う。水戸藩の学問が「水戸学」とか「水戸学派」と呼ばれることになったのは、この「ガイスト」に根拠があるのではないか。(以下略)
■あなたは「ダッピ」を知ってますか。
ダッピ(DAPPI)こそ「ネットウヨ」の親玉だったのか。なるほど、なるほど。「幽霊の正体見たり、枯れ尾花・・・」というわけか。
自民党や安倍晋三をひたすら絶賛・擁護し、立憲や野党を罵倒し、誹謗中傷し続けるネットウヨ系ネット工作員がいたらしい。立憲の「小西ひろゆき議員」や「杉尾秀哉議員」に関して、デマ情報(フェイクニュース)を流し続けたとして、両氏が反撃に出て、その発信元の「ダッピ(DAPPI)」の正体を突き止めたらしい。たまには立憲民主党もやるじゃないか。ダッピの正体を探って行くと、その先に、自民党や自民党本部の幹部の名前まで出てきたらしい。ダッピって、自民党お傭いのネット工作員というかネット工作会社だったらしい。まー、そんなことだろうと予想はしてましたけどね・・・(笑)(笑)(笑)。え
■江藤淳はサルトルの『ボードレール』から何を学んだか。
江藤淳は、サルトルの影響を受けているが、サルトルについて多くを語っていない。そこから、江藤淳はサルトルを読んでいないのではないかとか、サルトルを理解していないのではないか、とかいう解釈が大手を振ってまかり通ることになる。私は、別に、ここで、江藤淳はサルトルを熟読し、サルトルの文学や哲学を正確に理解していたなどと言うつもりはない 。学者や研究者か、あるいは野次馬的な文学愛好者や哲学愛好者なら、そいうことが問題になるだろう。しかし、江藤淳は、仏文学者でも、サルトル研究者でもない。ましてや文学愛好者でも哲学愛好者でもない。江藤淳は批評家であるり文学者、つあり創作者である。問題は、それらを、どれだけ「血肉化」したか、あるいは「内在化」したか、さらに言えば、どれだけ「作品化」に成功したかだけが問題になる。江藤淳は、サルトルの『嘔吐』を読んで「ヒント」を得たと言っている。『ボードレール』を読んで、影響を受けたと言っている。さらに、サルトルがあまり好きではなかった、とも言っている。江藤淳は、慶應仏文科で仏文学を専攻するつもりで、慶應文学部に進学したにもかかわらず、若い英語教師・藤井昇の勧めで、あっさりと慶應英文科へと転向している。ここらあたりで、何か大きな変化=回心があったのかもしれない。それは、「死ぬこと」からか「生きる」ことへの転向=回心だったのかもしれない。江藤淳は、この頃、まだ病臥に臥しており、大学も休学が続き、挙句に「自殺未遂事件」まで起こしている。そういう悲惨な、絶望的な状況にあった時、江藤淳宅を、見舞いに訪れたのが「藤井昇先生」だった。
《 今から振り返ってみると、昭和二十九年八月半ばから九月にかけての1ヶ月余りのあいだに、 私のなかで
確実になにかが一回転したように思われる。そのときから私は、それまでとは違った方向へ歩きはじめた。(中略)藤井昇先生が、私を見舞いに来て下さったのは、ちょうどそのころのことである。》
■藤田東湖と西郷南洲。ー実存と思想ー⑵
藤田東湖は、華々しい、劇的な「死」を死んだわけではない。江戸の街を襲った「安政の大地震」で、落ちてきた梁の下敷きになって、あっけなく死んでしまった。藤田東湖にふさわしくないような死に方であった、と私も思う。「桜田門外の変」や「天狗党の乱」で、劇的な死に方をした藤田東湖の後継者や弟子たちの死にくらべて、あるいは「西南戦争」で薩摩の城山の露と消えた西郷南洲の死に方にくらべて、実に平凡、凡庸な死に方であった。しかし、それは表面的なことにすぎない。藤田東湖もまた、劇的な死を、「思想家」、「学者」、「革命家」として死んだのである。後に続く革命家たちの「蜂起」や「斬死」「斬首」・・・を見殺しにしたわけでもなく、そこから逃げだしたわけでもない。そもそも、水戸学は 「革命思想」であり、革命を目指す「実践的革命哲学」であった。体制擁護の御用学問でしかない現代の右翼思想や保守思想とは対極にある思想だった。その「革命哲学としての水戸学」の中心人物が 、藤田幽谷=藤田東湖父子だった。私は、この連載の第一回目で、「三決死か而不死(三たび死を決して而も死せず)」という『回天詩史』の冒頭の文章(漢詩)を紹介したが、実は、そこでも中心テーマになっているのは「死」であった。「三たび死を決して而も死せず」。
■昨日は『維新と興亜』の座談会ということで 、久しぶりに、都心部に出かけた。指定された場所は、日比谷高校の隣にある「星稜会館」の近辺ということで安心していたが 、当日になり、「星稜会館」なら何回も行ったことがあるが、しかし新しい建物らしいので、ちょっと不安になったので、早めに出かけることにした。地下鉄の永田町駅を降りたが、方向感覚がまったくわからない。しばらくスマホのグーグルマップをいじっていると、警備中の警官が近ずいてきた。この周辺は、国家の中枢機関が集中しているところなので、警備が厳しいのだ。国会議事堂、首相官邸、衆参議長公邸、議員会館など・・・。いたるところに警官が立っている。その警備中の警官が・・・。「???」。「何か、お探しですか?」といううわけだろう。いつもなら、「うるせー」とつぶやきつつ、即座に立ち去るところだが、今回は、さすがに、警官のやさしい雰囲気に引き込まれて、「日比谷高校と星稜会館は、どの道を・・・」と聞いてしまった。ああ、やはり、私は、70過ぎの「立派な老人」(笑)なのだ、と自覚した瞬間であった。警官は、「こちらに地図が・・・」と言いつつ、私を案内して、地図の書いた看板まで連れていってくれた。警官は、詳しく、何回も何回も道筋を教えてくれた。もういいよ、というぐらいに。というわけで、私は、以前、何回も立ち寄ったことのあるカフェが見つかったので、そのカフェで時間をつぶし、また早めに、目的の場所へ向かった。少し時間があったので、江藤淳先生の母校、日比谷高校を見学することにした。警官の言った通りに、細い路地を歩いていると、学校らしき建物が見えてきた。同時に、子供たちの声も聞こえてきた。日比谷高校は、坂道をくだったところの、小さな丘の上にあった。この門が、正門なのか裏門なのかわからないが、一応、日比谷高校のプレートがあったので、記念写真をパチリ。「江藤淳と日比谷高校」。平山周吉の『江藤淳は甦る』を読んで以来 、「江藤淳と日比谷高校」というテーマが頭から離れなくなっている。言うまでもなく 、私は、日本一の受験進学校としての日比谷高校に興味があるわけではない。あくまでも、江藤淳の通った日比谷高校に興味があるのだ。肺病病みの高校生・江頭敦夫( 江藤淳の本名 )が、多感な高校時代を過ごした日比谷高校に・・・。(後で、ネットで調べてみたら、こちらの門は、正門ではなく通用門、つまり裏門でした。)