昨日は、コロナ禍が影響して、異常な安値になっている東京都心のホテルに一泊した。正午頃、チェックアウトして、東十条駅へ向かった。私は、普段、東十条駅に降りることはほとんどない。今までにも、一、二回しかないと思う。では、昨日、何故、東十条駅に降りたのか。実は、私は、今年、『月刊日本』に『江藤淳とその時代 』の連載を開始した。私は、江藤淳に関して新しい情報や珍しい資料を持っているわけではない。私が、持っているのは、誰でもが持っている情報や資料にすぎない。もし、私の『江藤淳とその時代 』に「誇れる」ものがあるとすれば、それは、誰もが持っている情報や資料を元に、私なりの独断と偏見に基づく独自の分析や評価や解釈の部分だろう。というわけで、私は、東十条駅に降りたったのである。東十条駅は京浜東北線の駅だ。私は、東京駅や有楽町駅、新橋駅、田町駅・・・などへ向かう時は、いつも東十条駅を通過して、目的地へ向かう。しかし東十条駅は通過するだけの駅で、まったく馴染みはない。ところで、江藤淳は、当時、つまり、高校、大学時代、北区十条仲原3丁目1番地の「帝銀社宅」(三井住友銀社宅 )に住んでいた。最寄り駅が、十条駅か東十条駅だったことは間違いない。私は、十条駅だと思っていたが、東十条駅だった可能性もゼロではない。湘南中学( 湘南高校生)時代の友人達が、ここ東十条駅で降りて江藤淳宅に向かった、とあったから、江藤淳は東十条駅に迎えに行ったのかもしれない。そしてまた転入した日比谷高校へも 、この東十条駅から通学したのかもしれない。もちろん、田町駅を最寄駅とする慶応義塾大学三田キャンパスへは、この東十条駅を使っただろう、と思う。東十条駅は、江藤淳にとっては、思い出の詰まった駅なのだ。私は、そう思って、昨日、東十条駅駅に降りたったのだ。そして東十条駅から北区十条仲原3丁目1番地を求めて、十条界隈を徘徊したのだ。北区十条仲原3丁目1番地は確認できなかったが、ほぼ見当はついた。私は、十条駅からは、青春時代の江藤淳の足跡を追い求めて、既に数回、探し回ったことはあった。今となっては、十条銀座も懐かしい。十条駅を降りて、十条銀座を経て、環七を横断する。すると、すぐそこには、下方に赤羽駅が見える。一度は、赤羽駅まで歩いたこともある。江藤淳は、この街に、高校 、大学時代の七年間を過ごした。実は江藤淳というと、鎌倉や新宿区百人町 、あるいは軽井沢千ヶ滝の街や土地などが思い出されるが、江藤淳にとってもっとも重要な街と土地は 、それらではない。北区十条仲原3丁目1番地こそ 、江藤淳を生み出したまちだった。江藤淳は、この街で、高校、大学時代の七年間を過ごしている。文芸批評を書きき始めたのこの街だった。文芸評論家=江藤淳の誕生にとって、もっとも重要な、 記念すべき場所なのだ。
Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
2021年6月27日日曜日
2021年6月23日水曜日
■米国在住の深田萌絵女史に東京地検から「出頭命令」が来たようだ。
深田萌絵は、近々、帰国予定だったらしいが、それを察知していたかのように、東京地検が、深田女史から、「事情聴取」の予定ということで「出頭命令」となったらしい。深田女史によると、予定を変更することなく帰国し、事情聴取に応じる予定らしい。逃げも隠れもしない・・・というわけだ。さすが、大和撫子、見上げたものだ。
私は、「半導体」の話も、「技術流出」の話も、中国人の「背乗り」の話も、無知で、その関係はまったくの素人だが、微力ながら、深田萌絵女史を、全面的に応援していきたい。というのは、私が 、思想的に、深田萌絵女史を、近頃、珍しい思想家=表現者=言論人として、つまり「闘う言論人」として、高く評価しているからだ。逆に言えば、現代日本の思想家、政治家、学者 、文化人、ジャーナリスト・・・は、信用出来ないということだ。身も心も、そして胃腸も腐っている。
私は、かつて、文学者や哲学者を信頼していた時代がある。そんな文学や哲学なら、文学や哲学に一生を捧げてもいい、と思ったものだ。彼等は 、世俗的野心を捨てて、権力や俗物と徹底的に「闘う精神」の持ち主だった。「志」のためなら、身も心も捧げ尽くすという決死の覚悟の持ち主だった。しかし、小林秀雄や三島由紀夫や江藤淳の「死」とともに、そういう時代も終わった。今、現前するのは、権力や俗世間に迎合する「御用文化人」や「御用作家」、権力や利権に目の眩んだ「俗物官僚」や「俗物政治家」ばかりだ。深田萌絵の爪の垢でも、煎じて呑めよ、と言いたいが、言っても無駄だろう。鯛は頭から腐る、と言われるが 、まさしく、最近の、日本人の俗物化=痴呆化は、底が知れない。頭から腐っているどころか、身も心も腐りきっている。
私は、今 、深田萌絵の言論に接する度に、身も心も洗われる気持ちだ。深田萌絵の東京地検 、及び現代日本のエセ保守文化人、エセ保守政治家、そしてエセ保守的一般庶民との「闘い」を、全面的に応援していきたいと思う。
東京地検を、裏から動かしているものは、誰か。
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https://youtu.be/kbwZVnCikUs
https://youtu.be/kbwZVnCikUs
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2021年6月19日土曜日
■アダチ( 維新の足立康史 )の「お別れのご挨拶」(笑)。おい、アダチ。お前は日本人か。おい、アダチ、靖国参拝に反対だそうだが、本当か。お前こそ、「似非日本人」じゃないのか。
アダチが、逃げた。深田萌絵女史に喧嘩( 論争 )を挑んだアダチ( 維新の足立康史)が、都合が悪くなったらしく 、次のような「最後のご挨拶」を残して、喧嘩( 論争 )から逃げてしまったようです。足立康史のTwitterから。
ーーーーーー引用始まりーーーーーーp
《最後にするけど、この方が大好きな杉田水脈議員も、深田萌絵さんの虚言癖には閉口していて、関係をフェードアウトしてるところだと言ってましたよ。ウィルが言論を大事にするなら、まずは大好きな二人、深田氏と杉田議員とのビッグ対談でも特集したらどうでしょうか。あと、藤井氏と私の対談も宜しく。》
ーーーーーー引用終わりーーーーーー
アダチは、国会という場所で、「深田萌絵」という一般人の個人名を名指しして
、論争を挑んだはずだったが、深田萌絵から反撃を食らって、なんと女々しくも、自分の方から、尻尾を巻いて逃げてしまった。しかもみっともないのは、話を、他の方に( 杉田水脈 )ズラしていることです。アダチは、日ごろから、「Youtube動画」業界で、派手に騒いでいるが、こんな体たらくで、恥ずかしくないのか。
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アダチの醜態を晒す。(笑)下心満杯の
単なるエロ=オヤジ。これが維新の正体!(笑)
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https://twitter.com/Douzodouzo_/status/1404613108111269892?s=06
2021年6月16日水曜日
■余は、何故 、「深田萌絵信者」になりし乎。
私には 、作家や評論家 、文化人、政治家、学者、ジャーナリスト、そして一般庶民に至るまで、その人物を評価する時の基準がある。それは、「専門性」という思想的レベルの基準である。何事であれ、誰にも負けないような「専門性」を持っていない人物を、私は評価しない。もちろん 、「専門性」を持っている馬鹿もたまにはいる。そういう「専門馬鹿」は例外である。私は、現代日本の文化人、政治家、ジャーナリスト、学者・・・を、まったく評価しない。まったく「専門性」が欠如しているからだ。「永遠のドシロート」。知ったかぶりが、私は嫌いだ。百害あって一利なし、だ。それが、現代日本の思想的・文化的状況だ。
私が評価するのは、小林秀雄や三島由紀夫、江藤淳、吉本隆明、柄谷行人、廣松渉、小沢一郎 、志位和夫・・・などである。思想的 、イデオロギー的には、多種多様。しかし、それぞれ
他人の追随を許さない専門的業績を持っている。私は、思想やイデオロギーで人を評価しない。語るに値する「専門性」があるかどうかだ。私は、学生時代は、「保守反動」を自称していたが、あまり保守系や右翼系の人間(学生 も教員も) が好きではなかった。彼等は 、本も読まず、勉強もしていなかった。もちろん、専門的業績も残していない。左翼系の学生の方が本も読み 、勉強もしていた。だから、私は、政治思想的には対局にありながらも、左翼系の学生や文化人が好きだった。今 、政治家で評価するのは 、立憲民主党所属の小沢一郎と共産党の志位和夫委員長だけである。小沢一郎と共志位和夫は、明らかに、自民党議員らより勉強しているし 、話も深く、面白い。
話がそれた。「深田萌絵」の話に戻る。私は、今年 、「Youtube動画」で深田萌絵という「itビジネスコンサルタント」を知った。すぐに、「深田萌絵信者」になった。「半導体論」や「台湾論」を聞いているうちに 、深田萌絵の話に夢中になった。深田萌絵には、専門的業績がある。私は 、半導体にも台湾にも、それほど興味がない。にもかかわらず 、深田萌絵の半導体論と台湾論は信用できると即断した。専門的な、微に入り細を穿つような半導体論と台湾論を武器に、政治や経済、そして様々な思想問題や国際問題を追求していく深田萌絵の柔軟で、且つ、過激な思考力と論争力に魅了されていった。深田萌絵には、何ものをも恐れない闘争心と論争力がある。私は、現代日本人の闘争心なるものは 、全て 、飼い慣らされた奴隷の闘争心でしかない、と思う。深田萌絵の闘争心は 、そういう 口先だけの 、奴隷根性の染み付いた負け犬の闘争心ではない。深田萌絵の毒牙( 論争力)に掛かった男たち(笑)。佐藤正久 、長尾たかし、金美齢、藤井厳喜・・・。金美齢は女だが(笑)
今、現在、深田萌絵は 、「維新」の橋下徹と足立康史に噛み付いている。橋下と足立が、深田萌絵を甘く見くびって 、チョッカイを出してきたからだ。そこで 、待ってましたとばかりに、「返り討ち」を浴びせたというわけである。橋下と足立は 、「維新」の実体まで暴露されて、分が悪いと思ったのか、早々と尻尾を巻いて 、逃げ出したらしい。
論争から一目散に逃げる男たち( 政治家たち)と 、それを執拗に追撃する女。(笑)
2021年6月14日月曜日
■「深田萌絵」女史の闘いは、ついに「維新」の足立康史議員や元代表の橋下徹にまで・・・。
半導体問題や台湾問題から始まった「深田萌絵」女史の闘いは、ついに「維新」の足立康史議員や元代表の橋下徹にまで及んで来たようです。深田萌絵の言論は、私が予測したように、現在、日本の論壇やジャーナリズムの「台風の目」になっているようです。深田萌絵に批判された似非保守文化人や似非保守政治家等は、存在の危機に追い込まれているようですが、彼等は、必死になって「深田萌絵包囲網」を築こうとしていますが、深田萌絵の爆発的な情報発信力は、衰える気配を見せません。ますます意気軒昂。向かうところ敵無しの勢いです。そこで、深田萌絵を甘く見て、俺が退治してやると妄想し、「飛んで火にいる夏の虫」とばかりに、火中に飛び込んで来たのが「維新」の足立康史と橋下徹という訳です。大丈夫かね、この二人は・・・。最近の日本の政治家も言論人、文化人も「クズ」ばかりだから、「深田萌絵女史」のような、根性のある女史にかかると、コロリとやられるのだ。
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●足立康史議員が、国会で、深田萌絵を批判。⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎
https://youtu.be/kyTGpDxgvXk
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●深田萌絵女史の反撃
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https://youtu.be/8UWKlW5BNqk
https://youtu.be/J9c4-Fc94yM
https://youtu.be/lV5oiSVrgrs
https://youtu.be/lV5oiSVrgrs
https://youtu.be/j_hNHhkvWxU
2021年6月10日木曜日
■以下は『月刊日本』7月号に掲載予定の『江藤淳とその時代 5』です。
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漱石の東京帝国大学辞職と朝日新聞入社が 、漱石の文学にとってだけでなく 、日本近代文学全体にとっても 、あるいは近代思想史全体にとっても、極めて重要な 、エポックメーキングな出来事=事件だったことは明らかである。ここで、文学は、あるいは小説は、国家や大学 、あるいは政府や大学が主導する近代化=欧米化という世俗的価値観から独立した、独自の自立的存在を主張することになる、と言っていい。
そして同じことが、江藤淳にも言えるような気がする。江藤淳の「日比谷高校時代」については、あまりよく知られていないが、いくつかの同級生や教師たちの証言を調べていくと、漱石の東京帝国大学辞職事件に匹敵するような「問題」をはらんでいるようにみえる。
柄谷行人が、江藤淳の「日比谷高校時代」について、「追悼文」で、面白いことを書いている。
《七0年代に、江藤淳を通して、彼を若い時から知っている人たちと知り合いになったが 、たとえば、日比谷高校で江藤淳と同級生だった小説家の故柏原兵三は、江藤淳が学生大会でストライキに反対して演説し、ストをつぶしたと語った。あの温厚な柏原兵三がかなり激しくその時の恨みを語ったので、驚いた記憶がある。(余談だが、彼は、江藤淳は抜群に優秀であったのに数字だけがまったくだめだだったともいっていた。三島由紀夫もそうであっただけに、私はそれを興味深く思う。)そうだとすると、一九六0年前後に江藤淳が「転向」したというのは、錯覚だといわねばならない。彼自身が認めているように、湘南中学時代にマルクス主義的であったことが確かだとしたら、日比谷高校に移る時点で変わったということができる。しかし、そう簡単ではない。それなら、先行世代に江藤淳を左翼だと思いこませたようなラディカルな著作を、どう説明するのか。》(柄谷行人『江藤淳と私』文学界)
柄谷行人は、伝聞ながら、日比谷高校時代の江藤淳について、その「雄姿」と「武勇伝」を伝えると同時に、江藤淳の『ラディカルさ』、つまり思考や行動のラディカリズムについても書いている。このラディカリズムは、東大を辞職した前後の漱石の「凶暴な衝動」(江藤淳 )にも通じるものだろう。江藤淳の批評や行動にも、しばしば「凶暴な衝動」が散見される。たとえば、粕谷一希や中嶋峰雄、山崎正和・・・等を名指しで、情け容赦なく、批判、罵倒した「ユダの季節」や「ペンの政治学」というような論争的文章などは、この「凶暴な衝動」なしには書かれなかっただろう。
日比谷高校時代のこの学生大会の様子にも、明らかに「凶暴な衝動」に突き動かされた行動が見られる。この学生大会ついては、日比谷高校の下級生で、同じく慶応義塾大学に進学し、同じく「三田文学」を経て作家になる坂上弘も書いているが、ここでは 、東大名誉教授で、美術史家である辻惟雄の証言を引用してみよう。辻惟雄も、東大医学部志望で、岐阜高校から、三年の時、日比谷高校に編入している。
《 さあ授業だ。なるほど秀才ぞろいだ。先生方もきびきびと厳しく授業を進める。付いていくのに必死だった。3年生の始業式の日の教頭先生の訓示が忘れられない。「諸君は脇目もふらずに東京大学を目指して勉強しろ」。厳しい檄(げき)が生徒たちの頭上にこだました。訓辞が終わった途端だった。黙って聞いていたひとりの生徒が立ち上がってつかつかと壇上にのぼり、よく通る声で異議をを唱えた。「我々は将棋の駒ではない!!」。本当にびっくりした。先生に堂々と反論するなんて岐阜高校では考えられない。彼は江頭淳夫(えがしらあつお)君。後年、文芸評論家として活躍する江藤淳さんである。》
(辻惟雄『私の履歴書』日本経済新聞)
江藤淳が、演壇に駆け上がって、「我々は将棋の駒ではない!!」と発言したのは、江藤淳が結核で一年休学後の、二回目の三年生の時のことだろう。江藤淳は、この時、すでに「東大進学」を諦め、慶応義塾大学進学を決めていたのだろう。校長や教頭の、「東大合格者数」しか頭にない、受験勉強優先的な「日比谷高校的価値観」を、江藤淳が軽蔑し、拒絶していたことがわかる。江藤淳は、受験勉強的価値観より 、ホンモノの学問や思想、あるいはホンモノの文学的な価値観を重視し優先していたのであろう。江藤淳が、「三田文学」に発表した『夏目漱石論』を引っさげて、新進気鋭の文芸評論家としてデビューするのは、わずか二、三年後のことである。この頃の二、三年が、長いか短いかは即断出来ないが、少なくとも江藤淳の場合、早熟な高校生だったと、誰もが証言しているように、短い二、三年であった。日比谷高校三年の時、演壇に駆け上がって、教頭の受験勉強優先的な教育方針を批判した江藤淳の演説は、既に高校生の演説ではなかったのであろう。文芸評論家=江藤淳は、この高校生時代には、すでに出来上がっていたのだ、と私は思う。だから、「浪人してでも東大へ」という普通の高校生や受験生とは異なり、東大にこだわらず 、慶応義塾大学に、「意気揚々」と進学し、文学や学問の道を目指したのである。
江藤淳は、こんなことも書いている。
《 私が結核になって高校三年を二回やり、東大に落ちて慶応の制服制帽で教員室にあいさつに行くと、「君、慶応は経済かね、なに文科? 君も案外伸びなかったね」といわれたものである。それ以来私はこの学校を訪れたことがない。》( 「日本と私」 )
「東大に落ちて慶応に進学」した人のやることだろうか。地方の名もない県立高校出身の私にも、「 慶応の制服制帽で教員室にあいさつに行く」という発想が分からない。これは、深読みすれば、江藤淳は、「私は第一志望の大学にに合格しました」と言いたかったのかもしれない。
「東大を落ちて、慶応に進学した」と江藤淳は書いているが、むしろ、漱石と同様に、東大型の受験勉強的な、受験教育的な教育システムに「NO」を突きつけ、もっと自由な教育の場所として慶応義塾大学を目指したのだろう。そして、その通りの文学や学問を実現したのである。江藤淳の日比谷高校時代の同級生の「その後」を見ると、江藤淳の判断と決断が間違っていなかったことが分かる。先に名前の出た柏原兵三( 作家 )や安藤元雄( 詩人)、篠沢秀夫( 仏文学者 )、あるいは、文学関係以外の、その他の分野に進んだ人たちを含めても、江藤淳以上に、はなばなしい活躍や、学問的業績を残した人はそんなに多くはないだろう。
日比谷高校の同級生はたちに取材して、江藤淳の日比谷高校時代を克明に描いた『 江藤淳は甦る』で平山周吉は、東大を経て外交官になった藤井宏昭の証言を書き留めている。実は、藤井宏昭も高校時代は作家志望だった。当時、藤井宏昭は、一度東大受験に落第し浪人中だったが、江藤淳に偶然、出会った時、江藤淳は、「東大には行かないよ。慶応の文科に行くんだ」と意気揚々と宣言したという。以下は藤井宏昭の発言。
《自分の進路をしっかり考えて、外にも公言するのは大したものだと、その時、彼を見直しました。頭のいい才人で、とりスマした所がある奴だったけど、それですっかり尊敬してしまいました 》(平山周吉『江藤淳は甦る 』 )
やはり、江藤淳の心の中は、単純ではない。「東大を落ちて・・・」という話は、江藤淳の韜晦に過ぎないのかもしれない。
ここに、面白い文章がある。当時、東大生だった小堀桂一郎による新潮文庫の解説である。解説の対象になっているのは、江藤淳の『夏目漱石』である。
《甚だ私的な回想を以てこの解説文を始めることをお許し願いたい。あれは昭和三十一年 の冬であった。私は当時まだ大学の寄宿寮の火の気のない一室に寝起きする身であったが、或る晩のこと、机を並べていた同室の友がそれまで読みふけっていた書物をいま読み了えたらしく静かに閉じてそれを私の方に差し出してこう言った。「君、素晴らしい批評家が現れたのだ、しかも僕等と同年代の人だ、まあこれを読んでみたまえ」その友人が示した小型の書物が、江藤淳氏の華麗にして規模雄大な評論活動の出発点となった記念碑的労作『夏目漱石』であって、東京ライフ社という聞きなれない出版社からの刊行になるものだった。(中略)ところでその時の私の反応は至って冷淡だった。結局私はその友人の強い勧めにも拘らずその衝撃の書を読まなかった。(中略)そういうわけでまだ慶応の学生だった若い江藤氏のこの出世作を私は当時には遂に読まず終いだった。私がそれを実際に繙いたのは、それから何と二十年も後のことである。》(新潮文庫『決定版夏目漱石 』 解説 )
私は、批判するためにこの文章を引用したのではない。小堀桂一郎は、高名なドイツ文学者で、比較文学者である。私も、『若き日の森鴎外 』を読んだことがある。ここで、私が注目したいのは、江藤淳の同級生たちは、東大進学組を含めて、まだ、「現役大学生」でしかなかったということである。
もちろん、私は、デビューするのが早いか遅いかを問題にしているのではない。江藤淳が、心ならずも、「東大合格者数日本一」を誇りにしている日比谷高校生となりながらも 、「東大」にこだわらずに「慶応」に、意気揚々と進学し、しかもその「慶応」においてさえ、追われるように、そこを去ったという事実を指摘しているだけである。私は、ここに、江藤淳の批評に繋がる「何か」があると思うからだ。
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2021年6月9日水曜日
江藤淳の「日比谷高校時代」について(2 )
(『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代 5』原稿の下書きです。)
江藤淳は、同級生たちが、東大へ進学するのが当然の秀才揃いの中で、自分自身のことを、かなり意識的に卑下して 、あまり目立たない劣等生だったかのよような書き方をしている。「東大に落ちて慶応に進学した・・・」という説明には、それなりに説得力があり、多くの人が納得しているはずだ。私も、長い間、そう思っていた。しかし、私は、日比谷高校の同級生や同窓生(上級生や下級生)たちの「回想」や「談話」を読んでいくうちに、どうも、そうではなかったのではないか、と思うようになった。むしろ 、江藤淳(江頭敦夫)は、日比谷高校という秀才揃いの高校で 、目立ち過ぎるぐら目立つ、才気煥発な「秀才たちの中の秀才」だったうようだ。
日比谷高校時代の江藤淳は、学生集会で、演壇に駆け上がり、校長に反論する大演説をぶち上げたかと思うと、演劇や音楽などの部活でも主役級を演じ、誰もが舌を巻くほどの有能な高校生だったようだ。しかし、江藤淳は、それらの「武勇伝」(?)のことについては、あまり書いても語ってもいない。ひたすら暗く惨めな高校時代だったかのようにしか、書いていない。何故か。江藤淳が、この頃のことで語りたかったことは、別にあったからではないか。それは、おそらく家庭の事情であった。つまり、「家の経済的没落」であった。
江藤淳が、神奈川県の進学校=湘南高校(中学)から日比谷高校(都立一中)へ転校して来たのは、家庭の事情からであった。つまリ、江藤家(江頭家)が経済的に没落した結果、鎌倉の家を売り払い、父親の勤務する銀行の社宅へ引越したということだったらしい。「戦後と私」というエッセイで、こう書いている。
《 昭和二十三年の春に祖母が死に、夏には鎌倉の家が売られて東京の場末に建てられた銀行の社宅に移らなければならなくなった。(中略)父は義母と弟妹をやはり鎌倉にあった義理の祖父の隠居所にあずけ、私を連れて東京北端の場末にできた壁にテックスをはりつけたバラック建ての社宅に移り住んだ。》(「戦後と私」)
江藤淳は、引越し先を、敢えて「場末」と書いている。「場末」と江藤淳が書いた理由は明らかである。不本意な「引越し」だったからだ。さらに、こんなことも書いている。
《 一つの階層から他の階層に転落するということは辛いことである。私は社宅に移ったとき東京に戻ったという気持ちがしなかった。それほどこの界隈は私が知っていた「東京」と違ったからである。》(同上)
ここでは「転落」と書いている。上流階級から下層階級への「転落」ということだろうか。少し大袈裟な表現だが、江藤淳自身にとっては、そうだったということだろう。したがって、日比谷高校への転校も、自ら望んだ転校ではなかった。この「転校」の裏には、江藤家の経済的没落という辛い現実があったのである。鎌倉の家から湘南高校に通っていた時代から 、北区十条の銀行社宅から日比谷高校へ通学する時代へ。私は、長い間、江藤淳の引越し先は、「北区王子」だと思っていたが、正確には「北区十条」だった。「北区十条仲原」。江藤淳が、高校時代から大学時代の七年間、多感な青春時代を過ごした場所である。鎌倉から北区十条へ。この「引越し」は、江藤少年にとって、重要な意味を持っていた。重要過ぎるぐらい重要な意味を。「戦後と私」の続編と言うべきエッセイがある。五年後に書かれた「場所と私」というエッセイである。この「北区十条仲原」という社宅時代について、かなり詳しく書いている。日比谷高校でのきらびやかな学生生活より、この「北区十条仲原」の暗い生活の方が 重要な、存在論的意味を持っていたのだろうか。
《それにしても、勝木氏の小説を読んで、「帝銀社宅」がなつかじくなったとはまったく意外であった。あの七年間は、私にとってもっとも辛く、耐えがたい時期だったからである。私はそこで二度病臥し、病臥しなが ら奇妙に外界に露q出されていると感じていた。義母は肋膜の患者としてこの社宅におくれてはいり、いったん小康を得たが、今度はカリエスになってまた 寝たきりになった。私はここか ら高校に通い、大学に通い、義母のかわりに妹の小学校のPTAに出た。私が批評を書き出したのもこの「帝銀社宅」の四畳半の病床のなかであり、どこにもない場所に行きたいと渇望したのも同じ病床のなかであった。》
江藤淳は、「北区十条仲原」にこだわっている。この「北区十条仲原」について、具体的に、事細かに書くのは、江藤淳自身に、少し余裕が出来たからだろう。41年に書いたエッセイ「戦後と私」では、「北区十条仲原」について書いているが、具体的には書いていない。5年後の「場所と私」では、住所も具体的に書いている、「北区十条仲原3丁目一番地」と。この五年間に何があったのか。