2021年3月16日火曜日

 存在論としての漱石論(11)

(本稿は、『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。完成稿は『月刊日本』でお読みください。)


前にも書いたが、私は、小さ頃は、「文学」も「読書」も「図書館」も嫌いであった。嫌いというより、激しく軽蔑し、むしろ憎悪さえしていた。私は、その屈折した自分の心理構造がよく分からなかったが、高校時代、遅ればせながら、大江健三郎や小林秀雄やドストエフスキーなどを読むようになって、ぼんやり分かってきた。私は、「文学」や「読書」などが嫌いなのではなく 、ニセモノの文学やニセモノの読書が嫌いだったのだ、と。たとえば、私は、大宰治や太宰治フアンが嫌いだった。現在でいえば、私は、村上春樹や村上春樹フアンが大嫌いである。そういう状態にあった頃、私は江藤淳を読むようになった。江藤淳の文章も文体も、私には、心地よかった。たとえば、江藤淳は、この問題を的確に、『 夏目漱石』論で、書いている。


《 文学青年という人種が軽蔑されるのも、結局は、現実にありもしない亡霊を信仰しているからであって、健康な生活人の感覚が自然にそのようなからくりに反発を覚えるのである。》(江藤淳『 夏目漱石』)


江藤淳の漱石論のメイン・テーマは、「文学批判」である。この「文学青年批判」の文章は、その入口である。では、江藤淳の描く夏目漱石は、どういう文学者なのか。どういう作家なのか。普通の作家ではないのか。江藤淳は、漱石を、他の作家達とは違うと考える。では、漱石と他の作家達との間にある「断絶」と「距離」は、何処にあるのか。江藤淳に言わせれば 、漱石は、文学を否定する文学者でった。ここが、凡庸な文学者達と決定的に違うところであった。


《 そこで、批評とは多くの場合文学否定というかたちをとってあらわれる文学であり、批評家の思想とは思想否定というかたちをとって語られる思想だ 、という逆説が生じる。ここでいう文学否定は、勿論新文学による旧文学の否定ではない。思想否定もまた新思想による旧思想の駆逐ではない。新しい文学や思想をささえるのは、むしろ文学者の願望である。彼は既成文学にあきたりないだけで、文学そのもの、思想そのものについては依然としてこれを信頼しつづけている。彼はスタンダールが体験したような認識上の冒険とは無縁である   》(「批評について」)

《 》

2021年3月15日月曜日

 存在論としての漱石論(10)


江藤淳の評判も評価も悪い。所謂、「蛇蝎の如く嫌う」人も少なくない。江藤淳を高く評価する人に会ったことは、ほとんどない。何故だろうか。私は、むしろ、そこに、江藤淳の批評的才能の「凄さ」を感じる。江藤淳を高く評価する人の中の代表的な人物として、吉本隆明と柄谷行人がいる。特に吉本隆明の江藤淳論は、興味深い。江藤淳と吉本隆明とでは、政治思想は言うまでもなく、その文体やテーマも、そして生まれも育ちも、学歴や職歴も、明らかに違う。どうして、吉本隆明は、多くの人に嫌われている江藤淳を、高く評価し、共感を示すのだろうか。むろん、私は、それに疑問を持ったことはない。私は、学生時代、「江藤淳著作集」と「吉本隆明全著作集」を、本棚に並べて、「熟読玩味」していたという体験を持つ。私の中では、吉本隆明が、江藤淳を高く評価するのは自明のことなのだ。江藤淳と吉本隆明。この二人は、「過激な批評的思考力」とでも言うべきものを共有しているからではないか、と思う。「過激な批評的思考力」とは、「存在論的思考力」と言い換えてもいい。江藤淳が理解できない人達、あるいは江藤淳を嫌い、批判・罵倒する人達は、この「過激な批評的思考力」、あるいは「存在論的思考力」が、よく分かっていない人達だろう。言い換えれば、政治思想レベルでしか 、あるいはイデオロギーレベルでしか、物を考える力のない人たちではないのか 、と思う。私が、大学入学の前後に、山田宗睦という人が、『危険な思想家 』(光文社、カッパブックス)という本を出版してベストセラーになったことがある。その本で、山田宗睦という「自称=哲学者」(笑)は、江藤淳や石原慎太郎等を、「戦後民主主義を批判し、否定する・・・危険な思想家」と呼び、批判し、罵倒していた。私も、面白半分に、興味本位で読んでみた。実に、くだらない本だった。「まだ、こんな馬鹿がいるのか・・・」と唖然としたものだった。最近では、『もてない男 』の小谷野敦の『 江藤淳と大江健三郎』(筑摩書房)という本が出ているが、参考資料として、本屋で立ち読みしてみたが、同じように、実に、くだらない芸能週刊誌なみの駄本だった。私は、こういう低次元の誹謗中傷しか出来ない三流の物書き達に興味がない。そういう人達に、かかわることは、時間の無駄である。「  蟹は甲羅に似せて穴を掘る  」と言うが、まさにその通りである。自分が、無能無芸の三流の人物だということを証明しているだけである。

吉本隆明は、江藤淳との対談で、次のように言っている。


《 ただ江藤さんと僕とは、なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って一致しているような感じがする(笑)。》


この、吉本隆明の、あまりにも有名になった言葉の意味を、正確に理解したものは、そんなに多くない。私は、ほとんどいないのではないか、と思う。私の解釈によれば、「  なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って   」というところは、政治思想やイデオロギーの違いであって、「一致している」というのは、存在論としての過激な批評的思考力のことである。政治思想やイデオロギーレベルでしか物を考える力のない人たちには、江藤淳と吉本隆明が、たとえ存在論的レベルの過激な批評的思考力のレベルであっても、「一致する」はずはないのである。一致して欲しくない、というのが彼らのホンネであり、願望であろう。p

2021年3月13日土曜日

 存在論としての漱石論(9)


江藤淳は、文学や文学者を厳しく批判する。しかし、それは、文学を否定することではない。文学を肯定し、文学の精神と力を擁護するためだ。この分析と論理の「弁証法」が分からなければ、江藤淳の批評の意味も、その過激な批評的思考力の魅力も分からない。批判は否定ではない。厳しい批判のないところには「肯定」もない。


《今日、文学を業とすることはしばしば文学と絶縁すること意味する。 しかしここに「文学者」を廃業する自由が残されていることは案外気づかれていない。文学を業とする者は、自分の意志で他人の都合や「社会的要求」というあいまいな外圧や「良識」を拒絶することができる。業界の席を拒絶したとき、はじめて彼は精神の自由と文学とを回復するのかも知れない。》(江藤淳『 江藤淳著作集』「文学を業とすること」)


《今日、文学を業とすることはしばしば文学と絶縁すること意味する》ということの意味は、深い。江藤淳の批評を理解するためには、もっとも重要なカギの一つが、ここにある。私は、以前から「マルクス」と「マルクス主義」は違う、と言ってきた。同じことが「文学」についても言えるだろう。「文学」と「文学主義」は違う、と。江藤淳が批判するのは、ロマン主義化された「文学主義」であって、「文学」ではない。文学主義こそ文学である、と夢想している「文学青年/少女」たちには、江藤淳の文学の神髄は理解不可能だろう。

 言論誌『維新と興亜 』の編集長=坪内隆彦氏のFacebookからの孫引きですが、福島伸享=前衆議院議員(茨城一区)が、 Facebookで、『 維新と興亜』と、小生の『藤田東湖と西郷南洲(2) 』を紹介してくれたようです。ありがとうございます。ちなみに、福島伸享氏は、茨城県(水戸)の出身で、現在も水戸に住んでいるようです。(山崎行太郎)

https://m.facebook.com/nobuyuki.fukushima.58#!/story.php?story_fbid=2000099373462332&id=100003868655340&refid=17&_ft_=mf_story_key.2000099373462332%3Atop_level_post_id.2000099373462332%3Atl_objid.2000099373462332%3Acontent_owner_id_new.100003868655340%3Athrowback_story_fbid.2000099373462332%3Aphoto_attachments_list.%5B2000099306795672%2C2000099263462343%2C2000099283462341%5D%3Aphoto_id.2000099306795672%3Astory_location.4%3Astory_attachment_style.album%3Athid.100003868655340%3A306061129499414%3A2%3A0%3A1617260399%3A7418781537698125342&__tn__=%2As%2As-R



 *存在論としての漱石論(7)


正宗白鳥を援用しつつ、繰り返される江藤淳の日本の近代文学、特に「私小説」に対する批判は鋭く、過激だ。まず、正宗白鳥から。

《明治文学中の懐疑苦悶の影も要するに西洋文学の真似で付焼刃なのではないだろらうか。明治の雰囲気に育った私は、過去を回想して多少疑いが起こらないことはない 》(正宗白鳥『明治文学総覧 』)


正宗白鳥を引用した後、江藤淳は、次のように書いている。


《明治以来、ーーやや限定していえば、所謂自然主義以来ーーのぼくらの主たる不幸は、こうした「懐疑苦悶」の亡霊に陶酔しつづけて来たことにあるといっても、さして事実と遠くはない。田山花袋などが野心的にはじめた西欧文学の輸入は、実は極く素朴な感動の模倣にすぎなかったで、清新な外国文学を読んで感動した青年逹は、通俗に信じられているように「近代的な自我」に目覚めたりせず、只、その感動の自分自身による追体験を求めただけの話である。》(江藤淳『夏目漱石 』)


江藤淳は明治文学の「懐疑苦悶」がニセモノであり、モノマネだと言う。「懐疑苦悶」ではなく 、「懐疑苦悶の亡霊」だと。江藤淳が、文学者や多くの文芸愛好者たちに嫌われる理由は、おそらく、ここにあるのかもしれない。しかし、江藤淳はさらに、追撃する。

《 すなわち、作家達は現実に存在しない「懐疑苦悶」の亡霊を輸入し、その亡霊を誠実に信仰することからはじめたのである。当時の日本で、鉄道が敷設され、軍艦が自国の造船所で建造されることが名誉だったように 、西欧風の「懐疑苦悶」を所有していることも名誉だったのであって、所謂自然主義の作家達は、この意味では、光栄ある帝国陸海軍並の国家的貢献をしていたといわねばならない。今日からみればまるでお笑い草であるが、これを嘲笑し去るのは極めて危険なことである。》

突然だが、江藤淳と吉本隆明の違いも、ここらあたりにあるのかもしれない 。吉本隆明には、それほど激しい近代文学に対する批判はない。実は、私は、江藤淳と吉本隆明を同時並行的に読んでいた。いずれも、深く共感しつつ、熟読を繰り返した。有名な「江藤淳=吉本隆明対談」における「一周まわって一致する」とかいう吉本隆明の言葉が、腑に落ちたことを、よく覚えている。吉本隆明を読みながら、江藤淳を読むことが、可能であった時代だった。もちろん、例外は、いくらでもあっただろう。左翼リベラル系の読者たちの多くは、吉本隆明を愛読しながらも、政治思想家的には保守反動系の江藤淳を、蛇蝎のごとく嫌っていた。吉本隆明と江藤淳は違う 、と思い込んでいる人達が、多数いたことも確かだろう。そこで、私は、当時、「群像新人文学賞」を受賞して登場してきた柄谷行人を思い出す。柄谷行人は、江藤淳と吉本隆明を、両方とも高く評価していた。吉本隆明のことはともかくとして、江藤淳をも、同じように評価し、擁護する論陣を張っていた柄谷行人は、左翼リベラル系の評論家や読者たちから激しく批判されていた。が、私は、むしろ逆に 、それ故に 、柄谷行人を真剣に読み始めた。ここらあたりの微妙な立ち位置に、私の存在根拠があった、と思う。当時の私の立ち位置は、今でもほとんど変わらない。「江藤淳=吉本隆明=柄谷行人」という三位一体構造が、私の存在根拠だった。私の『江藤淳とその時代 』は、そういう立ち位置に立脚している。それこそが、私の思考のアルファでありオメガである。私は、私と同じように考えている人が、他に多数いたのか、ほとんどいなかったのか、知らない。ところで 、私は、「世代論」が嫌いである。私は、世代論に回収されるような議論や言説が嫌いである。私は、世代論的には、全共闘世代とか団塊の世代とか言われる世代に属するが、私は、この世代の思想や思考が、嫌いである。私は、「東大全共闘」関係の思い出話が、大嫌いである。「三島由紀夫と東大全共闘」とかいう懐メロ映画があったが 、私は、見たくもなかった。もちろん、見なかった。私は同世代に、共感出来るような学者、思想家、言論人を、一人も持っていない。加藤典洋や村上春樹、内田樹、高橋源一郎・・・等が、大嫌いである。少なくとも、私は、思想も思考も感受性も、彼等とは決定的に違う。それが 、私が文章を書く時のプライドである。p

2021年3月12日金曜日

 存在論としての漱石論(6)

(本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代3 』の下書きです。)


江藤淳は、吉田健一的な、あるいは西脇順三郎的な、高尚で、高踏的な文学や文学研究を、それが限りなくホンモノに近いにも関わらず、まさにホンモノに近いが故に、批判する。おそらく ,彼らが、自分自身の実存 、日本の現実、日本の時代背景、日本国民の生活・・・を無視、黙殺しているからだろう。漱石も、英国留学を経験した洋行帰りの紳士だったが、漱石は、単なる洋行帰りのノーテンキな浮かれ紳士ではなかった。森鴎外もそうだった。森鴎外は「洋行帰りの保守主義者」と言われるが、森鴎外と同様に 、漱石もまた、「洋行帰りの保守主義者」だった。江藤淳が、漱石に注目するのは、そこである。「洋行帰りの保守主義者」とは何か。洋行し、留学し、西欧文明、西欧文学を知るにも関わらず、自分自身の実存、日本の現実を忘れていないということである。しかし、その一方で、日本の近代文学を象徴する「私小説」作家たちをも批判する。両者はいずれも、文学というものに対する懐疑が欠如しているからだ。「フランスに行きたしと思えど、フランスはあまりにも遠し・・・」という言葉があった。正確には 、萩原朔太郎の詩「旅k上」の一節、「   ふらんすへ行きたしと思へども   ふらんすはあまりに遠し  せめては新しき背廣をきて  きままなる旅にいでてみん  」・・・。日本の私小説作家たちの多くは、「フランスに行きたしと思えど、フランスはあまりにも遠し・・・」というような、「洋行帰り」ならぬ、洋行にも行けなかった「洋行紳士」気取りの「田舎紳士」だった。

江藤淳は、そこで、正宗白鳥を取り上げる。

《正宗白鳥氏が、「明治文壇総評」 という優れた文章を書いたのは、昭和三年六月のことである。ここに描破されているのは我が国の近代文学の絶望的な状態であって、身をもって三代の文学の変遷に耐えて来た。この異常に洞察に富んだ批評家の苦々しい幻滅が、息を呑ませる程の率直さで語られている。しかしそれ以上にぼくらの心胆を寒からしめるのは、三十年前に書かれたこの文章が今日少しも新しさを失っていないという事実なのだ。》(江藤淳『夏目漱石 』)


正宗白鳥に対する江藤淳の評価は、高い。私は、江藤淳と、正宗白鳥と小林秀雄の「『 思想と実生活』論争をめぐって」(「海燕」平成8-3)という対談を行ったが、その時も、さかんに正宗白鳥に対する尊敬と評価の感情を吐露していた。「白鳥の批評文には常に動きがある。精神の躍動がある・・・」と。私は、小林秀雄の晩年の「正宗白鳥の作について」ぐらいしか読んでいなかったので、小林秀雄に続いて、江藤淳までが、正宗白鳥を高く評価するのが意外だったが、デビュー作『 夏目漱石』のことを考えるならば、意外でもなんでもなかったのかもしれない。江藤淳は、正宗白鳥の「明治文学総覧」から引用する。

《 明治文壇は色さまざまの百花繚乱のお趣きがあるが、それとともに植民地文学の感じがする。そして私などは、その植民地文学を喜んで自己の思想、感情を培つて来た。今日のマルクス主義、共産主義の文学にしたつて、今のところ私には植民地文学に過ぎないように思われる。   》


おそらく、正宗白鳥が言っていることは、現在でも、そのまま通用すると言っていい。

 


存在論としての漱石論(7)


正宗白鳥を援用しつつ、繰り返される江藤淳の日本の近代文学、特に「私小説」に対する批判は鋭く、過激だ。まず、正宗白鳥から。

《明治文学中の懐疑苦悶の影も要するに西洋文学の真似で付焼刃なのではないだろらうか。明治の雰囲気に育った私は、過去を回想して多少疑いが起こらないことはない 》(正宗白鳥『明治文学総覧 』)


正宗白鳥を引用した後、江藤淳は、次のように書いている。


《明治以来、ーーやや限定していえば、所謂自然主義以来ーーのぼくらの主たる不幸は、こうした「懐疑苦悶」の亡霊に陶酔しつづけて来たことにあるといっても、さして事実と遠くはない。田山花袋などが野心的にはじめた西欧文学の輸入は、実は極く素朴な感動の模倣にすぎなかったで、清新な外国文学を読んで感動した青年逹は、通俗に信じられているように「近代的な自我」に目覚めたりせず、只、その感動の自分自身による追体験を求めただけの話である。》(江藤淳『夏目漱石 』)


江藤淳は明治文学の「懐疑苦悶」がニセモノであり、モノマネだと言う。「懐疑苦悶」ではなく 、「懐疑苦悶の亡霊」だと。江藤淳が、文学者や多くの文芸愛好者たちに嫌われる理由は、おそらく、ここにあるのかもしれない。しかし、江藤淳はさらに、追撃する。

《 すなわち、作家達は現実に存在しない「懐疑苦悶」の亡霊を輸入し、その亡霊を誠実に信仰することからはじめたのである。当時の日本で、鉄道が敷設され、軍艦が自国の造船所で建造されることが名誉だったように 、西欧風の「懐疑苦悶」を所有していることも名誉だったのであって、所謂自然主義の作家達は、この意味では、光栄ある帝国陸海軍並の国家的貢献をしていたといわねばならない。今日からみればまるでお笑い草であるが、これを嘲笑し去るのは極めて危険なことである。》

突然だが、江藤淳と吉本隆明の違いも、ここらあたりにあるのかもしれない 。吉本隆明には、それほど激しい近代文学に対する批判はない。実は、私は、江藤淳と吉本隆明を同時並行的に読んでいた。いずれも、深く共感しつつ、熟読を繰り返した。有名な「江藤淳=吉本隆明対談」における「一周まわって一致する」とかいう吉本隆明の言葉が、腑に落ちたことを、よく覚えている。吉本隆明を読みながら、江藤淳を読むことが、可能であった時代だった。もちろん、例外は、いくらでもあっただろう。左翼リベラル系の読者たちの多くは、吉本隆明を愛読しながらも、政治思想家的には保守反動系の江藤淳を、蛇蝎のごとく嫌っていた。吉本隆明と江藤淳は違う 、と思い込んでいる人達が、多数いたことも確かだろう。そこで、私は、当時、「群像新人文学賞」を受賞して登場してきた柄谷行人を思い出す。柄谷行人は、江藤淳と吉本隆明を、両方とも高く評価していた。吉本隆明のことはともかくとして、江藤淳をも、同じように評価し、擁護する論陣を張っていた柄谷行人は、左翼リベラル系の評論家や読者たちから激しく批判されていた。が、私は、むしろ逆に 、それ故に 、柄谷行人を真剣に読み始めた。ここらあたりの微妙な立ち位置に、私の存在根拠があった、と思う。当時の私の立ち位置は、今でもほとんど変わらない。「江藤淳=吉本隆明=柄谷行人」という三位一体構造が、私の存在根拠だった。私の『江藤淳とその時代 』は、そういう立ち位置に立脚している。それこそが、私の思考のアルファでありオメガである。私は、私と同じように考えている人が、他に多数いたのか、ほとんどいなかったのか、知らない。ところで 、私は、「世代論」が嫌いである。私は、世代論に回収されるような議論や言説が嫌いである。私は、世代論的には、全共闘世代とか団塊の世代とか言われる世代に属するが、私は、この世代の思想や思考が、嫌いである。私は、「東大全共闘」関係の思い出話が、大嫌いである。「三島由紀夫と東大全共闘」とかいう懐メロ映画があったが 、私は、見たくもなかった。もちろん、見なかった。私は同世代に、共感出来るような学者、思想家、言論人を、一人も持っていない。加藤典洋や村上春樹、内田樹、高橋源一郎・・・等が、大嫌いである。少なくとも、私は、思想も思考も感受性も、彼等とは決定的に違う。それが 、私が文章を書く時のプライドである。