2021年2月25日木曜日

 売国奴=竹中平蔵を政権中枢から追い出せ!街宣、2021-2-20。

新宿駅西口小田急前。(甲斐正康氏その他)。

その「Youtube動画」(撮影=森哲子氏)です。


https://youtu.be/WjUO8rzyWyk


https://youtu.be/EIxm3_5YiAQ


https://youtu.be/LpC2RYugVMQ


https://youtu.be/tMmDlLwHhts

2021年2月20日土曜日

 水戸光圀と水戸学派。

水戸学、ないしは水戸学派は、水戸藩二代目藩主・水戸光圀に始まる。水戸光圀は、青年時代、司馬遷の『史記 』を読んで 、思想的覚醒というか、思想的転換を経験し、「歴史」というものに目覚め、日本史の探求を試みるようになった。後に、二代目藩主になる頃に、 いよいよ本格的に『 大日本史』という歴史書の編纂作業を開始する。この『大日本史 』の編纂作業を通じて、水戸学、ないしは水戸学派が形成されていくことになる。

 竹中平蔵は「経済音痴」。竹中平蔵式改革で、成功した試しはゼロ。竹中平蔵とパソナが、ブクブクと、醜く、「焼け太り」するだけ。国民は 餓死寸前。青年たちは次々と自殺。


誰が、こんな国にしたのか。


またまた第三次補正予算に組み込まれた「中小企業改革・・・」で、巨大利権がパソナに決定。中小企業をつぶして、パソナと竹中平蔵が焼け太り。

吸血鬼・竹中平蔵。ドラキュラも真っ青。


スガ政権と竹中平蔵は一心同体のようです。国民の生き血をすするスガ政権、売国企業パソナ、守銭奴・竹中平蔵を、国民の手でつぶしましょうう。

その前に、スガを・・・。


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明日、2月20日(土曜日) 、午後3時〜。新宿駅小田急前で、『竹中平蔵糾弾デモ ・街頭演説会』が行われるそうです。全員集合。日本国民よ、立ち上がれ。竹中平蔵に「天誅」を。

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2021年2月17日水曜日

 『月刊日本』に連載を開始した『 江藤淳とその時代』について。江藤淳の思想的本質は『漱石論 』である。江藤淳を論じる人で、江藤淳が慶應義塾大学の学生時代に書いた処女作『漱石論 』を論じる人が少ないのは何故か。江藤淳の存在論(暗い漱石)が分からないからではないのか。



山崎行太郎のYoutube動画『反=論壇時評』です。⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎

https://youtu.be/tMmDlLwHhts

https://youtu.be/tMmDlLwHhts

藤田東湖と水戸学派(2)

藤田東湖と水戸学派(2)


水戸学派と一口に言うが、水戸学派の歴史は短くない。水戸学派の歴史は、二代目藩主・水戸光圀(水戸黄門)に始まる前期水戸学と幕末に隆盛を極める後期水戸学にわかれる。藤田幽谷や藤田東湖は、後期水戸学を代表する学者、思想家である。西郷が、藤田東湖を通じて「心酔」したのは、「尊皇攘夷」思想や「国体」思想を主張して、幕末の思想を主導した、過激化した後期水戸学であった。

『回天詩史』における藤田幽谷・東湖父子の「イギリス船員皆殺し」の会話の場面は、後期水戸学を象徴する場面のようにみえる。面白いので、ちょっと詳しくみてみよう。『 回天詩史』の冒頭に、次のように記している。


《 余は融通のきかぬ愚か者で、幕府に罪に問われ、家に閉じこもって謹慎を守っていたが、そのおり静かに過去を振りかえってみるに、死を決意して、しかも死ななかったことがこれまでにすべて三度あった。》


藤田東湖の『 回天詩史』はこういう文章で始まっているが、ここで、「死を決意して・・・」という言葉に注目しよう。藤田東湖の思想の本質が、さらには水戸学派の思想の本質が現れているからだ。そこで、その「死を決意」した最初が、一九歳の時のイギリス船員の「皆殺し」を決意する場面だったというわけである。父・藤田幽谷が息子に与えた言葉が 、面白い。

《 最近、毎年のように外夷が近海をうかがい、ときには大砲をとどろかせてわが人民をふるえあがらせており、その傲慢無礼はたとえようもない。しかるに世間の者は引っ込み思案で、事なかれ主義を好んでおられるから 、ひょっとしたら放還方針をとり、一時のがれの平穏を保とうとするのじゃないかと、わしはそれを恐れる。そんな結果になろうものなら、この堂々たる神州に具眼の士は一人もいないことになる。わしはそれがはずかしくてならん。おまえは急いで大津村に行け。こっそり情勢を見て、もし放還方針が決まったことがはっきりしたら、まっしぐらに異人の小屋にとびこみ、腕をふるって奴らを皆殺しにせい。そうしてのち、悪びれずに 役人に自首し、裁きを受けるがよい。これは一時的な方便というももだが、少しは日本国の元気を発揚するぐらいのことは あろう。わしには不幸にも、娘が多く、男の子はおまえしかいない。そのおまえが死ねばわし家系は絶える。そのときは、わしにもおまえにも天命がつきるわけだが、おまえはそれを気にしてはならんぞ》(中央公論『世界の名著=藤田東湖 』)

この父・藤田幽谷の言葉を聞き終えた藤田東湖は、「かしこまりました」と答えた。すると、父は、泣きながら 、「それでこそわしの児じゃ」と言う。そこで、さっそく、旅の準備に取り掛かった。その直後、来客があり  、酒宴となったために、親子の「別れの盃」ということになったが、その酒宴の最中に、大津村から急報が届き、イギリス船は、燃料と水えお与えて 帰したということで、一件落着ということになった。

「異国船打払令」が 、幕府から出るのは翌年である。私は、この一件から、水戸学、ないしは水戸学派というものについて、私なりの幻想を持つ。私は、思想の本質は、結果ではなく、その思想の形成過程に、あるいはその思想の誕生過程(起源)にあると思っている。たとえば、私は、生き残った者や成功した者達の証言や書き残したものを、あまり重視しない。たとえば、西郷南洲についての証言類も、福沢諭吉や勝海舟、あるいは大隈重信・・・等の「証言」を含めて信用しない。水戸学についても同じだ。水戸学は 、体制擁護の御用学でもなく、現状維持や立身出世を目指す「学問のための学問」でもなかった。明治維新の成果と果実を、分け与えられることがなかったとしても、当然であろう。水戸学の精神には、栄耀栄華や地位、名誉・・・などを求める世俗的野心はなかった。西郷南洲と藤田東湖に共通するものがあったとすれば、この点だろう。たとえば、私は、藤田東湖亡き後、全滅した水戸「天狗党」の悲劇を、西郷南洲の「西南戦争」の悲劇と同列に考える。

あまりにも有名になりすぎたために 、世俗にまみれすぎ、その真意が忘れられ、形骸化した言葉に、私は嫌いな言葉だが、『 西郷南洲翁遺訓』に、こんな言葉がある。


《命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。》(『 西郷南洲翁遺訓』)

この言葉が語られる度に 、私は 、人間というものの宿命について自己嫌悪に陥るが、それはともかくとして、この言葉の出どころは、藤田東湖あたりにあったのではないか 、と私は勝手に想像する。

2021年2月16日火曜日

 藤田東湖と水戸学派(1)。


藤田東湖は言うまでもなく  、幕末の倒幕運動を主導した「尊皇攘夷」イデオロギーの震源地・水戸学派の中心人物だった。しかし、水戸学派の面々は、明治維新後は、人材は、ほぼ自滅しつくして、残ってはいなかった。吉田松陰のことは、明治維新で活躍した長州人脈の頂点にあった思想家として評価されるが、その吉田松陰の「尊皇攘夷」思想に影響を与えたのが、水戸学派であり、藤田東湖等であった。長州藩や薩摩藩に比して 、水戸藩は、その歴史的役割が、軽視され、忘れられているような気がする。


私の考えでは、明らかに思想的には、水戸藩こそが、明治維新の主役であった。西郷南洲も吉田松陰も、水戸藩の水戸学派の思想的影響下にあった。何故、水戸藩と水戸学派は歴史の表舞台から抹殺される運命にあったのか。水戸藩の水戸学には、思想を生み出すべき「過激な思想的思考力」があった。この「過激な思想的思考力」の故に、幕末の「尊皇攘夷」思想を生み出すと同時に、自ら、その「過激な思想的思考力」の犠牲になり、自らが自らを喰い尽くすように、自滅・自壊していったようにみえる。水戸藩の水戸学派ほど、激しい内部抗争、内部闘争を繰り返した藩はない。もちろん  、水戸藩に限らず  、派閥抗争や内部抗争を繰り返し、多くの犠牲を出した藩は、少なくない。しかし 、それでも水戸藩ほどではない。

水戸藩で面白いのは、「学問」や「思想」をめぐって、激しい内部抗争や殺し合いを演じてきたことである。つまり、水戸藩の水戸学は、そして水戸学派は、「命懸けの学問」「命懸けの思想闘争」を実践して来たのである。

   井伊直弼の発動した「安政の大獄」事件で、主なターゲットになったのも水戸藩であったが、その井伊直弼暗殺事件「桜田門外の変」を実行したのも水戸藩士たちだった。水戸藩は、幕末期において、つねに政局の中心にいた。それは水戸藩が、思想的に時代の先端を走っていたからだ。

藤田東湖の父は藤田幽谷だが、この藤田幽谷は、天才的な頭脳の持ち主であり、

その子・藤田東湖もまた負けず劣らずの天才的な頭脳の持ち主であった。しかも、藤田父子の学問は、机上空論としての学問ではなく、「命懸けの学問」だった。藤田東湖の回想録『 回天詩史』は、次のような逸話で始まっている。

《 第一は文政七年(一八二四)、余が一九歳のとき、そのころイギリスの異国船がしにりに太平洋に出没していたのが、ついにボートをおろして茨城北方の大津村に上陸して来たのを、村の人々が捕まえて報告して来たときのことである。》

   世間の予想では、おそらく幕府は、外国船を焼き捨て、異人を殺して威力を海外に誇示するであろうと、思っていたが、幕府の対応は、優柔不断な軟弱なものだった。そこで、父・藤田幽谷は、息子に、言った。

《 お前は急いで大津村へ行け。そして異人の小屋に飛び込み、奴らを皆殺しにせい。》

藤田東湖は、《 かしこまりました》と言って、決死の「切り込み隊長」を志願する。父は、泣きながら、《 それでこそわしの子じゃ》と言ったという。

私は、ここにこそ、水戸学、ないしは水戸学派の思想的真髄が、出ていると思う。藤田幽谷、藤田東湖の父子は、学問を極めると同時に、その思想を、即座に行動に移す用意が出来ていたのである。


(写真は、小石川後楽園。旧水戸藩江戸屋敷跡。)

2021年2月11日木曜日

森元首相が五輪組織委員会会長の職を、正式に辞任となったようです。マスコミや野次馬、エセ文化人、エセ一般庶民・・・たちの思い通りになったようですね。おめでとうございます。(笑)(笑)

 森喜朗会長が辞意 12日表明へ 女性蔑視発言で引責


森元首相が五輪組織委員会会長の職を、正式に辞任となったようです。マスコミや野次馬、エセ文化人、エセ一般庶民・・・たちの思い通りになったようですね。おめでとうございます。(笑)(笑)

後任は川淵三郎だって。ピッタリじゃないですか。偽善天国・日本。馬鹿天国・日本。ニヤけた偽善野郎で、日本を売り飛ばせ・・・。

テレビをつけて、猿山の「野次馬ワイドショー(井戸端会議?)」を見ると、いつもの馬鹿芸人やスポーツ馬鹿、スポーツ御用評論家・・・どもが、歯の浮くような美辞麗句を並べて、「川淵三郎」を、べた褒めしているではないか。だから、お前ら、ダメなんだよ。バッシングからべた褒めへ。批判や批評が欠如しているんだよ。森喜朗の腰巾着から川淵三郎の腰巾着へ。恥ずかしくないのか。

そもそも、川淵三郎なんて、グローバリズムの手先だろう(?)。「竹中平蔵」のスポーツ版。竹中平蔵とともに、ちょーネクタイ姿で、ワインを片手にオペラ見学(?)・・・、パリ社交界デビュー(笑)。悪口でなくてもいいが、少しぐらい、まともな批判か批評ぐらいしろよ。ワシは、川淵三郎なんか大嫌いだよ、と言う人はいないのか。鷲みたいに。(笑)

これで、どうせ、オリンピックなんて中止確定だろう。