2021年2月16日火曜日

 藤田東湖と水戸学派(1)。


藤田東湖は言うまでもなく  、幕末の倒幕運動を主導した「尊皇攘夷」イデオロギーの震源地・水戸学派の中心人物だった。しかし、水戸学派の面々は、明治維新後は、人材は、ほぼ自滅しつくして、残ってはいなかった。吉田松陰のことは、明治維新で活躍した長州人脈の頂点にあった思想家として評価されるが、その吉田松陰の「尊皇攘夷」思想に影響を与えたのが、水戸学派であり、藤田東湖等であった。長州藩や薩摩藩に比して 、水戸藩は、その歴史的役割が、軽視され、忘れられているような気がする。


私の考えでは、明らかに思想的には、水戸藩こそが、明治維新の主役であった。西郷南洲も吉田松陰も、水戸藩の水戸学派の思想的影響下にあった。何故、水戸藩と水戸学派は歴史の表舞台から抹殺される運命にあったのか。水戸藩の水戸学には、思想を生み出すべき「過激な思想的思考力」があった。この「過激な思想的思考力」の故に、幕末の「尊皇攘夷」思想を生み出すと同時に、自ら、その「過激な思想的思考力」の犠牲になり、自らが自らを喰い尽くすように、自滅・自壊していったようにみえる。水戸藩の水戸学派ほど、激しい内部抗争、内部闘争を繰り返した藩はない。もちろん  、水戸藩に限らず  、派閥抗争や内部抗争を繰り返し、多くの犠牲を出した藩は、少なくない。しかし 、それでも水戸藩ほどではない。

水戸藩で面白いのは、「学問」や「思想」をめぐって、激しい内部抗争や殺し合いを演じてきたことである。つまり、水戸藩の水戸学は、そして水戸学派は、「命懸けの学問」「命懸けの思想闘争」を実践して来たのである。

   井伊直弼の発動した「安政の大獄」事件で、主なターゲットになったのも水戸藩であったが、その井伊直弼暗殺事件「桜田門外の変」を実行したのも水戸藩士たちだった。水戸藩は、幕末期において、つねに政局の中心にいた。それは水戸藩が、思想的に時代の先端を走っていたからだ。

藤田東湖の父は藤田幽谷だが、この藤田幽谷は、天才的な頭脳の持ち主であり、

その子・藤田東湖もまた負けず劣らずの天才的な頭脳の持ち主であった。しかも、藤田父子の学問は、机上空論としての学問ではなく、「命懸けの学問」だった。藤田東湖の回想録『 回天詩史』は、次のような逸話で始まっている。

《 第一は文政七年(一八二四)、余が一九歳のとき、そのころイギリスの異国船がしにりに太平洋に出没していたのが、ついにボートをおろして茨城北方の大津村に上陸して来たのを、村の人々が捕まえて報告して来たときのことである。》

   世間の予想では、おそらく幕府は、外国船を焼き捨て、異人を殺して威力を海外に誇示するであろうと、思っていたが、幕府の対応は、優柔不断な軟弱なものだった。そこで、父・藤田幽谷は、息子に、言った。

《 お前は急いで大津村へ行け。そして異人の小屋に飛び込み、奴らを皆殺しにせい。》

藤田東湖は、《 かしこまりました》と言って、決死の「切り込み隊長」を志願する。父は、泣きながら、《 それでこそわしの子じゃ》と言ったという。

私は、ここにこそ、水戸学、ないしは水戸学派の思想的真髄が、出ていると思う。藤田幽谷、藤田東湖の父子は、学問を極めると同時に、その思想を、即座に行動に移す用意が出来ていたのである。


(写真は、小石川後楽園。旧水戸藩江戸屋敷跡。)