2021年2月5日金曜日

 (以下は『月刊日本』連載予定の原稿の下書きです。詳しくは『月刊日本』でお読みくだださい。)

江藤淳とその時代(1)

私が、江藤淳という名前を知ったのは、高校時代、初めて、自分の金で 、

文庫本というものを買った時だった。それまで、私には、自分の金で本を買うという習慣はなかった。私は、どちらかと言えば、「読書嫌い」の少年だった。私は、遅ればせながら、高校時代、初めて 

「読書」というものに目覚めた。そして初めて文庫本というものを買ったのだ。新潮文庫の大江健三郎の初期小説集『 死者の奢り・飼育』がそれだった。その新潮文庫の解説を書いていたのが「江藤淳」だった。しかし、その時は 、それほど深く「江藤淳」という名前に関心を持つことはなかった。私は、その時、大江健三郎の小説に夢中になりかけたばかりで、大江健三郎しか眼中にない状態だったからだ。しかし、今から考えると、私の「大江健三郎狂い」に、さらに刺激を与えたのは、江藤淳の文章の力だったのかもしれない。江藤淳は、解説で、こう書いている。

《 大江健三郎という作家を初めて識ったのは、一九五七年の六月頃である。ちょうどそのころ、「文学界」に批評を書きはじめていた私は、ある日、文芸春秋社の地下にある文春クラブで、焦茶の背広をややぎこちなく身につけた色白の少年を見かけた。ついぞ見かけたことのない特徴のある顔立ちだったが、彼はやがて編集者に軽く会釈すると、こちらには見むきもせず、ひどく癖のある足取りで外に出ていった。あれは誰だときくと、東大新聞の懸賞小説で一等になった大江健三郎という学生だという。大江はそのとき眼鏡をかけていなかった。》(江藤淳『 死者の奢り・飼育』解説より)

   私は、当然の事ながら、江藤淳のこの文章で、「文学界」とか「文芸春秋」とか、「文春クラブ」・・・などというものを初めて知った。ここに描かれている「大江健三郎」は、大江健三郎の小説作品の中から飛び出してきた人物のように、生き生きと描かれている。「東大新聞の懸賞小説で一等になった大江健三郎という学生・・・」「焦茶の背広をややぎこちなく身につけた色白の少年・・・」という江藤淳の言葉は、当時、高校生だった私には、充分に刺激的だった。目の前に作者がいる。私は、小説には 、小説という作品だけではなく、「作者」という具体的な人間がいるのだということを、初めて自覚的に認識した。「作者」という存在を印象づけられた文章だった。私の文学体験の原体験は、ここから始まったと言っていい。私が、それまで、悶々とした内向的な少年時代を過ごしながらも、文学や読書に目覚めることが出来なかったのは、文学作品には 、それを書いた「作者」がいるということを認識出来なかったからだ。私は、この時、初めて、今、ここに、存在し、動いている「作者」というものを知った。作者とは何か。作家とは何か。私は、大江健三郎の小説作品に夢中になると同時に、大江健三郎という「作者」という存在にも夢中になった。たとえば芸能界や芸能人に憧れる少女たちのように、あるいは漫画や漫画家に憧れる漫画少年・少女たちのように、私もまた、芸能人や漫画家や作家に憧れ始めたのだと思う。そして、その憧れの対象は、作者その人だった。

江藤淳は、慶應義塾大学の学生だった時、「三田文学」に発表した『夏目漱石論 』で、デビューし、『漱石とその時代 』を書き続ける途中で、亡くなっている。文芸評論家・江藤淳の人生は、夏目漱石で始まり、夏目漱石で終わった人生だった。『閉された 言語空間』や『 一九四六年憲法』などに象徴されるような政治評論や戦後史研究などが中心ではなかった。私は、銀座の「三笠会館」で、一度だけ江藤淳と対談(インタビュー)したことがあるが、その時、私が、「政治評論」に言及した時、激しくそれを否定し、「自分の仕事の中心は『文芸評論 』だ」「『政治評論 』は『文芸評論 』の延長だ」「私の『政治評論 』は、新聞社の政治記者上がりの政治評論家の書くものとは違う」・・・と頑強に主張したことを覚えている。あまりにも激しかったので、よく覚えている。その後、中断していた『 漱石とその時代』の続編の連載(「新潮」)が始まった。

言うまでもなく江藤淳の批評の本質をもっとも鮮明に体現しているのは漱石論である。しかも、江藤淳の漱石論は、デビュー作から、一貫して作品論中心ではなく、夏目漱石その人を論じる作家論、作者論、つあり「評伝夏目漱石」が主体であった。誤解を恐れずに言えば、江藤淳の漱石論は、作品論ではなく、作者論・作家論であった。

《その晩年のある時期に立って、過去の業績をふり返ってみると、文学史的評価や位置づけなどは児戯に類する一些事のように思われて来る作家がある。彼の生涯の重みが、そのような「人間の作った小刀細工」 を拒否している。たまたま、自分の一生の密かな旋律を、「文学作品」というものの中に歌いこめて来た一人の男がいて、やがて死のうとしていることを考えると、一国の文芸がどうなろうと、その中でこの作家の位置がどうなろうと、そんなことはすべて第二義的な、軽薄な議論に思われて来る。つまり人間の一生などというものはそれほど厳粛なものなので、ぼくらはそんな重苦しいものに向かいあっているのがいやなばかりに、かえってさまざまな小手先の細工を案出するのである。》(『夏目漱石』)

江藤淳の漱石論には、漱石論や漱石研究に留まらない危険な魅力がある 。つまり、漱石論ではあるが、同時に江藤淳論であり、江藤淳研究であるという魅力である。江藤淳は漱石論で、「自分自身を語っている」。江藤淳の漱石論以後、雨後の筍のように量産されるようになった「漱石論」や「漱石研究」がつまらないのは、あくまでも、「漱石論」や「漱石研究」にとどまっているからだろう 。江藤淳の漱石論は、その種の「漱石論」や「漱石研究」とは根本的に異なる。

それは、江藤淳の漱石論のスタンスそのもの由来している。江藤淳の漱石論のスタンスとは、漱石を、作者・漱石を中心に論じていくというスタンスである。それは、同時に、漱石を論じながら、江藤淳という自己自身を論じているというところだ。