■維新の吉村よ。
お前は、6年前の2015年10月、文通費を、一日在職で、
=「100万円」=
貰っていたそうじゃないか。チャンチャラおかしいね。
今頃、寄附だと・・・(笑)。
https://youtucbe/eSBpXlWrq_s
https://youtu.be/eSBpXlWrq_s
Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
■維新の吉村よ。
お前は、6年前の2015年10月、文通費を、一日在職で、
=「100万円」=
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今頃、寄附だと・・・(笑)。
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■橋下徹の恥の上塗り。(笑)
橋下徹よ、お前の《経済理論》は、根本から間違っている。100年古い。議員への交通費=100万円の無駄使い、だって・・・。コストカット、節約、無駄使い、そして構造改革だって・・・。それって、《小泉=竹中改革》のモノマネ、二番煎じだろう。
橋下よ、お前は、竹中平蔵の二代目だろ。
お前の後ろにいる黒幕は、何処の、誰れだよ。
100万円の交通費にブーブー言って、その見返りに ⭕⭕億円が、お前らの懐に・・・。
https://lm.facebook.com/l.php?u=https%3A%2F%2Fyoutu.be%2FEhDxfozNKsQ%3Ffbclid%3DIwAR0jEaQJx_2yc9wjVzcK42e0pd7GOT0oaO9f7ratm4ZSCHM_ZWg5wl04j4A&h=AT2JRuK1Gk9DYjzzfzq8Wqbuh_94y-x55viOVz6IhnNyeWHBBCpAV82GnrTzxWSa3hCKIiBgbv2MTibYQbyc2riQhs5o2WZUxwutHH9qZ3m_A2nCevYdrjY1iraM_7kym95_3DoTFPfYruc5PcE7zEMcPssmann_4Wfb2O7e
とその時代』
■江藤淳とその時代。(9)
江藤淳は、サルトルの『ボードレール』論を読むことによって、母の死を嘆き、哀しむという不幸な少年、つまり「母不在コンプレックス」から解放される。私は、ここで、江藤淳は、「母権性」的思考から「父権性」的思考へ転換するのだと思う。もちろん、明確に転換するわけではない。おそらくその転換の狭間で精神的に右往左往し、激しくゆれ動いていたと思われる。結核の再発や自殺未遂事件、義弟殴打事件なども、その転換の狭間で起きたことであろう。いずれにしろ、江藤淳の処女作『夏目漱石』が書かれるのは、この「母親コンプレックス」から解放されて以後である。それから、しばらくして、江藤淳は、頻繁に「母の死」や「母の喪失」に言及するようになるが、おそらくその頃は、「母の死」という深刻な幼児体験を、実存主義的な精神分析の手法を借りて、冷静に、客観的に自己分析できるようになっていたとういうことだろう。
江藤淳が、「母の死」を、繰り返し繰り返し、とっておきの秘話として語るようになるのは、江藤淳自身が中心になって創刊した同人雑誌(?)『季刊芸術』(昭和42年)を創刊した頃からであって、最初からそうだったたわけではない。江藤淳は『夏目漱石』論を執筆する頃はともかくとして、デビュー当時から長いこと、「母の死」について書くことも話すこともなかった。『季刊芸術』は、マスコミや文芸ジャーナリズムからの制約や言論弾圧(言論統制)を受けることなく、「書きたいものを自由に書く」ために創刊した雑誌であった。その創刊号に掲載される記念すべき最初の文章が『一族再会』であり、「母」と題され、「言葉と私」と題されていたことが象徴するように、「母の死」という主題は、単に江藤淳の個人的な体験にとどまるものではなく、それは、江藤淳の思想的な中心命題を語るための舞台装置でもあったのである。
だから、江藤淳の「母の死」という個人的な存在論的原体験を、素朴に受け取ってはならない。江藤淳の母親の思い出話には、思想的仕掛けがある。むしろ、「母と子」の密着と癒着を批判・告発するために強調されるエピソードなのである。たとえば、江藤淳の代表作の一つである『成熟と喪失』では、「母の喪失」こそが「成熟」であるという論理が主張されるが、そこには、母との密着・癒着関係から、なかなか自由になれなず、孤立と孤独と自立を恐れる日本人、つまり近代の日本人、閉ざされた言語空間で安眠をむさぼっている戦後の日本人への江藤淳的批判が仕掛けられている。『夏目漱石』論には、「母の死」とか「母の喪失」という具体的なテーマは出てこないが、しかし、『夏目漱石』論ーの背後に、そのテーマが隠されていたことは言うまでもない。夏目漱石
こそは、母にも父にも捨てられ、塩原家に養子に出され、早くから自立を強いられた「孤独な子供」だったからである。
江藤淳が次のように書くのは、「母の死」を嘆き悲しんでいるのではない。むしろ、「母の死」に立ち向かっているのである。それまで、分析不可能であった「母の死」という深刻な幼児体験が、サルトルの『ボードレール』論に出会って、冷静に自己分析できるようになったということであろう。
《母の死をきっかけにして、私は自分の周囲から次々に世界を構成する要素が剥落して行ったように感じている。敗戦や戦後の社会変動がそれに拍車をかけたことは否定できない。しかし、そういう外側からの原因だけで私のまわりから現実が崩れ落ちて行ったとは考えられない。少なくとも一人の人間が世界を喪失しつつあるとき、その原因を彼の外側にある時代や社会のなかだけに求めようとするのは公正を欠いている。こういう人間にとっては、すでに「時代」とか「社会」とかいう概念そのものが崩壊して行く現実の一部と感じられているからだ。 》(『一族再会』)
江藤淳は、「母の死」をそれ自体として、素朴に書いているわけではない。「母の死」は、世界の剥離、そして戦後日本の問題や国家論にまで広がっていくテーマとして書いている。そして何よりも「言葉」の問題として書いている。
《大久保の家に連れかえられたとき、母はまだ南を枕にして横臥していた。そうすることによって父は
「生きている」母に私を対面させようとしたのかも知れない。父は私に
「ここへ来てお別れをなさい」
といった。私は進み出て大人の真似をして正座し、両手をついて母にお辞儀をした。母はそこにいるが、同時に無限の彼方にいて、私はどうしても手をのばして母の頬に触れることができない。そのとき、いわば私は自分と世界との間の距離を識った。それは言葉によって埋めるほかないものである。その言葉に、私は学校ではなく母の死後その遺品が納められた納戸のなかで、感覚というよりは意識のとらえた沈黙にひたっているうちに出逢ったのである。 》(同上)
さらに、次のようにも書いている。
《私たちのなかにこの暗い淵がうがたれるのは、母の胸に抱かれた幼児の薄明の安息が喪われた瞬間からである。そのときいわば私たちの存在の核をみたす沈黙が変質する。意識は光である日常言語の世界に出逢うのに、沈黙は存在の闇のなかにしりぞいて行く。この暗い沈黙から安息が喪われているのは、それが個体の自覚をともなっているからにほかならない。それは不安であり、孤独であって、たえず触手をのばして安息を回復しようとするが、意識がとらえた日常言語はそのためになにごともなし得ない。もしのばされた触手が「言葉」に転位されないかぎりは、それは存在の核をみたす暗く重いもの、ある動物的なものを、「言葉」という軽ろやかな不在に変身させることである。そうでなければさしのばされた存在の触手は叫び声になるか混沌とした情念になって奔出するかうるだけだ。》(同上)
「母の死」や「母の喪失」を体験することによって、子供は、言葉が不要な沈黙の世界から追放され、言葉でしか他人と接触出来ない世界へと移動させられる。つまろ、母を喪失することによって「成熟」する。それは、言い換えれば、父親の役割に着目する江藤淳の父権制的国家論へと繋がっる。
江藤淳は、「治者」という思想を主張している。「治者」とは何か。治者とは、「弱者」の発想ではなく、どちらかといえば、「強者」の発想である。四歳半で「母の死」を体験し、嘆き苦しんだ幼年、少年時代を経て、江藤淳は、何故、強者の思想、つまり「治者」の思想へたどりついたのだろうか。「強者」という言葉から、私は、唐突かもしれないが、江藤淳とニーチェの思考の類縁性を考える。江藤淳の「治者」は、私を考えでは、ニーチェの「超人」と似ている。いや、似ているだけではなく、ほぼそのまま、江藤淳とニーチェの思考は、同種であり、直結している。ニーチェは、負け犬の遠吠えならぬ負け犬の妬み、僻み、嫉妬でしなない「弱者のルサンチマン」を、激しく憎み、批判し 、否定し、そしてそのアンチテーゼとして主張したのが、「超人の哲学」だった。江藤淳の「治者」の思想は 、「超人の哲学」そのものだと言っていい。江藤淳もまた「弱者の妬み、僻み、嫉妬」を、「弱者の思考」として、厳しく論難し、「治者の思考」を対置したからである。ニーチェの「超人の哲学」が、「ナチズム」との類縁性を指摘されたように、江藤淳の「 治者の思想」も、危険な思想を孕んでいる。では、ニーチェ的「超人の哲学」とは何か。その説明として、私は、ニーチェではなく、ドストエフスキーの『罪と罰』のなかの言葉を引用する。
《『あれだけの事を断行しようと思っているのに、こんなくだらない事でびくつくなんてー』奇妙な微笑を浮かべながら、彼はこう考えた。『ふむ・・・そうだ・・・いっさいの事は人間の掌中にあるんだが、ただただ臆病のために万事鼻っ先を素通りさせてしまうんだ。・・・これはもう確かに原理だ・・・ところで、いったい人間は何を最も恐れてるだろう?新しい一歩、新しい自分自身のことば、これを何よりも恐れているんだ。》(『罪と罰』)
私は、このドストエフスキーの『罪と罰』の一節が好きだ。「新しい一歩、新しい自分のことば・・・」。実は 、
この一節に、ニーチェの「超人の哲学」も江藤淳の「 治者の思想」も、微妙な違いはあれ、明確に表現されている。人間は、自立した人間は少ない。われわれは、しばしば、「自分の頭で考えよ」と言うが、そういうお説教じみた言説さえ、既に、他人の口真似であり、模倣である。それほど、われわれは、「新しい一歩、新しい自分のことば・・・」を、踏み出し、つむぎ出すことが出来ない。江藤淳が「治者」という時、それは、「新しい一歩、新しい自分のことば・・・」を創造出来る人間、つまり「超人」のことである。
■江藤淳は、サルトルの『ボードレール』論を読んで、どう変わったか。
江藤淳にとって、サルトルの『ボードレール』論ほど重要な書物はないように、私には思われる。この書物を読むことによって、文学的に開眼したことも重要だが、それよりももっと重要なことがあった。江藤淳は、幼年時代から「家庭的トラブル」をかかえていた。4歳で、母親を喪い、翌年、父親が再婚し 、新しい母親を迎える。そして義弟や義妹が誕生する。それに江藤淳はうまく順応できなかった。4歳から小中高校時代を経て、大学入学の時点まで、精神状態は 、常に不安定だった。登校拒否や引きこもり、家庭内暴力、自殺未遂事件など。とても江藤淳のイメージからは想像できないような波乱万丈の少年・青年時代を過ごしている。江藤淳が、鎌倉の義祖父の家にあずけらられたのも、「家庭的トラブル」から逃れるためだった。高校時代には、義母と添い寝していた義弟を殴りつけるという事件もおこしている。また大学入学後には、自殺未遂事件までおこしている。その頃まで 、江藤淳は 「母の死」という精神的トラウマを抱え、そのトラウマの中で、荒れ狂い、右往左往していたと言っていい。そこで出会ったのがサルトルの『ボードレール 』論だった。この書物を読むことによって、ボードレールを反面教師として、「母の死」というトラウマから解放されれることになるからである。つまり、サルトルの『ボードレール 』論を読むことで、江藤淳は、江藤淳自身の生涯のテーマである「母の死」という問題を冷静、かつ客観的に自己分析する方法を身につけ、ある意味で「母の死」というトラウマから開放される。それ以後、比較的に安定した精神状態を維持していく。つまり 、サルトルの『ボードレール』論は、父の死と、その直後の母の再婚・・・。そして母から捨てられるように寄宿舎へ入れられるという幼児体験によって、ボードレールの人生は、反抗的 、かつ破滅的なものになる、そして、そこから立ち直ることはなかったと分析する。江藤淳は、そのサルトルの「実存主義的な精神分析」と出会うことによって、ボードレールの生き方に、自分自身を重ねると同時に、自分自身の家庭的トラウマを、冷静に、かつ客観的に分析できるようになる。言い換えれば、この頃から、ボードレールのような「反抗的」「破滅的」な生き方ではなく、それとは逆の生き方を、積極的に模索していく。
■『維新と興亜』第9号、10月28日発売。以下は本文の一部の抜粋です。
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★【座談会】『Hanada』『WiLL』『正論』 ネトウヨ保守雑誌の読者に問う!(山崎行太郎×金子宗德×本誌編集部)
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★対談(稲村公望=深田萌絵)「米中台のグローバリストに挟撃される日本」
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★何故 、水戸学は 「水戸学」と呼ばれるのか。ー 実践と実行をともなった学問(山崎行太郎)
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★【座談会】『Hanada』『WiLL』『正論』 ネトウヨ保守雑誌の読者に問う!(山崎行太郎×金子宗德×本誌編集部)
『Hanada』、『WiLL』、『正論』などの「保守雑誌」は、中国や韓国、左派や野党に対しては、非常に鋭いパンチを繰り出している。読者はそれを喝采し、溜飲を下げているのかもしれない。しかし、これらの保守雑誌には重大な欠陥が潜んでいるのだ。彼らは、ひたすら自民党や政権を礼賛し、国家の主権や独立よりもアメリカへの追従、迎合を重視し、売国的な経済政策を主導し、日本社会を破壊してきた竹中平蔵氏らの新自由主義者を恥じらいもなく重用しているからだ。こうした言論が「保守論壇」の主流を占めている限り、わが国は本来の姿を取り戻せない。
では、保守雑誌のあるべき姿とは何か。『保守論壇亡国論』などで保守思想家を撫で斬ってきた山崎行太郎さんと、「国体」を基軸とする独自の編集方針を貫く『国体文化』(日本国体学会機関誌)の編集長を務める金子宗德さんと本誌編集部メンバーが保守雑誌の問題点について徹底的に議論した。
「結論」を横取りし自説のごとく振り回す「パクリ野郎」
── 『WiLL』などの保守雑誌は野党を激しく叩いていますが、政権には阿るばかりです。まるで自民党の御用雑誌のような様相を呈しています。
金子 これらの雑誌は、九月に行われた自民党総裁選では「高市待望論」を展開し、その前は菅政権擁護、そしてその前は安倍政権擁護の主張を載せてきました。
特に第二次安倍政権以降は、政権を礼賛するためのプロパガンダ雑誌のようになっています。安倍氏が政権を退いた直後に刊行された昨年十一月号では、『Hanada』が「総力大特集 永久保存版 ありがとう安倍晋三総理」、『WiLL』が「総力特集 身命を賭した安倍政権の光輝」、『正論』が「未完の安倍政治」という特集を組むなど、安倍氏への忠誠心を競い合っているようでした。
政権を礼賛し、現状を肯定することが「保守」であり、政権を批判する者は「反日」だという誤った考え方が広がっているように思います。編集者も執筆者も、何を保守するのか分かっていないのです。
そもそも、日本には「保守」という言葉が十分に定着していないのかもしれません。「保守」の用例の早いものとしては、明治十二(一八七九)年に福澤諭吉が著した『民情一新』が挙げられます。福澤は「在来の物を保ち旧き事を守り以て当世の無事平穏を謀る、之を保守の主義と云ふ」と書いています。ここでの「保守」は、事なかれ主義に近いニュアンスで用いられているに過ぎません。その二年後の明治十四年には、金子堅太郎が『政治論略』で「保守主義」の政治思想を説いています。自由民権運動が活発な時期であり、明治政府の打倒にも繋がりかねない急進的な思想に歯止めをかける思想として、金子は「保守主義」を提唱します。注目すべきは、金子の「保守主義」がエドマンド・バークの思想に基づいたものだったということです。
山崎 金子さんの説明の通りだと思います。ただし、私は、そもそも「保守」という言葉が好きではありません。「保守」は「ことなかれ主義」の匂いがしますね。だから私は、学生時代、全共闘世代で、左翼全盛の頃ですが、皮肉を込めて「保守反動」を自称していました。私の考える保守は、小林秀雄や江藤淳等に学んだものですが、「革命的保守」というか「保守過激派」とでも呼ぶべき保守です。したがってフランス革命に怯えたバークにもまったく興味ありません。ところで、政治思想として、メディアなどで「保守」という言葉が頻繁に使われるようになったのは、比較的最近だと思います。小林秀雄、江藤淳、三島由紀夫たちは、敢えて「保守」という言葉は使いませんでした。むしろ彼らが亡くなった後に、「保守」という言葉が氾濫するようになりました。本来、「保守」は理論化、イデオロギー化できないもののはずです。それを理論化したのが、西部邁だと思います。小林秀雄、江藤淳、三島由紀夫、福田恒存らの「保守思想」は、生活感覚のような保守であり、「直接経験」や西田幾多朗の「純粋経験」を重視するものでした。「保守」は理論化とは馴染みのないものだったからこそ、保守であることは決してやさしいことではなかったのです。
ところが西部以後、保守は誰でも簡単になれるものに変貌してしまいました。「従属慰安婦はいなかった」「南京事件はなかった」などと言いさえすれば、誰でも保守の仲間入りができるようになったというわけです。こうして「保守の通俗化」、「保守の大衆化」が始まりました。
江藤淳は、自分で「問題」を見出し、自分の頭で考え、自分で調査し、自分で分析して、結論を導きました。例えば、「占領憲法」に「問題点」を見出し、自らアメリカの国立文書資料館に通い、関係資料を発掘し、調査・分析し、「押し付け憲法」の実態を暴露していきました。これに対して、昨今の保守思想家は、「問題」の結論だけを横取り、模倣し、自説のごとく振り回す「パクリ野郎」たちばかりです。
私は、保守派を名乗っている「ネトウヨ雑誌」を読みません。立ち読みぐらいはした事がありますが。書いている人は、目次を見れば明らかですが、ほぼ素人か、素人に毛の生えた人たちです。学問的業績も思想的業績もゼロ。オヤジたちの居酒屋漫談とオバサンたちの井戸端会議レベル。それを大真面目に読んで、アッサリと洗脳され、熱狂的信者になって、騒いでいるのがネトウヨとかネット右翼とか呼ばれている連中です。まともな読書とは無縁な老若男女の皆さんたち。普段は漫画か週刊誌ぐらいしか読まないので、簡単に活字に洗脳されてしまうのです。
外来の保守思想にかぶれる言論人たち
山崎 西部は、遅れて来た「転向保守」らしく、保守思想家の先輩格である小林秀雄や江藤淳を、バーク理論を使って批判し、保守論壇を「左翼論壇化」しました。それが「保守思想の理論化」です。
金子 確かに、バークの保守思想を持ち出した西部の議論は、エポック・メイキングになりました。しかし、保守論壇の「バークかぶれ」を助長したのは八木秀次氏らだと思います。例えば、『諸君!』(平成十二年八月号)には、八木氏と中川八洋氏、渡部昇一による「エドマンド・バークに学ぶ 保守主義の大道」鼎談が掲載されています。
── 今や中島岳志氏から小川栄太郎氏に至るまで、論壇は「バークかぶれ」だらけです。
金子 「理性の絶対視はだめだ」「設計主義はいけない」といったバーク流の保守主義には、大きな落とし穴があると思います。フランス革命を批判したバークの保守主義は、人間の「理性」の能力に懐疑的で、それに基づく急進的な社会改革・革命を批判する立場です。
しかし、人間はどうしても理想を求める生き物です。理想を掲げ、現実社会を変えようとすれば、どうしても設計主義的側面が出てきます。逆に、設計主義はいけないとして理想を懐くことまでも否定してしまったら、結局のところ現状を無批判に肯定し、流されてしまうのではないでしょうか。
── 日本の保守派がイギリスの保守思想家の思想を有難がっていることが大きな矛盾です。陸羯南や柳田国男もバークを読んでいましたが、彼らはそれをあからさまに出さない恥じらいを持っていました。そもそもバークが基盤とするキリスト教的価値観は、日本の伝統思想とは異なるものです。しかも、我々は君民一体の國體の回復こそ、保守派が目指すべき最重要課題だと考えていますが、バークは親政論者でもなく、資本主義に対して好意的な考えを持っていました。バークの思想には、國體を重視する我々の考え方とは相容れない部分が少なくありません。
我々は、日本の本来あるべき姿を描き、そこに回帰するための不断の運動を展開するのが保守だと考えています。バーク流の保守主義に頼っていてはだめです。つまり、現在の保守雑誌には、明治維新や昭和維新の原動力となった國體思想が決定的に欠落しているのです。(以下略)
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★『藤田東湖と西郷南洲()』(山崎行太郎)
何故、水戸学は「水戸学」と呼ばれるのか。ー実践と実行をともなった学問
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『藤田東湖と西郷南洲』というテーマで、『維新と興亜』の貴重な誌面を拝借して、長々と書き続けてきたが、今後も、飽きもせずに書き続けるつもりだ。もうすぐ、後期高齢者の仲間入りをする小生の生命も、自然の摂理として終わりに近づきつつあるわけだが、私が書きたいテーマに終わりはない。私は、藤田東湖や西郷南洲の事績やその歴史を書きたいわけではない。藤田東湖や西郷南洲の思想と行動の軌跡を追いながら、「思想とは何か」「学問とは何か」を追求しようと思って、書き続けている。何故、水戸学は「水戸学」になったのか。
私が、「水戸学」とか「水戸学派」というものに興味をもったのも、この「思想とは何か」「学問とは何か」という問題と深くかかわっている。水戸学にとって、思想とは、いわゆるただの「思想」でも、机上の空論としての「学問」でもない。最近、巷で流行の「居酒屋政治漫談」的な与太話としての「思想」でも「学問」でもない。何回も繰り返すが、水戸学は、実践や実行をともなった学問である。実践や実行をともなっているということは、その実践や実行には、必然的に「死」がともなっているということだ。「実践」や「実行」や「死」がともなっていない水戸学は水戸学ではない。私は、そこに深い思想的刺激を受け、興味をもった。私は、水戸藩の武士たちが中心になって実行した「桜田門外の変」や「天狗党の乱」は、水戸学派の正当な思想や学問を受け継ぐ純正水戸学であり、水戸学の深化・延長上の出来事だったと思っている。水戸学の誤解や混迷や暴走がもたらした偶発的事件だという解釈もあるらしいが、私はそうは思わない。薩摩藩の子弟教育の教材だったと言われる「日新公いろは唄」の中に、
いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし
というものがあるが、それは水戸学派に通じる「実践論」の哲学そのものである。西郷南洲が藤田東湖に初めて面会した時、西郷南洲は、それを直感し、それを骨身に沁みるように感得したはずだ。藤田東湖の水戸学には、「死の匂い」がしていたはずだ。換言すれば、「やるか、やらないか」「死ぬ覚悟はあるか、ないか」の実存的決断を迫っていたはずだ。
藤田東湖に面会・談話した直後の西郷南洲の手紙を改めて引用する。
《他人に申すのは、口幅ったいが、東湖先生は私を心の中で非常に可愛がって居られるようです。偉丈夫、偉丈夫と私を呼ばれ、私が何かいうと、さうだ、さうだ、まさにその通りだと賛成されます。天下のために薩摩が大いに活躍する時が来た。君たちのような人達が斉彬公を押立てて活動すれば、夷狄を打攘い皇国を振起することは難事ではない。有難い、頼もしいことだと言われ、身に余るうれしさよろこびです。若し水戸老侯が鞭をあげて異船打攘いに魁けられることでもありますれば逸散に駆けつけて、戦場の埋草になりとも役立ちたいと、心から東湖先生に心酔いたしております。》
これは、西郷南洲の側からみた藤田東湖の言動と振る舞いを記述したものだが、もうこの時点で二人の対話には、単なる学問や思想を超えた、思想的同志の対話があったとみていい。要するに、師弟関係を超えた「革命家」と「革命家」の対話である。藤田東湖は、西郷南洲を一目見て、「この男は、口説の男ではない、やる男だ」と直感している。西郷南洲は西郷南洲で、藤田東湖を、単なる「大学者」、単なる「大思想家」とは見ていない。それ以上の「何か」を見ている。その「何か」とは何か。私は、それは、哲学者・西田幾多郎が言った水戸学派の内包する「ガイスト(精神)」ではないか、と思う。水戸藩の学問が「水戸学」とか「水戸学派」と呼ばれることになったのは、この「ガイスト」に根拠があるのではないか。(以下略)
■あなたは「ダッピ」を知ってますか。
ダッピ(DAPPI)こそ「ネットウヨ」の親玉だったのか。なるほど、なるほど。「幽霊の正体見たり、枯れ尾花・・・」というわけか。
自民党や安倍晋三をひたすら絶賛・擁護し、立憲や野党を罵倒し、誹謗中傷し続けるネットウヨ系ネット工作員がいたらしい。立憲の「小西ひろゆき議員」や「杉尾秀哉議員」に関して、デマ情報(フェイクニュース)を流し続けたとして、両氏が反撃に出て、その発信元の「ダッピ(DAPPI)」の正体を突き止めたらしい。たまには立憲民主党もやるじゃないか。ダッピの正体を探って行くと、その先に、自民党や自民党本部の幹部の名前まで出てきたらしい。ダッピって、自民党お傭いのネット工作員というかネット工作会社だったらしい。まー、そんなことだろうと予想はしてましたけどね・・・(笑)(笑)(笑)。え