2021年4月29日木曜日

 



台湾ロビー=金美齢の正体(2)


金美齢は新宿御苑の近くのビルにおおきな事務所を構えているそうだ。なんのための事務所なのか。安倍前首相や日本会議系の政治家たち、保守系のマスコミ関係者など、多数の日本人が出入りしているらしい。これは、金美齢事務所が、台湾ロビー活動の拠点になっているということだろうか。金美齢は、日本語学校の理事長や早稲田大学講師などもやっっていたそうだから、それ相当の財力の持ち主かもしれないが、やはり、金美齢の正体は、大物の台湾ロビーだということではないのか。政治工作資金としての多額の台湾マネーが 、日本の政界やマスコミに流れているのではないかとも言われているが、その多額の政治工作資金は、金美齢事務所を中心的な舞台として、動いているのではないか。金美齢は、一般的な日本人には、評論家、ジャーナリスト・・・ということになっているが、それは、仮の姿ではないのか。日本の政界やジャーナリズムには、「台湾タブー」が存在すると言われているが、おそらく台湾マネーが、深く関与しているのだろう。言い換えれば、台湾マネーが日本の政治やマスコミを動かしていると言っていいのかもしれない。ところで、「中国のスパイ」や「中国の工作員」「中国のハニトラ」については頻繁に語られるが、台湾に関しては、「スパイ」も「工作員」・・・についても、ほとんど語られない。「台湾マネー」が、効力を発揮しているのだろうか。

2021年4月28日水曜日

 金美齢の正体。


「金美齢」という台湾出身を売り物にする怪しい女性がいる。最近、帰化し、日本国民になったらしいが・・・。保守論壇の界隈では、それなりの知名度があるようで、一応、「保守文化人」気取りで、保守論壇界隈で、「大活躍」(笑)してきた女性だ。馬鹿な文化人気取りのエセ文化人によくある「日本人よ、しっかりしろ」などと上から目線で、まくしたてる「お説教文化人」の一人だ。元々は、岸信介の「通訳」だったとか。その縁で、安倍晋三とも親しいらしい。というわけで、保守論壇の信用を勝ち得たらしい。いずれにしろ、中身は空っぽ。その中身は、実にくだらない、三文文士的な、通俗的で、下品な人生論なのだが、最近の保守論壇とその周辺に屯する読者たちは、その程度の人生論が大好きのようで、金美齢女史は、いつのまにか、保守論壇界隈では、すっかり「一流文化人」「一流言論人」に成り上がっているということらしい。保守論壇やネット右翼の思想的レベルの低さを象徴している。桜井よしこ、曽野綾子、金美齢・・・(笑)。日本のエセ保守論壇のオヤジたちのアイドル。

2021年4月26日月曜日

 ■メルマガ『山崎行太郎の毒蛇通信 ~深田萌絵論〜』を配信しました。

■今回は、「深田萌絵」を特集しました。最近のことですが、深田萌絵女史の「Youtube動画」に、強烈な印象と影響を受けました。深田女史の「批判力」に感動しました。

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2021年4月24日土曜日

 ■江藤淳と西尾幹二の「差異」について(2)

西尾幹二が、三島由紀夫に関する話題で、江藤淳を辛辣に批判した文章を読んだことがある。今、手元にないので、細かいことは覚えていないが、江藤淳と小林秀雄が、三島由紀夫の自決をめぐって衝突した「対談」をめぐるものだった。江藤淳が、三島由紀夫の死を、「あれは老年が来たということでしょう」とか「あれは病気でしょう」と批判的に言及したのに対して、小林秀雄が激怒し、「あんたは、日本の歴史を病気だというのか」と反論し、一瞬とはいえ、激しく火花を散らした「対談」だった。両者が立ち上がり、日本刀を抜いて、真剣勝負に出たような、きわどい「対談」だった。私は、江藤淳の対談も 、小林秀雄の対談も、ほとんど読んでいるつもりだが、こんな激しい対談は、読んだことがない。私は、この「対談」に関しては、私なりの解釈と判断をしている。一流の批評家同士が、真正面から、本気でぶつかった「対談」だったというのが私の解釈と評価だ。私は、どちらが正しいか、どちらが間違っているか 、という位相の問題とは思わなかった。ところが、三島由紀夫の衝撃的な「死」に圧倒された多くの三島由紀夫ファンや三島由紀夫信者 、三島由紀夫エピゴーネンたちは、この対談に飛びつき、小林秀雄が「正しい」、江藤淳は「間違っている」という単純素朴な二元論に依拠して、「江藤淳批判(罵倒)」を繰り返すようになった。もちろ批判も罵倒も自由である。どんどんやるべきだ。西尾幹二の「江藤淳批判」も、その一つだった。しかも、多くは江藤淳没後になされた「江藤淳批判」であった。批判、罵倒するなら、江藤淳がまだ生きているうちにしろよ、と思ったものだが、二流、三流の評論家や物書きたちは、いつも、死後にしかやらない。したがって、江藤淳を批判、罵倒し、小林秀雄や三島由紀夫を、どんなに強く擁護しようとも、擁護したことにはならない。言うまでもなく、 小林秀雄や三島由紀夫をいくら擁護したところで、小林秀雄や三島由紀夫の真意を正確に理解したことにはならない。小林秀雄や三島由紀夫は、そういうゴマスリやお世辞を、厳しく拒絶するだろう。むしろ、江藤淳こそ、三島由紀夫の「死」に激しく衝撃を受け、その存在を賭けて、ホンネをさらけ出していたのだ。三島由紀夫の死という現実に向き合っていたのだ。それが分からない連中は、言葉の上面のレベルで、どちらが正しいか 、どちらが間違っているか、というような浅薄な議論を繰り返しているに過ぎない。そこに、江藤淳と西尾幹二との「差異」は、出ている。

2021年4月23日金曜日

 『月刊日本』五月号、『江藤淳とその時代 』(3)「江藤淳と吉本隆明」が、発売になりました。よろしくお願いします。「江藤淳と吉本隆明」という問題は、江藤淳を論じる上で、もっとも重要な問題のひとつです。『 江藤淳//吉本隆明全対話』や吉本隆明による懇切丁寧な「江藤淳追悼文」があることからも分かるように、吉本隆明にとっても、「江藤淳」という存在は重要な問題です。吉本フアンは、認めたくないでしょうが・・・。c


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https://www.fujisan.co.jp/product/1224061/new/

 ■江藤淳と西尾幹二の「差異」について。


江藤淳と西尾幹二とでは、私の中では、何かが決定的に違う。江藤淳と渡部昇一、江藤淳と西部邁・・・でも同じである。決定的に何かが違う。それは、「存在論」、ないしは「存在論的思考力」があるかないかである。西尾幹二や渡部昇一、西部邁等の文章には、この「存在論」、ないしは「存在論的思考力」がない。政治イデオロギー的次元でしか読めない。江藤淳の文章は違う。誤解を恐れずに言えば、江藤淳の文章は、左翼にも通用する。それは、江藤淳の文章に「存在論」、ないしは「存在論的思考力」があるからだ。

私は、今年から 、江藤淳論『江藤淳とその時代 』の連載を、『月刊日本』という月刊雑誌で開始したが  、それは、私にとっては、かなり重要な仕事である。「江藤淳」が好きだとか嫌いだとかいうレベルとは異なる次元の思考力の問題に関わっているからだ。つまり 、私は、江藤淳を、吉本隆明や柄谷行人、廣松渉・・・と同じ次元で読むことが出来る。これは、言い換えると、右派と左派、右翼と左翼、保守と革新・・・というような政治イデオロギーの次元とは異なる次元で読むことが出来るという意味である。具体的に言えば、小林秀雄や三島由紀夫や大江健三郎を、政治イデオロギーの次元で読む人もいるだろうが、そういう人は、問題外で、多くの読者は、政治イデオロギー的二元論とは無縁な次元で、あくまでも文学として、読んでいるはずである。私は、右翼と左翼、保守と革新・・・という「二元論」が、通用しないと言っているわけではない。むしろ私は、「右翼と左翼、保守と革新・・・」という「二元論」は永久に不滅だと思っている。ただその種の二元論では、底の浅い、薄っぺらな議論しか出来ない、と言いたいだけだ。

  ところが、「ネット右翼」(「ネット左翼」?)の時代、「ネットウヨ」の時代と言ってもいい、この時代にあっては、文学を文学として読む読者は、あるいは政治イデオロギー的二元論とは異なる次元で読む読者は、極端に少なくなっているような気がする。「ネット右翼」も「ネット左翼」も、それぞれ自分たちだけの自閉的な「小宇宙」=「タコツボ」を作って、そこに閉じこもり、外部を見ようとしない。そこでは、論争も闘争も対立も起きない。右翼にも左翼にも、それぞれ、自己慰安的な閉鎖空間が出来上がっている 。これが、現代日本の文化的貧困、思想的貧困、さらに言うと政治=経済的貧困をもたらしている。

2021年4月21日水曜日

 エセ右翼雑誌『WILL 』の編集長は「台湾ロビー」の恐喝に屈したのか。ー深田萌絵小論(2)


深田萌絵女史の原稿が『WILL 』に掲載されなくなったのは、『WILL 』編集部が、「台湾ロビー」や「台湾利権」に脅えた結果らしい。情けない右翼雑誌である。まさに「エセ右翼雑誌」というほかはない。私は、月刊雑誌『WILL 』を読んだことはない。新聞や雑誌類の広告で、その目次らしいものを、時々、覗き見るぐらいである。執筆メンバーを見て、とても読んでみる気にならない。しかし、かなり売れているらしい。本屋の店頭にうず高く積まれているのを見たこともある。私は、思想的に左翼でもリベラルでもないが、これが、日本国民の現在の知的レベルなのだと思うと暗然とするのが、いつものことであった。深田萌絵女史も、執筆メンバーの一人だったと思う。私は、新聞も雑誌も、ほとんど読まないし、テレビも見ない。テレビは、時計代わりにつけっぱなしにしているが、地震や台風の情報、あるいは各種の緊急速報・・・以外は、見ない。「お笑い芸人」や「お笑い芸人」と同じレベルの「エセ文化人」たちの井戸端会議や居酒屋政治漫談は、見ると精神衛生上悪いので、見る気がしない。時間の無駄である。私が、今、テレビ番組でハマっているのは、午前4時頃の再放送『 暴れん坊将軍』だけだ。それ以外は、若い時から買い溜めている書籍類を、再読、三読、四読・・・することと、お気に入りの「Youtube動画」を、定期的に覗くことぐらいだ。深田萌絵女史の最近の「Youtube動画」は、私には、実に面白い。「目から鱗が落ちる」という言葉があるが、深田萌絵女史の「Youtube」は、まさに「目から鱗」だった。深田萌絵女史は、以前は、『WILL 』編集部員の「Youtube動画」に、ゲストのような形で出ていた。その頃は、ほとんど見なかった。しかし、最近、深田萌絵女史が、『WILL 』編集部と、何かトラブルがあったらしく、個人用の「Youtube動画」で、かなり過激な発言を開始した頃から、私はずっと見続けていりる。最近、深田萌絵女史は、『WILL 』編集部と何かがあった、と告白し始めた。『WILL 』編集長の判断で、深田萌絵女史の原稿は、台湾問題の暗部(闇)を追及すると「訴訟リスク」が出てくるという理由で、「掲載拒否」ということになったらしい。なるほど、そうだったのか。予想していたこととはいえ、深田萌絵女史の口から出てきたことには、ちょっと驚いた。こういう事態になると、エセ右翼文化人の大部分の「男ども」(笑)は、有耶無耶にして、時間が過ぎるのを待つか、原稿の中身を適当に書き換えて、ダボハゼみたいに編集部に迎合し、生き延びようとするはずである。その結果、読むに値しない、くだらない、「エセ右翼雑誌」(正論、WIL、HANADA・・・)が出来上がるというわけだ。と、ここまで書いてきて、『WILL 』編集長のことを思い出した。今でも、「T氏」が編集長なのだろうか。もし「T氏」だとすると、私は面識がある人だ。「T氏」が、某大手出版社に勤務していた頃、私は、ちょっとだけだが、交流があった。今、どうしているのだろう。いずれにしろ、深田萌絵女史は、不退転の決意で、言論表現を続けているようだ。いわゆる「深田萌絵事件」(?)によって、出版界に大きな地殻変動が起きるような気がする。「エセ右翼雑誌」(正論、WIL、HANADA・・・)の沈没、解体、破産が、目前に・・・。私が、『 保守論壇亡国論』や『ネット右翼亡国論 』で、予告しておいたとおりだ。エセ右翼雑誌の「産みの親」(笑)と言うべき「西尾幹二、渡部昇一、西部邁・・・」を、私がクダラナイと書いたら、「渡部昇一信者」(笑)とおぼしい読者が、「渡部昇一大先生を、罵倒するとは許せない」とばかりに 、コメントで脅迫してきたので、ブロックした。「渡部昇一はクズだよ」。それが分からない時点で、お前らはバカだよ。さっさと消えろ。