呉座勇一の「ジェンダー事件」について、「Youtube動画」で話してみた。
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Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
国際日文研の「呉座勇一」について、私の知っていることを話してみよう。
「国際日文研」とは、バブル期のころ、古代史研究で有名な梅原猛等が主導して、京都に設立された研究機関「国際日本文化研究センター」である。バブル期の遺産である。そこで「助教」という下っ端研究員である「呉座勇一」が、何か、取り返しのつかない不始末をしでかして、謝罪騒動に追い込められたり、「国際日文研」の方でも、訳の分からない声明文を出したりと、前代未聞のスキャンダルに発展しているらしい。以下に引用するのは、「国際日文研」所長だという井上章一名義の声明文である。そもそも、井上章一という三流のナンチャラ文化人が、所長とは驚きであるが・・・。その前の「所長」は 「小松和彦」とかいう「妖怪ウォッチヤー」だったような気がするが、この程度の三流学者・エセ文化人が「所長」の国立研究機関が必要なのかどうか、はなはだ 疑問だが、こんなレベルのクズ研究機関のクズ研究員(呉座勇一のこと)が、学問や思想、文化の「阻害要因」になっているのだから、笑止である。税金の無駄使いとはこういうのを言うのだろう。
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2021.03.24 国際日本文化研究センター教員の不適切発言について
このたび、本センター教員が、私的に利用していたツイッターアカウントにおきまして、他者を傷つけ、研究者として到底容認されない発言を繰り返していたことが判明しました。即刻、解体し、廃絶すべきだろう。
本センターは、それらが個人の表現の自由を逸脱した良識を欠く行為であると考えています。
今回の発言は、多様性を尊重する本センターの方針に著しく背く行為と判断したため、所長および副所長が当該教員に厳重な注意を行い、傷つけられた方々に対し誠実に謝罪するよう厳しく指導いたしました。
本件におきまして、ツイッター上の発言を目にして不快な思いを抱かれた方々、また直接に迷惑をこうむられた関係者の皆さまには、心より深くお詫び申し上げます。
本センターは、性別・国籍はもとよりいかなる差別も厳しく禁ずる組織であり、今後、引き続き経緯を精査し規則等に照らし適切な対処を行います。併せて教職員の私的利用も含めたSNS利用ガイドラインを早急に公開し教職員に周知徹底し、このような事態が二度と起こらないよう努めてまいります。
このたびの本センター教員による一連の不適切発言につき深くお詫び申し上げます。
令和3年3月24日
所長 井上 章一
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井上章一名義の、この文章を読みながら、私は、本当に、お前は馬鹿だなーと思う。それで、よく学者を気取ってるなー。「美人論」が京大アカデミズムかよ・・・。呉座勇一はクズだが、女子供にペコペコするしか能のない、お前は、もっとクズだよ。ゴミクズ学者?
井上章一よ、「研究者として到底容認されない発言・・・」ってなんだよ。「ジェンダー」のことかよ。本来の「学問研究者」なら、職責を賭けて、言いたいこと、思うことを、自由に発言すべきだろう。世相や時勢に阿って、当たり障りのないことを発言することが、「学問の自由」なのか。お前が、三流のクズ芸人だということは明らかだよ。冗談だが、お前より、「ジェンダークソ喰らえ」の呉座勇一の方がまだマシだよ。私も、上野千鶴子とか「ジェンダーフリー」とか、「クソ喰らえ」と思っている。
井上章一のヒット作『美人論 』とかいう名著(迷著?)を読んだことはないが、バカバカしくて無視黙殺したが、その『美人論 』という名著(迷著)のタイトルからして、いかがわしいだろう。そもそも『 美人論』が「学問」なのか。女を美醜で判断し、選別している。何が、あらゆる差別に反対し・・・だよ。、
藤田東湖と西郷南洲(3-2)
西郷南洲と藤田東湖とが、交流したのは、わずか一年半であった。しかし、何回も繰り返すが、この「一年半」は、貴重な一年半であった。藤田東湖は、安政2年10月2日、志半ばで、安政の大地震に巻き込まれ、あっけなく歴史の表舞台から消えていく。残された西郷南洲にとって、嘆き悲しむ余裕も時間もなかった。まさに歴史は激動の時代へと入っていく。西郷南洲は、藤田東湖の「死亡」と共に、その遺志を受け継ぐかのように、藩主島津斉彬の手足となり、政治の前面に登場し、目覚しい活躍をする。この頃の政治は、どちらかと言えば、水戸藩を中心に動いていた。しかし、藤田東湖や戸田忠太夫等、いわゆる水戸学派の大学者=大思想家を喪った水戸藩は、迷走の兆しをみせはじめていた。そこで、薩摩藩と水戸藩、あるいは京都の朝廷との仲介役として八面六臂の活躍をするのが西郷南洲だった。まだ、江戸に着いてから2 、3年後のことだ。私は、本稿の冒頭で、福澤諭吉の「西郷南洲には学がなかった」という言葉に違和感を感じると記したが、福澤諭吉は、もちろん、当時、群を抜く大思想家であったが、やはり、福澤諭吉もまた、西郷南洲を擁護しながらも、「西南戦争」での惨敗という歴史的事実に振り回されていたと思われる。歴史はもちろん「結果」が重要である。しかし、結果論だけでは見えないものもある。たとえば、凡庸な歴史学者、凡庸な歴史研究者には見えない「何ものか」である。たとえば、ハイデッガーの存在論哲学では、「存在」と「存在者」を区別する。存在と存在者とは同じではない 、と。見える存在と見えない存在の差異・・・。藤田東湖や内村鑑三、中江兆民・・・等には、その「何ものか」が見えていたのだろう。私は、藤田東湖は、自分の遺志を受け継いでくれる後継者として、西郷南洲を見ていたと思う。おそらく、まだ「一年半」の交流しかしていない薩摩出身の若者に、何かを見ていたはずである。わずか「一年半」の交流に過ぎなかったが、藤田東湖の「遺志」は、確実に受け継がれたのである。そして、西郷南洲自身も、その期待をひしひしと感じていただろう。西郷南洲は、この頃から、「自分は、いつ死んでもいい」、「命懸けで・・・」、政治活動に打ち込むと言いはじめる。
藤田東湖と西郷南洲(3)
内村鑑三の『 代表的日本人』は、西郷南洲(西郷隆盛)の話から始まっている。それは、内村鑑三が、西郷南洲をいかに高く評価していたかを示している。その『 代表的日本人』の中の西郷南洲の話の中に、藤田東湖が登場する。藤田東湖と西郷南洲の出会いについて、こう書いている。
《 しかし、重要で、もっとも大きな精神的感化は、時代のリーダーであった人物から受けました。それは、「大和魂のかたまり」である水戸の藤田東湖です。東湖はまるで日本を霊化したような存在でした。》
つまり、内村鑑三の西郷南洲に対する評価は、政治や軍事的な側面ではなく、どちらかというと、精神的、道徳的 、倫理的、宗教的な側面だったように見える。そして、それらの側面を、水戸の藤田東湖に教わったのではないか、と。キリスト教徒であった内村鑑三は、宗派的なイデオロギーを超えて、西郷南洲だけではなく、藤田東湖をも、高く評価していた。おそらく、内村鑑三は、二人のなかに、「日本的霊性」(鈴木大拙)を発見していたのではないか。続けて、こう書いている。
《 外形きびしく、鋭くとがった容貌は、火山の富士の姿であり、そのなかに誠実そのものの精神を宿していました。正義の熱愛者であり、「西欧の蛮人」の嫌悪者である東湖の近くには、時代をになう若者たちが集いました。西郷は遠方にありながら東湖の名声を耳にして、藩主とともに江戸に滞在していたとき、接見の機会をのがさず会いに行きました。》
私は、内村鑑三のような一流の文化人、思想家、宗教家が、西郷南洲だけではなく、藤田東湖までを高く評価し、「霊化」とか「霊性」という次元で絶賛するのに、興味を持つ。藤田東湖はともかくとして、西郷南洲は、毀誉褒貶の激しい人である。聖人君子のように崇拝する人もいれば、「ウドの大木」とか「木偶の坊」とか呼ぶ人もいる。しかし、私は、内村鑑三が、西郷南洲を、「霊的人物」として評価していることに、ホットする。私は、西郷南洲を偶像崇拝することにも違和感を感じるが、西郷南洲を愚鈍な俗人扱いすることにも激しい違和感を感じる。
西郷南洲は、小説やテレビドラマなどでは、必ずと言っていいぐらいに、度の強い鹿児島弁(薩摩弁?)を使うことになっているが、これも、かなり怪しい。年上の大学者=藤田東湖とも、どういう言葉で対話、歓談したのだろうか。西郷南洲は、史料を調べると、服装も言葉遣いも、かなり気を遣い 、丁寧であったと言われる。
(註記)本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。常に加筆修正中につき、完成稿は『月刊日本』でお読みください。
存在論としての漱石論(13)
漱石神話の中心にあるのは「則天去私」という神話である。江藤淳は、漱石の弟子たちが中心になって作り上げた、この神話を批判し、破壊する。そもそも、この言葉の意味は、「天然自然に則り、私という自我を捨てて生きる・・・」という漱石の晩年の生き方の理想と理念を表す漱石自作の言葉だが、しかし、漱石の弟子たちは、それを実体化し、あたかも「漱石先生」はその理想的境地に到達した聖人君子であるかのように美化し、偶像化する。漱石の弟子たちの中心にいたのは、小宮豊隆であった。したがって、江藤淳の漱石論は、小宮豊隆を批判し、攻撃、破壊することから始まる。「英雄崇拝位不潔なものはない」と書く23歳の大学生・江藤淳は、その若さからは想像出来ないような激しさと緻密な論理で、小宮豊隆の「英雄崇拝」を批判する。
《 小宮豊隆氏をはじめ、多くの優れた註釈者や伝記作者の熱心な努力にも関わらず「心」「道草」「明暗」の三つの作品を通じて、漱石は明らかに「愛」の可能性を探索するより、その不可能性を立証しようとしている。人間的愛の絶対的必要性を痛切に感じながら、それが同時に絶対的に不可能であることを、全ての智力を傾けて描いていた奇妙な男の姿が、これらの作品の行間から浮かび上がって来る。大作家や大思想家から、ある種の啓示をうけたいという欲求ほど、その弟子たちを誘惑するものはない。彼は問題を解決したが故に偉大である。彼はほとんど神に近い。そう思うことによって自らを使徒にしようとするのは極めて当然の感情である。》(江藤淳『夏目漱石 』)
この場合、「大作家や大思想家」が漱石であり、「弟子」や「使徒」が小宮豊隆である。小宮豊隆の「夏目漱石」像は、あまりにも理想化され、偶像化されていると、江藤淳は言いたいのだろう。実際の夏目漱石は、そんな単純素朴な作家ではなかった、と。では、江藤淳にとって、夏目漱石はどういう作家だったのか。
《 しかしぼくらが漱石を偉大という時、それは決して右のような理由いよってではない。彼は問題を解決しなかったから偉大なのであり、一生を通じて彼の精神を苦しめていた問題に結局忠実だったから偉大なのである。》(江藤淳『夏目漱石』)
我々は、しばしば、問題を解決したか、解決しなかったかということに、注目する。問題を解決した人を絶賛し、評価する。人類の歴史と言われるものは、問題を解決した人の歴史である。問題を解決しなかった人は、歴史から消え、忘れ去られる。
もちろん、夏目漱石も、問題を解決した人の側にいる。東京帝国大学を卒業し、愛媛や熊本で、教員生活の後、文部省留学生として、イギリス、ロンドンに留学、帰国後は東京帝国大学講師として、英文学の講義を始める。ここまでは、明らかに成功した側の人間ということになる。漱石の弟子たちや愛読者たちは、漱石を、「先生」、あるいは少し大袈裟に言うならば、「聖人君子」
「人生の教師」・・・と見ていた。その象徴が、「則天去私」神話だといっていいだろう。
江藤淳は、それに激しく抗議し、漱石はそういう作家ではなかった、という。それが、「問題を解決したから偉大なのではなく、問題を解決しなかったからこそ偉大だ」という言葉遣いである。続けて、こういっている。
《 彼が「明暗」に「救済」の結末を書いたとしたなら、それは最後のどたん場で自らの問題を放棄したことになる。これまで述べた来たことから明らかなように、あらゆる作品の示すかぎりに於て、彼は小宮氏の期待する救済を書き得る人ではなかった。ぼくらの心に感動をひきおこすのは、こうした彼の悲惨な姿である。》
江藤淳は、漱石の「優秀な弟子たち」を、「鈍感な俗物たち」とみなして、批判し、罵倒する。漱石の弟子たちよいうのは、その大部分は、漱石と同じく東京帝国大学の学生や卒業生であった。芥川龍之介や菊池寛 、久米正雄、あるいは寺田寅彦、小宮豊隆・・・。彼らが作り上げた「美しい師弟愛物語」について、江藤淳は、こう書いている。
《不幸なことには、このような漱石ほど誤解され 続けている作家は少い。彼は、おそらく門弟達に「心」の先生のように理解されることを欲したのである。「文豪」や「師」としての自分をではなく、おびえた、孤独な、傷ついた獣のような自分を。しかし門弟は漱石を「偉大」にすることに懸命になり、漱石は漱石で、教師生活で身につけたポーズを守りながら 、こうした門弟から理解されることを諦めなければならなかった。このようにして、彼は、共感力の乏しい友人や弟子にとりかこまれている非凡な人間の、通常味わわねばならぬ孤独をも体験せざるを得なかったのである。》
(註記)本稿は『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代(3) 』の下書きです。常に加筆修正中につき、完成稿は『月刊日本』でお読みください。
存在論としての漱石論(12)
江藤淳の漱石論で、眼を引くものの一つは、漱石と、単なる崇拝者でしかない、その弟子たちとを分けて論じているところだ。江藤淳は、その漱石論で、所謂、「漱石神話」の製作者たちを手厳しく批判し、「漱石神話」なるものを破壊している。『夏目漱石 』の「初版へのあとがき」で、こう書いている。
《漱石についてはもうすべてがいいつくされている。今更なにをいってもはじまらない。というのがおそらく今日の通説である。しかしこのような通説ほど、ぼくにとって理解し難いものはなかった。ぼくには、自分の眼に見える漱石の姿を、出来るだけ生き生きと描いてみたいという凶暴な衝動があった。 》
江藤淳は、漱石の弟子たちが中心になって作り上げた「漱石神話」の破壊を、「凶暴な衝動」をもって開始した。「凶暴な衝動」とはおだやかではない。江藤淳には、この時、何か、穏やかならぬものがあったのであろう。この「凶暴な衝動」は、江藤淳の漱石論の全編を貫いているだくでなく、その死に至るまでの全著作を貫いているということが出来るかもしれない。常に「凶暴な衝動」を胸に秘めながら、批評を書き続けていたのが、江藤淳という批評家だった。さらに、こんなことも書いている。
《 英雄崇拝位不潔なものはない。ぼくは崇拝の対象となっている漱石が我慢ならなかったのだ。人間を崇拝することほど、傲慢な行為はないし、他人に崇拝されるほど屈辱的なこともない。崇拝もせず、軽蔑もせず、只平凡な生活人であった漱石の肖像を描くことが、ぼくには作家に対する最高の礼儀だと思われる。偶像は死んでいるが、こうしてひとたび人間の共感に捉えられた精神の動きは、常に生きているからである。》