2021年8月16日月曜日

■純文学の神髄は同人雑誌にあり。 純文学という言葉は、近ごろ、あまり使われないようである。純文学と大衆文学という二分法も、あまり使われなくなっている。何故だろうか。私は、純文学という文学それ自体が消滅しつつあるからではないかとおもう。しかし、私は、純文学という文学にこだわっている。何故、純文学にこだわっているのか。私は、純文学の可能性を信じているからだ。それは、純文学の可能性であって 大衆文学の可能性ではない。純文学は売れなくていい。売れる必要はない。「純文学も売れなければならない」と言い始めた時、純文学は純文学ではなくなったのである。私は、大衆文学が存在することも、大衆文学の可能性や将来性に命をかけている人がいることも否定しない。私が、大衆文学に興味がないだけである。私は、文芸雑誌に問題があるとおもっている。日本には、大手出版社が発行する文芸雑誌というものがあり、それらは、おもに純文学系の文芸雑誌である。ところが、この純文学系の文芸雑誌が商業主義化し、もっぱら売り上げを重視する商業雑誌のようになり、「売れる必要はない」という純文学の精神は失われていったからからである。不思議なことだが、ここで、奇妙な逆説的構造が成立する。純文学作品は、「売れる必要はない」といっていた時は、ある程度売れていたにもかかわらず、売り上げを優先し、商業主義化すると同時に、純文学作品は、ますます売れなくなったからである。純文学は純文学をつらぬいたから売れなくなったのではない。純文学の精神を失ったからこそ純文学作品は売れなくなったのである。読者は、純文学作品に、あくまでも、純文学的精神を求めていたからであろう。純文学が歴史を作る、あるいは時代を先導することがあったが、それは、爆発的に、売れたからではない。「売れる必要はない」という純文学の神髄が、そこにあったからであった。現在の純文学作品が売れなくなったのは、純文学の精神が、つまり純文学の神髄が、失われてしまったからである。 では、純文学とは何か。純文学の神髄とは何か。

2021年8月14日土曜日

ー藤田東湖と西郷南洲(5)( 『維新と興亜 』次号(8号)に掲載予定の原稿です。 興味のある方は、是非、『維新と興亜 』の定期購読をお願いします。 ) https://ishintokoua.com/?page_id=7283 薩摩藩と水戸藩は、幕末の激動期に、きわめて深く、かつ緊密に結びついていた。「水薩同盟」とか「水薩連合」とかいう言葉が、それをあらわしている。たしかに、幕末の歴史を、詳しく見ていくと、「薩長同盟」よりは、「水薩同盟」の方が歴史的には重大な意味を持っていたと言ってもいいかもしれない。「一橋慶喜擁立運動」も「戊午の密勅」事件も、「安政の大獄」事件も、「桜田門外の変」も、水戸藩と薩摩藩の連携なくしては起こりえなかった歴史的大事件だった。薩摩藩の歴史や水戸藩の歴史を、それぞれ独立した別々の視点から見ていくと、「水薩同盟」の実態はなかなか見えてこない。実は、私も、つい最近まで、薩摩藩と水戸藩が、藩主同士の個人的な信頼関係もあり、それなりに親しい同盟関係にあったということは知っていたが、これほど深い関係にあったということは知らなかった。 実は、島津斉彬の手足として政治工作をおこなっていた西郷南洲は、いづれの事件にも深く関わっている。江戸に登場した西郷南洲は、主君=島津斉彬の命を受けて、水戸藩の有志たちとともに、「一橋慶喜擁立運動」に参加し、積極的に政治の表舞台で中心的な役割をはたしはじめる。それは、日本近海への異国船の登場に対して無為無策な江戸幕府の政治運営に批判的だった薩摩藩主=島津斉彬や、水戸藩主=徳川斉昭からの影響や指導があったことは言うまでもない。当時、水戸藩は、徳川御三家であるにも関わらず、「国防論」などをめぐって、徳川幕府とことごとく対立していた。水戸藩主=徳川斉昭が、幕政の改革を目ざしていたからだ。そして、徳川斉昭を支援していたのが、薩摩藩主=島津斉彬であり、島津斉彬の手足となって政治工作を展開していたのが西郷南洲だった。西郷自身については、無知無能な「木偶の坊」だったという意見もある。しかし、西郷南洲は、島津斉彬や徳川斉昭等が主張していた思想や政治を、島津斉彬が死に、徳川斉昭が謹慎蟄居を命じられても、一貫して、大胆に実行し、明治維新という革命を成功へ導いて行ったところを見ると、西郷南洲自身もまた有能な思想家であり、行動的な政治家だったように見える。 水戸藩と薩摩藩には、目に見えない思想的な「共通点」があった。それは、「死を恐れない行動力」の重視という点であった。その代表的な、そして典型的な事件が、水戸藩の有志たちと薩摩藩の有志たちが、連携して実行した「桜田門外の変」であった。 前回、「平和桜田門外の変」について触れたが、そこで話題にした、井伊直弼の首をとった後、現場近くで切腹・自決した「有村次左衛門」という薩摩藩の若いサムライについて、もう少し書いておきたいことが見つかったので、書き留めておきたい 。有村次左衛門は、事件の前夜、「婚礼」をあげていたというのだ。ほぼ99パーセント、死を覚悟の上での「大老=井伊直弼暗殺事件」への参加であった。死は、本人たちも覚悟のうえだったはずだ。では、相手の女性は誰だったのか。その後、その女性はどうなったのか。その女性の父親は、日下部伊三次(くさかべ・いそじ)という元水戸藩士だった。元々は水戸藩士ではなかった。薩摩藩からの脱藩浪人で、水戸の地に住み着いていた海江田連の長男だった。水戸に生まれ、弘道館で藤田東湖等の指導受け、成績優秀で、文武両道にひいでた青年ということで、水戸藩士に取り立てられていた。しかも、藩主=徳川斉昭につかえる立場にあった。日下部伊三次は、水戸生まれとはいえ、元々は薩摩藩士の子弟だということは知られていたのだあろう。当時は、徳川斉昭や島津斉彬の計らいで、薩摩藩に復帰し、薩摩藩士となって、江戸の薩摩藩邸を根城に政治工作に専念していたのだ。しかも、水戸藩の京都留守居=鵜飼吉兵衛らの工作で、朝廷から水戸藩にくだった「戊午の密勅」を、鵜飼吉兵衛の息子=幸吉とともに、京から江戸の水戸藩邸に運び込んだのが、日下部伊三次だった。そのために、井伊直弼が発動した「安政の大獄」で、捕縛され、すでに獄死していた。有村次左衛門と婚姻の儀式をおこなった相手の女性は、その日下部伊三次の長女の日下部マツ(松子 )だった 。有村次左衛門は、薩摩藩の有村三兄弟(俊斎 、雄助、次左衛門)の三男として有名だが、有村次左衛門と日下部マツは、父=日下部伊三次の希望で、日下部家を継ぐべく「養子縁組」の話が決まっており、すでに許嫁となっていたのであった。しかも、日下部伊三次は、すでに獄死していた。父の遺志をついで、若い二人は、翌日には死別することになるかもしれないということを承知の上で、ささやかな「婚礼」の儀式をおこなったのだろう。そこには、明らかに、「死を恐れない行動力」の精神の共有があった。実は、有村次左衛門の次兄=有村雄助も、「井伊直弼暗殺事件」の報告役だったが、その後、薩摩藩に逮捕、護送され、薩摩の地で大久保利通等の見守るなかで、切腹を命じられ、落命している。その後、日下部マツは、有村次左衛門の長兄=有村俊斎と再婚している。有村俊斎は、弟に代わって、日下部家を相続し、しかも、日下部家の本来の姓である「海江田」姓を名乗ることになる。後の「海江田信義」である。 海江田信義は、明治維新の激動期を生き延び、貴族院議員や枢密顧問官になっている。日下部伊三次一家は、水戸で、何故、「日下部」を名乗っていたかと言うと、実は日下部という姓は、「海江田」の本姓であったらしい。だから海江田連は、薩摩藩を脱藩、水戸の地に逃亡し、住みついた時、「日下部」を名乗ったのであろう。 さて、私が、今回、取り上げたいのは、日下部伊三次という人物である。日下部伊三次は、「 常陸国多賀郡」に生まれている。父は、太田学館幹事の海江田連である。海江田連は、元々は薩摩藩士であったが、薩摩藩の内部抗争で 敗れて、薩摩藩を脱藩、水戸の地に逃れて来て、そこで私塾を開いていた。当然、士分( 水戸藩士)ではなかった。しかし、私塾の評判はよく、水戸藩の青少年教育の一端をになっていた。太田学館の幹事になっていた。その子が 日下部伊三次である。日下部伊三次は、成長するにしたがって、人格・識見ともに高く評価され、水戸藩士となっていた。 徳川斉昭の謹慎・蟄居事件の時は、藤田東湖らとともに、その赦免活動に奔走している。すでに有力な水戸藩士だったことが推察されるが、やがて、事情を知った薩摩藩の島津斉彬に請われて、薩摩藩に復帰、薩摩藩士となり、江戸薩摩藩邸を根城に「尊皇攘夷運動」の中心人物として活動する。西郷南洲よりは一回り年長で、西郷南洲もひそかに心服していた。西郷南洲の手紙が残っている。 《 先日は日下部伊三次をお召し抱え になり、誠にありがたく大いに力を得て、かれこれ教示を受けています。水戸に罷りおられたころには決死の儀四度、幕府に捕われること五度、かく大難に処しおりし人物にて・・・。》 西郷南洲の人物評価は、 かなり手厳しいのが通例だが、水戸藩の藤田東湖等への評価は通例で、同じく水戸藩士だった日下部伊三次への評価もきわめて高いことがわかる。 島津斉彬が、水戸藩士・日下部伊三次を「薩摩藩士」として召しかかえると同時に、日下部伊三次は、西郷南洲らとともに、島津斉彬の手足となり、「尊皇攘夷運動」や「討幕運動」に奔走していた。特に、朝廷から水戸藩にくだった「戊午の密勅」事件における日下部伊三次の果たした役割は大きい。 水戸藩、あるいは水戸学派にとって、「戊午の密勅」事件は、重要な分岐点になる事件だった。水戸藩では、この朝廷からの密書を受け入れるか、それをそのまま返還すべきかを巡って、水戸藩内部で、激しい意見の対立が起こった。それは門閥派と改革派との対立だけではない。改革派内部でさえ、激しく対立=分裂したのである。たとえば、水戸学派の重鎮で改革派のリーダーでもあった会沢正志斎は、「 戊午の密勅 」を返納すべきと主張し、後に桜田門外の変の首謀者となる高橋多一郎や金子孫二郎等と激しく対立し、分裂していった。 さて、この水戸藩を揺り動かす密勅騒動だが、実は、この密勅騒動の中心人物の一人が、薩摩藩士となって京都で活動していた日下部伊三次だった。日下部伊三次は、水戸藩京都留守居の鵜飼吉左衛門等と、「戊午の密勅」と呼ばれることになる密勅を、手にいれると同時に、鵜飼吉左衛門の息子、幸吉と二人で、江戸の水戸藩邸に届けている。この事実を幕府の知ることとなり、大老=井伊直弼等は、密勅の返還を求め、水戸藩家老等を、ますます厳しく問い詰め、脅迫し始める。それと同時に、水戸藩でも、返還派と拒否派に別れ、深刻な内紛が始まる。 この頃、西郷南洲は、どうしていたか。 一部には、西郷南洲は、主君=島津斉彬が急死したために、糸の切れた凧のように、右往左往しはじめたという人もいるが、私は、そうは思わない。西郷南洲は、島津斉彬の急死で、一時的には、殉死も考えるほど絶望し、途方に暮れるが、いつまでも途方に暮れていることは許されなかった。時代は急激に動いていた。西郷南洲も、動かざるをえなかった。もちろん、日下部伊三次や水戸藩の同士たちと連絡を取りつつ動いていた。 実は 、いわゆる「戊午の密勅」が朝廷から水戸藩へくだる直前に、西郷は、西郷で、もう一つの「密書」を手に入れ、それを江戸の水戸藩邸に届けている。しかし、その頃の水戸藩邸は、幕府の監視下にあり、立ち入る隙はなかった。仕方なく有村俊斎に持たせて京に向かわせている。おそらく、水戸藩や薩摩藩は、この頃、局面を打開するために、朝廷からの密書や密勅を手にいれようと躍起になっていたのだろう。

2021年8月13日金曜日

 

藤田東湖と西郷南洲(5)・・・日下部伊三次について
山崎行太郎公式チャンネル。
To: 坪内隆彦, 自分
1 時間前
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藤田東湖と西郷南洲(5)

薩摩藩と水戸藩は、幕末の激動期に、きわめて深く、かつ緊密に結びついていた。「水薩同盟」とか「水薩連合」とかいう言葉が、それをあらわしている。たしかに、幕末の歴史を、詳しく見ていくと、「薩長同盟」よりは、「水薩同盟」の方が歴史的には重大な意味を持っていたと言ってもいいかもしれない。「一橋慶喜擁立運動」も「戊午の密勅」事件も、「安政の大獄」事件も、「桜田門外の変」も、水戸藩と薩摩藩の連携なくしては起こりえなかった歴史的大事件だった。薩摩藩の歴史や水戸藩の歴史を、それぞれ独立した別々の視点から見ていくと、「水薩同盟」の実態はなかなか見えてこない。実は、私も、つい最近まで、薩摩藩と水戸藩が、藩主同士の個人的な信頼関係もあり、それなりに親しい同盟関係にあったということは知っていたが、これほど深い関係にあったということは知らなかった。 実は、島津斉彬の手足として政治工作をおこなっていた西郷南洲は、いづれの事件にも深く関わっている。江戸に登場した西郷南洲は、主君=島津斉彬の命を受けて、水戸藩の有志たちとともに、「一橋慶喜擁立運動」に参加し、積極的に政治の表舞台で中心的な役割をはたしはじめる。それは、日本近海への異国船の登場に対して無為無策な江戸幕府の政治運営に批判的だった薩摩藩主=島津斉彬や、水戸藩主=徳川斉昭、水戸学派の思想家=藤田東湖等からの影響や指導があったことは言うまでもない。当時、水戸藩は、徳川御三家であるにも関わらず、「国防論」などをめぐって、徳川幕府とことごとく対立していた。水戸藩主=徳川斉昭が、幕政の改革を目ざしていたからだ。そして、徳川斉昭を支援していたのが、薩摩藩主=島津斉彬であり、島津斉彬の手足となって政治工作を展開していたのが西郷南洲だった。西郷自身については、無知無能な「木偶の坊」だったという司馬遼太郎等の意見もある。しかし、西郷南洲は、島津斉彬や徳川斉昭等が主張していた思想や政治を、島津斉彬が死に、徳川斉昭が謹慎蟄居を命じられ、あるいは安政の大地震で藤田東湖が急死して後も、「尊皇攘夷運動」を、一貫して、大胆に実行し、明治維新という革命を成功へ導いて行ったところを見ると、西郷南洲自身もまた有能な思想家であり、行動的な政治家だったように見える。 水戸藩と薩摩藩には、目に見えない思想的な「共通点」があった。それは、「死を恐れない行動力」の重視という点であった。その代表的な、そして典型的な事件が、水戸藩の有志たちと薩摩藩の有志たちが、連携して実行した「桜田門外の変」であった。桜田門外の変に参加した人たちは、ほぼ全員が死んでいる。死を覚悟の上で事件に参加し、実行した事件だった。しかし、この桜田門外の変という大事件で、歴史は動いた。

前回、「平和桜田門外の変」について触れたが、そこで話題にした、井伊直弼の首をとった後、現場近くで切腹・自決した「有村次左衛門」という薩摩藩の若いサムライについて、もう少し書いておきたいことが見つかったので、書き留めておきたい 。有村次左衛門は、事件の前夜、「婚礼」をあげていたというのだ。ほぼ99パーセント、死を覚悟の上での「大老=井伊直弼暗殺事件」への参加であった。死は、本人たちも覚悟のうえだったはずだ。では、相手の女性は誰だったのか。その後、その女性はどうなったのか。その女性の父親は、日下部伊三次(くさかべ・いそじ)という元水戸藩士だった。元々は水戸藩士ではなかった。薩摩藩からの脱藩浪人で、水戸の地に住み着いていた海江田連の長男だった。水戸に生まれ、弘道館で藤田東湖等の指導受け、成績優秀で、文武両道にひいでた青年ということで、水戸藩士に取り立てられていた。しかも、藩主=徳川斉昭につかえる立場にあった。日下部伊三次は、水戸生まれとはいえ、元々は薩摩藩士の子弟だということは知られていたのだあろう。当時は、徳川斉昭や島津斉彬の計らいで、薩摩藩に復帰し、薩摩藩士となって、江戸の薩摩藩邸を根城に政治工作に専念していたのだ。しかも、水戸藩の京都留守居=鵜飼吉兵衛らの工作で、朝廷から水戸藩にくだった「戊午の密勅」を、鵜飼吉兵衛の息子=幸吉とともに、京から江戸の水戸藩邸に運び込んだのが、日下部伊三次だった。そのために、井伊直弼が発動した「安政の大獄」で、捕縛され、すでに獄死していた。有村次左衛門と婚姻の儀式をおこなった相手の女性は、その日下部伊三次の長女の日下部マツ(松子 )だった 。有村次左衛門は、薩摩藩の有村三兄弟(俊斎 、雄助、次左衛門)の三男として有名だが、有村次左衛門と日下部マツは、父=日下部伊三次の希望で、日下部家を継ぐべく「養子縁組」の話が決まっており、すでに許嫁となっていたのであった。しかも、日下部伊三次は、すでに獄死していた。父の遺志をついで、若い二人は、翌日には死別することになるかもしれないということを承知の上で、ささやかな「婚礼」の儀式をおこなったのだろう。そこには、明らかに、「死を恐れない行動力」の精神の共有があった。実は、有村次左衛門の次兄=有村雄助も、「井伊直弼暗殺事件」の報告役だったが、その後、薩摩藩に逮捕、護送され、薩摩の地で大久保利通等の見守るなかで、切腹を命じられ、落命している。その後、日下部マツは、有村次左衛門の長兄=有村俊斎と再婚している。有村俊斎は、弟に代わって、日下部家を相続し、しかも、日下部家の本来の姓である「海江田」姓を名乗ることになる。後の「海江田信義」である。 海江田信義は、明治維新の激動期を生き延び、貴族院議員や枢密顧問官になっている。日下部伊三次一家は、水戸で、何故、「日下部」を名乗っていたかと言うと、実は日下部という姓は、「海江田」の本姓であったらしい。だから海江田連は、薩摩藩を脱藩、水戸の地に逃亡し、住みついた時、「日下部」を名乗ったのであろう。 さて、私が、今回、取り上げたいのは、日下部伊三次という人物である。日下部伊三次は、「 常陸国多賀郡」に生まれている。父は、太田学館幹事の海江田連である。海江田連は、元々は薩摩藩士であったが、薩摩藩の内部抗争で 敗れて、薩摩藩を脱藩、水戸の地に逃れて来て、そこで私塾を開いていた。当然、士分( 水戸藩士)ではなかった。しかし、私塾の評判はよく、水戸藩の青少年教育の一端をになっていた。太田学館の幹事になっていた。その子が 日下部伊三次である。日下部伊三次は、成長するにしたがって、人格・識見ともに高く評価され、水戸藩士となっていた。 徳川斉昭の謹慎・蟄居事件の時は、藤田東湖らとともに、その赦免活動に奔走している。すでに有力な水戸藩士だったことが推察されるが、やがて、事情を知った薩摩藩の島津斉彬に請われて、薩摩藩に復帰、薩摩藩士となり、江戸薩摩藩邸を根城に「尊皇攘夷運動」の中心人物として活動する。西郷南洲よりは一回り年長で、西郷南洲もひそかに心服していた。西郷南洲の手紙が残っている。

《 先日は日下部伊三次をお召し抱え になり、誠にありがたく大いに力を得て、かれこれ教示を受けています。水戸に罷りおられたころには決死の儀四度、幕府に捕われること五度、かく大難に処しおりし人物にて・・・。

西郷南洲の人物評価は、 かなり手厳しいのが通例だが、水戸藩の藤田東湖等への評価は別で、同じく水戸藩士だった日下部伊三次への評価もきわめて高いことがわかる。 繰り返しになるが 、島津斉彬が、水戸藩士・日下部伊三次を「薩摩藩士」として召しかかえると同時に、日下部伊三次は、西郷南洲らとともに、島津斉彬の手足となり、「尊皇攘夷運動」や「討幕運動」に奔走していた。特に、朝廷から水戸藩にくだった「戊午の密勅」事件における日下部伊三次の果たした役割は大きい。 水戸藩、あるいは水戸学派にとって、「戊午の密勅」事件は、重要な分岐点になる事件だった。水戸藩では、この朝廷からの密書を受け入れるか、それをそのまま返還すべきかを巡って、水戸藩内部で、激しい意見の対立が起こった。それは門閥派と改革派との対立だけではない。改革派内部でさえ、激しく対立=分裂したのである。たとえば、水戸学派の重鎮で改革派のリーダーでもあった会沢正志斎は、「 戊午の密勅 」を返納すべきと主張し、後に桜田門外の変の首謀者となる高橋多一郎や金子孫二郎等と激しく対立し、分裂していった。 高橋多一郎も金子孫二郎も、「桜田門外の変」後に、悲惨な最後を迎えている。





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坪内隆彦
To: 自分
1 時間前
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山崎先生

いつも大変お世話になっております。
原稿拝受いたしました。
ありがとうございます。

坪内隆彦拝

2021年8月13日(金) 16:43 山崎行太郎公式チャンネル。 <yama31517@gmail.com>:
坪内隆彦
To: 自分
42 分前
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山崎先生

ゲラを添付いたします。

坪内隆彦拝

2021年8月13日(金) 16:43 山崎行太郎公式チャンネル。 <yama31517@gmail.com>:


2021年8月6日金曜日

■再び「江藤淳の原点=十条仲原」について。

 ■再び「江藤淳の原点=十条仲原」について。

前回に続いて 、再び「江藤淳の原点=十条仲原」について考えてみたい。どうしても解けない謎が残っているからである。江藤淳は、日比谷高校を卒業して、現役で、慶應義塾大学文学部に進学している。東大受験に落第し、合格した慶應義塾大学に進学したと書いている。私が分からないのは、その後、日比谷高校の職員室に恩師を訪ねて、慶應の真新しい制服制帽姿で、慶應進学を報告に行ったと、自筆年譜その他に書いているところだ。その時の「君も案外、伸びなかったね」という恩師の冷たい反応(言葉)に、江藤淳は激怒し、二度と母校=日比谷高校を訪問していない、と書いているところだ。しかし、「東大合格者数日本一」を誇る日比谷高校の職員室だ。恩師とはいえ、「東大合格者数」という数字( 売り上げ )に身命を注ぐ企業戦士である。所詮、サラリーマンなのである。恩師の反応は、充分  、予想されたことだろう。江藤淳は予想していなかったのだろうか。そこが不思議なところだ。そこが謎なのだ。

私は、その頃、江藤淳の最大の関心事が、つまり最大の人生論的目標が、「東大合格」という点にはなかったということではないかと思う。では、最大の関心事は何だったのか。それは、やはり北区十条仲原時代の「貧乏生活」と「屈辱」と「絶望」にあったのではないか。その「貧乏生活」と「屈辱」と「絶望」から抜け出すことこそ、その頃の人生論上の最大の関心事だったのではないか。「東大合格」では、そこから抜け出すことは出来ないと、その頃の江藤淳は考えていたのではないか。言い換えれば、江藤淳の「絶望感」と「屈辱感」は、あまりにも重く、深かったのではないか。受験勉強的価値観や日比谷高校的価値観では乗り越えられないような深い絶望と屈辱の中で、悶え苦しんでいたのだろう。

私の解釈によると 、江藤淳にとって、「慶應進学」とは、何がなんでも、  東大でなければならないと、東大合格を目差して、一浪しても二浪してもと、ガリ勉に励む優等生たちに対する勝利宣言だった。だからこそ、日比谷高校の恩師たちの元に、「慶應進学」の報告に出向いたのではないか。

私は、ここで、江藤淳の数少ない思想的盟友ともも言うべき詩人=文芸評論家の吉本隆明の「もっと深く絶望せよ」という言葉を思い出す。江藤淳は、「絶望」や「屈辱」や「虚無」・・・とは、もっとも無縁な文学者だというのが一般的な印象ではないだろうか。「絶望」や「屈辱」や「虚無」・・・という言葉が好きな文学青年や文学愛好者たちには、江藤淳の「絶望」や「屈辱」や「虚無」・・・の深さや重さは、理解不可能であろう。おそらく、吉本隆明や柄谷行人ぐらいしか理解できないものだった。

2021年7月30日金曜日

 久しぶりに、メルマガ「山崎行太郎の毒蛇通信」を配信しました。

《 竹中平蔵とオリンピックと「ネット右翼世代」》


https://www.mag2.com/m/0001151310.html

https://www.mag2.com/m/0001151310.html

2021年7月28日水曜日

 ■商業文芸誌の書き手の中心は、何故 、文藝評論家から「ライター」にとって代わられたのか。


いつの頃だろうか、多くの有能な文芸評論家たちが、商業主義文芸誌から消えた。文芸誌は、商業主義を追求するあまり、文学の原点を忘れ 、「売り上げ」が文学の基準になり、結果的に文学は、商業主義を追求するあまり、商業的にも衰退し、文学自体も社会的に地盤沈下し、存在意義を失っていった。つまり、文学の重要な存在根拠だった「文芸評論家」が、文芸誌や文壇から排除され 、追放されることによって、文学は衰退していったと言っていい。何故か。ここに、現代日本の文化的貧困化、文化的窮乏化の具体的な見本があると、私は思っている。文芸評論家には、曲がりなりにも「批評」があった。批評とは何か。文学批判や小説批判の能力である。批評的思考力である。しかし、ライターにはそれがない。ライターには、文学や小説を批判したり、批評したり、否定する能力はない。「御用学者」的なゴマすり 、それがライターである。私は、「ライター」という言葉を冷笑的に、侮蔑的に使っている。

たとえば、「武田砂鉄」という「ライター」がいるが、商業文芸誌「文学界」や「すばる」に、コラムを連載している。何故、武田砂鉄のようなライターが、文芸誌に連載を持っているのか、私には不可解だが・・・。その「ライター武田砂鉄」が、「LGBT騒動」について、「水を得た魚」のように積極的に発言している。なるほど、「誰もが否定出来ない」正論である と思う。しかし、こういう小市民的な、人畜無害の「正論すぎる正論」を自信満々に書き続け、掲載することが 、文芸誌の主要な役割で あろうか。私は、「編集者」というサラリーマンが、こういう凡庸な「正論」に傾きがちなことは仕方がないと思う。こういう時のために、「編集者」たちが飼い慣らしておいたのが、自分たちの人畜無害の「エセ正論」を代弁してくれる、いわゆる「御用ライター」なのだろうか。どうもそういう気がする。

2021年7月26日月曜日

 ■天皇陛下の「開会宣言」に座ったままだったスガ首相と小池知事。


私はオリンピックにもコロナにも、さほどの興味がない。昨夜の開会式も、ちょっとテレビで覗いただけで、ずっと見ていたわけではないが、天皇陛下の「開会宣言」の場面は、偶然、見ていた。スガ首相が、途中から、誰かに命令されたかのように、嫌々ながら~、渋々と〜(笑)立ち上がった。一瞬、なんのことか分からなかったが、「トンデモナイ」ことを、スガが仕出かした場面だということに、気づいた。私も、半分、眠りながら見ていたので、事態を呑み込むのに時間がかかったのだった。