村井宮城県知事の「大英断」(有観客)をあざ嗤う。村井は、典型的なネットウヨ。ネットウヨが、総理大臣や県知事をつとめる斜陽国家=ジャパンの現在(笑)。ネットウヨ大学教授・岸博幸が、天才バガボン高橋洋一にかわって、内閣府参与(?)に就任とか。みんな、竹中一派だよねー。それにしても、水道民営化も、宮城県だったねー。ネットウヨのエセ文化人・門田隆将あたりは、ヨダレを垂らしながら、手を叩いて拍手喝采するだろうねw。私は 、コロナにもワクチンにも、オリピッグにも 、まったく興味ないが~。どうでもいい話だが、おもしろいねー。ミミズの戯言(タワゴト )でした。
Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
2021年7月14日水曜日
■薩摩藩と水戸藩と日下部伊三次( 『 藤田東湖と西郷南洲』 余録)
桜田門外の変で、井伊直弼暗殺に成功しながら、現場近くで彦根藩の武士に切られて負傷し、逃亡を断念、その場で自決した有村次左衛門は、前夜、日下部伊三次の娘=マツ( 松子)と婚姻の儀式を行っていた。日下部伊三次とは何者か。日下部伊三次と有村次左衛門は、どういう関係にあったのか。有村次左衛門は、有村家の三男であり、日下部伊三次の長女と婚約することで、日下部家の家督を相続する予定だったものと思われる。しかし、有村次左衛門が、桜田門外の変で自刃・自決したことで、日下部伊三次の長女と再婚したのが、有村次左衛門の長兄・有村俊斎( 後に「海江田信義」)だった。有村俊斎は、弟の婚約者だったマツ( 松子)と再婚し、日下部家を相続する同時に、日下部の旧姓であった「海江田」を名乗ることになる。それが、明治維新の激動期を生き延び、明治新政府で、貴族院議員や枢密院顧問などの要職を勤めた海江田信義である。
ところで、西郷南洲も、日下部伊三次を人間として高く評価していた。日下部伊三次は「水戸藩士」だったが、島津斉彬の懇願で、「薩摩藩士」となっている。実は、ここには、不思議な歴史的背景があった。日下部家は、元々、薩摩藩の武士であったが、薩摩藩の「ある事件」に巻き込まれたらしく、薩摩藩から逃亡し、水戸の地に住み着いていた。その元薩摩藩士が、日下部伊三次の父、海江田連である。海江田連は、名前を「日下部」に変え、水戸藩の太田で、私塾をひらいて、青少年の教育に励んでいた。教育者としての海江田連は、人格、識見、ともに高い評価を得て、太田学館の幹事にまでなっていた。その息子が日下部伊三次である。日下部伊三次は 、父の後を継いで太田学館の幹事となるが、父と同様に、その人格識見を買われ、水戸藩士に取り立てられている。日下部伊三次を見た徳川斉昭は、その人格を認めると同時に、親交のある薩摩藩主・島津斉彬に推薦し、薩摩藩士として復帰出来るようにと取り計らった。島津斉彬もまた、日下部伊三次の力量に注目し、薩摩藩江戸屋敷詰めの薩摩藩士として、喜んで受けれたのだった。それからは、日下部伊三次は、薩摩藩と水戸藩の連絡役となり、両藩を股にかけて、尊皇攘夷派の武士として重要な役割を演じることになる。「安政の大獄」事件のきっかけともなった水戸藩の「戊午の密勅」事件の主役の一人が日下部伊三次だった。日下部伊三次は、水戸藩の鵜飼吉左衛門らとともに 、密勅を水戸藩江戸屋敷へ運ぶ。この「戊午の密勅」事件で、幕府と水戸藩は、激しく対立し、一触即発の危機的状況になる。その結果が、井伊直弼が発動した「安政の大獄」事件である。この安政の大獄で、多くの尊皇攘夷派の志士たちつおともに日下部伊三次も、尊皇攘夷派の志士として捕縛され、獄死した。
2021年7月12日月曜日
■商業誌としての文芸雑誌は滅びよ。全ての文芸雑誌が滅びた後に、文学は蘇るはずだ。ーー文芸雑誌撲滅論。
珍しく、ある文芸雑誌から20枚程度の原稿を依頼されたので、今、私は、文学や文芸雑誌というものに、昔ほど、関心や興味があるわけではないが、そうかと言って、まったくないわけでもないので、思いつくままに、文学や文芸雑誌に関する「個人的な感想」を書いてみることにする。「ある文芸雑誌」と言っても、いわゆる大手出版社の出している「文学界」や「新潮」などのような有名な文芸雑誌ではない。また「早稲田文学」や「三田文学」のような大学をバックとした伝統ある文芸雑誌でもない。『文芸思潮 』という極めてマイナーな文芸雑誌である。マイナーな文芸雑誌ではあるが、私は、大手出版社の出す文芸雑誌に関心がないのと反比例して、逆にそのマイナーな文芸雑誌『文芸思潮 』に興味を持っている。そこには 、商業誌的な文芸雑誌にはないものがある。文学の原点、文学の素心、文学の神髄・・・とでも言うべきものが、そこには、確実にあるからだ。
かつて 、「同人誌」というものが盛んであった。私が、文学や小説に関心を持つようになった頃 、芥川賞を受賞し、話題になったのは、柴田翔の『 されどわれらが日々』という小説だった。その小説は、元々は、「象」という同人誌に発表されたものだった。また、東京の高校生( 藤沢成光)が学内の同人誌「しまぞう」に発表した『 羞恥に満ちた苦笑』という小説が、朝日新聞の「文芸時評」に取り上げられ、大きな話題になったのもその頃だった。その頃までは、文学や小説は、同人誌中心に機能していた。「文学界」の巻末には、「同人雑誌評」といコーナーがあった。私は、そこを、ひそかに愛読していた。澁澤龍彦や秋山駿、河野多恵子、佐木隆三・・・などの名前を知ったのは、その「同人雑誌評」であった。
ところで、「ある文芸雑誌」は、全国の「同人誌」を特集し、同人誌を紹介している。というより、全国の同人誌を母体にして成り立っている文芸雑誌と言っていいかもしれない。商業誌としての大手出版社発行の文芸誌の力が増し、文学や小説の中心が、商業誌としての文芸雑誌に移ると同時に、あるいは文芸雑誌が主催する「文学新人賞」の役割が拡大するに連れて、文学や小説の世界も、商業化し、「売れあげ」重視の文学や小説へと変貌して行った。「売れない小説は小説ではない」(笑)とでも言うかのように、文学は「商業主義」にのみこまれていった。
文壇や文芸雑誌の界隈で、「売れた、売れた〜」と大騒ぎすることが、文学や小説の中心的話題となるようになったのも、その頃からである。村上春樹の登場は、その流れを決定的にした。村上春樹が「ノーベル賞候補」になったと、大騒ぎするのが、文芸雑誌編集者たちの毎年の恒例になったのも、その一例だろう。極端な場合は、村上春樹の新作は、出版される前に、大ベストセラー騒動がおこり、大ベストセラーへ爆進という珍喜劇までが起こる。噂では、村上春樹批判は、文壇や文芸雑誌の世界ではダブーとなり、村上春樹批判をする文芸評論家たちは、文壇や文芸雑誌から煙たがられ、排除され、追放されていった。私と同世代か、その前後の世代の文芸評論家達の多くは、村上春樹とその小説には批判的だった。そして当然のように 、彼らは、表舞台(文芸雑誌 )から消えていった。彼らに代わって、文芸雑誌に登場してきたのが 、東大教授や准教授を筆頭に、毒にも薬にもならない無能な大学教員やその予備軍であった。彼らは、文芸雑誌の編集者たちの「意向」を忖度して、恥も外聞もなく、「村上春樹絶賛」を繰り返した。彼らは、書くことに命を賭けていない。東大法学部教授の丸山眞男が、大学が本業だとすれば 、雑誌や新聞などのメディアの仕事は「夜店」みたいなものだ言ったことがあるが〜。その結果、文学や小説から「批評」や「論争」が消えた。文学や小説が地盤沈下して、社会的にも存在意義を喪失していくはずである。現在の文学の退廃と堕落は 、敗戦後の日本の惨状と変わらないだろう。
私の文学的出発は、岳真也さんが主宰する同人雑誌『蒼い共和国 』だった。商業誌ではなかった。私は、同人雑誌から出発し、同人雑誌を中心的な舞台として文学的活動を展開してきた。たまに商業誌としての文芸雑誌に登場したこともあるが、私の表現の場所は、あくまでも同人雑誌だった。大手出版社の商業誌としての文芸雑誌から見れば、明らかに「シロウト」であり、「アマチュア」でしかなかっただろう。しかし、私は、ある時点から、大手出版社の商業誌としての文芸雑誌というものに魅力も価値も存在意義も感じなくなった。大手出版社の文芸雑誌からの「原稿依頼」に一喜一憂する同世代の作家や評論家たちの姿を見ていて、それは文学ではない、そこには文学はない、と思うようになった。特に「小説」ではなく 、「批評」を重視していた私のよう文芸評論家志望の者は、文芸雑誌に適当に利用され、適当に使い捨てにされ、適当な時期が来ると切り捨てられるのだ、と思うと、自分が虚しくなった。なんのために「文学者」を目指したのか。私は、江藤淳や吉本隆明のような文芸評論家を目指していたので、やはり江藤淳や吉本隆明が自分のマイナーな雑誌(「季刊芸術」「試行」 )を作り、そこに、地道に、書きたいものを書いていくという「自立メディア」の方向を、自分も目指すべきだと考えるようになっていった。商業文芸雑誌の奴隷になってはいけない、と。そのことを自覚した頃、私は、自分の力で雑誌を作り、そこに 、「書きたいものを書いていく」という吉本隆明的な方法を模索した結果、その頃、登場してきたネット空間とネット言論に活路を見出すことにした。ネット空間とネット言論は「私の同人誌」だった。
先日、岳真也さんから、「夕刊フジ」が届いた。そこに、岳真也さんが、写真入りで大きく取り上げられていた。岳真也さんの最新作『翔 』が、注目すべき小説作品として紹介されていた。来るべきものが来たな、と私は思った。お前らには出来ないだろう、と。岳真也さんの『翔 』という小説は、『三田文学 』や『早稲田文学 』に、分載された「マイナー文学」だ。もちろん 、「売り上げ」重視の文芸誌とは無縁な作品だ。商業誌としての文芸雑誌は、当然のように、 岳真也さんの最新作『 翔』を無視している。書評で取り上げたという話も聞かない。そこで、「夕刊フジ」が、一ページを使って、ドカーンと取り上げたというわけだ。
話は変わるが、二三年前( ? )、「LGBT」が話題になったことがある。参議院議員の杉田某女史が、『新潮45 』に「LGBTには生産性がない」と書き、左翼リベラル派からバッシングを受けた事件である。さらに文芸評論家の小川某がそれを擁護したことで事件は拡大し、『新潮45 』が廃刊に追い込まれた事件である。その騒動の時、新潮社社員( 編集者 )たちが、一斉に、「LGBT差別」反対ののろしをあげた。「 新潮社社員( 編集者 )たち 」は 、出版社勤務とはいえ、所詮は、平凡な「社畜」、つまりサラリーマンであり、「健全なる一般庶民」であるから当然だろう。しかし、私 が疑問に思ったのは、新潮社に関係する作家や評論家たちまでが 、一斉に、「LGBT差別」反対に唱和したことである。最近の作家や評論家は、「健全なる一般庶民」と同じ感覚や思想の持ち主なのか、と思ったものだ。高橋源一郎や平野啓一郎、島田雅彦〜等も、含まれていたので、私は驚いた。というより、彼らが中心になって、それを主導していたので、絶望的な気分になった。商業誌文芸雑誌に飼い殺しにされた挙句、言いたいことも言えず、サラリーマン編集者たちに唱和している文学者たち〜。これこそ、文学者の「自殺行為」だろう。おまけに、高橋源一郎は、「文芸評論家」を名乗る小川榮太郎に向かって、「お前は文芸雑誌(商業誌 )に、一度も原稿を書いたことはないだろう」「文芸評論家を名乗ることは恥ずかしい」・・・とか言うような発言をした。馬鹿か、と思ったものだ。そもそも商業主義的文芸雑誌が、「文学」と「非文学」の差異を決めるのではない。私は、小川榮太郎の政治的発言の多くに反対である。しかし、小川榮太郎の「LGBT」騒動での勇気ある発言には、激しく同意した。小川榮太郎こそ文学者であり 、文芸評論家に相応しい、と。
そもそも文学とは何か。文学者とは何か。
■『月刊日本』連載中の『江藤淳とその時代』(6)に向けて〜。その原稿の下書き的メモです。
『江藤淳とその時代』(5)を、先日、どうにか書き終えました。「江藤淳の原点=十条時代」というテーマでしたが、枚数の限界もあり、書き足りなかったので、もう少し書き加えようと思います。江藤淳は、北区十条仲原3丁目1番地での生活を「穢土」と呼んでいます。この「穢土」という言葉には驚きますが、江藤淳が、この時代を、あるいはこの街を、どう見ていたか、どう感じていたか、あるいは、江藤淳自身の文学や学問にとって、どのように重要な意味や価値を持っていたかを考える上で、おそらく、この「穢土」という言葉は、キーワードとなる言葉です。江藤淳自身が、「北区十条仲原3丁目1番地」での七年間に、「文芸評論家=江藤淳」になった、と言っているように、江藤淳の批評は、「穢土」から生まれたと言っていいということでしょう。
江藤淳を、根拠もなく毛嫌いし、江藤淳の文章をまともに読んだこともないにも関わらず、古臭い文学趣味を根拠に、江藤淳を批判し、否定し、罵倒する人たちの多くが、この事実を知りません。江藤淳という文学者を、ブルジョワ趣味の上昇志向型インテリの「俗物」と見て、軽蔑的に嫌悪している人は少なくないと思われます。しかし、そういう人たちは、読みが浅いと言うべきです。いや、そういう人たちの文学趣味や文学観が、古すぎると思う。江藤淳の批評や文学は、過激である。「俗物であることを恐れない俗物」はもはや「俗物」ではない。「長生きが一番〜」「命あっての物種~」というような俗物的価値観とは対極にある「自殺」というかたちで、人生を終えた江藤淳は、明らかに俗物ではなかった。江藤淳を、「俗物」と見て、軽蔑、嘲笑していた人たちこそ俗物的価値観に囚われた俗物の典型であったと言うべきだろう。
2021年7月4日日曜日
■『江藤淳とその時代 』( 『月刊日本』連載原稿の下書きです。)
江藤淳は、華々しい活躍の足跡を残した日比谷高校時代について、ほとんど書き残していない。その代わり、ほぼ同時代のことであるが、北区十条時代の病苦と貧乏の「惨めな私生活」については、かなり詳しく書き残している。日比谷高校時代が「表の顔」だとすれば、北区十条仲原時代の「私生活」は「裏の顔」にあたるだろう。江藤淳を読んだことのある人なら、「自慢話」の好きな江藤淳は、日比谷高校時代の数々のエピソードを、これでもかこれでもかと、書き残していると思うかもしれない。そして自慢話にならない北区十条時代の貧乏生活については、黙っていたはずだ、と。そう考えるのが普通だろう。しかし 、江藤淳はそうしなかった。江藤淳は、自慢話より、自慢にならない北区十条時代の私生活を、かなり執拗に、しかも深い思いを込めつつ、書き残している。何故か。おそらくここには、文学者=江藤淳の文学的本質が隠されている。江藤淳的批評の本質とは、「言いたいことを言い、書きたいことを書く〜」という単純素朴なことだった。しかし、江藤淳の場合、もっと大事なことは、それを、誰に遠慮することもなく、大胆不敵に、実行 、実践したことである。江藤淳に「敵」が多かったのは、そこに原因があるが、逆に見れば、そこに、江藤淳の江藤淳たる最大の魅力があった。
江藤淳は、「文学」について、こう書いている。
《 逆に文学とは、決して権力構造にはなり得ないものである。そこでは文章が、作品がすべてであり、それを支える個々人の肉声以外の権威はあり得ない。身内から衝き上げて来るこの生身の肉声を、文学に定着したいという衝動がうずきつづけるかぎり、文学に関わる者は、”排除”されようが、孤立しあるいは追放されようが、ましてその所信を検閲によって黙殺され、世間の眼から隠蔽されようが、やはり孜孜として書きつづけなければならない。》( 江藤淳『 ペンの政治学』)
「 個々人の肉声」とか「身内から衝き上げて来るこの生身の肉声 」・・・というような言葉に注目したい。単純素朴な言葉で、誤解を招きそうな言葉だが、江藤淳にとっては、これが、江藤淳的批評の本質を語る言葉だと言っていいい。
2021年6月28日月曜日
■深田萌絵女史の保守論壇亡国論。
深田萌絵女史は、米国から、無事、帰国出来たようである。もちろん 、成田空港到着までは、そして成田空港でも、いろうろトラブルがあったようだが、どうにか東京の自宅に帰りつき、元の暮らしに戻れたようである。東京地検からの「出頭命令」は、どうなっているのか分からないが 、東京復帰後の深田萌絵女史は、相変わらず意気軒昂で、戦闘意欲を失っていない。昨夜の「Youtube動画」を見ながら、私は、江藤淳を思い出していた。手当り次第、緻密な論理と過激な思考力で、論破に論破を重ねて行く江藤淳〜。江藤淳と同様に、深田萌絵の言論は、刺激的で、挑戦的、挑発的だ。昨夜も、「エセ保守論壇雑誌」(will? )とその執筆者たちを 、ボロクソに批判、告発していた。深田萌絵の覚悟は、間違いなくホンモノのようだ。私は、もちろん、深田萌絵の発言の全てに賛成しているわけではないが、深田萌絵の言論人としての突破力と突撃力、破壊力には、全面的に賛成だ。そもそも、「WiLL」とか「HANADA」とか「正論」なんて雑誌は、保守論壇や保守雑誌を名乗っているが、実は保守雑誌でも保守論壇でもない。エセ保守論壇雑誌のコスプレ雑誌、単なる政権のゴマスリ専門の「ハナクソ雑誌」、ないしは権力という「旦那」に寄生してはいきるしかない「メカケ雑誌」にすぎない。この連中が 、言論人として「自立」出来るわけがない。そもそも、彼等は、言論人でも思想家や評論家でもない。だから 、深田萌絵女史の批判にも、一言も反論出来ないのだ。遠くから、「負け犬の遠吠え」を吼えるだけ。いや 、批判の意味も理解出来ていないというののが現実だろう。
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https://youtu.be/8Ai03kryUkE
2021年6月27日日曜日
昨日は、コロナ禍が影響して、異常な安値になっている東京都心のホテルに一泊した。正午頃、チェックアウトして、東十条駅へ向かった。私は、普段、東十条駅に降りることはほとんどない。今までにも、一、二回しかないと思う。では、昨日、何故、東十条駅に降りたのか。実は、私は、今年、『月刊日本』に『江藤淳とその時代 』の連載を開始した。私は、江藤淳に関して新しい情報や珍しい資料を持っているわけではない。私が、持っているのは、誰でもが持っている情報や資料にすぎない。もし、私の『江藤淳とその時代 』に「誇れる」ものがあるとすれば、それは、誰もが持っている情報や資料を元に、私なりの独断と偏見に基づく独自の分析や評価や解釈の部分だろう。というわけで、私は、東十条駅に降りたったのである。東十条駅は京浜東北線の駅だ。私は、東京駅や有楽町駅、新橋駅、田町駅・・・などへ向かう時は、いつも東十条駅を通過して、目的地へ向かう。しかし東十条駅は通過するだけの駅で、まったく馴染みはない。ところで、江藤淳は、当時、つまり、高校、大学時代、北区十条仲原3丁目1番地の「帝銀社宅」(三井住友銀社宅 )に住んでいた。最寄り駅が、十条駅か東十条駅だったことは間違いない。私は、十条駅だと思っていたが、東十条駅だった可能性もゼロではない。湘南中学( 湘南高校生)時代の友人達が、ここ東十条駅で降りて江藤淳宅に向かった、とあったから、江藤淳は東十条駅に迎えに行ったのかもしれない。そしてまた転入した日比谷高校へも 、この東十条駅から通学したのかもしれない。もちろん、田町駅を最寄駅とする慶応義塾大学三田キャンパスへは、この東十条駅を使っただろう、と思う。東十条駅は、江藤淳にとっては、思い出の詰まった駅なのだ。私は、そう思って、昨日、東十条駅駅に降りたったのだ。そして東十条駅から北区十条仲原3丁目1番地を求めて、十条界隈を徘徊したのだ。北区十条仲原3丁目1番地は確認できなかったが、ほぼ見当はついた。私は、十条駅からは、青春時代の江藤淳の足跡を追い求めて、既に数回、探し回ったことはあった。今となっては、十条銀座も懐かしい。十条駅を降りて、十条銀座を経て、環七を横断する。すると、すぐそこには、下方に赤羽駅が見える。一度は、赤羽駅まで歩いたこともある。江藤淳は、この街に、高校 、大学時代の七年間を過ごした。実は江藤淳というと、鎌倉や新宿区百人町 、あるいは軽井沢千ヶ滝の街や土地などが思い出されるが、江藤淳にとってもっとも重要な街と土地は 、それらではない。北区十条仲原3丁目1番地こそ 、江藤淳を生み出したまちだった。江藤淳は、この街で、高校、大学時代の七年間を過ごしている。文芸批評を書きき始めたのこの街だった。文芸評論家=江藤淳の誕生にとって、もっとも重要な、 記念すべき場所なのだ。