おはようございます。4月1日。新年度になりました。私的には、生活環境に大きな変化があり、今年は、新たな決意の元で、新年度を迎えました。今後ともよろしくお願いします。(山崎行太郎)
Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.
2021年4月1日木曜日
2021年3月30日火曜日
私が『呉座勇一問題 』に拘る個人的理由と思想的根拠(3)。
ヘーゲルは『歴史哲学講義 』の冒頭で、事実の記述だけでは、歴史ではない、歴史は、哲学的歴史において初めて歴史になると言っている。このヘーゲル的歴史には、賛否両論があるだろうが、私は、重要な意見だと思う。小林秀雄は、その初期の段階から、ヘーゲル=マルクス主義的な「唯物史観」を激しく批判・攻撃しているが 、史料や文献だけで歴史が成立するとは言っていない。歴史への参加を主張している。また、私は、以前から東洋史学の岡田英弘(東京外語大名誉教授)の『 歴史とはなにか』を愛読しているが、岡田英弘も、歴史とは「空間軸と時間軸」の交差するところに成立するものだといっている。史料や文献だけで 、歴史という複雑なものが、理解できるとは言っていない。歴史(ヒストリー)は物語(イストワール、ヒストリー)と同義語である。当然だが、史料や文献だけでは、歴史は成り立たない。
「呉座勇一問題」で、私が、最大の根本問題だと思ったことは、呉座勇一が自慢する「歴史学者」たちの「方法」に関する問題だった。作家で歴史研究家の井沢元彦は、歴史学者を、「史料絶対主義」とか「史料第一主義」とか言って、歴史のメインテーマに踏み込まない歴史学者は専門馬鹿だとか激しく、批判・罵倒しているらしい。私は、井沢元彦をほとんど読んだことがないので、この表現が正確かどうか分からないが、私自身は、どちらかと言うと、井沢元彦の意見に賛成だ。歴史学者がつまらなのは、歴史の深層を避けて、史料や資料、あるいは文献にこだわりすぎて、その先の「歴史の哲学」とでもいうべき世界にに踏み込まないことだ。たとえば、呉座勇一は、「本能寺の変」で、明智光秀が、何故、謀反を起こして信長を攻めて死に追いやったのか・・・というような問題に、踏み込まないのが「歴史学者」だという。「本能寺の変」の謎のような一般受けするような問題を採り上げないのが歴史学者だ、と。史料や文献がないような歴史問題は、留保するのが歴史学者だ、と。やなるほど、そうか。そうであるならば、われわれが、歴史学者という人種を軽視し、軽蔑、無視するのも当然だろう。しかし呉座勇一は、それに怒り狂っているのだ。歴史学者を馬鹿にするのもいい加減にしろ 、と。呉座勇一は、八幡和郎等に反論して、こう書いている。
ーーーーーー引用始まりーーーーーー
そもそもなぜ明智光秀が本能寺の変を起こしたかという動機を考える上で役に立つ史料は乏しい。安土宗論もそうだが、在野の歴史研究家が「アカデミズムの歴史学者は答えを出していない。怠慢だ!」と批判する事例は、史料が乏しくて決定打が出せないものばかりである。史料がないから歴史学者が慎重に解答を留保している事象について、在野の歴史研究者が勝手に妄想して「謎を解いた!」と一方的に勝利宣言しているだけである。
ーーーーーー引用終わりーーーーーー
「 史料がないから歴史学者が慎重に解答を留保している事象 」という一節に私は注目する。史料が見つからないような場合 、「歴史学者が慎重に解答を留保する」ことが、歴史研究者の正しい在り方だと、呉座勇一は、主張しているように見える。一方、呉座勇一は言う、「在野の歴史研究者が勝手に妄想して『 謎を解いた!』と一方的に勝利宣言しているだけである。」と。ここで、在野の歴史研究家が「勝手に妄想して・・・」というときの「妄想」という表現は、呉座勇一という人間の人間性を 、よく表しているように見える。歴史研究や歴史解釈には、あまり良くない表現だが、この「妄想力」が必要だろう。この「妄想力」とは、言い換えれば、「思考力」ということであり「想像力」、「構想力」ということだろう。呉座勇一は、それを否定し、拒絶し、嘲笑しているということだ。呉座勇一という三流の歴史学者の歴史研究がつまらないのは、そのためだろう。
(先日、早稲田大学に行ってきました。さすがに、学生は、いませんでした。大隈講堂で、大学進学直前、大江健三郎の講演を聴いたことを思い出します。)
私が『呉座勇一問題 』に拘る個人的理由と思想的根拠(2)。
私は、呉座勇一をめぐる「呉座勇一●八幡和郎論争」や「呉座勇一●井沢元彦論争」をネット上で傍観しながら、「歴史問題」だけではなく、現在の日本が直面している多くの問題の根っこが、ここにあるのではないか、と考えた。それは、私が、日ごろから考えている日本人の「思考力の衰弱」「思考力の欠如」という問題であった。現在の日本では、「考えている人間」、あるいは「考えようとしている人間」を 、「考ええない人間」、あるいは「考える力のない人間」が、学歴や職歴、肩書きなどを武器にして、批判、攻撃し、バッシングしているという問題であった。受験馬鹿や受験秀才は、普通、「考える力」のある人間と思われている。しかし、それは、おおきな間違いである。彼らは、「考える力」「考える能力」「考える意欲」を放棄し、喪失した、「雑学=クイズ=マニア」的な丸暗記型のロボット人間である場合が少なくない。もちろん、例外はあるが・・・。呉座勇一がその具体的見本である。私が、呉座勇一の言動や論争時の言葉使いを傍観していて感じたことは、この人は、「考える力」のない人間だなー、ということだった。考える力のある人間は、自分の学歴や職歴、肩書きに、安易に依存する言論をしない。むしろ、そういう言論を恥じるものだ。私は、呉座勇一が、「在野の歴史研究者」という表現で、「在野の人間」を見下し、嘲笑し、愚弄している言論を見た時、すぐにそれを感じた。私自身 、東大卒でも国立大卒でもないので、ましてや国立大を盲目的に崇め奉る習癖のある地方の公立高出身なので、そういうことに敏感なのだ。さて、「呉座勇一問題」に戻る。呉座勇一は、井沢元彦と八幡和郎を相手に、以下のような文章(論争文)を書いている。タイトルからして、巫山戯ている。
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在野の歴史研究家に望むこと
2019年03月21日
呉座 勇一
国際日本文化研究センター助教
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この文章は、論争文であり、当然、激しい口調になっているが、それはともかくとして、この文章の中に、私の「癇に障る」表現があった。たとえば「在野」という言葉である。ここで、呉座勇一は、論争相手である、作家の井沢元彦と官僚出身で地方の私立大学教授でもある八幡和郎を、「在野の歴史研究家」と呼んで、見くだしているのである。逆に、「オレ様・・・」は、大学や国立の研究機関に勤務する、いわゆる「アカデミズム」の歴史学者であると、誇らしげに、言おうとしているのである。こんな文章がある。
ーーーーーー 引用始まり ーーーーーー
そもそも井沢氏(ついでに言うと八幡氏もだが)がおかしな陰謀論を唱えなければ、私がわざわざそれを批判する必要もなかったわけで、在野のトンデモ歴史研究家によって、教育普及活動を行っている歴史学者は足を引っ張られているわけである。妨害している当の本人が歴史学者に「もっと教育普及活動に力を入れろ。百田・井沢の説をきちんと具体的に批判しろ」と言うのは、泥棒が「盗難事件が多いのは警察がだらしないからだ。もっとちゃんと仕事をしろ」と文句をつけるようなものである。(呉座勇一)
ーーーーーー引用終わりーーーーーー
はー(?)。私は、この論争文の一節を読んで、はっきり言って、不快感だけではなく、怒りに近いものを感じた。呉座勇一は、井沢元彦や八幡和郎の「主張」を 、「陰謀論」と呼んでいる。私は、呉座勇一の主張の多くは正しいだろうと、推察する。しかし、井沢元彦や八幡和郎らの主張を、「 在野のトンデモ歴史研究家 ・・・」の「陰謀論」と切り捨てることには、首をかしげざるをえない。しかも、「 在野のトンデモ歴史研究家」を「泥棒」にたとえ、自分たち、「官学アカデミズムの歴史学者」 を警官にたとえている。この一文を読みながら、私は、不謹慎にも、「この男、頭は大丈夫か」と思ったものだ。
ーーーーーー引用始まりーーーーーー
もちろん在野の歴史研究家が新説を唱えるのは自由である。だが「学界の通説を一蹴した」といった誇大宣伝はやめてほしい。現に、古今東西の歴史に通暁しているはずの八幡氏でさえ井沢氏の主張を鵜呑みにして「井沢元彦が安土宗論に関する学界の通説を一蹴した」と思い込んでいたではないか。まして一般の読者なら井沢氏の自信満々な口ぶりに騙され、「井沢氏の言っていることこそが歴史の真実であり、歴史学者は馬鹿ばかり」と誤解しても不思議はない。(呉座勇一)
ーーーーーー引用終わりーーーーーー
この口ぶりには、唖然とせざるをえなかった。「学界」とか「歴史学者」というものに、誇りとプライドを持つことはいいだろう。さらに、「在野の歴史研究家」(歴史学者ではない!)と「歴史学者」とを、やや身分差別的に、明確に分けることも、しかたない。だが、考えてみるがいい。そもそも、「歴史学者」の歴史研究には誤りはなく、「在野の歴史研究家」の歴史研究は「陰謀論」ばかりというのは、言い過ぎというより、まさに「暴論」「愚論」でしかないのではないか。幸田露伴や森鴎外等の「歴史小説」や「歴史研究」には意味も価値もないのか。「江戸学の父」と言われる三田村鳶魚(えんぎょ)は、「官学アカデミズム」と無縁であったが、三田村鳶魚も、「在野のトンデモ歴史研究家」にしか過ぎないのか。あるいは 、小林秀雄の『 本居宣長』は、歴史研究に値しないのか。江藤淳の『 近代以前』という江戸思想史研究はどうか。あるいは 、秋田師範学校を出て、小学校教員や10数年のジャーナリスト生活を経て、京都帝国大学国史学科教授となり、東京帝国大学の白鳥倉吉教授とともに、戦前の歴史学界を二分した内藤湖南は、どうか。呉座勇一の説に従えば、内藤湖南の前半は、明らかに「在野のトンデモ歴史研究家」だったということになるのではないか。もし、若き日の内藤湖南が「在野のトンデモ歴史研究家」でしかなかったとすれば、何故 、京都帝国大学は、内藤湖南を教授に招聘したのか。内藤湖南の歴史研究を、評価したからではないのか。呉座勇一の井沢元彦や八幡和郎への批判には 、正しい批判もあるが、根本的間違いもある。 呉座勇一は、そもそも「歴史とは何か」という歴史研究の根本問題がわかっていない。
2021年3月29日月曜日
私が『呉座勇一問題 』に拘る個人的理由と思想的根拠(1)。
知らない人は不思議に思うかもしれないが、呉座勇一に関しては、私は、野次馬的興味もないわけではないが、かなり真剣に、拘っている。私は、最近、「歴史」という問題に、関心を持っている。私は、これまで、「文学」や「哲学」、あるいは「政治」などには、関心を持ってきたが、正直のところ「歴史」には、さほど興味がなかった。私が、最近、「歴史」に関心と興味を持つようになったのには思想的理由がある。私は、NHKの歴史大河ドラマは、昔からほとんど見ていないが、たまたま、2、3年前、西郷南洲をメインテーマにした『 西郷どん(セゴドン)』が放映された時、主な舞台や主人公が、自分の郷里や郷里の出身者たちでもあり、またNHKドラマ『 西郷どん(セゴドン)』の「時代考証」を担当した原口泉(鹿児島大学名誉教授)が、高校時代のクラスメートでもあったことなどから、興味を持って見ることにした。しかし、『 西郷どん (セゴドン) 』は、第一回目から、林真理子原作で、原作自体がいい加減なもので、放映されたドラマも期待はずれだった。その上、時代考証なども、かなり粗雑なものだった。西郷南洲が、殿様(島津斉彬)と相撲をとったり、西郷南洲と篤姫が恋愛感情をもっていたり 、錦江湾に飛び込んで心中事件を引き起こした西郷南洲と月照が「ボーイズラブ」だったりとか・・・。面白おかしく仕立てられた漫画チックな「ファンタジーノベル」か「ライトノベル」でしかなかった。違和感どころか、不愉快になり 、怒りさえ感じ始めたので、精神衛生上良くないので、後は見なかった。違和感や怒りを感じたのは私だけではなかったようで、「時代考証」担当の原口泉に問い詰める人もいたらしい。驚くべきことに、原口泉の答えは、「アレはドラマですから・・・」というものだったらしい。原口泉は、鹿児島では、NHKテレビに頻繁に登場することもあって、芸能人なみに「超有名人」(笑)らしく、講演会や各種のイベントなどに「引っ張りだこ」のようだが、専門のはずの歴史研究や時代考証の方は、おざなりらしい。私は、同級生の悪口は、これ以上、言いたくないので、やめるが、南洲墓地の横に「大久保利通記念碑」を建てるなど、「東京大学歴史学科卒」「国立大学教授」というような学歴や職歴を利用して、他にもいろいろ問題や騒動をしでかしているようなのだ。西郷南洲の縁戚の人間で、NHKドラマにも協力し、かたわら西郷南洲関係の歴史研究を続けている「某氏」などは、原口泉の「西郷南洲研究」を、目の仇にしている・・・という具合だ。というわけで、私は、突然、「歴史」や「歴史学」、あるいは「歴史哲学」「時代考証」「史料分析」・・・というものに思想的関心を持つようになった。ところで、たまたま、その頃、私の視界に、「呉座勇一」という名前の歴史研究者が、飛び込んで来たのである。それは、井沢元彦や八幡和郎らと、ネット上で、「歴史」や「歴史研究」、あるいは「資料」「文学」「アカデミズムと在野」・・・などをめぐって、論争している呉座勇一であった。私は、面白かったので、しばらく静観していたが、次第に、私自身の問題関心にも、かなり強い刺激を与えるものだったので、その論争に、野次馬的に、横から介入していったのである。呉座勇一は、そこで、作家や評論家の「歴史研究」を 、「在野の素人の歴史研究」と位置づけ、「われわれ(呉座勇一等)、官学アカデミズムに属する歴史研究者だけが、正式の歴史研者である」、「ド素人は黙っていろ」というような暴論と暴言を吐きまくっていたので、これは、黙っているわけにはいかない、と、不肖、私、山崎行太郎大先生(笑)が、満を持して、立ち上がったわけである。そして、例によって、例のごとく、ネット上で、執拗に「呉座勇一批判」を繰り返したのである。すると 、ある日、とつぜん、呉座勇一の「子分」(笑)と思しきチンケな野郎(生駒哲郎 、
「日本史史料研究」会長?)からチンケなメールが届いた。「呉座勇一批判はやめろ」「呉座勇一先生に謝罪しろ」「謝罪文は以下( 謝罪文) にしろ」「この警告メールを無視したら 、とんでもないことになるぞ」・・・というような恐喝メールだった。笑った 、笑った、笑った。今どき、こんな大バカ野郎が、この日本に棲息しているとは・・・。世間知らずにもほどがある。何を考えて歴史研究をやっているんだろう 、コイツらは・・・。これが「官学アカデミズム」の実態なのか・・・。子どものチャンバラごっこのような、そのチンケな警告を、当然、私は無視した。その後、どうなったか。続きは次回に。
2021年3月26日金曜日
国際日文研の「呉座勇一」について、私の知っていることを話してみよう。
「国際日文研」とは、バブル期のころ、古代史研究で有名な梅原猛等が主導して、京都に設立された研究機関「国際日本文化研究センター」である。バブル期の遺産である。そこで「助教」という下っ端研究員である「呉座勇一」が、何か、取り返しのつかない不始末をしでかして、謝罪騒動に追い込められたり、「国際日文研」の方でも、訳の分からない声明文を出したりと、前代未聞のスキャンダルに発展しているらしい。以下に引用するのは、「国際日文研」所長だという井上章一名義の声明文である。そもそも、井上章一という三流のナンチャラ文化人が、所長とは驚きであるが・・・。その前の「所長」は 「小松和彦」とかいう「妖怪ウォッチヤー」だったような気がするが、この程度の三流学者・エセ文化人が「所長」の国立研究機関が必要なのかどうか、はなはだ 疑問だが、こんなレベルのクズ研究機関のクズ研究員(呉座勇一のこと)が、学問や思想、文化の「阻害要因」になっているのだから、笑止である。税金の無駄使いとはこういうのを言うのだろう。
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2021.03.24 国際日本文化研究センター教員の不適切発言について
このたび、本センター教員が、私的に利用していたツイッターアカウントにおきまして、他者を傷つけ、研究者として到底容認されない発言を繰り返していたことが判明しました。即刻、解体し、廃絶すべきだろう。
本センターは、それらが個人の表現の自由を逸脱した良識を欠く行為であると考えています。
今回の発言は、多様性を尊重する本センターの方針に著しく背く行為と判断したため、所長および副所長が当該教員に厳重な注意を行い、傷つけられた方々に対し誠実に謝罪するよう厳しく指導いたしました。
本件におきまして、ツイッター上の発言を目にして不快な思いを抱かれた方々、また直接に迷惑をこうむられた関係者の皆さまには、心より深くお詫び申し上げます。
本センターは、性別・国籍はもとよりいかなる差別も厳しく禁ずる組織であり、今後、引き続き経緯を精査し規則等に照らし適切な対処を行います。併せて教職員の私的利用も含めたSNS利用ガイドラインを早急に公開し教職員に周知徹底し、このような事態が二度と起こらないよう努めてまいります。
このたびの本センター教員による一連の不適切発言につき深くお詫び申し上げます。
令和3年3月24日
所長 井上 章一
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井上章一名義の、この文章を読みながら、私は、本当に、お前は馬鹿だなーと思う。それで、よく学者を気取ってるなー。「美人論」が京大アカデミズムかよ・・・。呉座勇一はクズだが、女子供にペコペコするしか能のない、お前は、もっとクズだよ。ゴミクズ学者?
井上章一よ、「研究者として到底容認されない発言・・・」ってなんだよ。「ジェンダー」のことかよ。本来の「学問研究者」なら、職責を賭けて、言いたいこと、思うことを、自由に発言すべきだろう。世相や時勢に阿って、当たり障りのないことを発言することが、「学問の自由」なのか。お前が、三流のクズ芸人だということは明らかだよ。冗談だが、お前より、「ジェンダークソ喰らえ」の呉座勇一の方がまだマシだよ。私も、上野千鶴子とか「ジェンダーフリー」とか、「クソ喰らえ」と思っている。
井上章一のヒット作『美人論 』とかいう名著(迷著?)を読んだことはないが、バカバカしくて無視黙殺したが、その『美人論 』という名著(迷著)のタイトルからして、いかがわしいだろう。そもそも『 美人論』が「学問」なのか。女を美醜で判断し、選別している。何が、あらゆる差別に反対し・・・だよ。、
2021年3月25日木曜日
藤田東湖と西郷南洲(3-2)
西郷南洲と藤田東湖とが、交流したのは、わずか一年半であった。しかし、何回も繰り返すが、この「一年半」は、貴重な一年半であった。藤田東湖は、安政2年10月2日、志半ばで、安政の大地震に巻き込まれ、あっけなく歴史の表舞台から消えていく。残された西郷南洲にとって、嘆き悲しむ余裕も時間もなかった。まさに歴史は激動の時代へと入っていく。西郷南洲は、藤田東湖の「死亡」と共に、その遺志を受け継ぐかのように、藩主島津斉彬の手足となり、政治の前面に登場し、目覚しい活躍をする。この頃の政治は、どちらかと言えば、水戸藩を中心に動いていた。しかし、藤田東湖や戸田忠太夫等、いわゆる水戸学派の大学者=大思想家を喪った水戸藩は、迷走の兆しをみせはじめていた。そこで、薩摩藩と水戸藩、あるいは京都の朝廷との仲介役として八面六臂の活躍をするのが西郷南洲だった。まだ、江戸に着いてから2 、3年後のことだ。私は、本稿の冒頭で、福澤諭吉の「西郷南洲には学がなかった」という言葉に違和感を感じると記したが、福澤諭吉は、もちろん、当時、群を抜く大思想家であったが、やはり、福澤諭吉もまた、西郷南洲を擁護しながらも、「西南戦争」での惨敗という歴史的事実に振り回されていたと思われる。歴史はもちろん「結果」が重要である。しかし、結果論だけでは見えないものもある。たとえば、凡庸な歴史学者、凡庸な歴史研究者には見えない「何ものか」である。たとえば、ハイデッガーの存在論哲学では、「存在」と「存在者」を区別する。存在と存在者とは同じではない 、と。見える存在と見えない存在の差異・・・。藤田東湖や内村鑑三、中江兆民・・・等には、その「何ものか」が見えていたのだろう。私は、藤田東湖は、自分の遺志を受け継いでくれる後継者として、西郷南洲を見ていたと思う。おそらく、まだ「一年半」の交流しかしていない薩摩出身の若者に、何かを見ていたはずである。わずか「一年半」の交流に過ぎなかったが、藤田東湖の「遺志」は、確実に受け継がれたのである。そして、西郷南洲自身も、その期待をひしひしと感じていただろう。西郷南洲は、この頃から、「自分は、いつ死んでもいい」、「命懸けで・・・」、政治活動に打ち込むと言いはじめる。