2021年2月7日日曜日

森元首相(五輪・組織委員会・会長)の「女性差別発言(?)」を擁護する。

 森元首相(五輪・組織委員会・会長)の「女性差別発言(?)」を擁護する。


そもそも女性の言動を批判してはいけないのか。女性批判は、いつからタブーになったのか。それは、女性を、一人前の人間として認めないということではないか。女性であれ男性であれ、もっと激しく批判、批評、論争すべきである。批判や批評、論争が禁じられた国は滅びる。集団匕ステリー的バッシングは、批判ではなく 、批判や批評からの逃走でしかない。

私は大文字の「正義」、つまり「ポリコレ」が嫌いだ。森元首相の「女性は話が長い」という「女性差別発言」なるものが、マスコミやSNSなどで話題沸騰中のようだ。私は、森元首相のことは好きではない。どちらかと言えば批判的である。しかし、今回の”「女性差別発言」バッシング”・・・には、強い違和感を感じ

る。思考停止的集団ヒステリー???

     こういう時に、必ず登場してくるのが、欧米先進国(笑)のマスコミだが、その欧米マスコミが森元首相の発言を採り上げ、厳しく批判していると言う。だが、欧米マスコミとやらは、ちゃんと取材した上で批判しているのか。欧米マスコミこそいい加減ではないのか。そもそも、森元首相が、具体的に、どういう発言をしたかを確認しているのか。

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(日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会における、東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長の発言(全文)は、次のとおり。)

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 これはテレビがあるからやりにくいんだが。女性理事を選ぶというのは、日本は文科省がうるさくいうんですよね。


 だけど、女性がたくさん入っている理事会は、理事会の会議は時間がかかります。これは、ラグビー協会、今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか? 5人いるのか? 女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。


 あまり言うと新聞に漏れると大変だな。また悪口を言ったと言われる。女性を増やしていく場合は、「発言の時間をある程度、規制を促しておかないと、なかなか終わらないので困る」と言っておられた。誰が言ったかは言わないけど。そんなこともあります。


 私どもの組織委員会にも女性は何人いたっけ? 7人くらいか。7人くらいおりますが、みんなわきまえておられて。みんな競技団体からのご出身であり、国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですから、お話もシュッとして、的を射た、そういう我々は非常に役立っておりますが。次は女性を選ぼうと、そういうわけであります。

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森元首相の発言は、以上のようなものだったらしいが、これが「女性差別発言」なのか。そうだとすれば、「女性」について、何事であれ、発言してはいけない 、ということになりはしないか。別にどうでもいいが、これも、皮肉を込めて、逆説的に言えば、一種の「言論弾圧」であり「言論統制」ということになりはしないのか。

たとえば、私は、女性の作家が書いた小説について、ダメなものはダメだと徹底的に批判する。先月、新芥川賞作家(宇佐美りん)が発表され、まだ幼さの残る女性作家の記者会見の様子が放送されたが、私は、その記者会見のテレビ画面を見ながら、絶望的な気分になった。何故か。こんなものが現代日本文学の最前線なのか、と。私は、なんの根拠もないが、現代日本文学の沈滞、衰退、崩壊の原因の一つが、ここにあると思った。その後、その新芥川賞作家について、少し詳しく調べてみたが 、私の感想は変わらなかった。今でも変わらない。

さて 、森元首相の「女性差別発言」に戻る。以上のような森元首相発言について日本のマスコミ、欧米マスコミはどう伝え、どう批判しるのか。

たとえば、私が、今、一番注目し、情報源として重視している女性がいる。深田萌絵という「1Tジャーナリスト(アナリスト)」である。私は、「男女差別」とか「男女平等」いう観点とは関係なしに、深田萌絵の言論活動に注目し、知的刺激を受けている。

ところで、野党系の議員たちが、一斉に、森元首相バッシングを展開しているが、私は、野党共闘を支持し 、政権交代を応援しいるが、スガ自民党の失策の連続で、政権末期と言われるにも関わらず、何故、野党の支持率が伸びないのか 、逆に支持率が下落するのか、という問題を考えると、この森元首相バッシングのm安易さとも、無関係ではないのではないかと思われる。野党系議員たちは、ここぞとばかりに、森元首相バッシングに狂奔しているようだが、国民や大衆、民衆の「集合的無意識」というものを考えたことはないのだろうか、とふと思う。いい加減な欧米マスコミの「空理空論」に便乗して、「日本は遅れている」だの「日本人として恥ずかしい」だのと、国会やマスコミで騒いでいる暇があったら、地方遊説でもやってみたらどうか。永田町や霞ヶ関辺りで、泣こうが喚こうが、選挙には勝てない。野党の支持率が下落するだけだろう。

2021年2月6日土曜日

 岳真也と三田誠広と望月至高と・・・。


「文芸思潮」というマイナーな季刊の文芸誌がある。私も、何回か、座談会などで登場させてもらったこともあるが・・・。また、私が教えていた大学の学生が、何人か、ナントカ新人賞というものを受賞して誌面に登場したのを見たこともあるが・・・。今時、全く流行らない同人雑誌を重視したり、全国の同人雑誌の集まりを組織したり、そこから新人(中高年?)を発掘して 、表彰したり・・・というような、敢えて時流に逆行する反時代的な「謎」の文芸雑誌だが、最近の文芸雑誌の「軽佻浮薄」に飽きたらない中高年の文芸愛好者たちを中心に、一部には熱心な愛読者や定期購読者もいるらしく、分厚い雑誌が定期的に刊行されていて、私のところにも送ってくる。その「マイナーな文芸雑誌」に、最近、岳真也や三田誠広が登場し、文学的な「回想録」なるものを連載している。高校生時代の話が中心なのだが、二人とも同世代なので、一つ一つの思い出話が、実に面白い。中島みゆきの歌に「そんな時代もあったねと・・・」というのがあるが、まったくそういう感じである。私が、高校3年の頃、朝日新聞の「文芸時評」で、作家の林房雄が 、東京の現役高校生の小説を取り上げたことがある。藤沢成光という東京教育大学駒場高校の学生が、文芸部の雑誌「しまぞう」に発表した『羞恥にみちた苦笑 』とかいう小説だった。この高校生の小説が、「文学界」の同人雑誌推薦作として転載されたことから、林房雄も、朝日新聞の紙面に大きく取り上げたのだろう。この事件(?)について、岳真也が、その「回想録」に書いている。隣りの駒場東邦高校に在学していた文学青年が、岳真也だったらしい。実は、偶然なのかどうかわからないが、ド田舎の高校生だった私も、この事件を知っている。鹿児島というド田舎の高校生だった私は、この事件に驚くと同時に、わけもわからずに、ライバル意識のようなものを感じたものだ。しかし、いっぱしの文学青年に成長し、大江健三郎や小林秀雄やサルトルまで読んでいた私には、文学作品としては、「幼稚・稚拙」にしか見えなかったのを覚えている。孤独な自閉症的「乱読」の中で、自信過剰になっていた私は 、不遜にも、「なんだ、私の方が、文学的にも思想的にも深いじゃないか」と思ったものだ。私は、既にその頃、大学進学後は、哲学かフランス文学を専攻し、サルトルや実存主義  、実存哲学を勉強しようと思っていたので、それなりに深い鑑識眼を身につけていたのだ。

話は変わるが、その一、二年後 だったと思うが、三田誠広という大阪の高校生の小説『 Mの世界』が、河出書房新社の「学生小説コンクール」で佳作入賞し、「文芸」に掲載されたことがあった。この文学的事件には驚いた。度肝を抜かれたと言っていい。恐ろしいほど、濃密な哲学小説だったからだ。とても私には無理だと脱帽した。この17歳の高校生が、高校を休学して書き上げたという実存主義的哲学小説『Mの世界 』を、今でも私は、近代日本文学、あるいは戦後文学の中で、最高傑作の一つだと思っている。高校卒業後、三田誠広は、早稲田大学に進学し、およそ10年後に、『僕って何 』で芥川賞を受賞する。ほぼ同じ頃、芥川賞を受賞した中上健次とともに新世代を代表する流行作家となる。私は、それからしばらくして、岳真也を通じて知り合い、交流するようになったが・・・。ところで、三田誠広の回想録()の中で、私がもっとも驚いたのは、羽田闘争で死亡した京大生の「山崎博昭」に関する部分だった。山崎博昭も、三田誠広と同じく大阪の大手前高校の出身だった。しかも友人たちを通じて、面識があったらしい。他に詩人の佐々木幹郎や、学生運動から革命運動に身を投じて、若くして死んで行った同級生たちもいたらしい。さらに、三田誠広の同級生として「辻恵」という名前の同級生も登場するが、この辻恵は 、私が、「小沢一郎議員を支援する会」でしばしば同席する元衆議院議員の辻恵と同一人物のようだ。先日も、「小沢一郎を支援する会」の「ZOOMシンポジウム」で、私の前に登場し、スピーチした、あの「辻恵」である。「山崎博昭」という名前も、懐かしい名前だ。私は、同姓なのでよく覚えている。

そこで、またまた話は変わる。私は、最近、『 栞』という俳句の雑誌を、独力で創刊し、刊行し続けている「望月至高」というほぼ同世代の人物(「俳人」)と、blogやFacebookを通じて知り合った。その縁で、私も、詩的散文詩のようなものを、『栞 』に連載させてもらっているが、その雑誌で、「山崎博昭」の追悼特集を掲載している。当然だが 、そこに、三田誠広も登場している。「望月至高」の世界は、山崎博昭という羽田闘争で死んだ京大生を軸に、三田誠広や佐々木幹郎、辻恵・・・など大手前高校の人脈に繋がっている。ーー

2021年2月5日金曜日

 ■小沢一郎を先頭に 、「ヴゥ・ナロード」(民衆の中へ!)の政治哲学で政権交代を実現せよ。


今日(2021/1/30)は、午後二時から、「小沢一郎議員を支援する会」(弁護士・伊東章会長)の「ZOOMシンポジウム」(豊島区民センター)が、行われました。白井聡先生の「ZOOM講演」と、小沢一郎議員の挨拶(ビデオメッセージ)、森ゆうこ参議院議員の「ZOOM挨拶」、辻恵元衆議院議員の挨拶、そして私も、最後に、ゲストスピーカーとして、「ZOOM」で登場させてもらいました。私は、来たるべき選挙では、「政権交代」に向けて、「小沢一郎を先頭に立てて、戦え」「策士=小沢一郎なら『 政権交代』も実現出来る」「野党の議員は、山本太郎のように『地方遊説』と『 ドサ回り』(小沢一郎式「川上戦略」)から始めよ」「国会論戦とテレビ出演だけでは、野党の支持率は落ちるだけだ」「日本国民、一般大衆、民衆を畏れよ」・・・と主張しました。

今回の「ZOOMシンポジウム」は、前もって、このFacebookやTwitterなどでも「告知」すべきかとも思いましたが、「コロナ禍」の「緊急事態宣言」中ということもあり、諸般の事情を踏まえ、遠慮しました。主催者側スタッフによると、今回の経験を踏まえ、また二回目、三回目とやっていくそうです。というわけで、次回から、「告知」します。なお、JWA(岩上安身)とかいうネット放送局によって、「Youtube動画」か「TwitCasting

」で、実況中継されたようです。参加人数も、80名を超えたようです。大成功。次回が楽しみ。







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 (以下は『月刊日本』連載予定の原稿の下書きです。詳しくは『月刊日本』でお読みくだださい。)

江藤淳とその時代(1)

私が、江藤淳という名前を知ったのは、高校時代、初めて、自分の金で 、

文庫本というものを買った時だった。それまで、私には、自分の金で本を買うという習慣はなかった。私は、どちらかと言えば、「読書嫌い」の少年だった。私は、遅ればせながら、高校時代、初めて 

「読書」というものに目覚めた。そして初めて文庫本というものを買ったのだ。新潮文庫の大江健三郎の初期小説集『 死者の奢り・飼育』がそれだった。その新潮文庫の解説を書いていたのが「江藤淳」だった。しかし、その時は 、それほど深く「江藤淳」という名前に関心を持つことはなかった。私は、その時、大江健三郎の小説に夢中になりかけたばかりで、大江健三郎しか眼中にない状態だったからだ。しかし、今から考えると、私の「大江健三郎狂い」に、さらに刺激を与えたのは、江藤淳の文章の力だったのかもしれない。江藤淳は、解説で、こう書いている。

《 大江健三郎という作家を初めて識ったのは、一九五七年の六月頃である。ちょうどそのころ、「文学界」に批評を書きはじめていた私は、ある日、文芸春秋社の地下にある文春クラブで、焦茶の背広をややぎこちなく身につけた色白の少年を見かけた。ついぞ見かけたことのない特徴のある顔立ちだったが、彼はやがて編集者に軽く会釈すると、こちらには見むきもせず、ひどく癖のある足取りで外に出ていった。あれは誰だときくと、東大新聞の懸賞小説で一等になった大江健三郎という学生だという。大江はそのとき眼鏡をかけていなかった。》(江藤淳『 死者の奢り・飼育』解説より)

   私は、当然の事ながら、江藤淳のこの文章で、「文学界」とか「文芸春秋」とか、「文春クラブ」・・・などというものを初めて知った。ここに描かれている「大江健三郎」は、大江健三郎の小説作品の中から飛び出してきた人物のように、生き生きと描かれている。「東大新聞の懸賞小説で一等になった大江健三郎という学生・・・」「焦茶の背広をややぎこちなく身につけた色白の少年・・・」という江藤淳の言葉は、当時、高校生だった私には、充分に刺激的だった。目の前に作者がいる。私は、小説には 、小説という作品だけではなく、「作者」という具体的な人間がいるのだということを、初めて自覚的に認識した。「作者」という存在を印象づけられた文章だった。私の文学体験の原体験は、ここから始まったと言っていい。私が、それまで、悶々とした内向的な少年時代を過ごしながらも、文学や読書に目覚めることが出来なかったのは、文学作品には 、それを書いた「作者」がいるということを認識出来なかったからだ。私は、この時、初めて、今、ここに、存在し、動いている「作者」というものを知った。作者とは何か。作家とは何か。私は、大江健三郎の小説作品に夢中になると同時に、大江健三郎という「作者」という存在にも夢中になった。たとえば芸能界や芸能人に憧れる少女たちのように、あるいは漫画や漫画家に憧れる漫画少年・少女たちのように、私もまた、芸能人や漫画家や作家に憧れ始めたのだと思う。そして、その憧れの対象は、作者その人だった。

江藤淳は、慶應義塾大学の学生だった時、「三田文学」に発表した『夏目漱石論 』で、デビューし、『漱石とその時代 』を書き続ける途中で、亡くなっている。文芸評論家・江藤淳の人生は、夏目漱石で始まり、夏目漱石で終わった人生だった。『閉された 言語空間』や『 一九四六年憲法』などに象徴されるような政治評論や戦後史研究などが中心ではなかった。私は、銀座の「三笠会館」で、一度だけ江藤淳と対談(インタビュー)したことがあるが、その時、私が、「政治評論」に言及した時、激しくそれを否定し、「自分の仕事の中心は『文芸評論 』だ」「『政治評論 』は『文芸評論 』の延長だ」「私の『政治評論 』は、新聞社の政治記者上がりの政治評論家の書くものとは違う」・・・と頑強に主張したことを覚えている。あまりにも激しかったので、よく覚えている。その後、中断していた『 漱石とその時代』の続編の連載(「新潮」)が始まった。

言うまでもなく江藤淳の批評の本質をもっとも鮮明に体現しているのは漱石論である。しかも、江藤淳の漱石論は、デビュー作から、一貫して作品論中心ではなく、夏目漱石その人を論じる作家論、作者論、つあり「評伝夏目漱石」が主体であった。誤解を恐れずに言えば、江藤淳の漱石論は、作品論ではなく、作者論・作家論であった。

《その晩年のある時期に立って、過去の業績をふり返ってみると、文学史的評価や位置づけなどは児戯に類する一些事のように思われて来る作家がある。彼の生涯の重みが、そのような「人間の作った小刀細工」 を拒否している。たまたま、自分の一生の密かな旋律を、「文学作品」というものの中に歌いこめて来た一人の男がいて、やがて死のうとしていることを考えると、一国の文芸がどうなろうと、その中でこの作家の位置がどうなろうと、そんなことはすべて第二義的な、軽薄な議論に思われて来る。つまり人間の一生などというものはそれほど厳粛なものなので、ぼくらはそんな重苦しいものに向かいあっているのがいやなばかりに、かえってさまざまな小手先の細工を案出するのである。》(『夏目漱石』)

江藤淳の漱石論には、漱石論や漱石研究に留まらない危険な魅力がある 。つまり、漱石論ではあるが、同時に江藤淳論であり、江藤淳研究であるという魅力である。江藤淳は漱石論で、「自分自身を語っている」。江藤淳の漱石論以後、雨後の筍のように量産されるようになった「漱石論」や「漱石研究」がつまらないのは、あくまでも、「漱石論」や「漱石研究」にとどまっているからだろう 。江藤淳の漱石論は、その種の「漱石論」や「漱石研究」とは根本的に異なる。

それは、江藤淳の漱石論のスタンスそのもの由来している。江藤淳の漱石論のスタンスとは、漱石を、作者・漱石を中心に論じていくというスタンスである。それは、同時に、漱石を論じながら、江藤淳という自己自身を論じているというところだ。

2021年1月13日水曜日

「『山崎行太郎公式ブログ「毒蛇山荘日記」 』を、再びhatenaに移動しました。」

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https://yamazakikoutarou.hatenadiary.com

「『山崎行太郎公式ブログ「毒蛇山荘日記」 』を、再びhatenaに移動しました。」以下のアドレスです。竹中一派も、スガ没落とともに落ち目のようですので、使い慣れたhatenaに戻しました。


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2021年1月12日火曜日

「トランプ騒動」や「緊急事態宣言騒動」から遠く離れて・・・。 今だからこそ、水戸学派の「革命思想=尊皇攘夷論」について話そう。

 




「トランプ騒動」や「緊急事態宣言騒動」から遠く離れて・・・。

今だからこそ、水戸学派の「革命思想=尊皇攘夷論」について話そう。

水戸学に学ぶ。「政治指導者」とは何か。どうあるべきか。


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《 参考史料》

西郷南洲。藤田東湖。藤田幽谷(『正名論 』)。徳川光圀(水戸黄門)。徳川斉昭。会沢  正志齋(『 新論』)。吉田松陰。梅田雲浜。


水戸学。水戸学派。彰考館。大日本史。安政の大獄。桜田門外の変。水戸天狗党の乱。明治維新。


儒学。朱子学。王道。覇道。尊皇攘夷論。


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山崎行太郎のYoutube動画「反=論壇時評」

https://youtu.be/uZ_vg5k_kLg

https://youtu.be/uZ_vg5k_kLg


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鹿児島・薩摩半島の拙宅「毒蛇山荘」から徒歩5分。

橋口酒店。(しょうちゅうハシグチ)

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http://sotsuya-hashiguchi.com/

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2021年1月10日日曜日

トランプの「闘う民主主義」を支持する。

 


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アメリカ大統領選挙風雲録。

闘う民主主義が、私は好きだ。闘わない民主主義は、民主主義の放棄であり、民主主義の自殺であり、全体主義の予備群でしかない。日本のテレビや新聞は、トランプが「敗北宣言」をしたかのように伝えているが・・・。そうだろうか。私は、トランプの「命懸けの闘い」を支持する。荒々しい闘い方だが、これぞ「生きた民主主義」だと思う。明らかに、ディープステート(マスコミ、国際金融、軍産複合体、民主党・・・)による反民主主義的陰謀で、「トランプ的正義」=「民衆の正義」は消されようとしているが・・・。アメリカ民衆の「命懸けの闘い」=「闘う民主主義」は素晴らしいと私は思う。 https://t.co/KbM79quajJ